点と点

彩詠 ことは

点と点

あいつが死んだ。

そう知らせが届いたのは僕が家を出る五分程前の事だった。

意外と冷静だな、なんて他人事のように自分を観察する。

『三月七日、午前十一時半を回ったところです。本日は晴れ。空気もカラッとしていて過ごしやすいでしょう。では次は・・・』つけっ放しのテレビから呑気な声が耳に届いていてやたらと耳障りだった。

何故なんだ。どうしてこうなった?昨日、否さっきまで普通にメールをしていたあいつが突然にして唐突にこの世から消える理由が見当たらない。偶然の賜物なのかそれとも絶対の必然なのか。

僕は頭を抱えた。嫌だ。嫌だ、嫌だ!こんなのは認めない。偶然だろうと必然だろうとこんな事はあっちゃいけないんだっ!

くそっ頭がクラクラする・・・。目の前の世界が歪む。グニャリと渦を描く。次の瞬間、僕は暗闇に取り込まれた。





「美香!」

朦朧とした頭を無理矢理に起こして辺りを伺う。どうやらテレビをつけたまま眠ってしまっていたようだ。

なんか凄く嫌な夢を見ていた気がする。大切な何かがするすると砂が落ちるように自分の手元からなくなるような。そんな夢。

時計を見ると十時を過ぎたところだった。今日は美香と十二時に近くの駅で待ち合わせをしていた。目覚まし時計も掛けていなかったみたいだし危ないところだった。

そこから軽く風呂に入ってから服を着替える。支度が終わって一息ついたのが丁度、十一時半の五分前だった。

ここから歩いて待ち合わせ場所まで十五分と掛からないだろう。そんな事を思いながら時計を見上げた瞬間だった。その瞬間、形容し難い不安に襲われた。

なんだよ、これ。ちょっと待て。

ピリリピリリと電子音が僕をこの世界に引き戻してくれる。

ありがたい、と携帯電話を取ると見知らぬ番号からだった。そこでふと気がつく。頭で、身体でそれを否定しているにも拘らず気づいてしまった。

パッと記憶が甦る。さっきまで見ていた夢。僕は今、あの夢の中にいる。

この番号はあの知らせを持ってくる。

僕は恐る恐る電話に出る。

一空かずそら君!?』

それは美香の母親からだった。混乱している為か要領を得ない話。

『美香が・・・さっき事故に遭って亡くなったって・・・』電話の向こうで泣き崩れる音がする。

あいつが死んだ。

その知らせがまた僕に襲いかかってくる。

『三月七日、午前十一時半を回ったところです。本日は晴れ。空気もカラッとしていて過ごしやすいでしょう。では次は・・・』

全てがあの夢と同じだった。台本があってもう一度同じ演技をしているかの様に。

訳がわからない。正夢だとでも言うのか。





病院に着いたのは電話をもらってから三十分程経ってからだった。

向かっている間ずっと、夢の中で「あ、これ夢だな」と気づいているのになかなか目が覚めないようなもどかしさというか現実感の無さというか、胸の奥に不愉快な何かが詰まっていた。

霊安室に入ると一人の人間が横たわっていて顔に白い布を被せられていた。その周りを美香の両親と三つ歳が離れている弟が囲んでいる。僕は、おいおい、これじゃあまるで美香が死んだみたいじゃないか。なんて思ったけどそれは現実逃避にもならないで僕の心に重くのしかかった。

「一空君・・・」皆が此方を見る。母親の目には涙が浮かんでいて、父親と弟の目は虚ろだった。

「どうして、こんな・・・・・」僕の口から出たそれの答えは誰も分からない。そんな解りきった疑問を投げかけていた。

「今日、家を出るとき様子がおかしかったの。私達に向かって何度も、何度もありがとう、ごめんねって。あの時気づいてやれば・・・こんな事には・・」

「あの、警察はなんて」

「警察は自殺だと思っているらしい」言葉を続けたのは父親の方だった。

自殺?あいつの全てを理解しているつもりはなかったけど、僕に何か隠れて悩んでいたのか?

美香は待ち合わせに指定した駅の前で車に飛び込んだ、ということだった。自宅から徒歩以外の移動手段、例えば自転車を利用したとしても十分は掛かるだろうその場所にわざわざやって来て自ら命を絶った事になる。

あの場所を選んだ理由はなんだ。どうしてこの結果に至るまで経緯を僕は知らない?

答えは一つだった。

つまりは、僕の事で悩んでいた。それに躓いて自ら命を絶つ事を選択した。僕のことを恨んでいたのかもしれない。

しかし、思い当たる節がまったく無い。何か酷い事を言った記憶もないし浮気も毛ほどの事実はない。もともと僕は異性に好かれる質ではないのだ。

美香が死ぬ前に戻りたい。僕が知らずのうちに何かしてしまっているのならそれを謝りたい。誤解があるのならそれを正したい。ありもしないことで死んでしまうなんてこれ程の馬鹿はない。

その時またあの感覚が襲ってきた。世界が捻れる。美香の両親が何やら話しかけてきているが耳元で遮断される。視界の隅から徐々に暗転していって黒に落ちた。






目を開けると自宅の天井が天に広がっていた。これはもしやと思い、時計に目をやる。時針は九時を指し分針は一時を指していた。九時五分。次に携帯を開き日にちを確認する。三月七日。思った通りだった。

僕は時間を逆行している。

何故僕が、という疑問はあるもののそんな事はこの際どうでもいい。

美香がそれを実行する前に止めなきゃならない。

僕は寝間着であるパーカーにジャージという格好に上着を羽織って外に飛び出した。

前に観た天気予報の通り、空は晴れていて空気は適度に保たれていた。

まだ肌寒いながらも吹く風は春の訪れを予感させる。

家を出て目の前の川を渡ると奥に商店街が見える。人と人の間を縫って商店街を走り抜けると駅が目の前に現れる。待ち合わせ場所はこちら側とは反対に位置する為、駅を越えなければならない。

目的地が目前にあるにもかかわらずそこから移動しなければならない歯痒さをふつふつと感じながら全速力で駆けた。

少しして眼前に目的地が広がる。腕時計を見やるとまだ九時十五分を過ぎたあたりだった。まだ時間はありそうだが、早めに行動しておいて損はないだろう。そう思いながら美香のやってくるだろう場所に目を移した。





美香と親しくなったのは高校を卒業してからだった。

家が近かったこともあって小学校入学時には既に顔を見知っていたが特別親しかった訳ではなかった。所謂ただの幼馴染、というやつだ。

そのまま中学、高校と繰り上がってますます距離は遠くなっていた。

そして高校の卒業式の日。同学年が各々思い出に浸っている中、僕はある人物に呼び出されていた。この話の流れでいくと呼び出した人物は美香、が正解のような気もするが現実はそう上手く運ばないもので全く別の女子生徒からだった。

要件はまあ、ここは予想通り告白である。

僕は事あるごとに誰とも付き合う気はないと明言していた。色恋沙汰で自分の立ち位置が危ぶまれるのは断固阻止したかったからだ。

学生時代の恋愛なんてものは終わりが約束された一時の気の迷いみたいなものでそんなものにふらつくのが馬鹿らしく思えた。

卒業してしまえば立場云々は気にしなくてもいいではないか、という話で告白という形に至ったようだ。それも一理ある。が、今の今まで付き合う気が無かった相手にいきなり愛を曝け出されて首を縦に振れ、というのが無理というもので、僕は当然のように丁重にお断りして帰路についた。

当時、僕は高校までバスで通っていた。三十分に一本ペースで来るバスを待つ。どうやら運が悪いことについ先ほど出発したようでかなり待たされる事になりそうだった。

先ほどの出来事は実際悪い気はしない。しかし何か判然としない物が胸の奥で渦巻いていた。断ったことによる後ろめたさなのか、それとも変な意地を張ってしまった自分の馬鹿さ加減に些か呆れているのかもしれない。

そんな事を考えながら日が落ちかけて茜色に染まった空を見上げていると人が近づいてくる気配があった。

そちらの方を一瞥すると、それは美香だった。家が近くて学校も同じだと通学路も同じになるのが必然である。三十分近くバスが来ないこの状況が鼓動をより一層早くした。

話しかけるべきか、否か。頭の中で拮抗した押し問答をする。

話しかけるにしても何を?それより今更感が強い。

チラと隣を見ると美香と目が合う。一瞬で沸点に達したように顔が熱くなり血が煮えるようだった。

僕が中学、高校と掲げていた恋愛不必要論は謂わば言い訳である。

最初に気がついたのは小学校が終わりを告げようかという時だった。ふとした拍子に僕は美香の事を異性として意識するようになった。しかし、それまでの距離感も手伝ってそれを伝えるというのは雲を摑むような現実感の無さだった。

しかし、自分の気持ちというのは不思議なものでコントロールできない。抑え込もうとするとそれを上回る圧倒的な力で押し返してくるし、それならばと放置すると体内を暴れまわる。厄介なものだ。

そこで僕は考えた。この芽生えてしまった感情は無かった事にはできないし無視もできない。ならばそれを抱えて生きてゆこうと。そして今に至る。要約すると僕は失敗を恐れてその場から一歩も動かないへたれ、という事だ。

「卒業、おめでと」

慌てて目を逸らした美香が音を並べる。

「う、うん」

・・・・・。

なんでもいいから会話を繋げろよ、自分!

「なんかこうやって話すの久しぶりだね」

宙に浮いて消えた電波をまた此方に発信してくる。気遣ってくれてんな、不甲斐ない僕でごめん。そんな思いが胸に広がった。

「そうだね。小学生以来かな」

「そうだよね。ほら、あれ。六年生の時に私、池に落ちた事があったでしょ。それでクラスメイトからドブ臭いー、っていじられてたのを一空君が助けてくれたの。憶えてる?」

確か、罵声を浴びせられて泣きそうな美香の手を取って『うるせえ!お前らの腐った根性の方がよっぽど臭いわ!!』って言ったんだっけ。お前のその台詞が一番クサイぞ、と当時の自分にツッコミたくなる。

その件のせいで周りから冷やかされて妙な空気になるし、美香の事は意識しちゃうしで散々だった。

「そんな事も、あったな」

「あれ、嬉しかったよ」

夕焼けに目を細めながら、そして頬をほんのり紅く染めてポツリと言った。

「一空君がピンチの時は私が助けてあげるからね。今度は私が手を取ってあげる」

僕はその時、その言葉の意味をよく理解していなかった。

それが美香なりの告白だった事が判明するのはそれから数ヶ月経ってから僕が告白をした時の事である。

そんな懐古に浸っていると見慣れた姿が目に映った。





目鼻立ちはすっきりとしていて整った印象。少し長めの髪を後ろで結んでいる。

上着のポケットに手を突っ込んでいて、やけに左肩が上がっている。美香は緊張すると左肩だけが上がる傾向がある。

時計を見ると十一時になるところだった。

僕は立ち上がって小走りで美香に近づいていく。

距離は十メートル弱かというところで声を張り上げた。

「美香!」

しかしそれは美香の耳に届く前に、より一層大きな音に掻き消された。

トラックのクラクションだった。

さっきまで遠くて気がつかなかったが、美香は車道のど真ん中に立っている。

全神経を脚に集中させ、力の限り駆け出す。

くそっ、間に合え!

トラックが美香に接触するか寸前のところで飛びついて二人、路上にごろごろと転がった。咄嗟に全力を出した所為か言葉が口から出ない。その代わり美香の方を言葉にならない問いを込めて睨む。

一方、美香は心底驚いたのと余計な事をという感情が綯い交ぜになったような顔をしていた。

「どうして、私を助けちゃうの!そんなことしたら一空が・・・」

美香の声が途中で途切れる。僕の右方向に目を奪われているようだった。そちらを見やる。トラックだった。美香を掴んで飛び込んだのは反対車線だったのだ。

僕の目と鼻の先にトラックが近づいていた。

そのとき、目の奥にデジャヴが広がる。そして全てを理解した。ああ、こっちが本物か。





ここじゃない今、今じゃないここで死ぬ運命だったのは僕。先に運命に逆らうように時間を逆行していたのは美香だった。

僕は何度も様々な死に方をした。最期に思うのは、呆気なく死ぬんだなって事。最期に見るのは、悲しみ、苦悶、ありとあらゆる負の感情を表情に浮かべる美香だった。

美香はその度時間を戻ってあらゆる手を尽くして僕を助けようとしてくれた。でも運命は歪まない。

そこで美香はある仮説に辿り着く。

それは、運命が僕という一個人の死を求めているのではなく、死という現象を必要としているのであってそれは誰でもいいのでは、という事だった。

そして美香はそれを実行した。

彼女は僕が死ぬ前にその日その場所で自らの命を持ってして運命を変えたのだ。ここで知らない誰かを身代わりにしなかったのは美香らしいだろう。

そしてそれは成功に終わった。運命が美香の死を受け入れてストーリーを再構築したのである。僕は今まで自分が何度も死んでいたことを忘れ、新たな人生、美香が死ぬ人生に放り投げられた。

しかし、運命を変えた代償は美香が思っていたよりも大きかった。

美香の選択によって僕が死の運命からは外れた訳だが、そうすると美香が自ら死を選ぶ理由がなくなってしまう。それの辻褄合わせとして美香の記憶は無くならなかった。彼女は自分が何故死ぬのかを憶えているのである。

そこから僕の物語が始まる。





死ぬ間際に走馬燈を見る、なんて話はよく聞く。自分の歩んできた人生を一瞬にして振り返る走馬燈。それは今までの種明かしなんだと理解した。

トラックは既に目前に迫っている。脳内を駆け巡った思考は大量なのに時間は一秒に満たないようだ。

元々は僕が死ぬ運命だったのだ、甘んじて受け入れよう。そう目を瞑った時、妙な音を聞いた。運命が悲鳴をあげているような不快な高音。閉じた目を再び開くと状況が変わっていた。目の前のトラックのタイヤが向かって左側に捻じ曲がっている。そのタイヤからは不自然な煙が上がる。運転手が咄嗟にハンドルをきったようだ。僕の側の空間を切り裂くように猛スピードでトラックが横切って行く。

しかし。

その方向には美香が居た。トラックは運命というレールに沿って真っ直ぐ美香に向かっていった。

「美香、逃げろ!」

僕は言った。否、口から何かしらの音は出ていたようだがそれがちゃんと言葉になっていたかは分からない。

美香は動かない。動けない訳じゃなく動かなかった。

それは一瞬だった。

僕がこの世から去る瞬間、美香がしていたように僕はそばで美香という一人の人間が終わりを告げるのを目に焼き付けることになる。

トラックは無情にも運動エネルギーに従って美香を薙ぎ倒し、その場に紅い華を咲かせた。

トラックが我が身に当たろうかというときに美香は此方を見て微笑んでいた。

『言ったでしょ?今度は私が助けるって』

そう聴こえた気がした。





ここからは僕の想像だ。もしもの話として聞いてくれれば構わない。

美香は彼処で死ぬことで僕の生命を助けてくれた。ならば美香が死ぬ前にあの場所で死んだらどうなるだろうか。

どうにもならず二人とも死んで終わりなのか、それとも僕が死ぬ運命に戻るのか。

後者だったとしても美香が時間を逆行できる事を考えると堂々巡りだろう。

だとするならば残された道は二つに一つだ。





夕焼けに染まった空の下、僕は一人歩いていた。右側には宙に浮かぶ大きな火の玉が地平線の向こうに沈んでいく。綺麗な茜色をしていた。左側には既に夜が訪れていて星がちかちかと瞬いていた。綺麗な藍色だった。


僕は彼女の事を想った。





『三月七日、午前十一時半を回ったところです。本日は晴れ。空気もカラッとしていて過ごしやすいでしょう。では次は・・・』

僕は黙々とテレビの中のアナウンサーを見る。寝巻きであるパーカーとジャージを脱ぎ捨てシャツとデニムに着替えてから上着を着て玄関から外に向かう。天気予報の通り、空は晴れていて空気は適度に保たれていた。

まだ肌寒いながらも吹く風は春の訪れを予感させる。

家を出て目の前の川を渡ると奥に商店街が見える。人の波に乗って商店街を進む。そこを抜けると駅が目の前に現れるが目的地はこちら側とは反対に位置する為、駅を越えなければならない。


少しして眼前に目的地が広がる。





交差点では信号機が青に変わるのを待つ人で埋め尽くされていた。

程なくして信号機が青になる。

戦国時代さながら人と人が水の波紋のように交差する。しばらくすると交差点を渡る人もまばらになってきて、僕だけがぽつねんと残された。信号機に目をやると青が点滅している。すると横からけたたましい音が空気を揺らした。それは見たことのあるトラックだった。今度は運命のレールが僕に向かっていることに安堵して胸を撫で下ろした。





僕はあの後、ある仮定をした。

もし美香が僕の死に気づけなかったら。僕との関わりが薄く、ただの幼馴染のままだったらあれは起こらないんじゃないか。

そう思った僕は、あの卒業式の後バス停で待つことなく歩いて帰った。すると思っていた通り、美香との関係は進展しなかった。

そうすれば僕と彼女は深い関係にならず運命は元通り。それでよかった。

既にトラックが目の前に迫っている。

随分と遠回りをしてしまったけれど、後悔はない。

僕は目を閉じた。


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