33作目は小説の神様の書写(完了)

 読了予定20161112~16*追記→20に変更。今回は音読よりもさらに時間の掛かる「書写」に挑戦した。


『小僧の神様』(短篇集)志賀直哉

 初出「オール讀物」文藝春秋、1936(昭和11)年2月

 読んだのは岩波文庫。1977年版。

(没後50年を経て居ないので著作権が生きており青空文庫には収録なし。手元の文庫本を読んだ)


 選んだ理由:小説の神様とも称され、芥川龍之介に「創作上の理想」と言わしめた志賀直哉の文章を、今一度読み返したいと思った。「無駄のない文章は、小説文体の理想のひとつと見なされ評価が高い。そのため作品は文章練達のために、模写の題材にされることもある」そうだ。だが同時に「上から目線」を批判され、太宰治とも激論を交わしたとも言われているのも興味深い。  by Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E5%93%89


 遥か昔、半世紀近く前の高校の現代国語の授業で、志賀直哉の作品をこと細かに分析し論じる教師が居た。「そんなことより点数の取り方を教えろ」と不満たらたらな受験生に、しかしその教師は全くメゲルことなく「なぜここで志賀直哉はこの単語を使うのか、なぜこの接続詞をここに持ってくるのか、『てにをは』の選び方は……君たちはどう思う?」と滔々とうとうと続けた。

 それは、一方的に知識を「教える」のではなく生徒に「問い掛ける」という点でも新鮮であったし、これまでにない小説の読み解き方や作品の味わい方に触れられて楽しかった。そんな授業に喰い付いていたのはほんの数名だったが、私たちの卒業と同時にその教師が県内最高レベルの進学校に引き抜かれて行ったと後で聞かされ、「県教委もやるじゃん!」と思ったのを思い出した。今思い返してみると、あの教師は作家志望だったのではないだろうか。


 読了後に感想を纏めてアップ予定。

 当初は二日間くらいで読もうと思っていたが、さすが神様の文章なので一遍ずつじっくり読み込むことにしたので、4~5日間掛けることにした。

*→冒頭にも追記の通り、初めての書写に挑戦中。恐らく1週間以上掛かりますがこれもまた修行の楽しみと思い、浸ります。


 ―----


 『小僧の神様』(短篇集)の黙読及び書写 終了。20161120

 

 MSワードで縦書き原稿用紙の設定で書写してみた。

 黙読や音読以上に時間が掛かることは覚悟の上だったが、実際にはその想像を遥かに超えた。最初は参ったなあと思った。が、しばらく進めていくと、やはり音読でも気付けなかった点が浮き彫りになってくる。ははん、これだなあ、こういうことか、と。やはり物書き修行として先達に重要視されてきただけのことはある。侮るなかれ、である。


 書写だからこそ分かったことの一つは、何気なく情景を描いているように読める部分が、実は「読者が少し先が気になって読み進めたくなる」要素を上手に散りばめて書かれていることだ。これは小説の技法として当たり前のように論じられる点かもしれないが、しかし、その「さりげなさ」が群を抜いているのが神様たる所以なのだろう。

 文章の神様ならば文体や言葉選びに着目すべきと予想して読んだが、その点はまだ私自身の力量が追いついていないせいか、本作が子供向けに書かれたせいもあるのだろうが、他の文豪たちとの差をそれほど強くは感じなかった。むしろ、心に残ったのは「さりげなさの中に籠められた心配り」だった。


 もう一つは、展開の速さである。これは黙読だけでは絶対に気付けなかった。

 小僧が番頭たちのすし屋の話を小耳にし、上手いすしを食いたいと思ってから実際に屋台のすし屋に足を踏み入れるまでがわずか2000字強なのだ。意外だった。決して密度の濃い文章ではない。重たい感じはなく、さらりとそこまで読者を連れて行っておきながら、ドラマで言えば最初の15分ばかりの内容をしっかり込めてある。うーーん、これだけテンポの良い展開はやはり凄いと思った。


 当時、太宰治が批判したと聞く「小僧に施しをする貴族議員Aは偽善だ」については、本作品には「良い行いをした」筈のA議員自身もそれが本当に良かったのかと悩み細君と言葉を交わす場面もしっかり盛り込まれている。むしろ、小僧もAも「身の程を弁える」という点で同類なのだと感じさせる展開になっていると感じた。


 「小僧の神様」(一篇)を書写し終えると、400字詰め原稿用紙に20枚ぴったりの6509字であった。

 お見事、である。(章開け間隔あり)

 この長さは、やはり物書き修行の基本なのだろうか。思い返せば大学時代、某しごきゼミでは毎週この量の課題エッセイが2冊分あった。寝るのを惜しんで読んで書いた2年間だった。最初は文字通りの死にもの狂いで、ひたすら升目を埋めるべく書きなぐるばかりだったが、2年も経つと起承転結を考えながら冒頭を書き始められるようになり、自分なりの進歩を感じたことも思い起こされる。そうか、こうやって修行は進むのだなあ。


 小説は、描かれている目の前の情景がすべてではない。その奥に様々なものを込めることができる。むろんそれは読み手にも多くを委ねることにはなるし、何よりもそれだけのものを描ける力を書き手に求めている。

 私にはまだまだ遠い道のりだが、それでも、書くべきことを見誤ることなく、自らが思うように伝えることができるような書き手になりたいと改めて思った。


 なお、手元の文庫本は岩波文庫1977年12月第55刷 ¥200であった。思わず二度見した。二百円!? そんな時代があったのだ、そしてささやかなお小遣いを叩いて当時の自分はこれを買ったのだ、と思うと、一層この本が愛おしくなった。

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