第三百九話 『さよなら、パンドラ・ガーデン』
「いや、誰ってことはないだろ、同じ《特待生》なのに」
そういえば、二年前にも同じような会話をしたような。
「初めて俺たちと会った時だって、先輩に怒られながら連れていかれてたじゃないか。たしか――こんな感じで小脇に抱えられながらさ」
あの時はヴァレリア先輩に『ちんちくりん』と言われて、クロエがプンスカしていたのをよく憶えている。
「何のことよ……? あの時はアンタたちに返り討ちにされちゃったのに。もしかして、からかっているワケ? 学園長に叱られて、あんなのもう懲り懲りなんだから」
「……は?」
いやいや、ちょっと待ってくれ。嘘や冗談を言っているようには見えないが――これはどう考えたっておかしい。
ド忘れしたのなら、百歩譲ってまだ分かる。二年前なんて、普通に憶えていなくても不思議じゃないからな。けれど、クロエの場合、事実と違う記憶があるのだ。少なくとも、完全に自分の記憶と食い違っている。それは間違いない。
――他になにか、自分とクロエとヴァレリア先輩が揃っていた出来事があっただろうか。ヴァレリア先輩自体、そんなにあちこち出歩いていた記憶が無い。……いや、『どうしてここに?』となったことは何度かあるな。
「ほら、ミル姉さんが学園に来たときだって、学園長が間に入るまで抑えておいてくれたのはヴァレリア先輩だっただろ?」
「だから、ヴァレリアって誰? それに学園長なら、ココやトトたちが私を助けてくれた直後に来てくれたじゃない」
――確定だ。この異常な空気の正体に気づくと同時に、背筋に冷たいものが奔った気がした。喉もカラカラだった。内心の焦りを表に出さないようにして、立ち上がる。
クロエの記憶から……“ヴァレリア先輩の存在”が丸々抜けている。
「――っ!? ちょっと、どこに行くのよ、テイル!」
「ごめんっ! 今すぐ確認しないといけないことができた!!」
とてつもなく嫌な予感がして、次の瞬間には【知識の樹】へと駆け出していた。
「先輩っ……!!」
その扉の先には――誰もいなかった。
がらんどうの【知識の樹】。五人でワイワイやっていた空間は、今や寂しい空気に包まれている。やはり、昨日でお別れなのか? ――いや、まだ部屋は残っている。
「…………」
“開かずの扉”へ、ゆっくりと手をかけた。
これでまた鍵がかかっていたらどうしよう。
そんな不安に押しつぶされながら、ノブを捻り、扉を押し開ける。
「――え……?」
ギィィといった音もせず、実にあっけなく開いていた。
あの罠のような魔法も無い。もはや、ただの一枚の板である。
問題は、その扉の先にある、部屋の中なのだけれど――
――こちらも予想に反して、もぬけの殻だった。
至ってシンプルな構造の、小さな正方形の部屋。
中心には先輩が寝るためのものであろう、大きなベッドがある。
部屋の壁をぐるっと覆う棚の中身を確認しようとしたところで、濃いお香の匂いが漂ってきて思わず
「……っ!? ゲホッ……なんだ……この匂い……!?」
棚の上から中から、これでもかとお香の道具が置かれており、その全てから
なんだこれ……!? 普通に考えて焚きすぎだ。
口から吸う空気にさえ甘い香りが染みついているようで、自然と呼吸を抑える。
これって……魔力の回復を促すためのものだよな……?
「……学園長とやりあったせいで、まだ魔力が――」
「――少し違うな。私は常に魔力が枯渇しているんだ」
「先輩っ……!?」
――いつの間に。いったいいつから、背後に立っていたのか。
気配を感じさせないままに、自分が開いてそのままにしていた扉に寄りかかって。ヴァレリア先輩が、静かに笑みを浮かべていた。黄金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「覗くなって言っただろう?」
「そんな場合じゃ――あ
『やれやれ』と肩を竦めた先輩の様子に居ても立っても居られず、さっきのことを話そうと口を開いたところで、コツンと頭を小突かれた。どうやら部屋に入ったことに対するペナルティらしい。
けれども、たかだか頭の痛みぐらいで怯んでいるわけにもいかない。
この異常事態について、先輩は知っているのか……?
「またこの学園で“何か”が起きてる……! クロエが先輩のことを――」
「憶えていないんだろう? 知ってるさ」
「なっ――」
「気にするな。そういうものなんだ」
気にするなってなんだ。
そういうものなんだって、そんなわけあるかよ。
人の記憶から消えている。
たとえ人一人のことであろうと、異常なことなのは間違いない。
「そういうものって……! どう考えてもおかしいだろっ!」
同じ《特待生》でも、行動範囲が異なれば殆ど顔を合わせないこともある。前に一度そう言われ、その時は納得していた。けれども、すぐには思い出せないことはあってすれ、名前も容姿も全く覚えていないなんてことはありえない。だって――現に彼女たちが顔を合わせていた場面を何度も目にしてきたのだから。
それこそ――
「これも、一種の“呪い”みたいなものなのさ」
自分の考えを見透かしたかのように、先輩が呟いた。
「誰も私のことは憶えていられない。顔を隠したりすれば、印象だけは多少記憶に残るが、それも少しの間だけだ。あとは、お前が言うクロエの反応のように、都合のいいように改変されてしまう」
「そんなこと……そんなことっ! 急に言われたって信じられるわけ――」
現に自分たちは憶えている。様子がおかしかったのはクロエだけだ。この三年間、ヴァレリア先輩は確かに学園で過ごしていたし、なんだったら好き勝手に行動していたまである。だからこれは――何かの間違いだ。そうだと言って欲しかった。
「――三年間。この学園に、学園長以外で、私のことを一言でも話していた奴はいたか?」
ゾクッ――と、全身を悪寒が襲った。
学園に“帰って”来て暴れていたミル姐さんのことを、ヴァレリア先輩は一方的に知っていた。まるでそっくりそのまま真似したかのように、ミル姐さんの技を返してみせた先輩――。
『テメェ、なんでアタシの技をそっくりそのまま使える?』
『――っ』
あのとき――先輩が一瞬だけ息を呑んだ理由が、今になって初めて分かった。
『――とうとう、お前だけになってしまったなぁ……』
あの日の夜、悲しむ顔すら滅多に見せない先輩が――【知識の樹】で少しだけ泣いていた理由が今、初めて理解できた。
誰も――誰も、先輩のことを憶えていない。
先生だろうが、先輩だろうが、後輩だろうが、誰も。
「忘れるって……どれぐらいの期間で……?」
「早くて数時間、遅くても二、三日だな」
そんな馬鹿なことってあるかよ……。
先輩の言っていることが全て真実だとして……こんなの正気の沙汰じゃない。
どうして先輩はこんなに冷静でいられるんだ?
誰にも記憶されないのなら、生徒としても認識されない。そうなると、授業に参加することも難しいのではないか。学内で友達と言える者ができる筈もなく、誰かと先日あったことを雑談することさえできるかどうか。
この学園で――ずっと一人……。
想像しただけでも、恐ろしいのに。
「でも……でもっ! 俺たちは、ずっと先輩のことを憶えてたっ!!」
「特別だったんだ、お前たちは。でも――今はもう、そうではなくなった」
そんなに悲しそうな顔をしないでほしい。『取り返しのつかないことをしてしまった』と言わんばかりに、眉を八の字に寄せて。そんなのは――ヴァレリア先輩らしくないだろう。
自分たちに花を渡したときと同じように、『ごめんな』と呟く。
――それまでは特別だった。そうではなくなった。
他の生徒と自分たちの違い。
前と今……いったい何が変わったのか。
「今までは、私の魔力がお前たちの記憶を繋ぎ止めていた」
「っ……!? そうか、
今となってはもう何も残っていない右手の甲に目をやる。
でも、それならまだ選択肢は残っているはずじゃあないのか。
右手を突き出し、先輩に頼み込む。
「それじゃあまた、
「悪いが、これ以上お前を巻き込むわけにはいかない。私にとって可愛い後輩だからな。……テイル。お前がこのまま学園を卒業してくれることが、私にとっての一番の願いなんだ」
くそっ……もっと早く、学園に残ることを決めていれば……!
卒業式の前日、俺たちの右手から
「でも――! 俺はまだ、先輩に一度たりとも勝てちゃいない! まだまだ教えてもらいたいことが沢山あるんだっ! なんでそんなことを言うんだよっ!!」
ゆっくりと、“開かずの扉”が閉められる。
まるで――不都合な真実を覆い隠すかのように。
ザザッ――
頭の中に、嫌なノイズが奔る。
えも言われぬ感覚に、さっきから冷や汗が止まらない。
恐怖が――出処の分からない不気味さが、この身を包もうとしている。
「俺はまだ納得していないっ!!」
どうにかして、この――これから起きる“何か”に対しての――恐怖を振り払おうと声を張り上げる。何も言わずにいたら、そのまま終わってしまう。そんな焦りが胸の奥底から湧き上がってくるようだった。
言わないと。言わないと――!
「――あまり、私を困らせないでくれ」
――ぐいっと引き寄せられ、額にじんわりと熱い感触が広がる。
――――。
チュッと音を立て、先輩の唇が肌から離れていく。
抱きしめられ、額にキスをされていた。
顔面を包む柔らかい感触に、少なからず頭が混乱してしまう。
こんなタイミングで――それはズルいだろう。
ザッ――
ノイズは止まない。断続的に鳴り続けている。むしろ、少しずつ大きくなってきている気さえしていた。駄目だ。駄目だ。このままじゃ、なし崩し的に丸め込まれてしまう。
「聞いてくれっ――!!」
いくら先輩の願いだとしても、受け入れるわけにはいかない。
今、自分は大きな選択肢の前にいる。
人生とは選択の連続だ。何かの事柄に対しての選択の繰り返しで、人は少しずつ未来に進んでいく。もしかしたら、今までの選択の中の一つでも異なっていたら、全くことなる未来に繋がっていたのかもしれない。何が正解なのかは分からなくても、俺たちは俺たちが紡ぎ出した答えの中を進んでいるんだ。
今までで、一番大事な選択肢だった。
いや、答えなんて一つしかない。
「先輩っ……!」
――――――――
言うんだ。どんな結果になろうとも、この言葉だけは。
先輩にこの思いを伝えなければ、きっと一生後悔するだろう。
『俺は……! 先輩のこ
……あれ?
ボーっとしていたのだろうか。ついさっきまで、何かをしないといけない気がしていたのだけれど。ふと我に返ると、自分は【知識の樹】のグループ室の中で立っていた。
目の前には“開かずの扉”。
この学園生活で過ごした三年間に、一度も開くことのなかった扉だ。
いったいどういうつもりで、学園長はこの扉を設置したのだろう。
……あの男なら、嫌がらせの為だけに設置した可能性だってあるな。
「どうした、何か忘れ物でもしたのか?」
突然に背後から声がしたので振り返ってみると――
そこには赤い髪をした女生徒が立っていた。
背は自分よりも少し高いぐらいで、少し見上げる形になる。
綺麗な黄金色で、なんでも見透かしていそうな瞳をしていた。
「いや……確かに……なにか忘れていたような気がしたんだけど……」
なんだったんだろう。何を忘れていたのかも忘れてしまった。
ざっとグループ室の中を見渡しても、特に忘れ物なんて見つからない。
……忘れ物をしたこと自体、気のせいだったのかもしれない。
あれだろうか、出かけたあとに家の鍵を閉めたか確認したくなるやつだ。
まぁ、こうして忘れ物も何もないことを確認できたわけだし、結果オーライってやつなんだろう。
「卒業おめでとう。頑張れよ――若人」
すれ違いざまに、そんな言葉を投げかけられる。
卒業する自分よりも年上な気はするけど……《特待生》ってやつだろうか。
「若人って……アンタも学園の生徒だろ」
「私は《特待生》だからな。長いんだ、この学園は」
やっぱりな。そんな気がしたんだよ。
「どうしてこの部屋に?」
「ただの掃除係だよ。もう――誰もいないからな」
「そう……ですか」
――確かに。【知識の樹】は自分たち四人。
にはるん先輩が監督生としてまとめていた【黄金の夜明け】は、数人ずつ学年の違う生徒がいたので少しずつメンバーが入れ替わっていく形だったけれど。
全員が同じ学年である【知識の樹】もグレナカートたち【銀の星】も、この代で無くなってしまう。
どこか寂しそうに笑うその《特待生》に別れの挨拶をして学園の正門へと向かう。廊下から見えなくなるまでじっとこちらを見つめていた。
「テイルにしては時間かかったね、忘れ物見つかった?」
「いや、なんだか何を取りにいったのかも忘れちゃってな……」
「俺もバカだってよく言われるけどよ、テイルもアホだったんだな!」
「うるせぇ、念のため確認に行っただけだよ」
こんなことがあるだろうか?
自分でもありえないぐらいのうっかり具合に首を傾げる。
「珍しいですね。テイルさん、いつもはしっかりしていますのに」
「クロエにも同じことを言われたよ」
クロエはもう長いこと学園に住んでいるんだし、他の《特待生》の世話をしたいとも言っているし、このままずっと学園にいるのだと言っていた。たまには学園に顔を出してやるからな、と言って別れたのだ。
先生、先輩、後輩。
たくさんの出会いと別れがあったけど――
この学園での冒険はここで終わる。
「それじゃ、少しの間お別れだね。ちゃんと手紙出してよ」
拠点にする予定の大都市を伝えていれば、少なくとも全くの音信不通となることはないだろう。そうして卒業後も定期的に連絡を取り合う約束も取り付けた。
アリエスが言うには、テスラコイルたちが使っていた無線連絡機が新しく作れたら今後はそれで連絡しようということらしい。いつになるんだろうか。アリエスが本気を出すというのだし、それほど遠くはない気もするけど。
俺たちは、長い時を過ごした学園に別れを告げた。
「さよなら、パンドラ・ガーデン」
気のせいだろうけど……なんでだろうか。
不思議なことに、額のあたりがじんわりと暖かかった。
【ひねくれ黒猫の異世界魔法学園ライフ 第三部 了……?】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます