僕が弦バスを好きになったわけ
「えっと、
「へっ!?」
音楽室の隅っこで食べ終えた弁当箱を片づけていると、突然上から声が降ってきて
彼、山羊野柚弦は極度の対人恐怖症で、特に異性は大の苦手だ。相変わらずにこにこと笑いかけてくる彼女に、目を泳がせながら口をぱくぱくさせることしかできない。逃げようにも、すぐ後ろは壁だ。
「突然すみません。もしかして、名前間違ってました? それとも今忙しかったですか?」
とっさに答えなんて口から出るわけもなくて、後ろの壁に両手をついた情けない格好のまま首を何度も横に振る。名前は間違っていないし、ちょうどお昼を食べ終えたところだから忙しくもない。
それでも優弦の言いたいことは伝わったようで、目の前の彼女はよかったと言ってまた笑った。
「じゃあ、少しだけお話したいんですけど、いいですか? 今しなきゃいけない大事な話じゃないですし、無理にとは言いません」
気を遣ってくれるのはありがたいのだが、優弦が人の頼みを断れるわけもなく。おもむろに首を縦に振るしかなかった。
彼女の名前は知っている。
彼女が入部してきてそう月日は経っていないし、病弱ゆえに部活に来ることもあまりなかったが、知らないうちに何か気に障るようなことでもしたのだろうか。美琴が怒っている様子にはまったく見えないし、むしろ笑顔で話しかけてきたというのに被害妄想ばかり浮かぶのは、優弦の悪い癖だ。
「ありがとうございます。ここだとなんですし、場所変えましょうか?」
「えっと……その、えーっと……」
「……あの、先輩、大丈夫ですか? 汗すごいですけど、具合でも悪いんですか?」
美琴との距離はそんなに近いというわけではない。話しながら距離を詰めてくるわけでもなく、一定の距離を保ったままなのだがこの距離でも優弦にとっては精一杯で。
何度も口をぱくぱくさせた後、そうじゃない、と振り絞るように優弦は呟く。美琴は何も言わず、優弦をじっと見つめたまま次の言葉を待つ。
「……えっと、その、僕……ひ、人と、話したりするのが、その、苦手で……と、特に異性と接するのが、えっと、あの……にっ、苦手、なんです……すみません……」
「そうなんですか。そうとは知らなずにすみません」
「い、いえ……僕のほうこそ、い、いろいろ申し訳ないです……すみません……」
こんな自分に声をかけてくれて、話がしたいとまで言ってくれて、すごく嬉しいのに、話をするどころか、返事すらまともにできない自分が情けなくて、優弦は視線を床に落とす。
決して人に話しかけられるのが嫌というわけではない。むしろ自分だって、本当ならみんなみたいに、いろんな人と会話がしてみたい。美琴みたいに、初対面の人でも気軽に声がかけられるようになりたい。けれど、挨拶すら緊張してしまう優弦にとっては、それはとても難しいことで、時間がかかること。
「だったら、メールなら大丈夫ですか?」
「あ……」
美琴は一歩後ろに下がって、ポケットから携帯を取り出した。少し遅れて柚弦もポケットから携帯を取り出す。慌てて取り出そうとしたのでストラップが引っかかってしまい、それで余計に慌てて内心優弦がパニックになっている間、美琴は笑ったりせずにじっと待っていた。もし優弦が対人恐怖症でなければ、きっと手を貸してくれたに違いない。
「すみません、しつこくて。弦バスやってる人がいたのが嬉しくて、ずっとお話したいなって思ってて……。弦バスってない学校も多いから、テンション上がっちゃったんです」
「……え、ええ、え、っと、その……ぼ、僕でよけれ……ば」
「ありがとうございます!」
とぎれとぎれに優弦が答えれば、美琴にはしっかり聞こえていたようで嬉しそうにまた笑う。アドレスを交換する時も、なるべく距離を取ってくれた。申し訳ないと思いつつ、その気遣いが柚弦にはすごくありがたい。
「まだ先輩とアドレス交換してなかったですよね?」
「たっ、たぶん、はい、し、して、な、なかったと、お、思います……たぶん」
部員、特に同じパートの人とは先輩後輩問わず連絡用にアドレスを交換しているものだが、優弦があまり部活に来ないことと美琴とタイミングが合わないことが重なって、まだ彼女とは交換していなかった。
「それじゃあ、夜にメールしますね」
ひらひらと小さく手を振って、相変わらず笑顔で美琴は去って行った。その背中が見えなくなった後で、優弦はふぅと小さく息をつく。
手の中の携帯に視線を落とし、優弦は普段からハの字に下がっている眉をさらに下げた。
対人恐怖症の優弦には、性別を問わず友人と呼べる友人はあまりいない。登録されているアドレスは、業務連絡用に交換した部員が大半で、それを除くと家族と中学時代の友人数人しかいない。それだって、頻繁に連絡を取っているわけではないから、今メールを送ったら数秒で返信が来るかもしれない。User unknownという件名で。
「そ、そろそろ、かなぁ……」
その日の夜。優弦はベッドの上に正座して、枕の上に置いた携帯をじっと見つめていた。心臓がうるさいくらい音を立てていて、自分が想像以上に緊張しているのが分かる。
枕元に置いてある目覚まし時計を見ると、時刻はそろそろ十時を回るところ。明日は月曜日で学校があるし、もしかしたら疲れてもう寝てしまった可能性もある。優弦も明日は学校だし、昔から病弱で夜更かしをするとすぐに体調を崩すし、お風呂に入った直後で多少眠気はあるが、もし寝てしまった後にメールが来たら申し訳ないので頑張って起きていた。彼女なら、昨日は寝ていて返信ができなかったと素直に話せば怒ったりすることはないだろうとは思うが、優弦はレスポンスに時間が空いてしまうとなんだか申し訳ないと思ってしまう。
携帯とじっとにらめっことすること五分。その間、優弦は微動だにしなかった。
「きっ、き、きた……!」
着信音が鳴った瞬間、素早い動きで携帯を手に取る。どきどきしながら今しがた届いたメールをチェックすると、差出人の名前は、優弦が期待していた人物――美琴だった。
震える手で携帯を支えながら、何度も何度も内容を読み返す。一回目は緊張し過ぎてまったく頭に入らなかった。数回読んでようやく内容が頭に入ったところで、ベッドに倒れ込む。
挨拶からはじまり、簡単な自己紹介の後に他愛のない話が少々。ところどころに絵文字が入っていながらも丁寧な文章で書かれたメールは、とても彼女らしい、と優弦はぼんやりする頭で思った。
目を閉じてしばらくそのままでいると睡魔がやってきて、慌てて優弦は目を開ける。
「僕が弦バスにした理由、かぁ……」
美琴のメールは、優弦はなぜ弦バスを選んだのかという質問で締めくくられていた。
優弦は美琴のように中学から吹奏楽をやっていたわけではない。高校に入って、新入生歓迎会の吹奏楽部の演奏がとても素晴らしくて、それで吹奏楽部に入ろうと決めた。だから楽器のことなんてまったく分からなくて、吹奏楽で弦楽器が使われることすら、入部して初めて知ったくらいだ。
弦バスを含む低音楽器は知名度が低く、また目立たないためすすんでやりたがる人はあまりいない。優弦も入部した当初の希望はトロンボーンかホルンだったのだが、本入部してさあ楽器を決めるぞとなった時にどきどきしながら待っていたら、三年生の先輩に突然「君は弦バスじゃない?」と言われて周りもいいねと言い出してすぐに決まってしまった。聞かれたところでまともに答えられるかといえばそうではないが、優弦の希望なんて誰も聞いてくれなかった。
その理由は至極単純、彼の名前が優「弦」だからだ。由来はあるが、弦楽器をやって欲しいから両親はこの字を選んだわけではない。自分の名前が嫌だとか、そんなことは今まで一度も思ったことはなかったけれど、その時ばかりは名前をつけてくれた両親を呪った。
優弦が弦バスになったのはそんな経緯からなのだが、それを素直に彼女に話すのは抵抗があった。なぜなら美琴は中学生から弦バス一筋だからだ。中学一年生の時に弦バスに一目惚れし、自ら希望して弦バスになったらしい。彼女が弦バスを大好きなのは、一緒に練習しているとよく分かる。
しかし、かっこいいと思ったからなどと適当に嘘をつくのも優弦にはできなくて、あきらめて素直に話すことにする。
「うーん……不安だ……」
メールを送信した後、優弦はベッドに倒れ込んでひとりごちる。
彼女に呆れられたりしないだろうか。何度も読み返したけれど、変なところはなかっただろうか。不安だけれど、送信したばかりのメールを読み返すのもなんだか怖くて、大の字になって顔をしかめていると、すぐ耳元で着信音が鳴って優弦は飛び起きる。またしても差出人は美琴だった。
「優弦って名前、私はすごく素敵だと思います。私は好きですよ」
返ってきたメールを読んだ瞬間、胸がどきりと跳ねた。名前を褒められたのは初めてだし、その言葉があまりにもストレートで、優弦は顔が熱くなるのを感じる。
たった一言、されど一言。優弦の心を動かすには充分すぎて。
それから数回メールのやりとりをして、明日は学校だからまた、と美琴からのメールにあって時計を見る。十一時を少し過ぎたところだった。優弦もそろそろ寝ないと、明日起きられなくなる。
電気を消して布団に潜った瞬間、ふと思い立ってさっきまでやりとりしていたメールをもう一度読み返す。
本音を言うと、まだ管楽器をやりたかったという心残りはかなりあった。いい加減切り替えないとというのは分かっている。
でも、たったさっき、希望していなかった楽器に選ばれた原因の名前を、そのせいで嫌いになった名前を、素敵だね、と言われた。ただそれだけのことが、たまらなく嬉しくて。我ながら現金だとは思うが、優弦はようやく弦バスを好きになれる気がした。
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