第143話 胃袋を奪う

 その日のうちに峠を越えた織田軍は、伊賀の山々を抜けるようにして多少の平野が見えるところまでやって来た。

 途中で伊賀の妨害作戦があると思われていたのだが、伊藤さんが心配ないと言った事は本当で全くの抵抗を受ける事がなかった。


 それどころか、伊賀の元実力者で室町幕府の伊賀守護を代々務めてきた仁木にっき親政さんという方が深々と頭を下げにやってきた。

 以前から伊藤さんとコンタクトを取っていたそうで、現在は共和政を主張する伊賀の豪族連合に拠点を追われ、信楽という地で細々と暮らしているという。

 元は伊賀の中心地である伊賀上野という地が根幹地だそうで、この仁木さんが俺達に協力する事で伊賀上野地方では大きな戦いもなく平定できるのではないかという予想もある。


「殿、お下知を」


 伊藤さんの指示で俺の所へやって来た十三くんが、打ち合わせ通りに事が運んでいると報告してくれた。となれば、次は俺の番である。


「者共、耕せ!」


 臨時で雇っている兵隊さんは勿論の事だが、織田家で兵隊専属として雇っている方々も、その殆どが元は農家の次男坊三男坊が多い。畑仕事など朝飯前なのだ。


「胃袋を掴む大作戦!」


 俺も気合を入れると、腕まくりをして十三くんからクワを受け取った。


「耕しますよ~!」


 心を取るといっても簡単ではない。

 心の前にまず、胃袋を掴んでしまおうという伊藤さんの作戦が始まった。


 伊賀の地は決して豊かではない。けれども未開の地が多く、川もある。水はけ次第では水田が作れる場所もあるだろうし、木材の切出しには事欠かないだろうし、畑を作れそうな場所に至ってはそれこそ無限にあるような雰囲気である。


「近隣諸侯の反応も上々で御座います」


 俺が率先して泥まみれになって仕事する物だから、織田家から参戦してくれている方々もやらない訳にはいかない。そんな中、伊賀の諸侯から開拓作業に協力を申し出る方達が続出し始めた。


 まだ作業を開始してから数時間である。

 これも伊藤マジックによるものだ。


 現在織田軍が開拓している土地は、希望があれば伊賀の諸侯に無償で譲り渡す事になっている。ただし、条件として現在領有している地を明け渡してもらう。


 先祖伝来の地を明け渡して新しい地に移れという事である。


 それでも、元々それほど歴史の長くない家や、長引く内戦で荒れ果ててしまった土地しか持っていない家の当主は気持ちが揺らいだはずである。

 さらにダメ押しは、新しく開拓された地に移った家には大量の米が進呈されるというオマケまで付いた。


 この時代は本当に貧しい。


 豊かでない層の人達に至っては、餓死なんて珍しい話ではない。常に餓えている状態だ。伊賀の地では、そんな状況の人達が特に多いように思える。

 俺達が行軍して来た道々で、沢山の物乞いを見かけた。そんな人達に惜しげもなく米や多少の金子をばら撒いて来た影響もあるだろう。


 現在、伊賀の中心部では織田家は救世主のような扱いを受けているのだ。


 夜、俺の陣所で小さな軍議が開催されている。


「まっこと、修一郎殿の奇策には驚かされるばかりじゃ。再三に渡って三好の侵攻を弾き返した伊賀の連中がもう既に崩壊し始めておる。これ程簡単に伊賀の結束が乱れるとは思うてもみなんだわい」


 九郎様が楽しそうに酒を煽っている。どうも生まれて初めて体験した野良仕事が、意外と楽しかったらしい。


「まさか湯舟郷の藤林殿が早々に頭を垂れるとか思っていませんでした。これも大軍勢による威圧があってこそです」


 藤林さんというのは、伊賀における筆頭に近い立場の人だそうで、伊藤さんとしてもまさか開拓初日に降参してくるとは予想していなかったようだ。


「残るは伊賀南部を治める百地ももちか、これは手強いであろうよ」


 お酒を飲みながらの席ではあるが、一応は軍議であり、大きな机に伊賀の地図が広げられている。九郎様の言うように、南部に大きな勢力を誇る百地さんという人はそう簡単に降伏してこないであろう。


「名前は可愛いんですけどね、ギャップありますよね」


 俺もちょっとお酒を飲みながら感想を述べると、伊藤さんが不思議そうな俺に問いかけてきた。


「百地が可愛いって何?」

「え? ももクロ、知りません?」 


 伊藤さんは首を傾げて「何のことやら」と言いたそうな顔をしているが、その横でつーくんがびっくりしたような顔で口を開く。


「石島の殿、ももちはももクロじゃありませんって、それとももちは百地じゃないんですよ?」

「え? ももちってももクロじゃないの!?」


 伊藤さんと九郎様が不思議そうな顔で俺とつーくんを交互に見ている。


「じゃあももちって何者?」


 そんな俺の問に、今度は九郎様が口を開いた。


「洋太郎、気でも狂うたか? 百地と言えば伊賀の上忍、百地丹波ももちたんばの事よ。伊賀十二人衆の筆頭にして伊賀三上忍の最大勢力よ」

「あひゃひゃひゃひゃ」


 酔っ払い気味の金田さんの笑でどうにかその場は誤魔化す事にしたが、後でゆっくりつーくんに聞こうと思った。


 五日後。

 開拓が進む中、伊賀の諸侯さん達が本格的に移住を始めた。

 彼等が今までいた土地は、石島家が直接管理する事になっている。そこへも既に織田の兵が行渡っており、次々と田畑を耕していった。


 藤林さんをはじめ、城戸さん等の北部の諸侯には本領安堵が言い渡され、新たな土地は与えられなかったが、代わりに米と開拓部隊が送り込まれている。


 そんな中、伊勢南部から伊賀へ侵攻していた滝川一益さんから一方が入った。


 百地さんの軍勢と一戦交え、大いに快勝したという知らせである。


 その知らせを受けた伊藤さんは瞬時に動いた。


 開拓作業に当たらせる事なく後方に待機させていた軍勢四千騎を率いて疾風の如く南下。


 滝川さんに打ち破られている百地さんに追い打ちをかけるように、百地家の領内へ一気に侵入したのである。

 その伊藤さんの動きを追うように、俺も木下さんや九郎様の助勢を以って一日遅れで南下。


 小さな抵抗は伊藤さんと滝川さんが尽く打ち砕いており、俺自身が百地家の領内に入った時には既に百地家から降伏の使者が訪れていたから驚きである。


「既に名張は包囲しております。武器を捨てて投降される方々の命は保障致しますので、どうか安心して下さい」


 使者さんが俺の言葉を持ち帰ると、程なくして沢山の女性、子供、お年寄りが投降、続いて男達も続々と降参し始めた。


 けれども、百地家当主である百地丹波さんという人の息子さんにあたる、百地三太夫さんという人が抵抗を諦めていないとの事。

 百地家の主だった面子は、名張の百地家屋敷で立て篭もるつもりだと報告が入った。


「百地丹波と三太夫って別人だったんすね」


 夜に入って金田さんが陣を訪れた。九郎様は毎日来ているので今更言うまでもない。


「ここで一気に倒してしまうのか、あくまで説得を試みるか、難しいですね」


 伊藤さんも頭を悩ませている。


 この期に及んで抵抗しようという相手であるから、当然、死は覚悟上であろう。そんな気骨ある人達を殺してしまうのは忍びないし、何よりこちらも被害が出るであろう。


 そして、そんな人達を配下に収める事に成功すれば、必ず将来のためになる。どうにか説得したい所だ。


「伊藤さん、九郎様、金田さん、明日ちょっと見に行ってみません? 俺達、名張がどんな場所かも知らないですし、砦とか城じゃなくてお屋敷なんでしょう?」

「危険ではあるが、相手を知らずして交渉も何もない、か。洋太郎よ、そちは普段ぼーっとしておるようでなかなかに考えを巡らせておるのだな。見直したぞ」


 九郎様が持っていた扇でピシッっと音を立てると、地図上の名張を指して言葉を続けた。


「この戦は石島洋太郎長綱の物であり、その指揮は右腕である伊藤修一郎長重が取る。だなが、そもそも織田の戦よ。この織田九郎信治、名張への進軍では先鋒を務めさせてもらうぞ!」


 百地家は既に抵抗できる戦力を失っている。


 名張一帯は完全に包囲しているし、農家や商家など、一般の人は先程こちらへ投降が済んでいる。特に危険はないだろう。


「では九郎様、明日は九郎様を先頭に名張へ入りましょう!」


 俺の言葉に九郎様はとても嬉しそうに大きく頷いてくれた。伊藤さんも特に反対の様子ではないのでいいだろう。


 伊賀に入ってたった一週間程度で、俺達は伊賀の平定が見えてきたと言える。


 切り取り次第と言われた地だ。今後俺達が領主になるのであれば、血を流すことなく穏便に済ませたい物である。

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