第277話 昇進or平社員で九尾なのじゃ

 三月一週目。

 俺は突然、直属の上長である課長に呼びつけを喰らった。

 そして、訳も分からないまま小会議室へと向かうことになったのだ。


 やって来てみると、どうしたことか、呼びつけてきた課長に加えて人事部長、それに所属している部の部長までが並んで席に座っている。

 普段、あまり顔を見かけない――どころか酒の席以外で並んでいるのを目にすることが珍しい面々だ。


 俺、何かやらかしたっけか、と、そんな思いが頭を過った。


 うむ。

 特にこれと言って、怒られるようなことを、やらかした覚えはない。

 一つ心当たりがあるとすれば、以前、無茶苦茶な要求をしてきたクライアントに対して、机を蹴り飛ばして抗議したことくらいだろう。


 まぁ、アレは同期の奴が上手くフォローしてくれたし。そのあとで、今この場にいる課長が上手く処理してくれて、お断り案件になったはずである。

 何も問題にはならないと思うのだけれども。


「まぁ、座りたまえよ、桜くん」


 就職の面談だろうか、と、思わず言ってしまいそうな雰囲気の小会議室。

 横一列に並ぶ役職持ちの男達を前に、ぽつりと置かれた一つの椅子が目に入った。


 それに座れというのは、わざわざ、言われなくても明白。

 もはや逃げることもかなわない。

 しぶしぶ、俺はそこに腰かけた。


 えぇいままよ。

 どういうつもりかは分からないが、煮るなり焼くなり好きにしろ。半ばヤケクソ気味に俺は腕を組むと椅子の上でふんぞり返った。


 はてさて。

 いったいぜんたい、この人たちは、俺にいったいどのような用なのだろうか。


 真っ先に口を開いたのは――何故か一番関わりの薄い人事部長であった。


「予想外だよ。まぁ、雇うのを決めた際に、そこそこスキルについては期待していたけれども、ここまでやってくれるとは」


「……はぁ?」


「同年代の社員と比べても、引けを取らない働きぶり。いや、一歩抜きんでていると、私は君の働きぶりを評価している。実際、君が担当しているプロジェクトで、赤字になっているものは一つとしてない」


 褒められて、いるのか。

 いささか回りくどい、人事部長の言い方に、どうも、素直に事態を把握することができない自分が居る。


 一方で、人事部長の言葉を肯定するように、うんうん、と、俺が所属している部の部長や課長が首肯した。


「君が前にいた会社の同期くん。彼の働きぶりから推測してプログラマーとして雇ったつもりだったんだが、いやはやとんでもなかった」


「何が言いたいんですか?」


「昇進だ、桜くん。来期から、主任をすっ飛ばして、係長補佐だ」


 は、と、い、が、少しだけ間を置いて口から飛び出した。


 何を言っているんだ、人事部長は。

 そして、うちの部長と課長は。


 いや、部長と課長の二人は何も言っていないか。

 うんうん、と、人事部長の言葉に、いちいち首を縦に振っているだけである。


 ちょっと待て、ちょっと待ってくれ。

 つまり、これはなんなんだ。


 人事査定という奴なのか、もしかして。


 聞いてないぞ。いや、知らないぞ。社則には書いてあるのかもしれないけれど。

 なんの説明も受けていないのだけれど。

 不意打ちはやめてくれるか。


 おそらく、顔色を七変化でもさせてしまったのだろう。人事部長と、うちの部課長たちが一斉に顔を見合わせた。

 あれ、どうしたのその反応とでも言いたげな顔だ。


 そりゃこっちの台詞だよ。

 俺は白けた視線を彼らに浴びせかけた。


 ほんと。

 こっちの台詞だよ。


「あぁ、そっか、桜くんはうちに来て初年度だから、分からなかったか」


「この時期、年度の切り替わりに、昇進する部下には上司から声をかけて、こうして個別面談をしているんだよ」


「……聞いてねぇ」


「それとなく社内の人間と交流を持っていれば、分かる話だと思うんだけれどね。というか、前の会社の同期くんと、そういう話はしなかったの?」


 しなかった。

 というか、さっき人事部長が言った通りだ。

 あいつ昇進とは無縁の人間だろ。

 そういう奴が、そんな話を好んですると思うのかね。


 いや、彼以外に社内に知り合いを増やしていれば、分かった話なのかもしれない。

 己の社内コミュ力の無さが招いた、悲劇と言って差し支えないだろう。


 しかし――昇進なんて。

 毛ほども興味ないのだから、そこは仕方ないじゃないか。


 すぐさま、頭の中と、喉の奥に湧いてきたのは、同じフレーズだった。


 お断りします。


 しかし。


「……いや、流石に係長補佐はちょっと」


「ほう?」


「管理職するほどの実務経験が、俺にはないというか。ぶっちゃけ、そこまで人をまとめる能力に自信がある訳ではないので」


 ギリギリ、岸部〇伴のように、かっこよく断るのを俺は我慢した。


 理由は二つ。

 一つは、無下にここで断ってしまうと、昇進の道が途切れてしまうからだ。それはそれで、一生この会社において平社員ということが確定してしまうということ。

 できればそれは避けたいところである。


 もう一つは、役職手当の存在だ。


 今、この時点で、俺はこの会社の薄給ぶりに難儀している最中である。

 来年度、給料のベースアップが多少あると仮定して、そこに、役職手当がプラスアルファされるというのなら、それは願ったり叶ったりである。


 とはいえ、言葉にした通り、係長補佐という役職と責任はいきなり重い。


「せめて主任くらいなら」


 そこで、俺は人事部長と上長相手に、交渉に出てみることにしたのだ。


 責任は負いたくないが、給料は出来る範囲でたんまりもらいたい。

 そう思うことに、何か不都合があるだろうか。


「主任かぁ」


「正直、もうそのレベルの仕事は、任せちゃってる感じなんだよね」


「現状維持より、もう少し、ステップアップしてみないか、桜くん。君ならば、課長、いや、部長も夢ではない」


 冗談ではない。

 いい顔をして、そんなことを言い放った人事部長に、俺は乾いた笑いを返した。


 そんな役職についてしまったら最後、プライベートが犠牲になるのは目に見えているではないか。


 断固拒否だ。

 絶対にNOだ。

 岸部〇伴の顔をして、だが断るだ。


 ウチには、俺の帰りをまだかまだかと待っている、フリーター九尾が居るのだ。

 彼女とのまったりとした時間を、会社にとられてたまるかというもの。

 というか、部長だ課長だなんてのは、家庭ができてひと段落した奴らがやるべき仕事だろう。まだ、甘い思いも生活もしてない若者を捕まえて、そんなもんにしようだなんて、どうかしているとしか言いようがない。


 断固お断りいたす。


 主任以外は――。


「とにかく、話しがいきなりすぎて、すぐには回答しかねます」


「そうかい?」


「一度持ち帰って――いや、ゆっくり考える時間をいただいて、回答させていただけませんか?」


 そう言って、俺は人事部長たちに頭を下げたのだった。

 まぁ、急な話だからねぇ、とは、言う人事部長たちだったが――。


「回答は早めに頼むよ。こっちも年度末で忙しいんだ」


 だったら、それこそもっと早く根回ししておけよ。

 そんな怒りに拳に力が入った。しかしながら、そこをぐっとこらえて、はい、すみませんと平身低頭すると、俺は小会議室を後にしたのだった。


 やれやれ。


「こりゃまた、なんとも厄介なことになっちまったなぁ……」


◇ ◇ ◇ ◇


「のじゃ!! 係長島桜なのじゃ!? 凄い話なのじゃ!!」


「いや、係長島なんて役職ないから。というか、なんで島が付くんだよ。課長だろ、島がつくのは」


「社長もニートもつくのじゃ」


 さっそく、お家に持ち帰って、俺の帰りを待っていてくれた九尾にことの次第を相談する。すると、意外にも九尾娘は、俺の昇進を喜んでくれた。

 係長島はともかくとして。


「のじゃのじゃ。桜が偉くなると、なんだかこっちも偉くなった気分なのじゃ。嬉しいのう、喜ばしいのう」


「いや、そんな能天気に」


「こりゃ。社会的にその能力が認められたのじゃぞ。もそっと、嬉しい反応をしてみせんか」


 と、逆に怒られる始末である。

 あれ、これは、持ち帰るまでもなく、お話を受けておけばよかっただろうか。


 思えば、前にナガト建設に居た時も、すんなり俺の昇進を喜んでくれていたっけ。


 なんだい、俺の独り相撲だったか。

 なんて思ったその時だ――。


 ぐしり、と、加代がいきなり、頬の端を手の甲で拭った。

 その拭った甲には、きらりと光るものが見える。


 彼女はどうやら、泣いているようだった。


「のじゃ。お仕事が忙しくなると、わらわと一緒に居れる時間も少なくなるのう」


「……加代」


「いいのじゃ。男女のすれ違いというのは、夫婦でも彼氏彼女でもこの世の常という奴なのじゃ。それを乗り越えてこそ、愛情というものは育まれ――」


 加代がそれを言いきる前に、俺はその口を自分の胸でふさいだ。


 アホめ。

 何をやっているのだ俺は。


 こういうことを言わせないために、俺はこの話を家に持ち帰ったんじゃないのか。


 そして、どれだけ長くこの駄女狐と一緒に居るというのだろう。

 こんな話を口にすれば、彼女が、やればいいと後押しすることなんて、分かっていたことだじゃないか。


「やっぱ昇進やめた。俺は一生平でいい」


「……のじゃ!? 何を言っておるのじゃ、桜よ!!」


「お前にそんな顔をさせるくらいなら、俺は一生役職なしで構わねえよ」


 薄給上等。

 貧乏なら貧乏で、いくらだって楽しく生きてく方法はあるんだよ。


 そう決意して、俺は加代の顔を覗き込む。

 すると、まるでどこぞのカップ麺のように、真っ赤な顔をした狐が、こちらを熱っぽい視線で見上げていた。


「……桜」


「人生は楽しくなくっちゃな。仕事ばかりの人生なんてつまんねえよ」


 それよりも、気が合う狐と一緒に過ごす。

 そんな時間の方が、今の俺には大切だ。


 心の底からそう思ったのだから――こればっかりはもう、仕方ないだろう。


 胸の中に顔を沈める加代の背中をそっと撫でる。

 さて、これからどうしたものかなと、俺は色々と社内の人事のことについて思いを巡らせた。


 まぁ、うん。

 主任くらいなら、引き受けてみてもいいかもしれないな。

 それくらいで落としどころをつけて、なるべく昇進を引き伸ばしてみるか。


 今はもうちょっと、この甘酸っぱい生活を、骨の髄まで楽しみたい。

 そういう年頃なのだから仕方ないだろう。


 出世ばかりが人生じゃないよ。

 ほんと。

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