演奏会のお手伝い
「おーい
一歩中へ足を踏み入れるなり自分の名前を呼ばれて、和希はぴくりと身じろいで立ち止まる。
まだ早朝だというのにそこそこ混んでいるロビーをなんとか横切って、端で待機している二人の元へ向かう。
「おはようございます」
「おはよう、和希」
「おはよー。眠そうな顔してるなーお前」
「今朝五時起きなんで……」
「五時とか早くもないだろ」
「和希の家学校から近いもんねぇ、いつもはゆっくりしてられるんだよね」
今、三人がいるのはとあるホール。なぜこんな早い時間にこんなところにいるのかというと、今日はここで吹奏楽祭が開催されるから。和希はつい先週に知ったことだが、数十年前からこの時期に行われている割と大きな演奏会らしい。
「今日って何するんですか?」
「俺たちはチケットのもぎりだね」
「半券ちぎるやつね。あとはその時に合わせていろいろかな」
いつもより早く起きたおかげで眠そうな和希とは裏腹に、奏斗と律は張り切っているように見えた。
二人に気付かれないよう、和希は小さくため息を吐く。和希としては正直面倒だった。会場が遠いためいつもよりも早く起きなければならなかったし、何よりせっかくの休日がほぼ丸一日つぶれることになるのが嫌だった。吹奏楽部にとっては、丸一日の休みなんてそうそうあるものではない。今更ながらあの時適当に理由をつけて断ればよかったと後悔する。これだけ人がいるのを見ると忙しくなりそうだ。
「あの、調辺高のお手伝いさんですよね?」
「あ、はい。そうです」
そうこうしているうちに係員がやってきて今日の説明がはじまった。説明を受けている最中、和希は欠伸をかみ殺すので精一杯だった。ほとんどが事前に渡されたプリントや先生から聞いていた内容だったので、半分寝ぼけながらも理解はできた。
説明が終わったところで、渡された腕章をつけて指定された場所へ移動する。深緑の布地にラインと文字がプリントされた腕章は、何年も使っているせいでところどころ破けたりほつれたりしていた。それを安全ピンで制服の右腕につける。
途中、他の学校や楽団から手伝いに来た人たちなのか、それとも今日のお祭りで演奏する人たちなのか、どこへ行ってもとにかく人がたくさんいた。時折大きなケースが運ばれていくのを和希は大変そうだなどと他人事ながらにぼんやり思いながら眺めていた。コントラバスやドラムセットなどの打楽器以外にも、ピアノやハープ、アンプなどいろいろな物が運ばれていった。
「あのーすみません、当日券ってどこで売ってますか?」
「あ、チケットの販売は十二時からなので、時間になってからまた受付に行ってください」
「トイレってどこにあるか分かりますか?」
「トイレはここをまっすぐ行って、突き当りを右に行くとありますよ」
開場時間まで待っている間、奏斗と律は手慣れた様子で任された仕事以外にもいろいろとこなしていた。質問をされればすぐに答えを返していたり、場所を聞かれたら迷うことなく案内していた。あの時率先して手を上げていたということは、おそらく去年も同じように率先して参加していたのだろう。打楽器は何かと手伝いや裏方を任されることが多い気がする。
和希はというと、二人の後ろでどこからか聞こえる楽器の音色に時折耳を傾けていた。 チューニングしている音だったり、聞いたことのある曲のワンフレーズだったり、遠くのほうでいろいろな音が混じっていた。知っている曲を耳にすると、なんとなくテンションが上がる。
「時間まだあるから見たかったらリハーサル見てきていいよ。そこのホールでやってるから」
「ほんとですか!?」
「ありがとうございます!」
和希が腕時計に目をやった時、開場時間の一時間半ほど前を示していた。
机を並べたり、看板を立てたりとちょこちょこと仕事を頼まれることはあっても、ほとんど何もせず過ごしていたので、これだけ暇なら集合時間をもっと遅らせてもよかったのではないかと和希が考えていたところだった。
その時の奏斗と律の表情といったら。目をきらきらと輝かせて、まるで小さな子どものようにはしゃいでいた。
「和希も来る?」
「あ……はい、じゃあ行きます」
ひとりこの場に取り残されてもやることはないし、興味はあったので和希も行くことにする。
階段を上ると徐々にはっきり聞こえてくる旋律に、奏斗の足取りが心なしか早くなってく。アッチェレランドがかかっているので、そろそろクライマックスなのかもしれない。
「これが楽しみなんだよねー」
「そうそう」
ドアを引く奏斗の横顔は笑顔だった。それに同調する律の声もはずんでいる。
ドアを開けた瞬間のクレッシェンドに圧倒されながらも、奏斗、律に続いて和希も中へ入る。和希が中へ入ったのと同時にちょうど曲が終わり、ギャラリーからまばらな拍手がわき起こった。自分たちと同じように手伝いの合間に見に来たのであろうギャラリーがちらほらと見えた。
近くの席に適当に腰を下ろし、次の曲が始まるのを待つ。指揮者が指揮棒をかまえたのが見えて、心持ち和希は背筋を正した。そして指揮棒が振り下ろされた瞬間に弾けて真っ直ぐにこちらに向かってきた一本の太い線に、すぐに圧倒されたのだった。
「はー……なんかいろいろすごかった」
「ね。やっぱり大人の人たちってってすごいよね」
「迫力が違うよね」
会場から出て元の場所に戻りながら、奏斗と律は感嘆のため息を漏らした。盛り上がっている奏斗と律の後ろ姿を、その数歩後ろを歩きながら和希はぼんやりと眺める。
「和希はどうだった?」
「す、すごかったです」
いきなり話を振られてとっさに出てきたのは、まるで小学生の感想だった。しかしそれ以外になんと言っていいのかも分からなかった。自分たちとは圧倒的にレベルが違うものに思えた。
「こういう演奏会って、お客さんとして聞くのもいいけどさ、手伝いとかで舞台裏を覗けるのもいいよね」
「そうなんだよねー。それが楽しみなんだよねー俺」
「僕もー」
二人が率先して手を上げた理由がようやく分かった。よその練習風景なんて滅多に見られるものではない。まして大人の、しかもプロもまざっている練習の様子が見られるなんて貴重だ。そう考えれば和希も来てよかったと思う。
「そろそろお昼かな? お腹空いたー」
「だねー。ご飯食べたら忙しくなるよー。頑張ってね和希」
「あ、はい……頑張ります」
昼食は弁当が支給されると事前に渡された予定表に書いてあったので、それだけが和希の唯一の楽しみだった。
人もたくさんいるし、奏斗と先生から忙しいと聞いていたのである程度の覚悟はしていたつもりだったが、この時点では大変になりそうだなぐらいにしか和希は考えていなかった。
昼食を食べ終え、予定の時間五分前になったので指定された場所へ向かう。途中、まさかとは思っていたが、ガラス戸の向こうに見える長い列が開場時間になった途端に一気に押し寄せてくるなんて、開場時間十分前の和希は信じたくなかった。
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