第五十五話 『どこからでもかかってこい』
体毛の隙間から溢れ垂れてきた血を拭い、溜めもなにも無く地面を蹴る。
抑えていた身体能力は既に全開、速さも五割増し、体感速度は更に上がっているのではないだろうか。先程の――世界を置いていくような感覚が、未だ続いているかのようだった。
「ここから先……手加減なんてできねぇぞ」
もちろん、手加減できるような相手ではないのは分かっている。けれども、勢い余って……ということがあっても既におかしくない域。
軽く跳んだだけでも、間合いが大きく開いたり、縮まったり。
久しぶりの――いや、初めての感覚だった。散々特訓をしたおかげだろうか。
きっと多少の怪我ならば、ファラ先生が治してくれるだろう。流石に喉笛を掻き切るようなことをしなければ反則負けになるようなことはないだろうけど……。
――と、そんな心配も杞憂に終わる。
「――――」
「ムラサキに比べればこの程度――」
この速度について来るのか……?
剥き出しにしている爪が、グレナカートの持つ剣の腹に弾かれる。ただ、隙を見せればカウンターが飛んで来かねなかったこれまでとは違い、ギリギリの状態で防いだのが見て取れた。
「ムラサキ……」
……あのお付きのことか。
刀を抜いた時の速さは、自分も見るのがやっとのレベルだったけど……。確かにあの速度で動ける奴が周りにいれば、少しは慣れているのかもしれない。
それならば、と。自分の中で既に目いっぱいまで上げたギアを、さらに無理矢理に引き上げる。自分ですらも、カウンターが来るかどうかの判断をするのが精一杯、制御できるぎりぎりのラインで動き続ける。
こちらが腕を振るい、向こうがそれを剣で防ぐ。
序盤の劣勢が嘘のように、こちらが一方的に攻撃に転じていた。
『疾い、疾い、疾い! 目にも留まらぬ速さで、怒涛の攻めを見せるテイル・ブロンクス! しかしグレナカート・ペンブローグも丁寧に捌き続けるぅ!』
縁を描くように回り込み、頭を狙うように見せかけ、脇腹を狙う。薙ぐように飛んできた刃をしゃがんで躱し、下から掬い上げるように腕を振り上げた。
――保護魔法に覆われていない爪が、グレナカートのこめかみを掠めた。やっと通った一発。しかしそれは、手痛い反撃を受けるのと同時だった。
「ゲホッ……!」
……いつの間に、俺の腹に?
『一瞬の攻防! 研ぎ澄まされた世界の中で、確実に一打をもぎ取ったのはグレナカートの方だァ!』
右手に握られていた剣は、左手へと持ち帰られていて。ただの打撃だったから良かったものの、芯まで撃ち抜かれそうな一撃。慌てて一歩大きく距離をとったところで、グレナカートが口を開く。
「はっ。魔法を忘れた魔法使いとは笑わせてくれる」
――明らかな嘲笑だった。愚か者めと嘲笑っていた。その状態ならば、対等の相手ではなく、格下の獣としか見ないと、そう言外に表していた。
「ただの人。――いや、それ以下だな。今のお前は」
「――――っ!」
カッとなり再び前へと飛び出そうとしたところで――
『君が本当に新たな一歩を踏み出したいと言うのなら、この腕輪を付けるといい。それが君に少しだけ、‟魔法”という名の力を与えてくれる』
――ふと頭をよぎったのは、自分の人生が変わったあの日のこと。
学園長から“魔法”を与えられ、“魔法使い”になったあの日のこと。
……俺が踏み出した一歩は、どこにいった?
自分の歩んできた道のりを、足跡を思い出す。
『おおっと! テイル・ブロンクス、どうしたぁ!?』
『……完全に足が止まったね。何か策があるのか、それとも――』
さっきまで沸騰寸前だった頭の中が、急に冷めていく。
父親や兄たちと同じ生き方をするのが嫌で、飛び出したんじゃなかったのか?
学園の中で見つけて育んだものを、こんなところで自ら手放して、いったいどうするつもりなんだ?
「……最悪の気分だな。まさかお前から、そんなことを気付かされるなんて」
「一度だけチャンスをやろう。正面から、お前を叩き潰してやる」
ここまで来たら、もう隠す必要もない。
今の自分の全力を――テイル・ブロンクスの実力をもって、ぶつかるしかない。
「後悔するんじゃねぇぞ……!」
「ほら、どこからでもかかってこい」
こちらを真っ直ぐに射抜くような視線には、先程までの見下したような、侮蔑の色は消えていた。口元はきつく引き結ばれ、その表情は真剣そのもの。喰うか喰われるかという状況に、空気がひりつくのを感じる。
「オオオオオォォォッ!!」
――右に左に、後方に。
「〈ブラス〉! 〈ブラス〉、〈ブラス〉、〈ブラス〉――!」
同時に複数体の分身を出すことはできない。既に出している状態で魔法を使っても、古いものはその時点で消えてしまう。それでも、この一瞬の連続の中で翻弄するには十分すぎる。
逆手に取られたことが響いているのか、辺りの重力を操作することもなく。向こうは迂闊にこちらを追うようなことをせず、ただその場で構えているだけ。どうやら先の挑発通り、こちらが来るのをひたすら待つつもりらしい。
それならば、と更に踏み込んだ。これで勝負を決めるつもりだった。
「〈ブラス〉!」
魔法の詠唱――しかし、分身は出現しない。
試合開始からここまで、いくつ魔法を使った? もう既に、魔力の方も限界に達していた。最後の一撃のために、使える量は限られていた。だからこれは、魔力を消費しない、ただのハッタリ。
けれども、この速度の中でのやりとりだからこそ、ブラフとしての効果は最大限に引き上げられる。
「――――っ」
何もない背後へと、一瞬でも意識を向けた隙を突いた、完璧に不意を打った一撃であるはずだった。しかし、こちらの踏み込んだ気配を感じたのか、すぐさま正面へと集中したのを感じる。
「だが――」
既に攻撃のモーションに入っており、回避不可能なところまで迫っている。
このまま終わりにするっ――!
拳が触れる。肩から肘、手首へと通った力の、魔力の流れを、渾身の力で叩きこむ。確実に身体の芯を捉えた一撃だった。回避も、防御もない。倒れることもなく、その場に立ち続けていることだけが自分の度肝を抜いたものの――これで決まったという確信はあった。
……これで勝負が決まったはずだった。
「――くっ……おおおぉ!!」
「なっ――!」
なんでまだ動ける!?
終わらない。倒れない。こちらの服を掴んだのが見え、次の瞬間には内臓が吹き飛ぶかと思うほどの衝撃が走った。同時に轟音も響いたような音がしたが、それが身体の内側からなのか、それとも外側なのかも判断がつかない。
肺の中の空気が全て吐き出される。こちらが叩き込んだ魔力の更に倍、もしくはそれ以上の魔力の奔流を感じ、数拍遅れて強烈な痛みが襲ってくる。そして身体が足を離れ――
「―――――っ!」
吹っ飛ばされるっ……このままじゃ、場外に!?
止まれ、止まれ、止まれ――!
まだ終わっちゃいない。まだだ、まだこれで終わりなんかじゃない。やっとここまで近づけたんだ。やっと、やっと
「動け……!」
体中が痺れて、指一本動かすことができない。せめてナイフを地面に突き立てて、無理矢理にでも場内に残ればと、そんな悪あがきも考えたのだけれど、行き着く先は場外の冷たい床だった。
身体中に衝撃を受け、勢いは収まらずゴロゴロと何回も、何十回も床を転がり――最後には大の字になって止まる。浅く息を吐くことしかできない状態。喉の奥に血が溜まる感覚があり、咳をするたびに赤い飛沫が散るのが見えた。
息苦しさを感じ、薄れていく意識の中――『勝負あり! 勝者、グレナカート・ペンブローグ!』と。
……試合の終了を、告げる声が聞こえた。
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