第107話 北伊勢を買う 壱
◆◇◆◇◆
◇1568年 1月
伊勢国
高岡城 山路家
年明け早々、高岡城は緊張に包まれていた。
昨年末から続いていた織田家臣金田健二郎の呼掛けにより、北伊勢の諸豪族が重い腰を上げたのである。その呼掛けは、今後の北伊勢について織田家と話し合いの場を設けようという内容であった。
当初は応ずる気配の無い勢力が殆どであったが、山路弾正が場を提供するという話になった事もあり、多くの勢力が参加するに至っている。
その中には、昨年八月の織田家による侵攻の際に既に織田の傘下に加わった者もあれば、頑強に抵抗した者もある。袂を分けた同郷の士が一同に会するだけで、その緊張感は並々ならぬ物であった。
その緊迫した会合の場に、織田家の代表として現れたのは伊藤修一郎という人物であり、その取次ぎ約として昨年から交渉に当たっていた金田健二郎が付き添う。
「滝川殿はおいでになられんのか」
ある程度形式上の挨拶を済ませた後、緊張の場で最初に口を開いたのは山路弾正であった。問いかけた真意は特に敵視するが故ではなく、単純に相手がどう答えるのかを試しているに過ぎない。
この場での交渉事について、金田は一切の口出しをするつもりが無い。伊藤を信頼しているという事は勿論だが、伊藤が交渉に挑む場面を思う存分に堪能しようと決めているからである。
そのため、山路の問いに答えたのは当然ながら伊藤であった。
「滝川様をこの場にお連れしたとあっては、皆様方は言葉よりも刃を以って語り合うでしょうからな。それでは互いの為になりませぬ」
特に臆する風でも緊張する風でもなく、笑顔で皮肉を混ぜ込んだ回答を投げ返した伊藤に対し、山路は満足そうに頷いた。
(良き男よ)
山路は既に、織田家の軍門に下る覚悟を決めている。あとはその時期について迷っているだけであった。
主家である神戸氏とも話はついている。織田信長の三男を養子に迎え入れる事で合意しているのだ。とは言え織田に下った後の立場を少しでも良い物にしなければならない。
その為には、いつ、どの状況で織田に下るのが理想的かを見極めるために、この場を提供したのである。
山路の反応を見た伊藤は、姿勢を正すと本題を切り出した。
「先ずは、昨年の折りに織田家へ臣従された方々へ、その報奨を進呈したい」
場が小さくざわついた。
今後の話とばかり思って参加したが、過去の行いについて報奨が出ると言うのであれば驚くより他にない。
「聞くところによれば伊勢の商家では米の在庫が薄く、価格が上がっておるとか。よって報奨は兵糧米にて用意させて頂くつもりである」
ここでも場はざわついたが、反応は二つあった。
一つは素直に喜ぶ反応、もう一つは報奨を受けれない者達の舌打ちである。織田の圧力に屈した者が財政的な余裕を持つことになるとあっては、抵抗した者は面白くない。
「次に、昨年の折りに織田家へ敵対した方々について」
伊藤の言葉が続くと、場は再び緊張で張り詰めた。
いよいよ今後の話である。
「そもそも此度の報奨は、作年の折に織田と敵対した勢力と、我等に下った勢力の扱いが同じでは不公平である故に出す報酬である。昨年の折に敵対した方々が原因となります故、報奨として出した分の費用は、昨年敵対した方々に収めて頂く」
聞いている方としては、意味の分からない話である。織田家が臣下に出す報奨を、敵対する自分達に払えと言い出したのだ。
「そのような馬鹿げた話し、聞いたことも無いぞ」
「そうじゃ、尾張のうつけ殿は美濃へ移ってもうつけ殿よ」
「そうじゃそうじゃ、それでは話し合いにもならんぞ」
織田に敵対した者は口を揃えて伊藤の発言を非難した。余にも馬鹿げた内容であったので、怒る気にもなれず呆れるより他にない。
しかし、その流れは伊藤が狙った物であった。
「では、もう少し分かり易く申し上げましょう」
呆れた様子の各人に対し、厳しい表情の伊藤が語り始める。その身から、目から、言葉から、突風のような覇気を発していた。
「金を払うか、織田に下るかどちらかにしろと言う事です」
反論を発しようとする者の目を睨みつけ、その言動を封じた伊藤が言葉を続けた。
「我等は二月に岐阜より軍勢を発し、北勢に兵を進めます。矢銭を出す方々に関しては此度の戦では敵といたしません。その独立と勢力の保持を認めましょう」
勝手に戦を仕掛けておいて、金を出せ、出さねば討つとは、随分と理不尽な話である。
しかし、この場にいる同じ伊勢諸勢力の中には、昨年に織田方の軍門へ下った者もあり、その者達は真逆で、報奨として米が振る舞われる事になる。
「金を払えば安堵してもらえると言われるのか」
後方に座していた者が伊藤に問いかけた。多くの者がその問いかけの主に視線を浴びせる。
(こやつ、織田に下るつもりか)
独立を保っていた他の勢力からしてみれば、裏切り行為に近い。
「安堵とは滑稽な話し、此度は手を出さぬと申しているだけ」
答えた伊藤の表情は、最初に見せた笑顔とはかけ離れた厳しい物になっていた。
「い……いくら払えと言われるのだ」
織田と戦って勝てる見込みなど無い。自分が、自分の家族が、臣下が、臣下の家族が無事であればそれで良いのである。
「一千貫をご用意戴き、一月の内には岐阜へお届け下され」
「いっせんがん!? そのような大金」
「馬鹿な! 敵対したとは言え、何を根拠にそのような!」
「銭が払えぬのであれば、弓矢にてお支払いされるがよろしかろう。存分にお相手いたす」
伊藤の怒気に圧せられ、敵対した勢力は声を飲み込んでしまうより無かった。声を飲み込みながらも、山路弾正の背中に期待を寄せている。
山路もそれを認識していた。特に関一族の動向に関しては、神戸氏の動向如何によって大いに左右されるはずである。
その山路がついに口を開いた。
「伊藤殿。此度は敵とせぬと申されれば、いずれは敵と見なすという事ですな」
伊藤の言いは『今回金を払った所でいずれは攻め滅ぼす』と言っているような物である。
「いや、然にあらず」
伊藤はこの質問を待っていた。
「此度の戦で北勢を抑えきれなければ次の機会も御座いましょうが、皆様方が織田に下りさえすれば態々攻め滅ぼすような事にはなりませぬ」
「北勢を思うように出来なければ、その時は滅ぼすという事かな」
今度は山路の後方から声が飛んだ。
伊藤は即座に反応し、その声に対する回答を投げ返す。
「そんなに滅ぼしてほしいと言われるのであればそうするが、そうでは御座いません。皆様方は何か勘違いをしておられる」
底冷えする一月の高岡城の広間は、緊張と熱気に包まれた異様な空間となっていた。
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