サボタージュ

彩詠 ことは

サボタージュ

僕にとって生きることは辛いものではなく、重いものだった。

何をするにも重さを感じる。考えること、思うこと、その全てが重い。それらの重みは僕の身体に、泥のように纏わりつき、鎖のように巻きついて身動きが取れない、そんな風に考えていた。

ところで、人間生きていれば苦手なことの一つや二つあるだろう。もちろんあって当然だと思う。運動が苦手とか勉強が苦手とか、そんな感じだ。僕は、生きるのが苦手だった。どういうことかというと、通常、そこまで苦労することではないものが僕は苦手だったのだ。例えば、僕は上手に歩くことができない。歩くことにそもそも上手下手があるのか、それに本当に自分がそんな変な風に歩いているのかはわからないけれど、歩いていると違和感を感じることがある。リズムというかテンポがずれたと感じてしまうのだ。それに、息をすることが難しいと思うこともあった。こちらもさっきと同じなのだが、リズムが崩れる気がする。吸うべきところではないのに吸ってしまったかのような錯覚が生じる。結果、息苦しくなってしまうのだ。これらは、幼少期からずっとで、成人して社会人となった今でも変わらない。もう生まれ持ったものだと諦めている。

と、まあこんな風に僕の人として欠落した何かを勇ましくも無意味に語ってきたのは、僕という人間を知ってもらうためである。知ったからなんだということなのだけれど、僕が今から話すことにはそこそこ必要になってくると思う。というのも、これは僕の体験した物語だからだ。僕を変えたなんて生ぬるい、僕という人間を作り直した、そんな経験だった。

僕は今日に至るまでこのことを誰かに話したことはほとんどない。これを知っているのは僕を含めて僅かな人物だけだ。僕の両親ですら知らない。僕が中学二年生の頃に何を経験したのか、両親は知らないのだ。特別、秘密にしていたわけではない。ただ、話したところで信じてもらえないと思うのだ。これが自分の話でなければ僕だって信じなかったかもしれない。だから、話半分で聞いてくれたらいい。それくらいでちょうどいいのではないだろうか。信じてくれない人も中にはいるとも思う。だけど、それでも今ここでこれを話すことには意味があると考えている。

これは、人が後悔する話。後悔して、そしてきっと後悔し続ける。

僕と同じような人たちのために。奇跡のようなこの物語を捧ぐ。



僕はサボタージュの常習犯だった。中学二年生の六月の時点で、普通取れていて当然の出席日数の約半分程しか僕は学校に行っていなかった。ある意味、驚異的だと自分でも思う。自分の将来をどうでもいいと考えていたわけではなく、何も考えていなかった。それがいったいどういう結果を招くのかなんて一切考えていなかった。まあ結果から言ってしまえば、当然出席日数が足りなくて、公立の高校に行くことができなかった。出席日数が足りていなくても、学力面でカバーすることができていればもう少し違っていたかもしれないけれど、そもそも学校に行っていないのだから勉強ができる筈もない。家族と学校を巻き込んで四苦八苦した末、とある私立の高校に入学することができた。高額な学費はアルバイトをして払った。当然、学生が学校ついでにするアルバイト程度で補えるほど学費は安くない。私立の高校の学費の大半は両親に頼ったのだ。本当に申し訳ないことをしたと痛感している。両親へ多大なる負担をかけ、さらに高校生という青春時代もアルバイトで棒に振った過去を持ち、社会に出てからあの時もっと勉強しておけばよかったと後悔することが日常的な僕から今の将来ある人たちに言っておく。

学校はちゃんと通っておいたほうがいい。学生時代を謳歌してほしい。それは社会に出た時に必ず君たちの宝となり、支えてくれる。君たちの中でずっと光り輝いていくだろう。

と、まあこんなところで終わりにしとく。本題は僕の話だ。

そう、僕が中学二年生だった年の六月。

その日もいつも通り学校をサボタージュするつもりだった。以前はサボタージュが学校側と両親にバレないように様々な策を弄していたのだけれど、この頃にはそんなことすらしなくなっていた。ただ、それ以外のところで裏工作はしていた。つまりは、補導から逃れる言い訳である。

僕は別に不良ではない。いや、やっていることは不良なのだけど、僕が言いたいのはいわゆるヤンキーと呼ばれるような不良ではないということだ。そんな僕が学校をサボタージュして何をしていたのかというと、誰かとつるむわけでもなく、もっぱら一人で読書をしていた。しかし場所がない。自宅は母がいたので使えない(毎朝学校に行くふりをして家を出ていた。リストラされたサラリーマンみたいだった)。かといって、図書館やカフェといった人目のつくようなところだと不審に思った誰かが通報して、補導されてしまうし、街中を歩いていても危ない。なので大抵は、神社とか公園とかでひっそりと読書をしていた。

六月初旬のその日、外は少し肌寒かった。春が終わりを告げて時期的には初夏とはいえやっぱりまだ寒い、そんな朝だった。

家を出た僕はどこに行こうか考えた。候補はいくつもあった。だけど、寒さを凌げる好条件な隠れ場所は思いつかなかったのだ。どうしたものかと家から少し離れた住宅街を歩いていると、見知った姿が歩いていて、心臓が飛び出るんじゃないかと思うくらい驚いた。というのも、前方、数十メートル先にいた人物は警察官の制服に身を包んでいたのだ。しかも、その人物がよろしくなかった。始めに話した通り、僕は補導されないようにいろいろな手を使ってきた。その内容はここでは伏せておくが、まあ頭の悪い中学生が考える策だ。大人のーーしかも警察官を騙すことはそうそうできない。嘘が看破されてしまうことが大半だった。そして、前回(数日前である)僕の幼稚な嘘を見破ったのが、その警官だった。見つかってしまえば言い訳をするまでもなく補導されてしまうだろう。僕は咄嗟に近くの家の塀に身を隠した。

さて、僕がどうして数十メートル先にいた警官が誰なのかわかったのか。答えは簡単で、顔が見えたからだ。つまり、数十メートルという距離を挟んで面と向かってしまったのだ。普通に考えて隠れても手遅れだ。ザッ、ザッ、ザッと足音が次第に大きくなっていく。終わった、と絶望感が胸に広がった。

するとそこで、「こっち」とどこからか女の子の声が聞こえた。辺りを窺ってみれば、僕が隠れた塀を所有している一軒家の一階にある小さな窓から少女が顔を覗かせていた。

「庭にまわって」と少女は早口に言った。迷っている暇はない。僕は言われた通り、腰を低くして庭に向かった。ちょうど、警官と僕の間に塀が盾になって目隠しをしてくれる形になった。庭に出ると、ガラス戸が開いていて、少女が手招きをしていた。どうやら、家の中に入ってこいということらしかった。知らない人間に、知らない家へ招かれるということに若干の不安はあったものの、補導されるよりはマシだろうと考えて、少女の言う通りにした。急いで靴を脱いで、片手に掴んだまま、室内に入った。少女がカーテンを閉めて、ほんの数瞬したところで警官が庭に入ってきた気配があった。しばらく僕を探してそのまま出て行った。そして、インターホンが鳴った。カメラ付きのそれは外の景色を映し出していた。さっきの警官が立っている。少女は応じる気配がない。数度インターホンを鳴らしてそれでも応答がないのを留守だと取ったのか、警官は去って行った。

「危なかったね」

少女はクスクスと笑いながら言う。

僕は戸惑いながらも礼を伝えて、出て行こうとした。すると、「あの警察の人、まだこの辺にいるかもしれないよ。今は私一人だし、しばらくここにいたらいいよ」とさも当然のように言った。

「そんなの悪いよ」

「いいの、気にしないで」

「……どうして僕を助けてくれたの?」

すると、少女は一瞬驚いたような顔をして、ケタケタと声を出して笑い始めた。

「僕、なにか変なこと言った?」

「ううんそんなことないけど、誰だって自分の家の前であんな絶望感溢れる表情して隠れてたら助けると思うわよ」

そう言われて、僕は恥ずかしくなって少女から目を逸らした。

「とりあえず、私の部屋に行かない? ここじゃなんだし。飲み物くらい出すわよ」

なんだか変なことになった。女の子の部屋にお呼ばれしているというのに不思議とドキドキしないのももちろんおかしいのだけれど、何より、この状況が変だと思った。

「やっぱり僕は帰るよ」

言いつつ、入ってきた窓を開ける。それから素早く靴を履いた。

「あ、えっと……」

「助けてくれてありがとう。じゃあ」

彼女が何か言葉を発する前にと僕は踵を返した。

外に出ると、ひんやりとした空気が僕を包み込んだ。そうだ、自動販売機で温かい飲み物でも買おう。そんなことを考えて、少女の視線が背中に突き刺さるのを紛らわした。



それから、数日が経って僕はあの日のことを疑問に思った。その場で気づいてもよかったくらいだ。

何故あの少女はあそこにいたのか。

いや、あそこが自宅なのだろうからいても不思議ではないのだけれど。

僕を助けてくれた例の少女はみたところ僕と大差ない歳だったように思う。同い年、あるいは一つ上か下の同年代だった。つまり、中学生である。あの日の朝は、平日で普通に学校があったのだから、あの時間に少女がいるのはおかしいのだ。僕が言うのもなんだけど。

何かしらの理由があって欠席していたのか。

でも、病気にかかっているわけでもなさそうだった。だとすれば、僕と同じサボタージュをしていたのだろうか。まあ、ありえなくはない。サボタージュが僕の専売特許というわけではないのだから。

そういえば、あの自宅の位置からして同じ中学校に通っているのだと思って、確認も兼ねて一度学校に行ってみた。しかし、同学年のクラスは一通り見てみたものの、見つけることができなかった。もしかしたら学年が違うか、そもそも私立の中学校に通っているか。気軽に訊けるような誰かがいる交友関係を築けていれば苦労はしなかったのだろうが、残念ながら僕は筋金入りのあぶれ者だった。

彼女は、あの日も休み、そして今日もまた休んでいるとするならば、という仮定で予想するに彼女は不登校児なのではないかと僕は思った。

僕の通う中学校は目立った虐めなどほとんどなく、今思えば相当穏やかな学校ではあったのだけれど、それでも不登校になる生徒が数人はいた。もしかしたら、彼女もその中の一人なのだろうか。

仮に彼女が不登校だったとして、理由はなんだろう。可能性が高そうなのは、やはり人間関係で躓いたか。その結果の不登校なのだとしたら、きっと人間関係そのものに嫌悪感を抱いているのだろう。何故なら、それは僕も同じだったからだ。そんな中で、身を挺して僕を助けてくれたのだとすれば。

僕は、去り際に見た彼女の顔を思い出した。なんとも言えない表情をしていた。あれがどんな感情を表しているのかはわからないけれど、いい感情ではないことだけはわかった。胸に少量の罪悪感が確かな重みを伴って居座った。



翌日の朝、僕は彼女の自宅の前に来ていた。今回はあの警官もおらず、閑散とした住宅街が広がっているだけだった。

チャイムを鳴らす。そうしてから、あの少女の母親が出てきたらどうしよう、と思った。しかし、その答えが出る前に、玄関が開いた。出てきたのは、あの少女だった。

「あ、えっと」

「…………」

「その、助けてくれたお礼をちゃんと言いたくて……」

「ふうん? あの時は私のことなんてどうでもいいような感じだったけどなあ」

意地悪な笑みを浮かべながら言う。

「……ごめん」

「まあ許す」

「ごめん」

「そんな謝らないでよ。言うほど気にしてなかったし」

言って、また笑う。よく笑う人だ、と僕は思った。他人の前では滅多に笑わない僕とは正反対に位置していそうだ。

僕は鞄からコンビニ袋を取り出して彼女に差し出した。

「これ、この間のお礼。何がいいのかわからなかったから適当に選んだ」

彼女は驚いた表情のまま袋を受け取って中身を確認した。

「スナック菓子?」

「うん。独断と偏見だけど、どれも美味しいと思う」

「あはは、お礼がスナック菓子って。きみ、面白いね」

笑われて少し恥ずかしくなる。それが悟られるのが嫌で、僕は彼女から目を逸らした。

彼女は袋の中身を吟味してから、

「お礼ってこれでお終い?」

と言った。

「そのつもりだったけど……足りないかな」

「うん」

迷わず首を縦に振る彼女を見て、なんて強欲なやつだと思ったけれど、助けてもらった身である以上そんなことは言えなかった。

金品でも要求されたりするのだろうか。

「私の暇潰しに付き合ってよ。退屈していたところなの」

「いや、僕、学校がーー」

「いつもサボってるじゃない」

「なんでそんなこと知ってるの」

「まあまあ、話は後。とりあえず、上がりなよ」

そう言って、家の中に入るように催促される。正直あまり気が進まない。

「いいからほら、入って入って」

「わかったよ」

仕方なく僕は玄関をくぐった。



通されたのは、二階にある彼女の部屋だった。

女の子の部屋にはいるのは初めてだったけれど、なんだか想像していたのと違っていた。僕の想像では、もっとピンクが基調とされていて、花柄やリボンとかで埋め尽くされているものだとばかり思っていた。しかし、実際はそんなことはなく、僕の部屋と大差ないように思える。細部はやはり女の子らしいけど。

彼女は僕を部屋に残し、下に降りていった。飲み物を取りに行ってくると言っていた。僕は彼女が戻ってくるまでの数分間、手持ち無沙汰で正座して待った。

戻ってきた彼女は、お盆の上にコップを二つとペットボトルの飲み物を乗せていた。

「えっ、なんで正座してんの」

「なんか緊張する」

「ふうん?」

と、意味ありげな笑みをこちらに向けてくる。調子狂うことこの上ない。

「それで? 暇潰しは何をするのか決めてるの?」

「ううん、全然。どうしようか」

彼女は少し考える仕草をしてから手をポン、と叩いた。何か閃いた様子だ。

「じゃあこうしよう。自己紹介も兼ねていろいろお話ししようよ」

「いろいろってなにを?」

「なんでもいいよ」

なんでも、と言われても特に話すことはなかった。本当に、悲しくなるくらい何もなかった。

僕が悩んでいると、彼女の方から語り出した。

「私は、樹咲きさき 紗季さき。名前の由来は両親が回文が好きだったからなんだって」

「回文?」

「そう、回文。逆から読んでも同じ読み方になるものね。例えばトマトとか新聞紙とかね」

「なるほど」

樹咲 紗季。確かに逆から読んでも同じ読み方だった。

彼女ーー樹咲 紗季は僕があげたスナック菓子を手で豪快に開けて、中身を少しばら撒いた。それを素早く拾い上げ、全て自分の口の中に放り込む。

「十四歳の中学二年生。きみと同じ学校だよ」

それには僕も気づいていた。部屋の隅に掛けられた中学校の制服が僕の通っている中学校のものだったからだ。

「うん? でも、どうして僕が二年生だってわかったんだ? 同じ学校だっていうのは制服を見ればわかるにしても」

すると、彼女は胸をとんとん、と指差して言った。

「胸の校章よ」

そうか。僕の通っている中学校では、学年毎に色分けをされている。緑と赤と青の三種類。その三色がローテーションしているのだ。そして、僕たち二年生は青色で、胸についた校章の色が青なのだ。それで僕が二年生だということがわかったのだ。

それから、

「そして、きみと同じサボり常習犯。よくきみがうちの前を通り過ぎるのが窓から見えてたよ」

と続けた。

なるほど、だから僕がサボタージュの常習犯だとばれていたのか。

「樹……きみはどのくらい行ってないの?」

「もう、全然よ。一年生のときに少し行ってただけ。それからは全然」

どうして行かなくなったのか、とは訊かなかった。訊いたところでどうにもならないし、さほど興味もない。それに、訊いちゃいけないこともあるだろう。

「好きなものはゲーム。嫌いなものは面倒なもの。将来の夢は……これはまあいいか。あとは、そうねえ。友達がいないわ」

「そんな堂々と言うことでもないでしょ」

「本当のことだし」

「自己紹介で友達がいないなんて言う奴初めてみたよ」

「きみは?」

「うん?」

彼女は先ほど開けたスナック菓子を平らげ(ちなみに僕は一口も食べていない)、次のスナック菓子の袋を開けていた。

「今度はきみのことを聞かせてよ」

「僕は……」

「じゃあ、私が質問する」

「……どうぞ」

「では、お名前は」

僕は自分の名前を正直に言う。

すると、彼女は、「なんかややこしい名前ね」と言って、思案顔をした。

「うん、そうしたら、いーちゃんって呼ぶ事にするわ」

「やめてくれ、それは小さい頃に呼ばれてたから恥ずかしいよ」

「まあまあいいじゃない。いーちゃん」

「話を聞けよ」

僕の言葉は受け付けられなさそうだ。小さくため息を吐く。

「じゃあ次ね。いーちゃんの趣味は?」

「趣味ねえ……読書は好きかな」

「へえ? 好きな作家さんは?」

「僕は作家で本を選ばないんだけれど、強いて言えばーー」

心に残っていた作家、三人の名前を言った。どの作家もそれほど有名ではなく、しかも、三人とも自殺をしていた。特にそこにこだわったわけではないのだけれど、どこか僕が心惹かれる本を執筆している作家は、自殺という悲壮的な結末を迎えているのだった。

彼女は小さく、ふうん、と呟いた。

「なんていうか、暗いのが好きなの?」

「別に。ただ、僕自身が明るい性格じゃないから、暗いものに惹かれるのかもしれない」

暗いものに共感できるのかもしれない、と思った。

類は友を呼ぶとは少し違うかもしれないけど、それと似たようなものだろう。

「自殺ね……」

と、彼女は意味深に呟いた。それに少し引っかかりはしたけれど、自殺という単語に曖昧な反応以外の返しもなかなかないだろうと思って放っておいた。

「ねえ、これからもうちに来てよ。私も話し相手がいるといろいろ紛れるしさ」

両親は共働きで一人退屈していたのだと言う。

「いーちゃんにとっても悪い話じゃないと思うけど。学校をサボる場所を確保できるわけだし」

「まあ確かに」

「じゃあ決定ね」

多少強引だったのが気になったけど、屋内のサボりスポットを確保できるというのは願ってもない話だった。

僕はそれを渋々という演技をして受けた。



それから僕は彼女の家で時間を潰すようになった。行くときは何も言わずに直接彼女の家に向かった。行かないときも特に何か連絡するでもなく、縛られていない開放感があった。最初のうちは週に一回程度だったのが、日に日に増えていき、ついにはサボタージュを決行した日には必ず彼女の家に行くようになっていた。最初はいいサボりスペースができた程度に思っていたのが、彼女に会うのが楽しみで学校をサボタージュするまでになっていた。その頃にはお互いに(向こうにもあったと信じたい)持っていた変な緊張感もいい具合に解れてきて、友人と呼んでも差し障りのない関係になってきていた。その分時間は流れ、本格的に夏を迎えようとしていた。

そんなある日。

その日、僕は気まぐれで学校に行くことにした。気まぐれで学校に行くというのも変な話なのだが、そのときは本当に気まぐれだった。

数日ぶり、もしかしたら数週間ぶりになる学校はどこかよそよそしさがあった。廊下や教室で談笑している見知らぬ顔を横目で見ながら教室に向かった。

教室に着いて、横開きの扉を開けると、それまで騒めいていた教室が一気に静かになった。話したこともないクラスメイトたちが異物を見るような目を僕に投げかけていた。それを気にしていないように振る舞いつつ、自分の席に向かうと、僕の席だったはずのところに知らない女の子が座っていた。その女の子は怯えた様子で僕から目を逸らした。

すると、背後から「こっちこっち」と、女の子の声で呼ばれた。振り返ると、大嶋(おおしま)が手招きをしていた。

「きみの席はここだよ」

大嶋は隣の空席を指差した。どうやら僕のあずかり知らぬところで席替えが行われていたようだった(当然だ。学校に来ていないのだからあずかり知らぬもへったくれもない)。

「学校に来ないからこんな隅っこに追いやられちゃったんだよ」

僕の席は一番後ろの窓際から一つ離れたところだった。大嶋の席は僕の隣。つまり、窓際の席だ。

「僕よりも端に追いやられてるよね」

「何言ってんの。窓際は開放感最高だよ。夏は涼しいし、授業中は外見られるし」

こんな風に大嶋が僕に話しかけてくるのは久しぶりだった。前は話しかけられてもまともな返しなんてできなかったのに、それでも今回はそれなりに会話が成り立っているのは、もしかしたら、樹咲のおかげなのかもしれない。

僕は基本的に学校で会話をしない。いつも一人だ。それでも大嶋のことは知っていた。それだけ彼女は有名人なのだ。彼女は学年問わずの人気者で、教師からの人望も厚い。成績優秀でかなりの美人ときた。僕は密かに大嶋は漫画かアニメの世界から飛び出てきたのではないかと疑っていた。

大嶋の周りにはいつも人だかりができていた。それは学校特有の否が応なしに形成される小規模なコミュニティとは違っていた。大嶋を中心とした様々な垣根をなくした和気藹々としたものだったように思う。

僕とは正反対のところで生きている人だった。あんな風になりたいと思ったことはなかったけれど、僕もあんな風にできていたらどんなによかったかと思うことはしばしばあった。

彼女は僕がクラスの輪から外れた存在であることなどお構いなしに話しかけてくることがあった。その度になんて返したらいいのかわからず素っ気ない返しをしてしまった。それでも大嶋は忘れた頃にまた話しかけてくる。

樹咲とは違うタイプの明るさが大嶋にはあった。タイプは違えど、それでも僕の目にはどちらも眩しい。そして自分の暗さが際立つ気がしていた。人と比べることでしか自分の価値を推し量れないのに、比べることで劣等感を抱いている自分が情けなく、そして腹立たしくもあった。

僕はそんな大嶋から遠ざかりたくて自分の席を立った。行くあてもなくただここにはいられないという思いで、廊下に向かう。途中振り返ると、大嶋が何かを言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。その横にある僕の席には僕が残してきた影がくっきりと見えるようだった。



その日の帰り、後ろから「おーい」と呼び止められた。そんな経験は今までなかったから、僕が呼ばれているのだと気づくまでに数秒を要した。

僕はその日珍しく放課後になるまで学校にいた。理由は特にない。強いて言えば、大嶋の所為だ。

声の主は大嶋だった。席替えがあって、大嶋が隣に来てからやけに話しかけてくるようになっていた。その所為なのかはわからないけれど、以前のように大嶋の周りに人集りができることはなかった。もしかしたら、僕みたいなクラスから溢れた奴と話をしているから大嶋に誰も寄ってこなくなったのではないかと思い、なるべく距離をとるようにしていた。それに気づいていないのか、大嶋は懲りずに話しかけてきていた。

大嶋は僕の隣に着くなり同じ歩調になった。走ってきたのか、肩で息をしていた。

「なに、どうしたの?」

「一緒に帰ろうと思って」

僕は驚いた。きっとその驚きがそのまま表情に出て間抜けな顔をしていたのだろう、大嶋は吹き出した。

「そんな驚かなくても」

「いや、だって……」

今までそんなことなかったから、と言いかけて口を噤んだ。それじゃまるでこうなることを期待していたみたいじゃないか。

「だって、なに?」

「なんでもない」

「えー、なによ、気になるじゃない」

周りには同じ学校の奴らがまだたくさんいて、少し気恥ずかしかった。自意識過剰なのはわかっているつもりだけど、それでもやっぱり胸の奥がちりちりとくすぐったいような感覚があった。

「なんか、変わったよね」

隣に佇む彼女は夕陽を全身に浴びて黄金に輝いていた。肩くらいまでの綺麗な黒髪が風に靡いて揺れる。

「え、なにが?」

「きみだよ。昔はもっと話しかけるなオーラがすごかったもん」

「それは今だって変わらないと思うけど」

「そんなことない。変わったよ。なにかあったの? あ、もしかして、彼女ができたとか?」

「ありえないよ。そもそも友達すらいない僕がどうやって彼女なんか作れるんだよ」

一つ、考えられるとしたら、やっぱり樹咲のことだろう。

と、そこで思い出した。そういえば訊いてみたいことがあったんだ。

「あのさ」

「なに?」

「樹咲 紗季って知ってる?」

すると、大嶋は歩みを止めた。顔には疑問の表情が浮かんでいた。なんでそんなことを訊くのかわからないといった風だ。

「どうして?」

「特に理由はないんだけど……どんなやつなのかなと思って」

なんとなく、彼女と会っていることは秘密にしたほうがよさそうだなと思った。そもそも吹聴してまわるものでもないし。

「樹咲さんは……いい子だったと思うよ」

過去形なのが気になったけれど、確か話によると一年の時に少し出てその後ずっと不登校だったから、現在進行形で学校に通っている大嶋にとっては過去の話であっても不思議ではなかった。

「彼女、正義感が強かったからクラスメイトとも衝突することがあったの。それが原因でいじめられて、それで……」

僕は樹咲の笑った顔を思い出す。

あの笑顔の裏にいったいどれだけの苦悩を隠しているのだろう。それを思うと胸が痛んだ。

「きみが誰かに興味を示すなんて今までなかったんじゃない?」

シリアスな雰囲気を変えようと思ったのか、大嶋はあえて明るい調子で言った。

「うん、そうかも」

と、そこで道が二手に分かれた。

「じゃあ、わたし、こっちだから」

大嶋は左の方向を指差した。僕は逆側だった。

「うん、じゃここで」

僕は大嶋に別れを告げて背を向けた。すると、「ねえ」と呼び止められた。

「また学校で会おうね。隣がいないと寂しいからさ」

言って、笑う彼女はやっぱり輝いていて美しくもあり、どこか悲しげでもあった。



樹咲の部屋には小さなテレビがあった。彼女は時々それで映画やらアニメやらを鑑賞していた。僕は基本的にテレビを観ないほうなので、彼女が観ているものが何かはよくわからなかった。それを横目で見ていて少しわかったことなのだが、稀に彼女が物悲しそうな顔をしているときがあった。見た限りだと、観ているものがシリアスな場面であるとかクライマックスで泣かせにきているというわけでもない。それでも、なんともいえない表情をしているのが気にかかった。

ある時、何かのアニメを観ていた樹咲は僕に言った。

「自殺しようって思ったことある?」

と。

「あるよ」

僕はそれまで読んでいた小説に栞を挟みつつ答えた。それは自分でも驚くくらい感情のこもっていない声だった。

どうして僕が自殺しなかったのか。友達に止められたから、家族の悲しむ顔が浮かんでとかそんな小説の中でよく見かけるような話ではない。ただ、怖くなったのだ。死ぬことが怖かった。ただそれだけだった。

「ふうん」

と、彼女はつまらなさそうに呟いた。その時、どんな表情をしていたのか僕は知らない。ただ、こちらに向けた背中が少し寂しそうに見えた。その後はいくら待っても彼女の言葉はこちらに飛んではこなかった。樹咲が何を意図してあの質問を僕にしたのか、僕にはわからなかった。僕はわからないことだらけだった。

樹咲はリビングに僕を入れたくないようだった。入ったのは、僕を助けてくれたあの日だけで、それ以降は決して入れなかった。

彼女の家はよくみる二階建ての一軒家だった。それが一般的なのかはわからなかったけど、御手洗が二階にはなく、一階にしかなかった。なので、トイレに行きたくなったら必然的に一階に降りなければならなかった。

ある時、僕はトイレに行きたくなって階下に降りた。トイレはリビングの手前に位置していた。廊下とリビングを隔てる扉は木枠にガラスがはめ込まれたもので、ところどころ向こう側が見えていた。彼女が入れたがらない理由はわからなかった。まあ他人に自分の家の中をうろちょろされるのは嫌かもしれないな、とそんな風に考えていた。用が済んでトイレの扉を開いて、二階に戻ろうとしたとき、リビングの向こう側を視野が捉えた。いや、捉えてしまった。どんな理由であれ、彼女が嫌がっているのだ。それを知ることはーー完全にではなく部分的にだったとしてもしてはいけないことだったのに。僕の視野が捉えたのは、小さな仏壇といくつも飾られている誰かの写真だった。それが誰だったのかは見えなかった。もしかしたら、僕の中で見てはいけないと歯止めがかかったのかもしれない。

それが理由であるとは限らなかった。しかし、あの仏壇は何故か僕の心の中で重たく存在感を放っていた。彼女の不登校と時折見せる悲しげな表情がどこかで繋がっていて、その答えがあの仏壇である気がしてならなかった。



「蜥蜴(とかげ)ってさ」

樹咲の部屋の窓から見える景色はグレーに染められていて、大粒の雨がひっきりなしに降り注いでいた。そろそろ台風が僕たちの住む地域の真上を通っていくだろう。

樹咲は本棚から引っ張り出した漫画本を自分の横に積み重ねて読み耽っていた。漫画本から顔を上げてこちらを見た。今いいところなのに、という雰囲気が無遠慮に飛んでくる。

「尻尾が切れても生えてくるじゃん」

「うん、そうだね」

こんな風に突拍子のない話をし始めるのは僕たちの間では珍しくもなかった。会話の流れだとか場の雰囲気だとかを考慮しなくていいのは楽だった。

「どうして人間の腕は切れたら生えてこないんだろうね」

「なんでそんなこと考えてんの」

「いや、なんとなく」

「たまに思うけど、いーちゃんはマッドサイエンティストだよね、思考回路が」

「そんなこと言われたの初めてだ」

「こうして話ができる人がいないからでしょ」

さらっと酷いことを言ってのける。でもその通りだから何にも言えない。

僕は話を戻す。

「人間の治癒能力の限界ってどこなんだろう」

「あ、ぎりぎり治せる……ってところ?」

「そうそう。どこからどこまでが治せて、どこからどこまでが治せないのか。それに、治せないのはどうしてなのか。知りたい」

「うーん、難しいね」

「例えばさ」

「出た、いーちゃんの無駄に想像力豊かな例え話」

僕は樹咲の言葉を無視して続ける。

「人間にも蜥蜴と同じような治癒能力が備わっているとする。腕が切り落とされても完璧に治癒できるくらいの。でも、その治癒能力って外傷だけに留まるのかな」

「んー? つまり?」

「だから、心の傷にも作用したりするのかな。トラウマとかが時間経過と共に解消されたりするのかな」

それは、悲しいことで溢れたこの世界で生きていく上でかなり重要な能力に思える。少なくとも僕はあったらいいなと切実に思った。

閉め切った窓に横殴りの雨が叩きつけられて細かな水飛沫になって弾けていった。

「もし、いーちゃんの言う通りの効果があるんだったら、私は、それ、いらないかな」

と言った。

指を栞代わりにして持っていた漫画本を閉じて、横に置いた。それから、僕を正面に見据える。

「悲しいのも辛いのも全部自分の経験じゃん。そういうのも全部含めて個人なんだと私は思う。それを無かったことにして、良い思い出だけになるなんて、そんなの偽物だよ」

「そ、そんなの……」

うまく言葉にならない。思考が音として喉を通って出てこなかった。喉の奥がきゅっと締まったようになって苦しかった。目頭が熱くなって、気を緩めたら今にも涙が形となって流れ出てしまいそうだった。

この気持ちはなんていうんだろう。

ああ、そうだ。僕は今怒ってるんだ。それも幼稚にも八つ当たりしようとしている。

「そんなの詭弁だよ。偽善だ。本当に悲しいことなんて知らないからそんなことが言えるんだ。偽物? 偽物でいいよ、辛い思いをしなくて済むなら。ぼろぼろになって泣きながら生きていくのが本物だって言うなら僕は偽物でいい」

「ちょっと待ってよ。私だって悲しいことくらいあったよ。それでもーー」

「もういいよ、もう聞きたくない」

僕は樹咲の顔を見ることができなかった。今自分の手で傷つけている人の顔なんか見られるはずがなかった。

「僕は自分のことが嫌いだ! 生きてる価値なんてない、今までもこれからも」

「…………」

「それを今の僕の状況が物語ってるじゃないか。長所なんて一つもなくて、必要とされることなんてないんだ。だからーー」

「私はそうは思わない。いーちゃんにだっていいところ、いっぱいあるよ……私、いーちゃんに会えて、友達になれてよかったって思ってるよ」

そう言う声は萎んでいって、最後には雨音にかき消されてしまった。残ったのは、彼女のすすり泣く声だけだった。

どうして彼女が泣くんだ。傷つけられて悲しいのなら、僕を庇うようなこと、言わなければいいのに。

僕は荷物を持って立ち上がった。もうここにはいられないと思った。ここにいたら僕の中の何かが決定的に変わってしまいそうだった。

「ねえ、待って!」

呼び止める声を振り切るように部屋を出て、階段を降りて玄関に向かった。靴を履いて、傘を持ってそのまま飛び出した。雨の中、傘もささずに思い切り走り抜けた。一瞬で全身が濡れて、身体がひんやりとした。

怒りで火照った心も冷やされていくようだった。

わかっていた。彼女にだって悲しい経験の一つや二つあるのは当然想像がついた。それでも、前を向いている彼女に嫉妬したのだ。心の傷を抱えながらもそれでも眩しいくらいに輝いている彼女に八つ当たりをしたのだ。僕にはそれができないから。受け入れ、尚も明るく振る舞うなんて僕には到底できっこない。それをさも当然のようにやってのける樹咲に嫉妬した。そんな自分が心底気持ち悪かった。消えてなくなったらいいのにと、思った。



僕は変化を怖がる人間だった。

学年が上がること。

小学校から中学校に変わること。

席替え。

引っ越し。

どんな些細な変化にでも僕は恐怖した。その変化の流れについていけないような気もしていたし、今までの自分が否定されるような気もしていた。

だから、今まで僕は変わることをなるべく避けてきた。

変わらないことを目指して、それを自分の拠り所にしていた。そうでもしなければ、自分の何に頼って生きていけばいいのかわからなかったのだ。

薄々、自分でも気づいていたんだと思う。

それでも嫌だ嫌だと言って目を逸らしてきた。それがまた僕の眼の前に現れただけだ。

今回もまた、目を逸らしてなかったことにするのか。

でも。

僕の中で何かが変わっている気がしていた。それは、昔の僕だったら恐ろしくて手が出せなかったもの。怖いのに、欲しくて欲しくて堪らなかったものが僕の胸の中にあった。



樹咲の家に行かなくなってから五日目は雨が降っていた。学校をサボタージュするときはだいたい屋外で過ごすことが多かったので、雨の日は学校に行かなければならない。

樹咲とはもともと連絡を取り合ったりはしていなかったから、メールアドレスも知らない。彼女は学校には来なかった。だから僕があの家に行かなければ、会うこともなかった。

好奇の目に晒されながら自分の席まで向かうと隣の席が空いていた。ホームルームが始まるまでまだ余裕はあったけれど、僕の方が早く登校したということに少し違和感をおぼえた。時間は刻々と過ぎて、ついにはホームルームが始まってしまった。次々と名前を呼ばれてクラスメイトたちが返事をしていく。どれも聞き慣れない名前ばかりだった。そんな中大嶋の名前が呼ばれる。返事がないのを疑問に思った担任の先生はクラスメイトに問う。大嶋はどうした、と。

すると、どこからか嘲笑のような声が聞こえてきた。

そうか、そういうことか。

状況を理解した瞬間、僕は自分の名前が呼ばれる前に荷物を持って席を立った。先生が呼び止める声を無視して教室を出た。

僕は大嶋のことを全然知らない。どんな人間なのか、どういう考え方をするのか、知らない。友達なのか、と問われれば違うと答えるだろう。好意を抱いているわけでもないし、好かれたいと思ったことすらない。正直、今までどうでもいいクラスメイトの一人だった。労力を費やしてまで僕が動く義理はない。

だけど。

それでも、僕は彼女を探したい。探さなければならなかった。

経緯はわからない。でも、きっと大嶋は今は、クラスメイトに嫌がらせを受けている。でなければ、席替えでーー僕を意図的に端のほうに追いやることができる席替えで、大嶋が僕よりも端に来るわけがない。

僕の知っている大嶋はみんなに好かれているように見えていたけれど、そうじゃなかったのかもしれない。いや、例えそうだったとしても、簡単に覆ることがある。僕はそれを知っている。そして、その被害に彼女はあっている。

こんな雨の中、外にいるとは限らないーーいや、自宅にいると考えるのが普通だろう。でも、もしかしたら雨の中で一人濡れているかもしれない。冷たい雨に打たれてるかもしれない。それだけで、僕が動く理由には十分だった。

以前の僕ならどうでもいいと考えていただろう。それでもこうして息を切らして走っているのは、樹咲に出会ったからかもしれない。あの日、初めて会った日、僕は樹咲に助けられた。彼女にとって利益なんて一切無いにもかかわらず、助けてくれたのだ。

僕は彼女に憧れていた。彼女みたいになりたいと、分不相応にも思ってしまっていたのだ。

大嶋は成績優秀だった。確か、皆勤賞も取っていた気がする。そんな大嶋がサボタージュをしたら……きっと最後まで判断に悩むだろう。その結果、学校に来られなかったのだとすれば、学校の近くにいる可能性が高い。この近くで雨を凌げるところといえばーー。一箇所だけ思い至った。

僕は雨の中を全速力で走り抜けた。



公園に着いたとき、雨と汗で全身びしょ濡れだった。

この公園は学校から数分歩いたところに位置していて、よく生徒が買い食いをしているのが目撃されて問題になっていた。

遊具はあまりなく、錆びついたブランコと青色の塗装が所々剥げてきているジャングルジム、それから公園の中心に大きな桜の樹が立っていた。少し前までは色鮮やかな花を咲かせていた桜の樹も、今は緑色の葉を所狭しと茂らせていた。その下に大嶋はちょこんと座っていた。樹の下で多少の雨風は凌げるとはいえ、制服は濡れ、髪からは水滴が滴っていた。

大嶋は僕に気がつくと、驚いた顔をして、それからばつが悪そうに視線を下げた。

「……どうしてここに?」

「大嶋を探しに」

「…………」

それきり、大嶋は喋らなくなった。

僕も大嶋の横に腰掛ける。雨が樹に当たる音だけが流れた。不思議と気まずさは感じなかった。

「少し前に知り合った女の子がいてーー」

大嶋は俯いたまま動かなかった。聞いてくれていないかもしれないけれど、それでも構わなかった。これはただの独白だ。

「そいつが本当にいい性格しててさ、僕が差し入れたスナック菓子を全部自分一人で食っちゃうようなやつなんだ。変なところで負けず嫌いで、一回何か勝負事を始めたら自分が勝つまでやめなかったり……一度、二人で人生ゲームをしたことがあって、そのときは僕が圧勝したんだけど、それからしばらくは会う度に人生ゲームをやろうってせがまれた。そのくせ、勝負事弱いんだから本当笑っちゃうよ。

いつもは自由奔放で、わがままで、自己主張の塊みたいなやつなのに、どこかで自分じゃない誰かを思ってた。僕を助けてくれたんだ。

僕は自分のことが好きじゃない。こんな人間この世の中から消えたらいいとずっと思ってた。友情とか恋愛とか本当にみんなが言うように良いものなのだとしたら、人間の出来損ないみたいな僕が手にしていいわけがない、そんな風に思ってた。だけど、あいつは僕にこう言ったんだ。そんなことない、いい所いっぱいあるよって。私は友達になれて嬉しいよって。ほんと……正真正銘の馬鹿なんだ、あいつは。

でも、僕はそんなあいつに憧れた。あんな風になりたいと思ったんだ」

気づけば、僕は涙声になっていた。雨のせいでわからなかったけれど、涙が頬を伝っているみたいだった。

「いい、お友達なんだね」

と、大嶋は上目遣いでこちらを見ながら言った。

「ああ、本当にそう思うよ」

偽りのない本音だった。これはもう、偽れない。

樹咲 紗季は僕のかけがえのない友人だ。

この間のことを謝ろう。それから、お礼を言おう。僕を変えてくれた、助けてくれた彼女にありがとうと伝えたい。

「僕、これから、ちゃんと学校に通おうと思うんだ。そのとき、隣の席に大嶋がいてくれたら嬉しい」

「あはは、なにそれ」

「いや……なんだろうね、僕にもわからないよ」

「変なの」

そう言って大嶋はクスクスと笑った。眩しい笑顔だった。

僕がこんな決断をした時、もう一つ決めたことがあった。それは樹咲のことだった。彼女はああやっていつも明るく振舞っているけれど、それでも僕と同じなのだ。彼女は僕なのだ。僕はまたこうして日向の下に出る決断をした。でも、そのときに彼女をあの場に置いて行く気はなかった。

「そのときは樹咲とも仲良くしてやってよ」

僕は立ち上がりながら言った。雨はまだ止みそうにない。今日は一旦帰るしかないかな、と思った。

すると、隣の大嶋が立ち上がる気配があった。

「ねえーー」

風が強く吹いた。樹々が騒めきたつ。

「え? 今、なんて言ったの?」



次の日の夕方。僕は樹咲の家の前に立っていた。

陽はもう暮れかかっていて、辺りがオレンジ色に染められていた。

インターホンを鳴らす。家の中で誰かが動く気配がして、少ししてからインターホンから声がした。

「はい」

近所の中学に通っているもので、樹咲 紗季と同学年だということを伝えた。

すると、ちょっと待っててね、と言ってインターホンが切れる。しばらくして、玄関が開いた。

出てきたのは、樹咲の母親だった。

「すみません、突然お邪魔してしまって。お忙しくなかったですか?」

「ええ、大丈夫よ。さあ、入って」

僕は玄関をくぐる。この一、二ヶ月よく来ていたというのに別の家のように感じる。

そのままリビングに通されて、ソファに座るように促された。

横にこの前見た小さな仏壇と写真があった。僕はそれから目を逸らした。

樹咲の母親がお茶を僕の前に置いて、それから僕の前に座った。

なにから話したらいいんだろう、僕がそう迷っていると、母親が言った。

「紗季の、お友達だったそうね」

「ええ」

「そう。あの子は友達のことを家では全然話さなかったから知らなかったわ」

僕は一息吐いてから、自分の頭の中で整理したものを言葉にする。

「彼女が亡くなったのってーー」



それが事故だったのか自殺だったのかわからなかったそうだ。

深夜に一人外に出て、自宅近くの大通りでトラックに轢かれた。病院に担ぎ込まれたが、ほとんど即死に近かったらしい。

遺書のようなものはなく、警察は事故ということで済ませた。

それが去年の冬のことだった。

「僕は彼女が亡くなったことに気づかなかったです」

母親はどういうことか掴めないまま曖昧な反応を返してきた。

それから、僕は彼女とのことを話し始めた。

彼女と会ったこと。

彼女に助けてもらったこと。

彼女と過ごした日々。

彼女に教えてもらったこと。

彼女に憧れたこと。

彼女に嫉妬したこと。

彼女を傷つけたこと。

彼女に謝りたかったこと。

そして、彼女にお礼を言いたかったこと。

全てを話した。もしかしたら信じてもらえないかもしれない。でも、僕は話したかった。話さなければならないような気がしていたからだ。

樹咲の母親は僕の話を静かに聞いていた。

いつの間にか僕は泣いていた。面と向かって泣いているのを見られるのはなんだか変な感じがしたけど、涙を止めることはできなかった。

話せば話すほどどうしてという気持ちは強くなっていった。

「彼女はーー」

僕は嗚咽を抑えながら言った。

「紗季さんは、自殺なんかする人じゃありませんでした。そんな弱い人じゃなかった。彼女は僕の憧れでした。彼女みたいに生きたいと思ってた……それなのに」

どうして死んでるんだよ、馬鹿野郎! お礼も謝罪もなにも言えないじゃないか!

「僕は彼女と学校に通いたかったです。紗季さんのおかげでいい友達ができたんです。だから、それを見せたかった……」

横の小さな仏壇に目を向ける。そこには樹咲 紗季の名前がある。写真には僕がよく知る顔が写っていた。どれもこれも笑顔でこちらにピースを向けているものまであった。急に現実が目の前で形になって出てきて胸が苦しくなった。

これは何かの冗談なんじゃないかと思った。今も部屋のどこかに隠れて僕のことを笑って見ているんじゃないか、そう思ってしまう。だけど、彼女は死んでいる。これが真実だった。

「紗季はきっと後悔してたのね」

「後悔?」

「ええ、あの子は不登校になって、そのまま逝ってしまった。紗季もあなたと学校に通いたかったんだと思うわ」

そう言って、樹咲の母親は笑った。夕陽で茜色に染まった部屋の中で見たそれは、よく知る樹咲 紗季の笑顔によく似ていた。



それからはちゃんと学校に通った。

最初に話した通り、それでも出席日数が足りなくて、いろいろな人に迷惑をかけてしまったけれど、無事高校に進学することができ、今は社会人としてあくせく働く日々を過ごしている。

僕は今の状況に満足している。不満がないわけではないけれど、きっとそれはどこにいたってそうなのだろうから。でも、今でも後悔を抱えて生きている。樹咲 紗季と同じように。学校にもっとちゃんと通っていればと思ってしまう。そうすれば、彼女にーー生きていた頃の樹咲に会えていたのかもしれないと考えると胸が苦しくなる。たぶん、これは、この先どれだけの時間を生きたとしても消えることがないだろうと思う。

後悔。

嫌な響きだ。重くて、辛くて。それは泥のように纏わりつき、鎖のように巻きついてくるような気がする。

でも、これを含めて僕なのだ。この目も当てられないような痛々しい傷を抱えているのが僕なのだ。

樹咲と過ごした少しの時間。あのとき彼女は僕の目の前にいた。しっかりと存在していた。その証拠がこの後悔なのだから。

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サボタージュ 彩詠 ことは @kotoha8iroyomu

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