第108話 北伊勢を買う 弐

 冷え込む室内に伊藤の声だけが響いていた。


「織田は伊勢を平らげるまで何度でも寄せる所存。皆様方はその都度その都度、一千貫をお支払頂ければそれでよい」


 たまらずに別の者も声を荒げた。


「そ、その都度だと? そんな金用意出来る訳がなかろう!」


 その言葉に反応したかのように、伊藤は足を大きく踏み鳴らして立ち上がると、息を大きく吸って一喝した。


「用立てられるかどうかを聞きに来た訳ではない!」


(先輩、やってる事がやくざっす)


 金田の視線を浴びながら、一喝した体勢のままで言葉を続けた。


「此度の戦で北勢を平らげる事が出来なければ、夏と秋にも攻め入る。その際にも味方には米を配り、味方せぬ者には矢銭を出させ、敵対する者には弓矢を馳走いたす」


 たとえ織田が何度攻めて来ようとも、矢銭を収めれば討たれる事はないが、そんな大金を小さな勢力が何度も用立てられるはずがない。となればとっとと織田の軍門に下り、夏と秋には米を貰う立場になった方が明らかに得である。


「い、伊藤殿、今、今この場で織田に下る。此度の矢銭も払うと決めれば少しは安くしてもらえるか?」

「その方なにをっ?」

「織田と争うて何の利がある、織田に下ってこその利ではないか!」

「織田に下るだと、正気か!」

「つまらぬ意地を張る物ではないぞ」

「情けない! そのような主であるから嫁に逃げられるのだ!」

「それとこれとは別であろう!」


 広間は一瞬にして喧噪に包まれた。


「お静まりくだされ!」


 金田の一喝に、場は水を打ったようになった。

 その静寂を伊藤が切り裂いていく。


「只今のお申し出、織田家としては実に有難く、この場にて軍門に下ると申されるのであれば、此度は五百貫にて済むように取り計らいましょう」

「わかった、下る、織田に下る! 五百貫も直に用立てる!」

「我も下るぞ、西野は織田につく」

「我も、横瀬も下る!」


 次々と織田に対する降伏がなされる中、この場ではそれを決める事が出来ない者もいる。この場に当主が来ていない家は、代理の自己判断で決めれるような話しではなかった。

 誰の目にも織田に下るべきなのは理解できる。

 しかし、主の許し無くそのような約束は出来ない。


「伊藤殿、四日待たれよ。直に主に確認を取る!」


 同じように代理で参加している者は、ほとんどが同意見であった。ただ一人、山路弾正を除いて。


「四日は待てませぬな。二日ならば待ちましょう」

「二日、相分かった。なればこれにて!」

「儂も戻る、ごめん!」


 広間から雪崩出るように出て行く者、どう五百貫を用立てるか思案している者、自分達がどれくらいの米を貰えるのか妄想にふけっている者、そして、僅かながらもこの話に乗ろうとしない者に分かれた。


 一先ず場が落ち着いてから、山路弾正はゆっくりと話し始めた。山路は神戸家の家老としてこの場に着座している。

 神戸の決定権は山路には無く、実はこの話しに対する返答は既に決まっていた。今、この機会は織田に下る時期ではないと判断しているのである。


「伊藤殿、伊勢で米を買い漁って値を釣り上げ、値の上がった米を配るとは随分と陳腐な策を立てられましたな。確かに銭は無くても米があれば困らぬが、米が無くては餓えるばかり。夏に米が貰えるとあれば今は値の上がった米を売ってでも矢銭を払って軍門に下るほうが良い」


 そこまで言うと立ち上がった。

 交渉決裂の答えを言いかけた山路の言葉を、伊藤が笑顔で遮る。


「山路殿、何もこの場で多くを申されずともよろしかろう。一月後には弓矢を向け合う間柄、多くを語らぬほうが存分に意地を通せましょう」

「ガッハッハ、良き男よ! 金田殿、伊藤殿、尾張守殿には『神戸は弓矢を以ってお支払致す』とお伝えくだされ」


 簡単ではあるが、山路は敵対すると言い切った。

 もし、もう少し早く言っていれば山路の意見に流された者も多かったであろう。しかし山路はあえて言わなかった。

 場の流れが降伏に決してから、己が所存を言い放ったのである。


(これは恩が増えちまったな)


 金田にしてみれば、先般の撤退と今回の件、この2つを恩とするならば恩が増えた事になる。


 伊藤がこの交渉のために伊勢の商家から買い集めた米は総額九千貫余。その内、報奨として配布する予定は半数程度。

 納められる矢銭を考慮すれば、ほぼタダ同然で北伊勢の諸勢力を抱き込んだ事になる。


 神戸家を筆頭とする僅かな抵抗勢力に対しても、二月の侵攻である程度の決着となるであろう。この段階で、織田信長の第二次北伊勢侵攻はその成功を確約された物となった。

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