第135話 降雨

◆◇◆◇◆


◇1569年 8月26日

 伊勢国 織田軍


 三日間降り続いた雨が止み、伊勢地方は一転夏日となった。

 この日、たわわに水を蓄えた伊勢の大地は降り注ぐ日を存分に浴びて大いに蒸した。


 織田軍はすぐさま周辺諸城の攻略に着手。


 尾張からの軍も合流し、総勢七万を数える織田軍は各方面へ展開。南伊勢を飲み込むように地ならしを開始した。


 対する北畠具教は、これを存亡の決する時と周辺各地に檄を発し、続々と集まった反織田勢力を抱えて堅城として知られる大河内城に入り、周辺諸城と連携を取る体制を整えていた。


 北畠側が織田を迎え撃つ準備を整える時間を与えたのは、降り続く雨である。


 木造城の反乱から僅か三日で急行したにも関わらず、織田軍はその場で足止めを食らった形になり。逆に北畠軍は迎え撃つ準備を整えるに至った。




――同日 阿坂城


 現在の松坂市内にあたるこの城は、切堀や土塁が中心の古い城である。石垣や天守を持った近代的な城の登場はまだ先であり、この時期の山城はせいぜいこの程度であった。


 しかしながら、山城という物は実に巧妙に作られている場合があり、攻め落とすには相当な覚悟が必要となる場合が多い。

 事実、阿坂城はこの二年の間に、滝川一益による攻撃を何度か撃退しているのだ。


 阿坂城が歴史に登場するのは南北朝の時代。難攻不落としてその名を知られ、白米城の異名を持つ伝説の山城である。ただし、白米城の伝説は江戸時代に入ってから作成された軍記物が出所であり、史実とするのは難しいであろう。


 周辺諸城の中でも、この阿坂城は大河内城にとって特に生命線となる。大河内城が難攻不落である理由の一つが、この阿坂城の存在であると言っても過言ではない。

 その重要な阿坂城攻略を命じられたのが、木下藤吉郎であった。それまでは一隊の指揮官でしかなかった木下は、この城攻めに責任者として挑む事になる。


 信長の命によって織田軍一万五千が阿坂城を包囲した。

 対する城側は約一千騎を以って守りを固めた。

 大将は大宮含忍斎という北畠家に代々使える家老である。城側としてもそう簡単に落とされる訳にはいかない。

 既に織田家からの降伏を勧める使者を突っぱね、徹底抗戦の意思を示していた。


「包囲軍はがっちり囲んでおいてもいらいたい。狭い山道に大軍で押し寄せては相手の思う壺じゃからの、寄せ手は少数精鋭じゃ」


 阿坂城を包囲した織田軍一万五千は、軍議の席で寄せ手と包囲の役割分担に取り掛かった。

 その席には、美濃勢も尾張勢もいる。

 ここでの働き次第で、木下藤吉郎の評価は大きく左右されるであろう。木下自身、それを十分に自覚していた。


(たかだか一千騎で守る小城など踏み潰してくれる。殿が下さった機会……必ずや物にして見せようぞ)


 木下の小さな体は、闘志で満ち溢れていた。


 軍議が決し、織田軍が動き始める。

 陣太鼓が鳴り響き、ほら貝の音が山々に木霊した。


 包囲軍は信長の兄である織田信広をはじめ、織田家の一門衆が名を連ねていた。

 これは木下藤吉郎の働きを認めさせようという、信長の計らいがあっとみられる。


「洋太郎よ、藤吉郎は上手くやってのけるかの」


 織田家一門として石島隊もこの包囲軍に参加させられている。軍議が終わり自隊へ戻る途中、織田信治が阿坂城を見つめて戦況を憂いた。


 難攻不落のこの城への攻撃に、木下藤吉郎は大将自らが進むと言い出してそのまま軍議を押し切ったのである。木下は墨俣の兵八百騎と、この城攻めのために貸し与えられた兵三千騎を以って山道を登り城を落としてしまうつもりでいる。


 包囲軍は徐々にその包囲を狭め、城側に圧力をかけながら木下隊を援護する事となった。


「九郎様、藤吉郎さんはやりますよ。あの人はこんな所で失敗していい人じゃないんです。大きくなる人ですから」


 石島の言葉に首を傾げながら、織田信治は自隊へ戻と戻る。

 入れ替わるように、伊藤が姿を見せた。


「殿、十五と十三の準備が整いました。五十騎を付けて藤吉郎殿の所へ向かわせます」

「はい、お願いします」


 城攻めには、石島隊から木下隊へ助力が行われる事となっていた。

 伊藤の人選により、大原綱義と大原綱忠、その手勢に吉田左京進以下五十騎が選抜され、木下隊へと向かった。


「こんな場所でもしもは無いんでしょうけど、なんか心配ですよね。親心ってこんな感じなんですかね」


 少し笑いながら伊藤に問いかけた石島は、この城攻めで木下藤吉郎が大苦戦する事など微塵も予想していない。


「どうですかね。俺達の存在もありますし。既に歴史は動き始めていますから、何があっても不思議ではないと思いますよ」


 武田家で躍進する村上等の活躍も含め、伊藤は既に歴史が変革し始めている事が気掛かりでならなかった。




――同日 昼過ぎ


 日が天高く登り、暑さは一層増す。


 天候が崩れれば鉄砲が使えなくなる。

 兵数と物資数で上回る織田軍にとって、せっかくの武器である物資が役に立たないのでは意味がない。


 木下はこの日の天候が崩れる心配をしていたのだが、燦燦と晴れた空に祈りを込め、ついには崩れる心配がないと確信した昼過ぎに総攻撃を開始した。


 大地を切り裂く号砲が山々に響き渡り、木下勢約四千騎が二隊に分かれて阿坂城を目指す。


 標高三百メートル程度の山であるが、南北に分かれる形のこの山城は、その南北の城郭が連携する形で寄せ手に攻撃を仕掛ける事が出来る為に容易に接近する事が出来ない。


 そこで木下は、その連携を阻むために敢えて南北への同時攻撃を慣行。


 それに対し大宮含忍は敢えてそれを阻止しようとはせず、南北の城郭に木下勢が辿り着くまで傍観したのである。


 狙いは寄せ手の疲労であった。


 低い山城故に、登りきる事は然程苦労を必要としない。

 しかし、この三日間轟々と降り続いた雨により、足元は緩くぬかるみ、途中で転び倒れる者、斜面を転がり落ちる者が続出した。


 泥まみれの木下勢が山頂の城を目視できる距離に入った頃、城側がようやく動き出す。


 ほら貝が鳴り響いた。


 四倍近い数で寄せている木下勢と、僅かな兵力ではあるが地の利を生かした大宮勢が激突を開始。


 狭い山間部は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

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