音楽の神に愛された少年
今にもくっつきそうなまぶたをこすりこすり、音楽室の隅で楽譜の整理をしていると、不意に背後から湧き起こった拍手と歓声に
顔を上げ、今しがた拍手と歓声の聞こえたほうへと視線をやる。そこには、十数人ほどに囲まれた一人の小柄な少年がいた。少年というより青年といったほうが年齢的には正しいのだろうし、弾も人のことは言えないけれど、同世代の平均に満たない身長にあどけなさの残る顔立ちは、どちらかといえば少年と形容したほうが想像しやすいかもしれない。
本来であればパーカッションであるはずのその彼が、なぜか自分と同じように首からストラップをかけ、その先にはテナーサックスが構えられていた。彼を取り囲んでいる人たちの隙間から見えた、満更でもない表情を浮かべいる輪の中心の彼に、目を細め冷めたような視線を送る。
喧騒に紛れてサックスの音色が聞こえたような気がしたのは気のせいではなかったらしい。昼休みにも関わらず誰かが練習しているのだろうと気に留めることはしなかった。サックスに限らず、昼休みも惜しんで練習している人はちらほらいる。
「ねえ、もう一回吹いてくれない?」
「え? いいけど」
いつの間にか彼を取り囲む輪に加わっていた弾に、輪の中心にいた彼も、それを取り囲んでいた友人たちも驚いてきょとんとした表情を浮かべる。
「なんでもいいの?」
「なんでもいいよ」
学年こそ同じだが、クラスとパートが違うせいで彼と話したことはほとんどなかった。けれど、彼のことはよく知っていた。
自分と同じように同世代と比べると並外れたセンスの持ち主だと、彼のドラムを聞いて直感でそう思った時から、弾は彼のことがずっと気になっていた。
ほとんど面識のない自分からの要求を、特に怪しむことなく飲んだ彼に弾は礼を言うと、午後の合奏のために運び込まれた椅子を適当に引いてそこに腰を下ろした。頬杖をつき、何を吹こうか思案している彼の表情を見上げる。
それから少しして始まった彼の演奏に、目を閉じる。
完全に鳴り切ってはいないが、どこか澄んだような音色は、まさしく自分が目指している音だった。彼の経歴は知らないけれど、おそらくほぼ未経験であろう彼に自分の目標の音をこうも簡単に奏でられるだなんて、自分で頼んでおきながら弾は少々腹が立った。
とはいえ、プライドの高い弾が認めざるを得なかったのは音色だけだった。
ブレスのタイミングも、タンギングも、指も、歌い方も、まだまだ未熟だった。それは弾の好みの演奏ではなかった、と言えばそうとも言えるけれど。
彼の本命はパーカッションだから仕方ないとはいえ、音色が自分の理想とぴったりなだけに余計に落胆し、同時に安心した。
彼の短い演奏が終わり、再び起こったまばらな拍手に少し遅れて弾も手を叩く。
「ありがとう。いい音だったよ」
「どういたしまして」
演奏を聞き終えた弾は礼と世辞を言うとすぐに去って行った。元の場所に戻り、途中だった楽譜の整理を再開する。
少年とその取り巻きは突然ものを頼んできたくせに、満足したらあっさりと去って行ってしまった弾の背中をぽかんと見つめていたが、すぐに雑談を始めた。
楽譜の整理をしながら、弾は嘲笑にも似た笑いを小さくこぼした。
彼の音を聞いた時には感心する反面腹も立ったが、技術面ではまだまだだ。それは仕方ない、彼はパーカッションの人間なのだから。だからこそあのレベルでも周りが感心していたのだし、ゆえに未経験であれだけできてしまうことにはやはり腹が立つ。まったくの初心者、というにはレベルが高かった。サックスは運指がリコーダーと同じで、木管楽器の中では比較的音も出しやすい楽器ではあるが、それらしい音を鳴らせるようになるまでが難しい。彼の音色は、まさにテナーサックスのそれだった。
弾が彼の管楽器を聞いたのは、今回がはじめてではない。先ほどのように、休み時間に遊びで人から楽器を貸してもらって吹かせてもらっていることは度々あり、それを何度か弾も目撃していた。サックスだったり、オーボエだったり、トランペットだったり、ユーフォニウムだったり――どの楽器も音を出すことはできるし、運指もほとんど知っているようだったし、ぴたりとその音にあてることもできるらしかった。
どんな楽器も簡単に音が出せてしまうことを、弾はうらましいとはまったく思わなかった。いや、まったくといえば嘘になる。弾は目立ちたがりだから、自分の担当と違う楽器を演奏してみせることで、人々の注目を集めることに関しては嫉妬していた。
運指や楽器に合わせたアンブシュアなど、面倒なものは究めたいと思っているサックス以外覚える気はなかったし、今更勉強するつもりもなかった。けれど、音を出すくらいならサックス以外でもできるのではないだろうかと考えたことはある。サックスは一発で音が出た自分だ、金管楽器はそうは簡単にいかないだろうけれど、同じ木管楽器なら、同じシングルリードのクラリネットなら。そう思ってこっそり吹いてみたことがあるものの、サックスのようにはすんなり音が出なかった。
楽譜の整理を終えると、午後の練習が始まるまで残り十分を切っていた。トイレへ向かう際、友人に囲まれて今度はチューバを吹いている彼の前を横切った。友人たちの彼を褒める声、口では謙遜しながらも笑顔を浮かべる彼。
――音楽の神のみに愛されているのならば、それ充分だ。
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