茅ヶ崎連という人間

「ねー茅ヶ崎ちがさきー、ちょっといい?」

「何?」


 茅ヶ崎とはだんの苗字ではあるが、兄も同じ吹奏楽部に所属しているので、反応した後に自分で合っていたのだろうかと不安になったりもする。


 今しがた自分を呼んだであろう人物は、トランペットの榎並えなみ冴苗さなえ。同じ二年だし、呼び捨てで呼んでいたということは、今回は自分で間違いない。


「茅ヶ崎ってさ、中学強豪校だったんだよね?」

「そうだけど」

「じゃあやっぱりれんれん先輩もやっぱいろいろすごいの?」


 用があるのは自分で間違いなかったとはいえ、用件は兄に関することらしい。そのことが少しだけおもしろくなくて、弾は一瞬顔をひきつらせた。弾はこういう人間だから仕方ないが、冴苗と同じトランペットである兄の連の話を振られるのは仕方あるまい。


「近くで聞いててすごいなーって思うことはあるけどさ、れんれん先輩って練習あんま来ないじゃん?」


 れんは今日も部活には来ていなかった。今日もというからには、めずらしいことではない。そしてかくいう弾も、兄と同じく今日の部活はサボる気でいた。楽器を取りに来ただけなのに、誰かに捕まっていたらあの面倒な女の先輩が来てしまうではないか。


 正確にはサボるというより、各パートごとに割り当てられた個人練習及びパート練習の教室以外で自由に楽器を吹いているので、一概にサボっているというわけでもなかったりする。一応、楽器は毎日吹いているのだから。


「だから実力とかまだまだ知らないしさー。中学時代とかどうだったのかなーって」


 そんなこと、本人に聞けばいいじゃない、などと冷たく突き放したりしないあたりお人好しなのかもしれないと弾はふと思う。


「そうだなぁ。れんれんは特例で中三の時甲子園で必殺仕事人吹いたよ」

「マジ!? すごっ!」


 野球の応援における必殺仕事人は、トランペットパートの中で本当に実力のあるトップの人に任せられる。

 万年3rdの冴苗――しかしそれは本人の希望なので不満は持っていない――からすると、甲子園での必殺仕事人は、中学時代に先輩からその話を聞いて以来ずっと憧れだった。

 まさかそんなすごい人がこんなに身近にいたなんて。冴苗は目を輝かせる。


「ていうか特例って? 特別に声かかったの?」

「近くの高校の吹奏楽部、部員が少ないからうちの中学から何人か手伝いに来てくれないかって頼まれたんだよね。ぼくも声かけられたから行ったけど」

「そういうのあるんだ。中学で甲子園とかちょっとうらやましい。でもやっぱり、それだけれんれん先輩がすごかったってのもあるよねきっと」

「……れんれんが三年、ぼくが二年だった時だけだけどね」


 そして、自分の話も忘れずに。しかしさりげなく混ぜた自分の自慢は華麗にスルーされた。


「ということは、れんれん先輩のハイトーンとあの音量って中学からだったんだ」

「そうだよ」


 連は弟の弾と違って1stやソロには固執していないが、伸びやかで安定した高音と、変態的な音量から1stを任されることが多い。しかし時には後輩に1stを無理矢理押し付け、2ndを吹くこともある。3rdは1st、2ndとは違う動きをすることが多いため、あまりやりたくないのだそうだ。


「それで、その年の吹奏楽コンクールでもれんれんは1stでソロをやったんだけど、例年通り全国まで進んだよ」

「例年通り、って簡単に言うけどそれすごいことだよね……。しかも野球応援もやりながらでしょ?」


 甲子園の日程は、開会式から決勝まで含めると、例年八月上旬から八月下旬まで。八月といえば吹奏楽コンクールの県大会が行われる時期で、県大会で代表に選ばれると九月の支部大会に進むことになり、時期が被ることになる。野球応援もしながら、コンクールの練習もするということは想像以上に大変なことだ。


「おまけに吹コンの講評ではれんれんのソロ、結構褒められてたしね」


 審査員の中には連のソロを称賛する人もいたが、そうではない評価もあった。それを言えなかったのは、兄だからだろうか。これが他人だったら、いつものように遠慮なく毒を吐けるのに。

 甲子園での必殺仕事人だって、もちろん連の実力もあるが、たまたまその年の高校の部員が少なかったから、という理由もある。


 逆に弾がこれほど人を称賛するのも、自分の兄だからだろう。他人だったら絶対に粗を探してそこを指摘して、褒めたりなんてことは絶対にしない。


「思ったよりただ者じゃなかった……。まあ、れんれん先輩の音を聞いた時からこの人すごいなーとは思ってたけどさ」


 連のことだから、これらのことを他の人には話していないのだろう。これが弾だったら間違いなく誰にでも自慢している。


 腕を組んで連に思いを馳せていたかと思えば、突然あからさまに吐かれたため息に反応して冴苗のほうへ視線をやると、なぜかこちらをじとりとした視線で見下ろしていた。


「あんたもれんれん先輩みたいに謙虚だったらよかったのにね」

「え? ぼくはとっても謙虚な人間だけど?」

「ん? なんだって? ごめん、よく聞こえなかったわ」

「パートが違うからぼくという人間をよく知らないだけだよ」


 冴苗はトランペット、弾はサックス。同じ花形楽器といえど、トランペットは金管で、サックスは木管。金管と木管はあまり接点がなかったりする。

 弾と冴苗、同じなのは学年と部活だけで、それ以外の共通点はない。だから弾の言うことは正しくもある。しかしそれでも冴苗には弾が謙虚な人間だとは到底思えなかったし、弾という人間をもっと知ったところでで弾に対する印象が変わるとも思えない。


「ほんっと、茅ヶ崎って兄弟で正反対だよね。中身もだけど見た目も。あんたチビだし」

「身長の大きさと人間の大きさは比例しないよ。万年3rdの誰かさんみたいに身長だけあってもね」

「あたしは好きで3rdやってんの! いい? 3rdとか2ndがいるから1stが目立てるんだよ? 高い音が出せるからえらいなんてことないんだからね? ……出せたらかっこいいけど」

「まずはハイBより上をコントロールできるようにならないとね。コントロールできなきゃ、その音が出せるとは言えないからね」


 そうやって皮肉で返してくるところが、全然謙虚に思えないんだけど。


 ……とは、これ以上の口論は部活動が始まって早々体力の無駄になりそうなので、冴苗はのみこんでおいた。

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