第159話 野糞と銃声

◆◇◆◇◆


◇1570年5月19日

 近江国 南近江 安土山

 織田軍 本陣


 早朝から忙しなく伝令兵が駆けまわる。

 この日、北近江の浅井長政が兵を南進させ湖東を制圧する動きを見せた。その為、織田軍は直線距離での岐阜への帰還を断念せざるを得ず、急遽伊勢方面へ抜ける千草峠越えを選択した。


 この千草越えは、信長の拠点がかつては尾張にあった関係からか、好んで頻繁に使われたと言える。南近江から伊勢に入ると、尾張に向う兵と美濃に向う兵に分かれて帰還する事が出来る。

 南近江の豪族である蒲生氏を中心に千草方面への警戒が敷かれ、織田軍の先頭を帰還予定の美濃兵が務めた。


「斎藤様を先頭に木下様、石島様、徳川様、千草方面へ発たれました」


 伝令の報告を受けた信長は直ちに本隊の出立を下知。


 南近江に屈強の戦力を残したまま、織田本体は南近江から伊勢へ抜ける千草越えを開始した。時節は春から夏にかけるこの時期は、流石に雪は降らず、信長が以前にこの千草峠を越えた真冬の雪景色とは随分と違う景色が広がっていた。



■1570年5月19日

 近江伊勢国境 千草峠

 織田軍 石島隊


 ピンチであります。

 今、どうしようもなくピンチであります。

 なので約束の上では逃げていい状態なのですが、このピンチからは逃げることが出来ない。


「十五くん、やっぱダメだ、先に行ってて!」

「殿っ! ……行ってしまわれた」


 十五くんの呼びかけを無視して馬から飛び降りた俺は、全力で茂みの中を突き進む。


「できるだけ奥へ、奥へ……」


 心なしか歩き方が変なのは、ピンチの人特有の状態であろう。


(この辺なら大丈夫か)


 千草峠の道から木々の合間を縫って茂みの奥へと移動した。道からは二十メートルくらい来たと思う。ちょっと登ったせいもあり、道を行く大勢の織田兵からは完全に目に付かない。


「うっ、やばい」


 思わず独り言が漏れる。

 漏れたのは「独り言」だけだ、という事を強調しておく。


 甲冑を脱ぐのも手慣れてはいたものの焦りで手元がもたついたが、どうにか袴を下ろすことに成功した。大人としての尊厳を保てそうである。



 ――自粛……



「ふー。ぎりぎりセーフ」


 ちょっと汚い話だが、この時代はトイレットペーパーなど存在しない。一部の偉い人は紙を使えるが、一般的には木べらや割り箸みたいな主に「木」で出来た道具でお尻を拭く。


 が、俺は当然、紙だ。


 ちょっと贅沢ではあるがこれは譲れない。大原の屋敷や郡上では、未来のトイレットペーパーを使っていたのだがそれは女の子専用となり、俺はこの時代の荒っぽい素材の紙を使っている。


 少し離れた位置、斜面の下を大勢の人が通っているのだが、そんな事など気にならないくらい、木々に囲まれた森林の中でする野○ソは開放感に溢れていた。


(やべっ、のんびりしすぎたかも)


 時間が経つのも忘れ、お尻を出したまま森林浴している場合ではない。昨夜、ちょっと欲張って団子を食べ過ぎたのだろうか。それとも飲んだお酒がお腹に合わなかったのだろうか。お腹の調子がすこぶる悪い。


 結局、腹の大暴れが収まるまでけっこうな時間がかかってしまった。


 袴を上げて衣服を整える。

 俺のいる位置から下の方を通る峠道は、既に織田本隊が通過中である事がわかった。


(やっばいな、だいぶ遅れちゃったよ)


 まさか草むらで野○ソしていたなんて言えやしないので、なるべく見つからないように斜面を歩き、十五くん達に追いつかなければならない。


 と思った矢先、まだ三歩しか歩いていない俺は完全に硬直した。

 草むらの中に、人の足らしき物を発見したのである。


(げっ! 人だ……まさか一部始終見られてた!?)


 背の高い草木に囲まれているとは言えども、この距離で独り言まで呟きながら盛大にお尻を丸出しにしていた俺の存在に気付かないわけがない。


 恐らく気を使ってくれていて、気付かないふりでもしてくれているのだろうか。


「あ、あのぉ……」


 どうしようもない。仕方なく声をかける。


「おや、これはお侍様、如何なされましたか」


 平静を装ってはいるが、目が若干泳いでいるのが分かる。


 それはそうだ。


 目の前で野○ソしていた人に話しかけられて、平常心を保てるはずはない。とてつもなく気まずい状態である。

 年は中年、どうも猟師さんのようだ。


「い、いやぁ、お恥ずかしい。特にアレです。お仕事頑張ってください!」


(耐えられない。この空気は無理だ)


 とにかくこの場を離れる事を優先しようとした俺は、別方向から接近してくる人影に愕然とした。


「殿、このような場所におられましたか」


 おそらく俺を心配して草むらを探しに来てくれたであろう、吉田くんとその部下さん数名。


(嫌だあぁああ、俺の排泄物を見られてしまう!)


 これ以上、吉田くん達を接近させる訳にはいかない。どうにか誤魔化して足を止めてもらわなければならない。


(どうするどうするどうする)


 俺は苦し紛れに左の腰に手を回し、信長様から頂戴した名刀を掴む。何かを言いながら刀を抜けば、吉田くんは立ち止まってくれるかもしれない。と思った矢先。

 猟師さんが峠道のほうをチラリとみると、軽く舌打ちをした。


「ちぃ」


 刹那、猟師さんは俺に向けて駆け寄ると、腰に差してあった脇差を引き抜いた。


「ぬあっ!?」


 ギリギリの所でどうにか避けたが、俺の無傷だった鎧にざっくりと刀傷が付く。その様子に、吉田くんが顔色を変えて駆け付けてくる。


(来ないでぇええ)


 猟師さんの一撃をどうにか避けた俺だが、問題はその直後に発生した。数歩下がって尻もちを付いた俺の左手が、なんとも言えない感触に包まれたのである。


 そう、先程、自分がひねり出した大量のアレだ。


「ぎぃやああああああああ!」


 俺の悲鳴が千草峠に木霊する。


 俺は汚物にまみれた左手を草木になすりつけながら、この事態を引き起こした憎たらしいクソ猟師に目をやった。


 ――パンッ


 乾いた銃声が響いた。


 熊でも見つけたのだろうか、猟師さんが手にしていた鉄砲を撃ったわけだが、その直後に峠道が急に騒がしくなった。

 同時に、左手の参事に慌てふためく俺のすぐ横を吉田くん達が駆け抜け、猟師さんに飛びかかって行った。


「何奴じゃ!」


 吉田くんが叫びと同時に足を振り抜き、猟師さんは蹴り飛ばされて引っくり返り、直後に覆いかぶさっていった吉田くんの部下さん達に取り押さえられた。


(ナイス!)


 俺をこんな目に合せたあのクソ猟師、この左手で顔面をなでまわしてやろう。そんな怒りに燃え上がった俺の視界に、斜面を駆け上がってきた堀久太郎くんが飛び込んで来た。


「やや!? 郡上の石島殿では御座らんか!」


 信長様の側近さんがここにいるという事は、すぐ下を通過中だったのは信長様という事になる。吉田くんの部下、いわば俺の兵隊さんに抑えられているクソ猟師に向け、堀久太郎くんが刀を向けた。


「おのれ、この場でそっ首跳ね落としてくれる」


 向けた刀を高く掲げると、そのクソ猟師も観念した様に悔しそうに頭を垂れた。


「え? ちょっと待った!」


 俺はたまらず駆け寄った。

 確かにこの恨みは晴らさずにはいられないが、かといっていきなり首を落とすってのもまずい。流石にそれはやり過ぎというものである。


「石島殿、これは許し難き所業、見過ごせませぬ」


 堀久太郎くんの表情は怒りに燃え上がっていた。両目から感じられる並々ならぬ殺気に背筋が冷たくなる。


「確かに、確かに許せません。しかし、この場で殺しては……手のほうはまぁ、洗えば……んげっ」


 俺は最後まで言えず言葉を飲み込んだ。堀久太郎くんの後ろから、なんと信長様が現れたのである。


「久太郎、下がれ。こ奴、何処ぞの手の者か吐かせろ」

「ハッ」


 俺は咄嗟に身を低くして頭を下げた。吉田くん達も慌てて地べたに手を付いて身を小さくする。

 そんな俺に、堀久太郎くんが声をかけた。


「石島殿、お止め頂き感謝いたす」


 堀久太郎くんはそのままクソ猟師を縄で縛りあげるように部下さんに命令。


「このような峠道の警戒にまで自ら回られるとは、流石は郡上の石島殿。此度は感服致しました」


 俺に深々と一礼した堀久太郎くんは、縛られたクソ猟師を引きずるようにして峠道へと降りて行った。

 信長様とここ残された俺達は、無言のまま固まっている。


「毬栗、大義」


 信長様も堀久太郎くんの後を追うように、それだけを言い残して峠道へと戻る。


「ふはー、何だったの? てかあのクソ猟師、許し難い!」


 俺の記憶にある限り、俺の手がアレまみれになった事など一度も無い。人生初の大事件である。絶対に許せない。

 吉田くんも立ち上がり、クソ猟師が連れて行かれたほうを見ながら口を開いた。


「どうやらただの猟師ではなさそうですな。誰の差し金か、これは確かに臭いますな」

「え、臭う? え? き、気のせいじゃない?」


 俺はアレにまみれた左手を背中に隠しながら、そそくさと移動を開始した。さっきのアレの位置は通らないように、だ。


「さ、いくよ、十五くん達に追いつかなくっちゃ!」

「は、はぁ。しかし殿、なぜ我等を帯同なされませんでしたか。警戒に回るのであれば我等が回ったものを」


 吉田くん達は何かを言いながら、怪訝そうな面持ちで渋々俺の後を追ってくる。俺は途中で見つけた小川で必死に手を洗い、千草峠を降りた辺りで十五くんと合流。そのまま岐阜へと向かった。

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