40作目は古典回帰
『神々の微笑』芥川龍之介 初出「新小説」1922(大正11)年1月
約一万字
音読了20170206 約26分
久しぶりに古典回帰、音読をしてみた。
慣れぬ語彙に出くわす度に、情けないほどにつっかえる。
一文に籠められた内容の濃さが、流れ読むことを拒むようでもあった。
その散りばめられた言葉たちはキラキラと輝きながら読み手を誘い、物語の風景を見せつけてくる。
小説は冒頭が命と聞くが、芥川龍之介の序盤は、その後の重厚さに比べると軽やかな印象が強い。上記のような深い語彙力に誘われつつも、感触はとても軽くさりげない。
だが、序盤に一旦引き込まれてしまうと、その後には重いテーマがひっそりと待ち受けている。参ったな、と思わず口に出してしまうほどに。
にも関わらず、逃げることは許されない。いや逃げたくないと思わせる何かがそこにある。その何かを、小説の巧みさとは言いたくない。小手先のテクニックではなく、もっと深い何か――強いて言うなら、芥川龍之介の文明史観と鋭い日本人論ではないだろうか。
この小説を発表してから100年近く経った世の中で、宗教を背景とした紛争が世界のあちこちで起きているなど、氏自身は想像もしなかっただろうと思う。
まずもってして、タイトルの「神々」という言葉自体、日本では八百万の神がひたひたと存在する価値観を自然に有しているからこそ普段使いできるけれども、唯一神の宗教や偶像崇拝を認めない宗教しか知らずに育った人たちから観れば、とんでもないことだろう。
だが氏がここで伝えているのは、人々の心の中にある宗教的価値観の普遍性だ。それは、守り人シリーズで著名な上橋菜穂子氏とも重なる。文化人類学者として多種多様な民族の心の中にある「神」的な存在に敬意を払い、その存在意義を認める大らかな知性がそこにある。芥川氏のそれが冷静なる青い知性だとすれば、上橋氏のそれは温かな母性を含む淡い桜色の知性のようだ。
どの宗教も、日本国内で「勝つ」ことなどできない、という幻の翁の言葉が最後まで胸に残る。それは、この国に生まれもの、生きるものの中で脈々と受け継がれるのだろう。芥川龍之介の小説には死の影を感じることがあるが、本小説はいつになく、生きることに焦点が当たっていると感じた。死を見詰めることで、生きることが見えてくる、と作者は感じていたのかもしれない。
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