レイデ夫妻のなれそめ 君がもたらした新世界

山咲黒/ビーズログ文庫

ためし読み

「王宮へ行くわ、マーティン。馬車を用意してちょうだい」

 しかしマーティンは微笑んだまま答えた。

「残念ですが奥様。そのご命令は承りかねます」

 リナレーアは目を丸くした。

「まぁ。どうして?」

「旦那様のご命令です。『もしリナレーアを見つけたら、今度こそ、鎖をつけてでも屋敷の中に閉じ込めておくように。特に王宮には近づけるな』とのことでした」

 執事のその言葉に、リナレーアはまずほっと安堵して目を輝かせた。

「マーティン。あなた、ザイラスに会ったのね?」

 先ほどの話では、ザイラスは渓谷の街を出てから直接王宮に向かったはずだ。そしてそのまま投獄されたのだから、マーティンがザイラスの命令を受けるには獄中の主人に会う必要がある。

「牢屋に忍び込んだの?」

「お答えいたしかねます、奥様。けれど旦那様がお元気でぴんぴんしておられることは私が保証いたします。ですからどうか、早まった行動は慎まれますよう」

 リナレーアはにっこりと笑った。

「王宮に、夫に会いに行くわ」

「いいえ、奥様。駄目でございます」

「マーティン。わたくしは、馬でも人形でもないのよ。鎖をつけて閉じ込めておくなんて、できると思って?」

「奥様……」

 マーティンは珍しく、困り果てたような顔になった。

「エイダから聞きました。旦那様が奥様に、何をしたか」

 リナレーアはちらりと背後の女使用人を見た。エイダは無表情のまま目を伏せている。

 ザイラスが自分の首を絞めたあの場にエイダはいなかったはずだが、レベッカが話したのだろう。

「そういえば、エイダ。レベッカはどうしたの? マリアンヌ様のご様子は?」

 リナレーアは思い出して聞いた。

「奥様」

 マーティンが少し声を鋭くして呼ぶ。

「思い出したくないことから目を逸らそうとされているのもわかりますが、どうか私の話をお聞きください」

 その声が懇願するようにも聞こえたので、リナレーアは執事を見て困ったように笑った。

「わたくしは目を逸らしているわけではないわ。マーティン」

 マーティンが瞬きをする。リナレーアは息を吐いて、自らの首に手をやった。

『マリアンヌは無事だ。それが知りたかったんだろ?』

 そう言いながら、妻の首を絞めたザイラス。

 リナレーアにはすぐにわかった。彼が怯えているのだと。

「夫の手がここにあった時の感触はまだ覚えています。でも知っているわ。わたくしが、彼を不安にさせてしまったの」

 殺したかったわけではない。ただ繫ぎ止めたかったのだ。

「わたくしに鎖をつけたいのも、首を絞めたのも、彼がわたくしを愛しているからだわ」

 失いたくないから。置いていってほしくないから。

 そんなふうに怯えるザイラスはまるで子供だ。純粋で残酷な子供。

 リナレーアはあの瞬間少しだけ、夫の安息のためなら殺されてもいいかもしれないと思ったが、すぐにその考えを改めた。

 そんなことで安息は得られない。死ぬことで得られるものなどないのだ。

「でもねマーティン」

 リナレーアは微笑んだ。そして言う。

「それってとっっっっっても短絡的だわ」

 きっぱりとしたレイデ夫人の言葉に、マーティンはぽかんと口を開けた。リナレーアは続ける。

「だってそうでしょう? 繫ぎ止めたいから鎖をつけて、殺して、なんになるの? 逃げないでくれと泣いて懇願する方がまだ建設的だわ。不安ならそう言うべきよ」

 一度それらを口にすると、後から感情が追いついてくるようだった。この時リナレーアは、純粋な怒りを感じていた。

 夫の不安はすべて、リナレーアへの不信感に起因している。

 彼は妻を信じていないのだ。

『ずっと側にいるわ』というリナレーアの言葉を信じていない。夫婦というのは信頼の上にこそなりたつ関係であるはずなのに。

「彼には悪いけれど、わたくしは恐怖を食べられる前からこういう人間だったの。好奇心旺盛で、一つの場所に止まってなんていられない。だから冒険家になりたかったし、山賊の真似事だって最高に楽しかったわ」

 山賊の真似事? とマーティンが聞き返したそうな顔をしたが、リナレーアは無視した。

「魔物が大好きだし、非日常にはいつだって憧れるわ。それに……」

 それに。

 喉がつまる。

 この想いを、どう表せばいいだろう。どんなに怒りを覚えても薄れることはない。言葉なんかでは足りない。彼にとってリナレーアが無二だというのなら、自分にとってもそうなのだ。

「……誰よりも、ザイラスを愛してる」

 たった一人の大切な人。

 何度そう言えば、彼に届くだろう。

 愛していると、ずっと側にいると、喉から血が出るほど繰り返せば彼はわかってくれるだろうか。

 リナレーアは涙を我慢してマーティンを睨んだ。

「ザイラスは、それを知るべきよ」

 だから、鎖をつける必要などないのだと。

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