第4話
手術を無事に終えたものの、その頃から僕の体力はみるみるうちに落ちていった。日を追うごとにうつうつとした気分が大きくなり、何をするのもおっくうになった。
少し眠っては起きる。そんな日々が続く。何度目に起きたときだろうか。
「よう、調子はどうだ?」
ひょうひょうとした様子で、下川が病室に顔を出した。
力なくベッドの中から彼を迎える。
「なんだ。来たのか」
「おう。来てやったぞ」
下川は変わり果てた僕を見ても、他の見舞客のように戸惑いの表情を見せなかった。
「よっこいせ」
と、ベッドの下から丸いすを引っ張りだし腰を下ろす。そして、いろいろ話を聞かせてくれた。
僕が抜けたあと、同僚の誰かがプロジェクトを引き継いだらしい。あれほど心配してたのに、リーダーの名前を聞いても、どういうわけか五分とたたないうちに忘れてしまった。
下川がそっけなく言う。
「仕事のことなんか気にしないで、ゆっくり休めよ。長い休暇をもらったと思えばいいんだ。なあ、そうだろ?」
下川の言葉に小さくうなずく。
「あ、ああ。そうだな」
僕はひそかにシーツを握りしめた。
おそらく下川は僕を安心させようとして、そう言ったのだろう。しかし、おまえなどいなくてもやっていける。おまえなんか要らないんだ。と宣告されたような気がした。
「そうするよ」
座ったまま、しばらくぼんやりと時を過ごす。
「あ、これ」
下川が急に声をあげた。
「カメラじゃないか。相田、おまえ写真を撮るのか? そのカメラ、デジタルじゃないよな」
「ん?」
下川の目線をたどる。ベッドの横に置かれた棚の上の方へ向いていた。銀と黒のツートンカラーの物体がちらっと見えている。
僕は思い出した。
「ああ。それ、銀塩カメラだよ。もとは親父のものだったんだ。古いだろ」
「へえ、親父さんの」
「何を思ったのか、この間持ってきて、そのまま置いていったんだよね。僕の写せる風景は、この病院の中だけしかないのにさ。笑っちゃうよな」
「少し見てもいいか?」
興奮した面持ちで、下川が訊いてくる。
「かまわないよ」
僕がそう言ったら、下川は立ち上がり、カメラをさっそく手にとった。
「ふうん。クロムシルバーの一眼レフか。かっこいいじゃん。レンズは標準か……」
などと、ぶつぶつ言い始める。そして、ファインダーを覗き、具合を確かめるかのようにレンズを動かした。裏蓋を開けたり閉じたり、低速でシャッターを切る。ひいき目に見ても、確かな手つきだった。
今度は僕が感心する番だった。
「下川、カメラやってたんだな。ずいぶん、さまになってるじゃないか」
「はは、まあね」
下川は照れくさそうに笑った。
「実は高校では写真部だったんだ。そのとき覚えたんだよ」
「そうなんだ」
「そういうおまえは?」
僕は頭をふる。ポツポツ話をした。
「思うように上手く撮れなくなったんだ。はじめは写すだけで楽しかったくせに、だんだん欲が出てきてさ。あれこれ悩んじまって。あとフィルム代とか現像代とか、金がかかるのもネックだった。受験でやめてしまった」
「……そうか。もったいなかったな」
下川の言葉に黙ってうなずく。
カメラは陽の光を受けて、鈍い輝きを放っていた。
そういえば、親父からカメラをもらった小学生の頃、将来カメラマンになるのだと夢見ていたっけ。雑誌などのコンクールにも出したりして。小さいながらも何回か入賞したことさえある。なのに、大人になった今は、病気になって取り残されたサラリーマンだ。
――今でも、昔みたいに写せるだろうか。
なぜだか、ふとそう思った。ずっと忘れていた何かが、今まで気にもとめなかった何かが、ふつふつと目覚めたような気がしたのだ。
窓の外を眺める。おだやかな中庭には緑が萌え、青い空が広がっている。なんてことのない風景だ。けど、この風景をカメラにおさめるのもいいかもしれない。
下川が帰ったあとも、陽が傾くまで外を眺めた。淡い夕焼けがひっそりと包んでいく。たたずむ樹木の葉の間から、色あせた光が注ぎ。僕はカメラを向けて、空シャッターを切った。
カシャッという乾いた音が、心地よく部屋に響いた――。
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