不慮の不良品は不意に笑う
彩詠 ことは
不慮の不良品は不意に笑う
有耶無耶な終わりの始まり
○
朝、起床。
時計は午前六時半過ぎを指している。まだ目覚まし時計が音を鳴らす前だ。だけど、一度目が覚めてしまえばなかなか寝付けない質のぼくは仕方なく身体を起こして部屋を出た。
ひんやりとしたフローリングの廊下を少し歩いてリビングに入る。まだ妹は起きていないらしく、静けさが室内に籠もっていた。
妹はぼくとは違って、二度寝三度寝は当たり前、休日とあらば食事も疎かにして惰眠を貪る。
ぼくはキッチンで朝食とコーヒーの準備をしてから、妹の部屋に向かった。時刻は、午前六時四十五分。まあ、良い頃合いだろう。
《つづくの部屋》と書かれたプレートのぶら下がった扉の前に立って、念の為ノックする。この時間に起きてるなんて万が一、億が一にもあり得ないけど、最悪の事態というのはそういう油断の横にいるものなのだ。扉を開けたときに妹が着替えでもしていたら、なんて考えると背筋が凍る。多分、残虐非道の限りを尽くして殺されるだろう。
二回、扉を叩くが返事は無い。
ぼくはドアノブに手をかけて中に入った。
…………。
絶句する。
相変わらずの散らかり様だった。本は床に塔を立てて、机の上には雑誌の山が築かれていた。
足の踏み場の無い場所で何も踏まずに歩くというのは至難の技だけど、そもそもそんな気を起こさなければ事は簡単。足の踏み場が無いのなら作ればいいだけの話なのだ。
ぼくは足で床に散らばったありとあらゆる物を退かしながらベッドに向かう。
掛け布団を抱き枕代わりにしてすやすやと寝息を立てる華奢な女の子。兄のぼくが言うのもなんだけど、かなり整った顔立ちをしている……同じ遺伝子を受け継いだはずのぼくの容姿には……まあ、触れないでおこう。あー、人類の神秘ってやつだなあ。
「おーい。朝だぞ、起きろ」と、肩を揺さぶってみるけど、起きる気配は零。まあ予想範囲内だ。
そうかそうか、あなたがそうならぼくにも考えがある。
ぼくはベッド脇にあるカーテンを鷲掴みにして開け放つ。妹の部屋の窓は東に向いているので朝日が諸に入ってくるのだ。直射日光を浴びた少女は「はひゃっ!」と、動物の鳴き声のような奇声を発して勢い良く起き上がり、寝惚け眼でこちらを睨んでくる。
「…………朝からあたしの弱点を容赦無く突いてくるなんて最悪な兄貴ね」
朝日が弱点とかヴァンパイアかなんかかよ。お兄ちゃん、そんな魑魅魍魎と兄妹になった覚えはありませんと、ツッコもうかと思ったけれど、ぼくは無視を決め込んで「朝ご飯できてるから早くこっちこいよ」と、言って部屋を出た。
○
地下にある無価値な世界
○
妹がリビングに来たのはそれから少し経ってからだった。
相も変わらず不機嫌そうにしていたけど何も言ってこなかった。
ぼくは妹の前にスクランブルエッグとサラダそれとコーヒーを置く。
対して妹は「ありがと」と、小さく言って、次いでいただきますの挨拶をしてからフォークを手に取った。それを見てからぼくは自分の朝食をテーブルに並べる。
「つづく、今日は部活だっけ?」
「ん」
サラダをわしゃわしゃと頬張りながら首肯する。あまり女の子らしい食べ方とは言えなかったが、今に始まった事ではないので華麗にスルー。
「そっか、じゃあ今日はぼくが晩御飯作るよ。何かリクエストがあれば聞くけど」
「んー……。野菜炒め」
「え、また?この前もその前も野菜炒めじゃなかったっけ?」
しばらく上を見つめて悩んだ末、「じゃあ、肉野菜炒め」と、言った。
「…………」
「ん?」
小首を傾げるつづく。こいつは醤油ラーメンと味噌ラーメンと塩ラーメンをそれぞれ別の料理として捉えているのだ。
「わかった、肉野菜炒めな」
そうこうしていると、時刻は午前七時十分。
ぼくは、自分の皿とつづくの皿を重ねてキッチンに持っていく。洗うのは学校から帰ったらにしよう。
「ほら、早く支度しろ。すぐ出るよ」
むぁーい、とふらふらしながら部屋に戻るつづく。
着替えの時間を入れても丁度良いだろう。
ぼくは、昨日のうちに作っておいた弁当二つを包みながら時計を見る。
次いで、学校指定の鞄に教科書を突っ込んでから制服に着替えて再び椅子に腰を落ち着かせた。
それから少し経って、制服に着替えたつづくが来た。
「おまたへー」
声に活力がほんの少し戻ってきた様子。つづくは朝と昼間以降のテンションが段違いなのだ。別人かと疑ってしまうほどに。
ピンク色のバンダナで巻いた弁当箱を手渡してから玄関に向かう。
つづくの後に靴を履いて玄関を出た。
すると。
「あら、つづくちゃん、
「あ、月乃姉さんだ。おはよ」
と、無気力につづくが反応する。
彼女は
デニムに白のワイシャツというなんともシンプルな格好をしているけれど、容姿端麗の為そもそも着飾る必要がないのだ。
「今から学校?相変わらず仲良しね」
「そんなーー」
「そうなんだよ」
ぼくが、そんなことないですよと言おうとしている上につづくが被せてくる。
積極的に発言するなんて朝状態のつづくにしては珍しいことだった。
そんな様子を月乃さんが楽しそうに見ている。
なんとなく気まずくなった空気を打開する為に別の話題を振ってみる。
「月乃さんは今日はお仕事じゃないんですか?」
「ああ、今ね、自宅謹慎処分喰らっててね」
なんてことない感じで言われたけど、そんな話じゃないだろ。さらに空気が重くなった。
月乃さんは仕事の出来る女性と謳われる一方で厄介事の中心にはいつも月乃と云われる程のトラブルメイカーなのだ。気性が荒いわけではなくてただ不運なだけなのだけど……まあこの話はまた今度。
「またやらかしたんですか」
「おっと、今回は完全に絶対的に絶妙な具合で私の所為じゃないよ」
「じゃあなんで自宅謹慎なんて結滞なことになってるんですか」
「んー……それは大人の事情ってやつかな」
はあ、そっすかと適当に返事しておいた。
実はいい加減な人なんじゃないのか、と密かに疑い始めている自分がいる。
ふと、つづくの方を見遣る。
「…………」
「…………」
立ったまま器用に寝ていた。うとうとってレベルじゃなく、熟睡していた。
そんな妖怪の頭に平手打ちを喰らわして起こしてから月乃さんと別れて学校に向かった。
エレベーターで一階まで降りてオートロックをくぐったところで「お兄ちゃん」と、つづくがさっきと変わらない無気力な表情でぼくを呼んだ。
何回かこういった感じで呼ばれたことがあったけど、そういうときは例外なく何か言いづらいことがあるときだった。
「あたし達、いつまでこうしていられるかな」
「うん?」
「いつまで普通でいられるかな」
それはとても漠然としていて、不確かで不確定な疑問、いや不安か……。
目前にあるのにそれを目視することはできないし、ましてや掴むこともできない煙のような不安。
ぼくは、普通なんてどこにもないなんて言うつもりはなかった。ぼくが言える唯一のことはーー。
「きっといつまでもこうしていられるよ」と、心にも無いことしかなかった。だけど、それを顔には出さずに言えたはずだ。
少なくともつづくはそれで一応の納得はしたらしく、小さく「ん」と頷いて再び歩き出した。
ぼくたちは学校に向かう。
○
必要な不必要と意味のある無意味
○
ぼくとつづくが通う学校、
校門を入って右手に見えるのが高等部。
左手少し奥に見えるのが中等部だ。
つづくと別れて少し歩いていると背後から声をかけられた。振り返ると
少し長めの髪に中性的な顔立ち。一見すると女の子に見えなくもない。じゃらじゃらと鬱陶しいほどのキーホルダーが何も入っていないようなすかすかの学校指定の鞄からぶら下がっている。
「うーっす、おはようさん」
顔立ちと同じく声も中性的だ。
「おはよう枠くん」
「お前、もうちっと句読点付けた喋り方しようぜ。俺の名前が朝の番組みたいな字面になってんじゃんかよ」
「ん、ごめ、ん、気を、つける、よ」
「句読点付け過ぎだろう」
などとふざけていると下駄箱に到着。靴を履き替えて2階へと向かう。
階段で数人とすれ違った後、またも後ろから声。今度は正真正銘の女の子だ。だからなんだという話なのだけれど。
「お二人さん、おはようございますです」
「ん、今日は早いな、すき焼き」
「あー!だからそれはもう時効ですからやめてくださいって言ってるじゃないですか」
と。朝っぱらから元気にはしゃぐ銀縁眼鏡の女の子。
通称、すき焼きさん。
本名、
当然、弁当を持ってくると思った当時の担任は了承したのだけど、次の日、音深さんが持ってきたのは土鍋とガスコンロ、そしてすき焼きの材料達だった。以来、音深さんはすき焼きの汚名を欲しいままにすることとなる。
この話を聴いた人は、ひょっとして雲ヶ崎って頭悪いんじゃないのか、と思うだろう。しかし、驚くことなかれ。彼女は
知能指数二百オーバーの超の上にさらに超を乗せてもまだ足りない化け物クラスの天才児なのだ。所謂、勉強のできる馬鹿。勉強のできない馬鹿よりも数段質が悪い。
「今日は朝から学校来てていいの?今回は確か……なんだったっけ。何か開発してたんだっけ」
「三六くん、よくぞ訊いてくれました。私は今回、世紀の大発明をしました!」
そう言う音深さんの顔は嬉々としている。これがアニメだったら背景がお花畑で顔の周りできらきらと特殊効果が飛び交っているに違いない。
いやはやしかし。
音深さんの発明は今回が初めてではない。
前回は飛び交う電波を目視できるようにする眼鏡を開発していた。目的は一切合切不明だけど。軍事転用とかしたら凄そうな代物だけど、その意思はないらしい。
「ふーん。それで」
成守くんが適当に相槌を打つ。
「宇宙を飛び交う隕石を地球に引き寄せる装置を発明しました」
…………。
「……即刻破棄しろ。人類が、いや地球が破滅しかねん」
洒落にならねえ……。
えー、そうですかあ?と唇を尖らせる音深さんを受け流して到着した教室に入る。
数人と挨拶を交わして窓際最後尾にある自分の席へと向かった。ぼくの前に音深さん、その隣に枠くんの隊形で腰を落ち着かせる。
さて、楽しい楽しい学校の始まりだ。
○
有限の無知と無限の未知
○
一限目 現代文。
三人でカード式の麻雀をする。
麻雀の強さは、如何に相手の手を読めるかに掛かってくるわけだけど、そうなると異常な強さを発揮するのが音深さんだ。相手の捨て札から導き出す確率論というある種の未来予知。いつも音深さんの一人勝ちで終わるけれど、それでも授業よりは数倍楽しいから良しとする。
「それポンね」
枠くんがぼくの捨てたカードを指差す。それから自分の方に配置。意気揚々とカードを捨てる。
「今回の手は大きいぜ。どっちでもいいから直撃させてえな。ほらほらはやく……」
「あ、それ、ロンです」
「…………」
「…………」
「役満です」
「…………」
「枠くん、飛んだね」
二、三限目 体育。
今回はドッチボールらしい。
外ということもあり、真面目に授業することになった。
顔面はセーフなんだってと音深さんに説明したら「じゃあ顔面でガードすれば無敵ですね」と、ぶっ飛んだ回答が返ってきたのには少なからず驚いた。
なんとドッチボール初体験なんだとか。
枠くんは枠くんで「相手の顔面に叩き込んで再起不能にしてやる」とか言ってるし。お前らなんでそんなに顔面に当てたいんだよ。枠くんはおとなしそうななりをしていて、結構荒々しい部分があるのだ。
結果としては音深さんは散々たるものだった。初っ端に当てられてコートの外に出てから一度もボールを触れなかった。
枠くんは運動神経抜群で体育祭のときも「優勝、成守枠がいるチーム」となること請け合いなのだ。しかも、たかが体育の授業如きにも手を抜かないのが恐ろしいところ。端的に言えば初手で音深さんを撃沈した後、自チームに一人の被害者を出さずに相手チームを圧倒して勝利した。
音深さんがボールを触れなかったのはこれの所為。ちなみにぼくも観ているだけだった。
○
意図せず絡まる無意識の糸
○
さて、さてさて。みなさんお待ちかね。お昼ご飯だ。
ぼくは鞄から弁当を取り出す。枠くんはコンビニ弁当で、音深さんはすき焼き……ではなく、菓子パンという、まあなんというか、普通な感じ。
「相変わらず、三六はまめだなあ」
枠くんが割り箸でぼくの弁当箱を指しながら言う。
「ぼくは買ったものでもいいんだけどね。妹が作ってほしいって言うんだよ」
「出たなシスコン」
と、言いつつきんぴらごぼうを頬張る。もちろんというか、当たり前のようにぼくの弁当箱から取ったやつだ。
美味い美味いとあっという間に食い尽くしてしまった。
「お前、結婚したら喜ばれるだろうな」
「んー。そうかなあ」
結婚という言葉を受けて音深さんが過激に反応する。
「結婚ですか!?」
「おう。三六は料理が上手いから結婚したら旦那に喜ばれるぞって話」
「おい、ぼくの立ち位置おかしくないか」
「なんならうちに来るか?」
かはは、と枠くんが笑って「是非我が家にも」と、満更でもない風に音深さんが言う。
「いや、家政婦みたいに言われても……」
「でも、真面目な話、三六お前、モテるだろ。顔はまあ、妹さんに比べると些かあれだけど」
「持ち上げてから背中をチェーンソーでえぐるのやめろよ……」
実は、この世に生まれ出でかれこれ十七年と少し、高校三年生にもなって異性と付き合ったことが無い。その気配も無かった。
「それはお前が鈍々感だからだよ。」
なあ、と音深さんに同意を求めるが、「うーん」と曖昧に返すだけだった。
「そうかなあ、そんなことないと思うけど」
「三六は自分のことに関してはサイボーグ並みの受感の癖に、自分の周囲の人間関係とかにはやけに鋭いんだよなあ。ほんとアンバランスっていうか、極端っていうか」
んー。
それはそれで過大評価だと思う。
しばらく何かを考えるようにしていた音深さんが口を開いた。
「三六くんは……彼女、とかほしい、ですか?」
「うん?」
さて、どう答えたものかと試行錯誤していると「そりゃほしいだろ。三六だって男だもんな。あ、その前に人間か」と、横槍を入れてきた。ぼくは思わぬ助け舟に慌てて乗ってみる。
「んー……いらないわけじゃあないかな。やっぱり」
「そっか、そうですか」
ぼくも相当煮え切らない返答だったけれど、音深さんは全てが煮え切らなかった。何が言いたかったんだろう。
そういえば、こういう話ってあんまりしたことなかったから気にしたことが無かったけど、枠くんと音深さんの恋愛事情ってどうなっているんだろう。見た感じ、そんな気配はないけど。
「俺か?俺は今のこれが楽しいからなあ。そこに違うものが入ってごちゃごちゃするのは勘弁だわ」
だそうで。
「そうですねえ。私は気になる人はいますよ。ただその人の攻略難易度が無理ゲーレベルなんでどうしようかなと」
だそうだ。
それに対して枠くんが少し反応したように見えたけど、結局何も言いはしなかった。ぼくだって音深さんの気になる御仁がどんな人なのかは気になるけれど、それを訊くのは野暮ってもんだ。きっと枠くんもそう考えたんだろう。
音深さんの頭脳を持ってしても無理ゲーレベルの男ってどんな奴なんだ。まさか人間じゃないってオチじゃないよな。人って言ってるし。
うーん。
こうなってくると、つづくのも気になってくるな。とやかく言うつもりはないけれど、やっぱり気にはなる。
ああ、でもあいつなら、面倒だからいらないとか平気な顔をして平然と言いそうだな。
ぼくがもの思いに耽っていたそばで枠くんと音深さんはどんな異性がタイプかで大いに盛り上がっていた。枠くんなんかは自分のスマートフォンで流行りのタレントの画像を引っ張りだしてきて熱く語っている。
そのスマートフォンをぼくに差し出してきた。
「ほらほら、この子なんて最高だろ?」
画面の中には最近テレビでよく観る女性が天真爛漫そうな笑顔を浮かべている。
と。
そこで。
ぼくは名前を呼ばれた。声の方に目を遣ると担任の教師が立っていた。
返事をして立ち上がったところで、手に枠くんのスマートフォンがあるのに気がついて、それを机の上に置いてから向かった。
○
不可逆の時間は加虐の時間
○
「あのさ」
ぼくが自分の席に戻ると、開口一番に、枠くんが言った。
「手に何かを持ってるときに話しかけられたりすると持ってるものを机の上に放置していく癖治せよ」
「うん?ぼく、そんな癖持ってたっけ」
「…………」
「…………」
「音深、こいつの記憶力を向上させる薬を開発してくれ」
「それには全面的に同意です。善処しましょう」
「おいおい、酷い言われようだな。ぼくはそんなに記憶力悪くないよ。小学生のときなんか都道府県を憶えるの、クラスで一番早かったからね」
「そうだったっけ?」
「あ、いえ、三六くんは私たちとは違う小学校じゃないですか」
「おお。そういえば、そんな設定もあったなあ。考えてみれば三人でつるむようになってまだ二年とちょっとなんだよな」
「結構長い間一緒にいた気がしますけどね」
時間の概念なんてのはひどく曖昧なもので、楽しいと感じている時間は速く過ぎ、逆に退屈な時間は遅く感じる。人の中に蓄積されている時間はその人個人のものの見方によって変わってくるのだ。
だからこの場合は実際は二年と少しだったとしてもぼくたちにとってはそれ以上の密度を持っているのだろう。
ぼくにとってこれは初めての経験だった。中学校を卒業するまではまさに地獄の様だったし、生き抜くことに精一杯で友達関係を築いている暇すら無かった。
家族とは違う。家族とは違った大切さがある。誰かを失いたくないと思ったのは久しぶりだった。
このまま、全てがこのままだったらどんなに良いことかと思った。
しかし、だ。
刻は流れる。何一つとして変わらないものなんて無いのにぼくは無謀にもそれを忘れてしまっていた。いや、忘れていたんじゃない。目の前にあるそれから目を逸らしていただけだ。目を逸らして、耳を塞いで、口に出さず。
それがどれだけ自分から離れていて、分不相応なのか、そしてそれを望むことがどれだけ罪深いことなのか、ぼくは、思い知る。
○
昔の無関心は今の肝心
○
「ふうん、それで?」
「えっと……それで、と言われても」
ぼくの目の前にいるごつごつとした男は無精髭の生えた顎に手をやってから言う。
「それじゃあもう一回いってみようか」
「またですか。これで四度目ですよ」
「二度ある事は三度あるって言うだろ」
「だから四度目なんですって」
「三度あることは四度あるんだよ」
堂々巡りじゃないか。
はあ、と息を吐いて辺りを見回してみる。無機質な部屋に無機質な調度品。四面のうちの一面がミラーガラスになっている。漫画とかドラマとかで出てくるまんまの取調室だ。何回ここに座っても好きになれそうにない。好きな奴なんていないか。
無精髭の男は言うなれば飴と鞭の鞭の方だ。強面とやたらと大きい声で相手を圧倒して情報を訊き出す。これもテンプレートのような刑事だった。
かれこれ五時間ほど、この男とこうして相対しているのだけど、一向に飴が出てくる気配は無い。
そろそろ超絶美人の刑事さんが登場してもいい頃合いなのではないでしょうか、と顔に出してみる(ぼくは思っていることを言葉にしないで顔に出すタイプなのだ)。それを目の当たりにした無精髭の刑事は、おぉ、と手を叩き一人部屋を出て行った。
やっとこれで飴と鞭になるじゃないかと、こんな素晴らしい言葉を創った名も知らぬ偉人に感謝しつつぼくは待った。
数分後。
無精髭の刑事は器を二つ持って戻ってきた。
「さあ、好きな方を選べ」
と、差し出された容器に目を遣る。
某大手メーカーのカップ麺二種類だった。
「これは一体……」
「うん?だってお前、物欲しそうな顔してたからさ。考えてみれば飲まず食わずでここまできたからな。さすがに腹減ったんだろと思ったんだ」
「そういうのって普通はカツ丼の出前とかじゃないんですか」
「はあ?お前な、ドラマの観過ぎ。日本の警察は貧乏なの。無駄な経費は使えないの」
世知辛い世の中だった。ていうか、犯人でもない相手(ただしがっつり容疑者である)の事情聴取の経費が無駄なのか。
かくして、超絶美人の飴もカツ丼も逃してカップ麺を咀嚼しながら、本日四度目になる話をする。
「学校が終わって帰宅したら音深さんに呼び出された枠くんにぼくが呼び出されたんです。それで呼び出されたところに行ったらーー音深さんが亡くなってました」
ぼくは、淡々と、なるべく淡々と話す。
「でもさ、そうなると一番怪しいのは、お前と成守枠ってことになるよな?」
よなって……。さっきから何回も言ってるから理解してるはずなのに。
いやいや、待てよ。もしかして、これがこの人の策か。何回も同じことを訊いてボロを引き摺り出す。
……ますます嫌な刑事だ。
「ぼくと二人が学校を出たのが確か、午後五時くらいでした。それから三人で十五分ほど歩いて二人と別れました。その後、帰り道の途中にあるスーパーで夕飯の買い物をしました。ここまではレシートがありますし、確定できますよね」
「ふうん、夕飯の買い物って何を作るつもりだったんだ?」
ん?
ちょっとこの質問、意図がさっぱりわからないぞ。
これもこの人の策なのか?
「……肉野菜炒めです」
と、ぼくは些か戸惑いを隠しきれずに答える。
「肉野菜炒めかあ。肉野菜炒めねぇ……。いいね、腹、減ったな」
「さっき食ったばっかだろ」
前言撤回。こいつ、多分、何も考えてない。ぼくの鋭い、かつ深みのあるツッコミを無視してから無精髭の刑事は言った。
「それで?」
「そこからまた少し歩いてーー三分くらいですかね、マンションに着きました。これも解錠時のログと防犯カメラに映っていると思います」
すると、無精髭の刑事は表情を今までのだらけきったものからキッとした、いわゆる刑事の顔をしてから、ふん、と鼻を鳴らして吐き捨てるように言う。
「まあ、その為の、あのマンションだからな」
そう、あのマンションはぼくとつづくにとっての檻。他の者たちにとっては内部の安全性を確立するものであるオートロックも些か多過ぎる防犯カメラも、ぼくとつづくにとっては自らを縛りつける鎖でしかない。
「それは……そう、ですね」
「……で?」
「部屋に戻ったぼくは買ったものを冷蔵庫にしまいました。それから一時間ほどくつろいでいたら、枠くんから連絡が入ったんです。電話でした。詳しくは憶えていませんが、『音深さんに呼び出されたから一緒に行こう』みたいなことを言っていました」
「雲ヶ崎音深は何故お前らを呼び出したんだ?」
「さあ?枠くんも何も言ってませんでしたし、わかりません」
「んで、お前は成守枠と学校で待ち合わせた、と」
「はい。ぼくが学校に着いたのが午後7時くらいでした。そのあとに枠くんが来て学校に入りました」
「さらっと言ってるけど、それ、犯罪だぜ。俺、一応刑事なんだけど」
都合が悪過ぎる。
ぼくはそれをさっきのお返しだと言わんばかりに完全無視して続けた。
「それで、少し歩いたところで、枠くんの携帯に着信があったので、ちょっとそこで立ち止まりました。話を聴いている限りでは枠くんはお母さんと話してるみたいでした。会話が終わって枠くんが電話を切ると、今度はぼくの携帯が鳴ったので、見てみると音深さんからの着信でした」
無精髭の刑事は椅子の前脚を浮かせてカタカタと揺らす。
「雲ヶ崎音深はなんて言ってたんだ」
「『急に呼びだしてごめんね』って言っていたと、思います」
「思います?えらく自信なさげだな」
「なんていうんでしょう……なんか、くぐもったっていうか、フィルターを介して会話しているみたいな、とにかく聴き取りづらかったんです。多分、電波が通りにくかったんでしょう」
「ふうん。それで殺されている雲ヶ崎音深を見つけた、と。お前が電話を受けた位置から現場まではどのくらいで行けるんだ?」
「そうですね、大まかでいいのなら五分ってところでしょうか」
「五分か……すると、お前と成守枠のアリバイは成立しているわけだ。お前らが到着するその五分の間に雲ヶ崎音深は殺されたっつーことだな」
ですね、とぼくは言った。
雲ヶ崎音深はもう、この世にはいない。
ぼくと枠くんが見つけた時には既に亡くなっていた。死因とかは分からなかったけれど、詳しく知りたくもないけれど、既に息絶えていることは一目瞭然だった。その胸に、その腹に、何回も何回も何回も何回も刺し傷があって、恐らく、人体の中を流れている血液の全てが床に流れ出ていたからだ。
そのあまりの凄惨さに枠くんは嘔吐した。ぼくはーー。
ぼくは、すぐに警察を呼んだ。
「それにしても」
と、無精髭の刑事はぼくの眼を見つめながら言う。
「お前、友達が死んだっていうのに冷静だよな」
「そんな、言い掛かりですよ。これでも動揺してるんですよ。表に出づらいだけで」
「へぇ。なら、なんで真っ先に俺ら警察を呼んだ?」
「なんでって……そこに疑問を持つことに疑問です」
へへへ、と無精髭の刑事は笑う。
「普通なーーいや、普通って言葉は嫌いだから使うのはよそうか。第一発見者の大多数はな、先ず警察よりも救急に電話するんだよ。例え、死んでいるのが確実な状況でもな」
「……っ!」
無精髭の刑事は、ぼくが息を呑むのを見て、さらに笑う。
「いやね、それは正解なんだぜ?もうこれ以上ない適解答だ。だけどな、ああいう状況下で最適な選択肢を選べる奴が必ずしも正しいとは限らねえんだよ、これが」
それは。
それは、最早、死亡宣告だった。
お前は既に人間ではないと、人間と呼ぶには余りにも逸脱し過ぎていると、言われているんだ。
ああーー
と。
ぼくはもう、友達が死んでも何も感じることができない、そんなステージいたのかと、ある種納得のような、得心のような感覚が胸に広がる。悲しいと思っていたこれは人が、友達が死んだことによるそれじゃなくて、もっとこう、軽い、物を失くしてしまったときのようなそれに近いのかもしれない。ここに至って、枠くんの言っていたことが思い起こされる。確かに、ぼくは自分のことに関して鈍感なようだ。
そこで、コンコンと、ノックの音が室内を揺らせた。
扉の向こうには制服を着た警官とーー。
「……月乃、さん」
「お待たせー……って、あれ、三六くん、あなた酷い顔色よ?」
「……ええ、まあ」
「あんた」
と、ぼくが何かを言う前に月乃さんはカツカツと、無精髭の刑事に詰め寄って胸倉を掴んだ。
「また、三六くんのこと苛めたでしょ」
慌てて制服警官が止めに入ろうとするが、無精髭の刑事がそれを手で制する。
「おいおい、月乃ぉ、ご挨拶じゃねえか。仮にも同僚だろ?」
「あんたねえ、いつもやり方が汚いのよ」
「へっへっへっ、自宅謹慎処分喰らってるお前に言われたかねえな」
「それはあんたがっ……」
と、言い留まって、胸倉を離した。
どうやら、何を言っても無駄だと悟ったらしい。それには全面的に同意だ。
「帰りましょ。つづくちゃんが待ってるわ」
ぼくは、首肯してスチール製の椅子から腰を浮かせる。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながらこちらを伺っている無精髭の刑事を一瞥してから取調室を後にした。
○
問答無用の問答は有用
○
事件からーー否、まだ事件が立証されてないから、音深さんが亡くなった日かーーから丸一週間、事情聴取を受けた日から四日が経つ今日。
学校の方は、明日、休校が解ける。
マスコミに騒がれたのもほんの一瞬で、今や大物政治家の汚職事件の影に隠れる形となっている。
それは、とても現実の事とは思えなくて、だけど、それはどんどんと風化していく。時間は勝手に流れていって、いや、流れている時間の上に、勝手にぼくが乗っているだけなのか。とにかく、記憶の砂に埋没していく。
だけど。
それなのに、それを心の底から嫌がっている自分がいるのに、にも拘らずどこかそれを絵空事のように捉えている自分もいて。
あの無精髭の刑事ーー名前はなんだったっけ、まあなんでもいいか。あの人が言っていたこと。
あれは、概ね正解だと思う。
事実として一週間が経った今でも、葬儀にも出て、《あれ》を現実だと認識させようとした今に至っても
ぼくは涙を流せていない。
それは、多分ぼくが人間として、どこか終わっているからなのだろう。
いつだったか、誰だったか、忘れてしまったけれど、ぼくのことを《鬼の子》だとか《死神》だとか《疫病》だとかと呼んだ人たちがいた。
あながち、それは間違いって程間違いではなくて、言い掛かりって程言い掛かりでもなかったんだろう。
ぼくの周りには常に死が付き纏う。
ぼくが誰かを強く思えば、それがプラスの想いだったとしても、マイナスの願いだったとしても、その対象の人物には死が訪れた。
一人死に、二人三人と死んで、四人目が死んだ時に、ぼくは考えるのを辞めた。
理由なんて無い。ただ、そうだからそうなるだけ。飛べば落ちるように、殴れば痛いように、刺せば死ぬように、《それ》に理由なんて、ありはしない。あってはならないんだ。
そう、思った。
ぼくは眼を、腕で塞ぎながら独り言ちた。
「さようなら、またね」
○
斬る伐る生きる
○
休校が解けた初日。
登校してすぐに、全校朝会があった。校長やら誰やらが長ったらしい、型に嵌ったスピーチをしていたけれど、最早そんなことはどうでもよくて、耳に入ることすらなかった。
それから何事も無く、何事も無かったかのように時間が過ぎて、放課後。今に至る。
ぼくは、人の少なくなった校舎の階段を屋上に向かって登っていた。
窓から夕陽が射していて、薄暗く廊下を、階段を、ぼくを照らし出す。
「やっぱり、辞めようかなあ」
と、誰にでも無く呟く。
だけど、事は一刻を争う。もたもたしている時間なんて無い。
それにしても、それを踏まえたにしても、これはぼくがやるべきことなのか?分不相応な役割を与えられている気がしてならないんだけど。
そこまで考えたところで屋上の扉まで到着。
ぼくの通う、東上高校は基本的に屋上に立ち入ることが許されている。自殺が増えた昨今では珍しいだろう。
なんでも前に、保護者から苦情があったんだとか。どんな理由をこじ付けたのかは分からないけれど、とにかく、その一件から屋上が開放されている。学校側としてはヒヤヒヤものだ。
扉を開けると、少し先のフェンスから身を乗り出すように下を見ている背中が目に入る。こちらが入ってきたことに気がついたのか、そいつは振り向いた。
「ん。遅かったな」
「ごめんごめん、担任に捕まっちゃっててさ」
彼の名は、成守枠。
「んで、話ってなんだ……ってまあ、一つしかねえか」
「うん。そうだね」
枠くんは手招きしてから言う。
「見てみろよ。人が一人死んだってえのに、もう部活なんかやってるんだぜ?元々、雲ヶ崎音深なんて人間はいなかったみたいにさ」
異常だよ、と枠くんは言う。
夕陽に照らされた枠くんの顔は、なんていうか、哀しそうだった。
「これじゃあ、音深が生きていた理由が無くなっちまう。なあ、俺らはなんで生きているんだ?なんだかもう、解らなくなっちまったよ」
「なんで、だろうね」
一息吐いて、ぼくは口を開いた。
「どうして……音深さんを殺したの?」
すると、枠くんは、一瞬驚いたような表情をしてすぐに自嘲したように笑った。
「どうしてだろうな。俺はあの三人の関係がずっと続いてほしかったんだ。強い繋がりが欲しかった」
「それは、ぼくも同じだよ。だから、音深さんの好意からも目を背けていたわけだし」
「やっぱり気がついてたんだな。自分以外の事となると異常に鋭いからなあ」
くっくっくっ、と笑う枠くん。
「もしも、音深に正面きって告られてたら、お前はどうしてた?」
「どうかなあ。でも、多分、付き合うってことにはならなかったんだと思うよ」
「だろうな。でもさ、その時点で俺ら三人の関係は変わっちまうんだ。あの、家族みたいな関係が終わってしまうんだよ」
家族。
それを失う怖さは、知っている。嫌って程身体に染み付いている。
その恐怖を前にして枠くんはーー。
「音深さんは、あの日……いや、あの日じゃなくても、想いを伝える覚悟をしていたんだね。そして、それを枠くんに言った」
「……俺はやめてくれって頼んだんだ。だけど、音深は『これが素直な気持ちだから』って聞き入れなかった」
「だから、殺した」
ああ、と枠くんは首肯する。
「そっか。じゃあ、順番が逆になっちゃったけど、今からアリバイ崩しをやるよ。どうやら、探偵役は今回は、ぼくみたいだしね」
「似合わねえな」
「うるさいよ。似合う似合わないでやってないんだ。……じゃあまず、ていうか、クリアしなきゃいけない障害って一つしかないんだけどね。それは、音深さんからの電話。あれが無くなればアリバイなんていとも簡単に崩れる」
「…………」
「最初に、犯行はいつ行われたのか。それはぼく達が呼び出されて、というか、ぼくが呼び出された、のほうが正しいよね。まあとにかく、学校に到着する前だ。ぼくが電話を受けたときには既に音深さんは亡くなっていた、と考えるのが自然だろう」
「…………」
「でも、そうすると、音深さんからの着信が説明つかなくなってしまう。ここで、トリックの登場だ。多分、犯行に及ぶ前にボイスレコーダーにでも声を入れさせたんでしょ。すごい陳腐なトリックだね」
「陳腐で悪かったな」
「それで、自分の携帯にアラームでも設定しておいて、あたかも電話が掛かってきたみたいな演技をする。これは多分ぼくの意識を枠くんから外させるためだろうね。電話してる人のことをまじまじと見てる人はいないだろうし。そんで、殺した後に拝借した音深さんの携帯を使って、ぼくに電話を掛ける。それで受話器にボイスレコーダーを当てて再生。それで、携帯は二人で発見したときに、どさくさに紛れて置けばいい」
あの時、ぼくが枠くんの方を向いたら、すぐに露見してしまうような、危ういトリック。そんなギャンブルとも言えるトリック。
「ここまでは計画通りだったんでしょ。だけどね、さすが枠くん。詰めが甘い。あの時の電話で音深さんはなんて言ったと思う?『急に呼び出してごめんね』って言ったんだよ。でもさ、ぼくは音深さんに呼び出されたわけじゃないんだよね。枠くんに呼び出されたんだから、音深さんが知ってる筈がないんだよ。うん、以上がぼくの推理なんだけど、どうかな」
枠くんは呆れたように、はあ、と溜息を吐いた。
「お前さ」
「うん?」
「何の小説を読んで練習してきたんだ?それ」
「おっと、やっぱりバレてた?」
「バレバレ。でもまあ、お前の言う通りだよ」
「だけど、一つだけ分からないことがあるんだ」
「……?俺が使ったトリックはそれで全部だけど」
「音深さんは、殺されるときどんなだった?」
あー、と少し考えてから枠くんは口を開く。
「あいつは全部を受け容れてたよ。こうなることが、はじめから、分かっていたのかもしれないな」
こうなる前にもう、俺たちの関係は変わってたのかもな、と。
呟くように言った。
「きっと、お前が一番最初に俺のところに来てくれると思ってたよ」
「でも、すぐに警察がくると思うけどね」
「そうだな。ちゃっちゃと自首しちまうか」
「自首ーーするんだ?」
「ああ、罪は償わなきゃならないだろ。音深とも約束したしな」
そう言うと、手をひらひらと横に振りながら扉に向かって歩き出した。
ぼくは、それを黙って見送った。
それからしばらくしてから。
成守枠の訃報が入った。
○
無機質な普遍と不変の気質
○
成守枠。
旧姓、岸根枠。
平成八年四月十七日生まれ。
出生地は東京都。
実父は岸根徹、実母は岸根静子だが、成守枠が八歳の頃に両親から離されて、その後、十二歳まで施設で暮らす。
十二歳の秋、今の両親である成守譲二と成守麻紀に引き取られるが、その後の経過は芳しくなかったようだ。
成守家は地元では有名な代々続く医者であり、譲二も医者であるが、子宝には恵まれず、やむなく養子縁組の手続きを取った。
しかし、跡継ぎである枠との関係は日を越すごとに悪くなる一方であり、何度か警察沙汰になったこともあるという。
平成二六年八月二十日 午後18時過ぎ。成守枠は東上高校の最寄り駅で、通過する筈だった快速急行の前に飛び込み、死亡。即死だったと思われる。
尚、目撃証言などは今現在に至るまで報告されていない。
○
無邪気に這いよる邪悪な蛇
○
休校が解けてから早一週間。
ぼくはとある場所に向かって只今、絶賛移動中。あのオートロックのマンションから約二時間程車を走らせているけれど、目的地まではもう少し掛かりそうだ。
おっと、今の言い方だと、まるでぼくが車を運転しているみたいだけど、残念ながらそうじゃない。ぼくは助手席に座っている。あくまでも助手だ。主役であるドライバーは久佐原月乃さんだ。
頼み込んでやっとこさ運転手を引き受けてくれた。
『あのー行きたい場所があるんですけれど』
『うん、いいよー。非番で暇だしねー』
みたいな、熾烈にして熾烈の激戦がなかったのだけれど、本当はもっと真面目に頼んだ。
それに、あまり進んで行きたい場所でもないし。
ちなみに。
つづくは今回はお留守番だ。なんでも、『えぇ、聞いてないよぉ、お兄ちゃんあたしから半径五メートル以上離れちゃダメ』なんて言うことも無く、『え、あたし部活あるし、行けないよ』と、言われ、華麗に拒絶されたのだった。というか、どちらかというと、月乃さんと遠出ができなくて惜しんでるようにも見えた気がしたけれど、気のせいか?気のせいだよね。うんうん、考え過ぎは良くないね。
まあ、着いて来なくてよかったなあ、と思う反面あり、お兄ちゃん寂しい側面もあり、なかなかどうして複雑だ。
なんて事を窓の外をぼんやりと眺めながら考えていると月乃さんが口を開いた。
「ねぇ、三六くん、大丈夫?」
「へ?ああ、枠くんの事ですか?」
「まあ、それもあるけど……最近いろいろとあったじゃない」
「突然に二人も友達がいなくなっちゃって淋しいですけど、それだけです。はい」
これは、嘘偽り無い本音だ。あの後、枠くんが電車に飛び込んだと聞いたときも、その可能性を考えていなかったが故の動揺はあったものの、それだけだった。
自首をすると言った彼の言葉を信じたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。もっと用心していれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。いや、もっと突き詰めて言えば、ぼくがあんな探偵ごっこをしなければ、あるいは事の真相に至らなければ、枠くんまで死ぬことはなかったのかもしれない。
それじゃあ、と。
これじゃあまるで……ぼくが殺したみたいじゃないか。
そう、思わないでもない。
そんなぼくを見てどう思ったのか、月乃さんは、ふーん、と言っただけだった。
窓の景色は瞬く間に変わっていく。この光景は随分前にも観た。そのときは今とは逆再生だったけれど。
ぼくが今、向かっているのは、昔々ぼくが地元としていた場所だ。
全てが始まった地。
そしてーー
そして、ぼくという人間が終わった地。
家族が終わった地だった。
○
恣意的な死と詩的な屍意
○
「よお、久しぶりだなあ」
「…………」
「おいおい、つれねえな。久しぶりなんだ、仲良くしようぜ」
「…………」
「はっ。そうかいそうかい、なら俺は勝手に喋らせてもらうぜ……ん?つづくはいねえのか?」
「…………」
「でかくなってんだろうな。お前もそこそこに男らしくなっちまったようだし」
「…………」
「まあ、あいつには嫌われてるからな、しょうがねえか」
「…………」
「それで?」
「…………」
「わざわざこんなところまで俺に会いに来たってこたあ、なんかあったんだろ?」
「…………」
「また……お前の周りで人が死んだんだろ?」
「…………」
「どうだ、当たりだろ。くはっ、やっぱりな」
「…………」
「はあん、今度は誰だ?つづくってことはねえだろうから、月乃あたりか……それともお友達って線もあるなあ」
「…………」
「ったく、ほんと、お前は懲りねえな。いい加減に気付け」
「…………」
「お前は死をばら撒く。周囲を死なすんだ。何せ人殺しの血を半分、そして被害者の血をもう半分受け継いでるんだからな。お前は死の加害者であり、運命の被害者でもあるんだよ」
「…………」
「お前は元から、根っこから、魂から、そこらの人間とは違えんだよ」
「…………」
「俺はな、お前の為を思って言ってやってんだぜ?」
「…………」
「俺の言ってることわかるか?あのなーー」
「ぼくがーーぼくがどうして、貴方に会いに来ると思いますか?」
「……あ?」
「ぼくが、自分の罪を忘れない為ですよ。ぼくは自分を一生許さないでしょう。それをより強固にする為です」
「…………」
「他の人間とは違うだって?そんなことはぼくが一番よく理解していますよ。貴方に言われずとも、否が応でも、ね」
○
邂逅の後悔と希望の放棄
○
自動ドアを抜けると、駐車場が広がっていて、その一角で車に寄っかかっている人がいた。
「お疲れ、お父さんどうだった……って聞くのも変か」
と、笑った。
「あんなの、父親だと思ってないですよ。ぼくも、つづくも」
言いつつ、本当はどうなんだろうと考える。
本人たちがいくら否定していても、生物学的には紛れもない父親なのだ。奴と同じ血が自分の中を駆け巡っているのかと思うとぞっとしない。
月乃さんが運転席に乗り込むのを見てから、助手席のドアを開く。
「さて、次は先生んとこで良いのかな?」
「あ、はい、よろしくお願いします」
先生か……ある意味で今までの誰よりも質が悪い。なんかなあ。会いたくない気がするなあ。
だけど、隣では、「ああ、先生と会うの久々だなあ、楽しみだなあ」と、うきうきなもんだから退路は絶たれたも同然だった。
変人という共通点で強く惹かれあうんだろう。
まあ、何にせよ、世話にはなったし挨拶くらいはしていかないとな。いや、でも直接会わなくても。
と、そこまで考えたところで車は無情にも先生宅へと向けて発進した。
不安というどす黒い暗雲を乗せて。
○
不可能が付加された負荷の可能性
○
最初に飛びついてきたのは
夕星はぼくと同じ歳で身長も女の子にしてはそこまで低くはない。むしろ高い部類に入る。そんな成人と大して変わらない身体を突然受け止めろというほうが無理な話で、決してぼくが非力だからとか、女の子も支えられないヘタレとかではない。ってか、あいつドロップキック気味に飛んでたしな。
次いで、第二波、第三波は猫(一匹はアインシュタイン、白猫。もう一匹はウィッテン、黒猫で頭の天辺に白い斑が三つある。ちなみにアインシュタインは皆さんご存知の天才だけど、ウィッテンも天才だ。ウィッテンは大学時代は歴史学、趣味で物理学そして物理学者でありながら数学最高峰の賞を受賞した希代の天才。興味があれば調べてみてほしい)。
そして、とどめの大四波は言うまでもない。先生である。
すらっとしたスタイルにさっぱりとした顔立ちが相まって並々ならぬ美人ではあるのだけど、如何せん性格が残念ときてる。だって、いい歳して飛び掛かってくるところをみてもらえば大体わかるだろうけど……ねえ?二十ーー
「おい、三六。お前、今私の年齢を考えただろ」
と。
こんな感じでたまに化け物クラスの能力を発揮してみせる。
一方、夕星はぼくの目の前、文字通り目と鼻の先で「おかえりーおかえりーおかえりなんだよー」と、軟体動物顔負けのくねくねっぷりを披露し、アインシュタインとウィッテンはびゃーびゃー鳴き(先生が上に乗っかってるから重いらしい)、先生は何故かぼくの空いた脛をがしがしと蹴り続けている。
これ、一体どんな拷問ですか。
そんな光景をにやにやとしながら眺めている月乃さんが目に浮かぶようだった。
しばらく経って。
最初に離れたのは先生だった。
理由は、そろそろやめないとぼくが圧死してしまうとかそういった極めて人道的な理由ではなく、ただ単に飽きた、らしい。
間髪入れず、アインシュタインとウィッテンはもはや猫の鳴き声とはとても思えないような、表現しただけで動物愛護団体に目の敵にされそうな、そんな鳴き声を上げながら光速で駆けていった。
最後に夕星が残ったわけだけど、結論から言うと、離れなかったからそのまま腰にぶら下げて、先生に促されたソファに座った。
「やあやあ、久しぶりだね三六。元気していたかな?」
「はあ……ここに来るまでは元気でしたよ。精神的にも肉体的にも。特に脛の損傷が酷いように思います」
「おや、それは大変だ」
と、悪びれる素振りも無く、というか先生が蹴ったという事実が無かったかのように言い、コーヒーを差し出してきた。
「これでも飲んで落ち着きたまえ」
いや、むしろお前が飲んで落ち着きたまえ。
「先生も変わらないねえ」
「そういう月乃だって変わらないじゃないか」
先生と月乃さんは昔からの付き合いで、無駄に意気投合している。
「月乃はまだ警察で働いているのかい?」
「うん?そうだよ」
「警察なんかに君を置いておくのが惜しいよ。給料なら今の倍払うから私のところにこないか」
訳、警察の給料の倍を払うから私と共にニートになってくれないか。
「んー……いや、嬉しい提案だけど、ごめん」
「どうしてそこまで……?」
そこはぼくも少し気になった。ここまでの好待遇を蹴る理由なら生半可なものじゃないんだろう。
「なんでだろうね、自分でもちょっとわからないんだけど。強いて言うなら、犯人を捕まえた時の悲壮感溢れる表情が好きだから、かな」
ただのサディストだった。
「なるほどね、ならば仕方ない」
納得できちゃうのもどうかと思います。
ていうか、ぼくってツッコミ役になること多くないか。
声には出さないけどね。キャラ設定的に。
「それで?私に用があったのか?」
と、話をぼくに振る先生。
「いや、別に」
「ふうん、ならあいつか」
「…………」
それっきり口を開かない。
すると、夕星が、ねえ、と声をかけてきて、「遊ぼうぜ」と言って、満面の笑みを浮かべた。
「遊ぶってなにして?」
んー、と考える素振りをしてから思いついたように人差し指を立てる。
「相撲!」
予想の斜め上というか、予想地点の対極の斜め下というか。
いかん、夕星が先生に毒されている……!
だけど。
だけれど、夕星の天真爛漫さに、そして先生の無茶苦茶ぶりに救われたのもまた事実で。
こんなぼくを受け容れてくれた、そんな事実だけでよかったりする。
結局、二、三相撲を取って(ぼくの全勝)、辞めた。多分、夕星なりに気を使ってくれたのだろう。
ぼくは一つ、夕星に礼を言ってからもといた場所に戻る。
すると「きみは変わったね」と、先生は口を開いた。
『きみ』というのが一体誰を指してのことなのか逡巡した後、それがぼくのことだと理解する。
そして「全然変わってないですよ」と、答えた。
「いや、変わったよ。いや、変わったように見せていると言うべきか。はたまた変わってないように見せていない、と言うべきか」
「相変わらず言ってることがよくわかりませんね、先生は。大体、人は変われないって言ってたのは先生じゃないですか」
すると、月乃さんがくつくつと笑って「先生らしいね」と言った。
「その持論だって捨てたわけじゃないよ。ただ本質を変えることはできないってだけで、表質は変えられるだろう。例えば、お世辞なんかが解り易いかな。あれは一概に本音とは言えない。というか、ほぼ本音ではないだろう。だけど、表面上はそう思っているように相手を騙すことができるわけだ。と、同時に自分の本質をも騙す」
「本質を騙す……」
「そう。そして、その最終(ハイエンド)が夕星さ」
夕星は先生とは血が繋がっていない。ぼく達同様、どこかから引き取ってきたのだ。夕星がここにくる以前の話をぼくは詳しくは知らないけれど、壮絶だったことは確かだ。それだけは確実に、絶対の自信を持って言える。何故なら夕星は後遺症とも言える、ある制限を自らに設けているからだ。
彼女は、喜怒哀楽の『喜と楽』しか感じられないのだ。
怒りや哀しみを無かったことにする。そんなものは無かったと己に嘘を吐く。
それが幸か不幸かはわからない。だけど、無意識にそれをやっているところを見れば、それは夕星にとって必要なものであることは間違いないだろう。
「三六、お前も夕星ほどじゃないにしろ、自分を騙しているだろう?お前と夕星は似ている」
「逆に素の自分を曝け出してる奴も稀有だと思いますけど」
「確かに」
と。
言って、先生はうんうんと頷いた。
「しかし、私たちは家族だろう」
それは、ごく当たり前の事のように、軽い調子で言われた。
「家族には素のお前を見せてもいいんじゃないか?少なくとも私は、素の私を見せているよ」
家族。
「昔はそんな余所余所しい喋り方じゃなかったし、私のボケにももっとツッコんでくれたのに。お姉ちゃん寂しい」
「…………」
立ち位置、母親じゃなかったのか。
「……ま、まあ気が向いたらーー」
「いいかい、三六。昔の人はよく言ったもんだよ」
と、仰々しく腕組みをしながら言った。
「明日やろうを今日やろうと言う奴は馬鹿野郎ってね」
「ただのなまくらじゃねえか!…………あっ」
しまった……。
つい、ツッコんでしまった。
すると、先生は笑って、本当に嬉しそうに笑って「それで良いんだよ。言いたいことがあるなら言え、訊きたいことがあるなら訊け、喧嘩する時だってあるだろう。だけど、したいことがあるのなら躊躇しないでやったらいいんだ。そんなに我慢するな、自分をそこまで騙すな」
だって、と先生はぼくを抱きしめた。
先生の鼓動が、吐息が、温かさが身体全体を伝わる。
「私たちは家族なんだから。どんなことがあっても、それは変わらない。だから安心していいんだ」
と、そう言ったのだった。
不覚にも、ぼくは、誰の目を気にするでも、憚るでもなく、それがそうであるかのような当然さを持ってして
声を上げて、涙を流した。
○
意識の奥と意志の記憶
○
「それだけ体外に水分を放出したのなら、さぞかし喉が渇いたことだろう」
と、言いつつ冷蔵庫の扉を開ける。そして、小さく、あっと声を漏らして
「すまん、何もなかったのを忘れていた。街まで出て何か買ってきてくれないか」
と、満面の笑みを浮かべながら言い放った。
そして、急遽結成された食糧及び飲料の調達班。班員は、先生以外全員。
「はっはっはっ、では頼んだよ。おっと、危うく忘れるところだった。ついでにこれをあるだけ買ってきて欲しいんだ」
そう言って、差し出してきたのは目にした事の無い袋菓子だった。
「私はこれが大好物でね。なかなか見つからないんだ。売っていなかったからといって、他の店まで探しになんていかなくてもいいからね。うん、本当に」
なんて白々しい物言いだ。
「わかりました。無かったら別の袋菓子を買ってきますね」
そう、多少の悪意を込めて言うと、先生は悲壮感溢れる、例えるならば、リードを木に結ばれて待たされている犬のようなそんな表情をした。ぼくは必死で笑いを堪えながら「嘘です。少しなら探してきますよ」と言った。
すると、さっきの表情が幻だったかのような笑顔で、うんと頷いたのだった。
それで、現在。
月乃さんの車でかれこれ五件目となるスーパーに向かっている途中である。
ぼくは、左肘を窓枠に立てて顎に手をやりながら、「まったく」と、悪態をついた。
「なんてマイナーなものを好き好んで食べてるんですか、あの人は。大体、先生の所為で時間を食っているのにどうして当の本人は自宅待機なんですか」
「まあまあ、落ち着いて三六くん。先生だってやることがあるって言ってたじゃない」
言ってた。
確かに言っていたけれど、その時、一瞬何かに躊躇したような、そんな印象を受けた。そんなしょうもないことで嘘を吐くとは思えないけど、面倒臭いのならストレートにそう言うだろうけど、何か引っ掛かるものがある。
いつだったか、前にもこんな事があった気がする。えっと……。なんだっけ、思い出せないな。
すると、夕星も同じことを思ったのか、つまらなそうに窓の外を眺めていた顔を此方に向けて「三六とつづくちゃんがまだうちにいた頃、こんな事があったよね」
と、言った。
よく憶えていないから、ああ、と曖昧な反応を示すぼくに諭すように続けた。
「確か、あの時はつづくちゃんの誕生日でさ。サプライズパーティをする為にあたし達にも内緒にしてた事があったじゃん」
「ああ……」
思い出した。
確かにそうだった。あの時は買えるはずのないものを探させて時間稼ぎされたんだった。
「月乃さん、もう家に帰りましょう。多分、これはいくら探しても見つからない」
でも、一体何の為に?
誰かが誕生日ということでもない。何かの記念日でもない。
でも、意味も無く、無意味なことをする人でもーーない。
先生はやることがあると言った。あの人は基本的に嘘を吐くのが下手だ、だから誰かを騙したいときにはいつも本質からずれたところに位置する真実を言う。
だから《やること》があるのは真実だろう。だけど、その内容が本質だ。
そして。
車が家に着いて車庫に収まるや否や、ぼくは駆け出した。それに連なるように夕星も、あははと嬌声を上げながら走る。
何事も無いならそれでいい。
「すまん、その菓子、製造中止だって。なんで私が好きなものは製造中止になるんだろうなあ」と、軽口を叩けるならそれでいい。
鍵のかかっていない玄関を乱暴に開けて見渡すが、誰もいない。
「先生!」
呼んだ声は空っぽのリビングに吸い込まれて消えた。ふと、気が付くと夕星がいない。二階に行ったのだろう。それより先生だ。キッチンの方に向かう。そこで、遅れてきた月乃さんが、
「先生いた?」
と、問うてくるが、それに首を横に振って応える。
と。
すてててて、と二階を走り回る足音がした。一階はあらかた探した。いるとしたら二階にだろう。
そう思い、階段に向かう。
階段を登ったところに夕星が立っていた。
その手からは、血液がぽたぽたと垂れている。そして、
「……あれ?」
と、無表情で呟くのだった。
○
無作為で無理な理
○
プラスとマイナスがあるとしよう。
それら二つは切っても切れない関係にあって、正しく表裏一体である。しかし、その間には何も無いのか。
例えば、手と手を繋いだとしても、その間には空気が含まれているように。
例えば、人と人の間には視えない縁があるように。
例えば、一秒と一秒の間のコンマ何秒のように。
目に視えずとも、認識すらしていなくともそこに何かが存在する。そんな存在。
さて、階夕星は感情のバランスが殊の外崩れている。さらに言ってしまえば、マイナスが存在しない。否、存在はするが、それを見ようとはしない。見えなければ、あると知らなければ無いのと同じ。
しかし、常にプラスかといえばそうでもない。感情にはプラスとマイナスの他にフラットが存在する。即ち、《無》である。
何も感じない。何も思わない。何も、無い。
階夕星が柏木雪々の死体を目にした時、一体何を思ったのだろう。
最愛の家族を死に至らしめた犯人を憎んだだろうか。
それとも、自分の無力を呪っただろうか。
はたまた、何も思わなかったのか。
それは、夕星本人のみぞ知るところであって、それ以外の誰かが知るべくもない。
ただ一つ言えることは、何を思ったにしろ、何も思わなかったにしろ、それを許容できるだけの無理を、あるいは理を、階夕星は持ち合わせていなかったということだけだ。
○
全方向に一方通行。不可逆の末路
○
《それ》は紅い液体の中に突っ伏していた。もともと一つだったものが二つになっていて、その断面からどくどくと肉と血が流れ出ている。
柏木雪々はこの世にもういない。
あるのは、抜け殻の、上半身と下半身とで真っ二つにされた肉塊とあまりにも紅い血液のみだった。
確かめるまでもなく、その命は途絶えている。死んだ魚の目をしたなんて文句はよく聞くけれど、これは死んだ人の目をした何かだ。
ぼくを家族と呼んだ人はもうこの世にいない。
ぼくを泣かせてくれた人はもういない。
ああーー
と、思う。
なんて酷いんだろう。
なんて理不尽なんだろう。
こういうときの常套句として、神はこの世にいるのかなんてものがあるけれど、確信した。神はこの世にいる。絶対の存在として存在する。ただし、それは神話で描かれているような(神話の中の神も大概だけど)、人間の望む存在ではない。公園でしゃがみ込んで、逃げ回る蟻を使って遊ぶ子供のような。邪悪さのかけらもないただの好奇心の塊。
そんな神様。
ああ、そんなことならいっそ踏み潰してください。
と。
意識を自分の身体に戻すと、別の部屋で月乃さんが電話をしているのが聴こえた。多分、警察だろう。
そこで、ふと思い至る。
夕星はどうした。
見渡すが、見つからない。
ぼくは考えるまでもなく駆け出した。
夕星ならどこにいく?一体どこを選ぶ?
扉を壊さん限りの力で開けて、家の外にでる。
先生の家はこの辺りだと高台に位置する。それは、ただただ見渡した程度では目に入るものがほぼ無いということなのだけれど、やはり何事にも例外は付き物である。高い、天に一本伸びるように聳え立つ高層マンション。ここから唯一見下ろさなくても見えるもの。
あの日のことが走馬燈のように浮遊する。
成守枠を呼びだしたあの日。呼び出したのはぼくの方だったけれど、場所を指定したのは枠くんの方だった。目立ちたがりの枠くんのことだから、ああいった場面でのお約束、定番の場所を選んだのだろうと思っていたけれど、今になって別の可能性に思い至る。
それは、
いつでも飛び降りて死ねるように。
あの場所を選んだのかもしれない。
その意味でもお約束の定番の場所には変わりない。
あそこに夕星がいる。それは確信に似た思い込みだったのだが、現実問題としてその高層マンションに夕星は居ないのだが、階夕星はすてててて、と確かにそこに向かっていた。
○
光を以ってして影を知り
生を以ってして死を知る
○
恐怖というのは一体何なのだろう。
たとえば、痛いのは誰だって嫌だろう。まあ、ごく稀に例外はいるけれども。とにかく、痛いのは嫌だという感覚は恐怖に通ずる。何故ならそれは死に直結し得るからだ。死を回避しようと本能的にその対象を恐怖する。
そこまでは解る。そこまでは理解できる。
だけど。
死はそんなに悪いことか?
死は恐怖するに値するのか?
ぼくはこう思う。
人は死に恐怖するんじゃない。死という謎に恐怖する。
わからないは怖い。それこそ、死ぬほど怖い。
ならば、わからないという事実すらわからなかったら。自分はそれを理解できていないんだと理解できていなかったとしたらどうなるんだろう。
わからない事がわからない、それすらも恐怖するのか。
それとも、それに恐怖することもなく。何事も無かったかのように歩き続けられるのか。
ぼくは、目の前にいる夕星を見ながら、そう思った。
夕星は決して低くはないフェンスを乗り越えてぼくから見て向こう側に立っていた。少し足を踏み外しただけで落ちてしまいそうな、あるいは少し落ちたいと願っただけで落ちられるようなそんな立ち位置。
高層マンションだけあって風が強い。その風を華奢な身体全体で受けていて髪が無造作に靡く。
「来ちゃったかあ」
と。
夕星は振り向きながら言う。
その表情はいつもの笑顔ではなくて、無表情だった。いや、あの笑顔は本物じゃなかったんだからどっちでも構わないのか。
「ねえ三六、わからないってどんな感じか、わかる?」
「そんな話はいいからこっちにーー」
「何も、感じないんだよ。何をされても。何があっても。例え、先生が死んでも」
へへっと、笑ったような気がした。だけど、次の瞬間には、というか気が付けば無表情だったから本当に笑ったのか定かでないけれど。
「それってもう人としての存在から外れちゃってるよね」
それは、ぼくがあの無精髭の刑事から言われたのと同じ。
死亡宣告も同じあれだった。
それが赤の他人に言われただけなら聞き流せるだろう。だけど、夕星とぼくは、
自分でそれに納得してしまっている。
人の形をした人でなし。
心ない人でなし。
自らがそうであるとわかってしまっている。だから、そこに恐怖はない。ないけれど。
「虚しくは、あるよね」
と、夕星は言った。
「あたしね先生のところに来る前は本当の家族と暮らしてたの。本当のっていってもね、血が繋がってるってだけだけど、それが本物なのかわからないれど、だけどね、みんな殺されちゃった。お母さんもお父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも、みんな、あたしの目の前で殺されちゃった」
「…………」
「でもね、その時あたし、何を感じてたのかわからないの。いや、何も感じてなかったのかもしれないね」
何も思わなかったのかも、と呟いた。
「だから、あたしだけ生き残った。あの人殺しは人を殺したかったんだから、人じゃないあたしを殺す理由は、無いもんね」
いや、そうじゃない。
先生は夕星の《それ》が事件による後遺症だって言ってた。夕星の許容範囲を越えた感情が芽生えた、だからそれをシャットアウトした。
だったら、夕星はまだ引き返せる。夕星はまだ、救える。
ぼくとはーー違うんだ。
「ぼくはさ、周りで人が死んでいくんだ。学校でぼくを虐めてた奴とかぼくに好意を寄せてくれた人とかさ。とにかく、死んでいったよ」
人でなしに人でなしが言えることがあるんだろうか、そう思いつつも続ける。
「いつからだったか何も思わなくなっちゃった。だけど、それがなんだ。だからなんなんだ?それでもいいと、それでも居場所を作ってくれる人がいるじゃないか」
「違う……全然違うよ。三六はあたしのことなんか一つもわかってない。あたしは、あたしが許せない。こんな事になってもまだ自分を騙してる、自分のことしか考えてないあたしを許せない」
周りがどうって話じゃないよ、と言った。
奇しくもそれは、ぼくがあの男に言ったのと同じだった。
先生も言っていたけれど、やっぱりぼくと夕星は似ているよ。いや、もはやこれは、同じと言ってもいいかもしれない。
ああ。
そうか、今、ぼくは自分を救おうとしているんだ。
夕星は、ぼくなんだ。
「あたしはあたしのことしか考えてないのに、周りはみんなあたしのことを考えてくれる。それを受け容れられるあたしが許せない」
「確かにそれは自分勝手過ぎるかもな」
と、ぼくは頷く。それはとても演技っぽくみえたことだろう。だって演技なのだから。
「だけどね、自分勝手じゃない人間なんていないよ。右を向けば己の保身、左を向けば他人を蹴落とす。そんな連中がわんさかといるのがこのくそったれな素晴らしい世界だ。でも、そんな中でもずば抜けてのお人好しがいるんだ。たとえば先生みたいなね」
ふう、と一旦間を置く。
「夕星は何も感じないなんて言っていたけど、本当にそうかな?本当にそうなら今、何をしようとしているんだ?」
「感じないよ。悲しくなんかないし、辛くなんてない」
「それはそうなのかもしれない。それでも、今まで、楽しかっただろう。嬉しかっただろう!だから今、自分で命を捨てようとしてるんだろっ!!」
「楽しかったよ、嬉しいこともあった。ずっと一緒にいたいと思ってたよ。だけど、そんな人を失っても涙の一つも流せないなんて、そんなーー」
「先生は!!」
およそ自分でも想像もつかないくらいの声量だった。喉が張り裂けるかと思った。
「先生はお前に泣いてほしいなんて!!これっぽっちも思ってない!なんでそんなことも気が付かないんだ!」
ぽたぽた、と頬を涙が伝う。なんで泣いているのかわからない。
いや、わからない筈がない。
これは。
ぼくが言ってもらいたかった言葉なんだ。
「先生は夕星に笑ってて欲しかったんだ。ただ笑って過ごせればよかったんだよ。家族ってのは、そういうもんだ。だから」
笑って、ぼくは夕星の分まで笑ってから言った。
「だから、生きていいんだ」
そう、ぼくが言うと一瞬惚けた顔をした後、「そっかあ」と、呟いた。
そして、向こうに行ったときと同じであろう動作でフェンスをよじ登ろうとし始めた。
なんとか……なんとか説得できたみたいだな。
そう思った瞬間。
「あ」
と。
夕星が足を滑らせた。身体が万有引力の法則に則って地面に向かって引っ張られていく。
「ーーくそっ!」
全神経を脚力に集中させるが、ぼくと夕星の距離はざっとみても五メートルは離れている。一歩を踏み出す間に、それこそまさに、あっという間に視界から夕星が消えた。
結局、これかよ……。
誰も救えない。それがぼくが背負った呪いなのか。それがぼくだとでもいうのか。
ふらふらとフェンスに近づく。
それが自分の意思なのか、それとも本能的なそれなのかは判別つかないけれど、とにかく近づいて下を覗いた。
そこには。
夕星が立っていた。さっきと同じ惚けた表情のままそこに立っていた。
落ちる寸前、淵を掴んで事なきを得た、とかそういうことじゃない。
立っていたのだ。
夕星がさっきまで立っていたその下に、さらに段差があって、そこに、偶然に着地したのだった。
フェンス越しに顔を突き合わせていると。
「うぅっ」
と、呻いた。
呻いたのは、ぼくじゃない。
夕星が泣いていた。
「し、死ぬかと思った、よ……。死にだぐないと、思っだ、よぉ……。ひぐっ、もっと生きていだ、いよ」
それを受けてぼくはありったけの感情を込めて言うのだった。
「くそったれな世界にようこそ」
○
兄妹の強大で凶大な叫愛
○
夕星を引っ張りあげるのには思っていたより手間取った。
ぼくは運動神経もそこそこの典型的現代っ子なので、人を引っ張りあげるなんて重労働は能力の範囲外なのである。こんなときに枠くんがいたら大活躍だろうなあ、と場違いな人を思い起こしたりしてみた。
果たして、下手したら諸共落下死という危機的状況を背に夕星を救出して先に戻らせる。
「三六は、来ないの?」
と、夕星が少し腫れぼったい瞳をこちらに向けて言う。
「うん。ぼくはまだやることがあるんだ。月乃さんのところに帰ってて」
そう、ぼくは答える。
すると、ふうん、とすこし間を置いてから「わかった」と、頷いて後ろ手に扉を閉めた。
完全に夕星の足音が完全に聴こえなくなるまで待つ。
そして。
「そろそろ出てきなよ」
当然、屋上にはぼくしかいない。いや、いないというのは語弊があるか。屋上にはぼくしかいないように、見えるだけで。絶対にもう一人いるのだ。
「ほら、何もしないよ。おいでよ。ルールルルル……」
しばらく、そうして遊んでいると「そんなんじゃ、狐も呼び出せねえよ」
と。
屋上に設置してある給水タンクの裏から声がした。
そして、現れた。姿を見せた。
《そいつ》は、つづくの姿をしていた。
だけど、雰囲気はもちろん、声質までも別人。男みたいな声だった。
「はじめまして、かな?」
「ああ、そうだっけな。はじめまして、お兄ちゃん」
そう言って、かははは、と笑う。
そして、たーんと、飛んでぼくの少し先に着地した。
「で?お兄ちゃんは一体どこまで理解できているのかな?」
「どこまでって……」
「あー、やっぱいいや。そういう面倒なことは柄じゃないんでね。こうなった以上は、おれが説明してやるよ」
「……」
「ま、説明しやすいようにおれのことはイケメンとでも呼ぶとしよう。まず、おれ、イケメンという存在は何なのか、だよなぁ。おれは言うなればダムみてーなもんかな。つづくちゃんの許容しきれなかった感情のはけ口ってわけさ。あれ、もしかして、今の例え上手いんじゃねえか!?」
「つづくの……」
「無視かよーーま、そうさ。簡単に言っちまえば別の人格ってやつだな。おれがその全てを担ってきた。そういう役割で生まれたんだから当たり前だけどな」
その、顔は終始にやにやと嫌な笑みを浮かべている。
「次に、おれの誕生秘話。じゃじゃーん!お前達のお袋さんが死んだときを憶えてるか?」
「……ぼくとつづくは目の当たりにしてるんだ。忘れたくても忘れられない」
「だよね、だよなだよな。そうなんだよ。えーっと、お兄ちゃんが十ぅ……ん?」
忘れてんじゃねえか。
「ぼくは十三歳でつづくは十歳だった」
「そうそう、そんくらいだったな。でもさ、よく考えてもみろよ。目の前で親父さんがお袋さんを刺し殺してんだぜ?そりゃあ並々ならぬ衝撃だったはずだよなあ?映画でもよくあるじゃん、グロテスクな表現がうんたらかんたらってな。ましてや、肉親の話だ。たかが十歳の少女に耐えられるはずがねえんだよ」
「……」
考えてみれば。
よくよく思い出してみれば、数日間黙ったきり、元通りとまではいかなくとも、普通に生活できる程度に戻っていた。それは確かに異常だ。
「十三歳のお兄ちゃんが耐えられたのも奇跡に近いんだぜぇ?ま、とにかく、つづくちゃんは逃げ道としておれを創り出して、そして、現在までおれはその役割を全うしてたってわけだ!」
「つづくが抱えきれないものを切り離してお前ができたって話はわかった。なら、お前がそれを抱えきれなくなったらどうなる?」
「おおう、さすがお兄ちゃんだねえ。聡いことこの上ねえな。是非ともクイズタイムショックに出演してもらいたいもんだね。それで、えっと……なんだっけ、おれが抱えきれなくなったときの話だっけか?どうだろうな。おれもわからねえけど、また人格が増えるんじゃないか?それはあり得ない話だけどな」
「それって……どういうーー」
「だーかーらー。抱えきれなくなる前にそれを解放してやればいいだけじゃん。抱えられないなら抱えようとしなければいいんだよ」
「お、お前……」
その先がうまく言葉にできない。思考がまとまらない。
そして、奴は混乱したぼくを諭すように言う。
「そうそう、お兄ちゃんの周りで人が死ぬのはそういうことさ。お兄ちゃんがどうこうってわけじゃなくて、おれが鬱憤を晴らしてたってだけ……ああ、鬱憤ってのも変な言い方かーー」
「てめえ!!」
思い切り振りかぶった右の拳をこともなげに躱されて空振る。
「おおっと……あぶねえな。ちゃんと話を聞けよ。人の話は最後まで聞きましょうって学校で習わなかったのか?」
「……屑の話は聞くなって教えられたよ」
「ひゃははは、屑かあーー酷い言われようだな。おれがいなけりゃ今頃つづくちゃんがどうなってたかなんて考えるまでもないだろうに。まあまあ、お兄ちゃん、おれは喧嘩しにきたわけじゃねえんだ。話くらい聞いてくれよ」
「…………」
「じゃあ、ここで一つお兄ちゃんに問題。昔も今も変わらない、つづくちゃんの大事なものってなあんだ。制限時間は十秒。いーち、間飛ばしてじゅう!かははは、残念時間切れ。答えはーー」
それまで、嫌な程にやにやと、ときには満面の笑みを浮かべていた奴が無表情になる。いや、無表情じゃない。それを強いて言葉にするなら、負表情。無よりも負。表情だけで人を殺せてしまいそうな。氷点下の表情。
「お兄ちゃん、あんただよ」
「えっ……」
「つづくちゃんはあんたを失うことを恐れた。自らの死よりも恐れた。あんたが自分から離れるのを酷く忌み嫌った。まあ、家族同士のあんなのを目の当たりにしたんだ、当然といえば当然か。この世でたった一人の家族がお兄ちゃんなんだからな。あんたの周りで人が死ぬのはその所為さ。お兄ちゃんを虐めてたあいつらも、お兄ちゃんに好意を寄せてたあの娘も、あの先生って呼ばれてた女も、つづくちゃんにしてみればあんたが自分から離れる可能性でしかなかった。危険性でしかなかった。だからって、つづくちゃんが殺したいって願ったわけじゃねえんだぜ?ただ、少し、ほんの少しの危機感があれば、おれの出番ってわけだ」
「そんな、そんなことってーー」
いや、でも待てよ。すこし落ち着いて考えてみれば、先生の死体は上半身と下半身で引き千切られてた。あんなこと力学的につづくができるはずないじゃないか、きっとぼくにだって無理だ。そうだよ、そんなことはーー
「あり得ない、と思ってんだろ?大方、あの先生とかいう奴の死に方はつづくちゃんには不可能だ、とか思ってんだろ?ところがどっこい、そうじゃない。まあ、ここら辺はちっとめんどいからざっと説明すっとだな。人格に合わせて身体能力を変化させることができんだ。すげーだろ?人体って不思議だよなあ、つづくちゃんの身体でもおれの人格が表に出ていれば、ほら」
と。
さっきまで自分が立っていた給水タンクを殴る。すると、およそあり得ないようなへこみ方をして、そこから水が漏れ出した。
「こんな感じにスーパーサイヤ人だぜ」
「……そうか、わかった。お前がみんなを殺したんだな。なら、ぼくはお前をーー」
「おいおいおいおいおいおいおい、ちょい待ち、ちょい待ちなや。おれを否定すんなよ。おれを否定することはつづくちゃんを否定するも同じだぜ?愛しのお兄ちゃんにまで拒否られちまったら今度こそつづくちゃんは掛け値なく廃人になっちまうだろーなあ」
そう言って、くつくつと笑った。
「ま、そういうことだから、もしかするとこの先ちょくちょく会うかもしれねえがそん時はよろしく頼むよ。じゃ……」
と、言うや否や奴の、というかつづくの身体がガクガクと揺れ始めて、かくん、と顔を俯かせる。しかし、すぐに顔を上げた。
「……つづく?」
「お兄ちゃん、ごめんね」
ごめんごめんと、呟くつづくは顔を悲惨なほど皺くちゃにして涙をぽろぽろと流していた。
「あたし、自分じゃどうにもできなかった……。《あいつ》が出てきてるときでも意識ははっきりしていたのに、止められなかった」
「…………」
「あたし弱いからさ」
「うん」
「すぐに考え込んじゃうしさ」
「うん」
「思ってること上手く言葉にできないしさ」
「うん」
「……ごめんなさい」
「うん」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「うん」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなーー」
「もう、いいよ。ぼくはお前を許す。お前がやってきた全てを、例え全ての人が許してくれなくともぼくが許そう。お前の罪はぼくが全て背負おう。罪が消えることはない。やったことは無くならないし、消えたものは戻ってこない。だから、せめてぼくが全てを背負ってやる。お前はもうーー」
と、間を置いて、俯いて涙を流すつづくを静かに、だけれど強く、抱き寄せた。
ぼくが先生にしてもらったように。
「お前はもう、頑張らなくていいんだ。頑張らなくていいんだよ。辛かっただろう。苦しかっただろう。悲しかっただろう。だからもう、楽になっていいんだ。きっと今回の件で、警察が動く。このままだとお前は捕まってしまう。そうしたら、生き地獄を味わうだろう。だから……」
「そんなことしたら……」
「うん、わかってる。でも大丈夫だ。今までお前に我慢させてたんだ。今度はぼくの番だよ。だから、お前の罪はぼくが償ってやる。だから、せめて、お前はぼくの手で、楽にしてやる。きっと、ぼくは死刑になるだろう。ぼくがそっちにいくまで向こうで待っていてくれ」
そう、言った。
きっと、あいつもどいつもこいつもそいつも、あの人もどの人もこの人もその人も。つづくに殺されていった全員がつづくを許してくれるとは思わない。ぼくがすることをよしともしないだろう。当然だ。
けど、それでも構わない。別にぼくは正しいことがしたい訳ではない。誰に恨まれたって構わない。全て受け止めよう。
全てを受け容れよう。
だけど。
つづくがこれ以上苦しむのをぼくは受け容れられない。それだけは駄目だ。断固拒否する。
恣意的でいい。偽善的でもいい。自分勝手な利己主義者でいい。
だから、つづくは救いたい。
そして。
ぼくはつづくの細い首に手をかけた。
つづくは泣きながら。
ぼくは微笑みながら。
つづくは微笑みながら。
ぼくは泣きながら。
「ごめんね」
「ごめんな」
と、二人して謝った。
重ねるように。重なるように。
「じゃあ、また」
○
曖昧模糊な終わりの終わり
不慮の不良品は不意に笑う 彩詠 ことは @kotoha8iroyomu
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