さく

彩詠 ことは

さく

季節には香りがある。四季折々の香りが。

それは季節ならではのもの、例えば金木犀なんかはいい例だろう。そういったものから発せられる香りだったり、どこからともなく漂ってくる香り、敢えて言葉にするとすれば空気の香りだ。

冬が去り、春の訪れを感じさせながらも肌寒さが残っている三月中旬。

俺はそんな事を考えながら、先の話でいうところの春の香りの中、一人で学校に向かう道を歩いていた。周囲には同じ制服を着た学生が濁流の様に方向性を持って移動している。それぞれがそれぞれのグループに分かれていて、その様相は野生動物さながらだ。

学校は人間社会の縮図とも言える。ヒエラルキーだって存在するし、戦争も派閥だってある。

昨今、世の中を騒がせている虐め問題。あれは何故無くならないのか。それは世界から戦争が無くならないのと同じ理由である。

人は集団生活を好む生き物なのだ。人間社会ならばそれは国として、学校生活ならばクラスまたは交友関係として集団を構成する。しかし、一切の努力も無しに集団を保てる筈もない。そこで必要となるのが道標だ。その道標は何でもいい。それが何かが重要なのではなくそれが存在するか、が重要なのだ。さて、最も簡単、そして最も効果的な道標は何か。それは……敵だ。野生動物の中には捕食動物に襲われたときの為に集団を作る草食動物がいるそうだ。個を犠牲にして集団が生き残ろうという魂胆だ。それを人間もやっている。だから戦争も虐めも無くならない。

なんてこの世界は醜いんだろう。一体何の為に人間はここまで進化したのか。野生動物を遥かに上回る知能を有しているにも関わらずこの醜態はなんだ。

そんな苛立ちにも似た感情を胸に押し込みながら教室に入る。中に居た同級生達の視線が突き刺さるがそれも一瞬の事だった。

俺は誰とも言葉を交わすことなく自分の席、一番後ろの窓側の席に腰掛ける。

相も変わらずクラスの中でもグループが形成されている。最も大きなグループの中心にいるのは、なんていったか……。確か海野だったか。まあ、興味なんてないから海野でいいか。その海野を層状を成しながら囲む下位階級者達。海野に近ければ近いほど上位の階級に位置している、という図だ。海野が善人だから周りに人が集まるのか。それはまず無い。海野にあるのはただの、ただただ強い支配力だ。即ち、ここでは力こそが正義なのだ。力を持たざる者は力を持つ者の土台になるしか選択肢はない。

俺はその階級制度には参加しておらず、傍観者としての立ち位置を確立した。そう思っているのは俺だけで周りの奴らからすれば俺が最下層なのかもしれないが、そんなのは些細な事だ。

傍観者。自らは参加せず、遠巻きに見ている、観ている者。

先の話でしたように集団を保つには敵を作るのが手っ取り早い。では、誰が敵と認定されるのか。これはこれで曖昧極まりないのだが、色々な要素に左右される。例えば、運である。ただ単純に運が悪かった。運が悪かっただけで生命すらも脅かされるなんてたまったもんじゃない話だが、実際にこれはある。むしろ大半これだろう。出る杭は打たれる、という言葉があるが、出ていなくても打たれるときは打たれる。杭である、という時点で打たれる危険は誰にでもあるのだ。

虐められる側にも少なからず非がある、とはよく言ったものだ。そんなものは愚人の言い訳であって後付けの理由だ。そもそも、理由があったら虐めが正当化される訳がないだろう。情状酌量の余地があるかもしれない?情状酌量の余地も有無も言わさずに虐めを実行しておいて自分にはそれを適応しろなんて厚顔無恥も甚だしい。

目を閉じて感覚を教室から隔離する。いっそのこと五感全てを閉じたい気分だった。誰かの涙の上に成り立つこの教室の空気から、その教室に平然と立っていられる無神経な人間共から、この醜くて汚れていて汚濁に塗れたこの世界から、孤立したい。目を閉じたい。耳を塞ぎたい。そう、思った。

そう、心の底から思った瞬間、妙な感覚に襲われた。天地がひっくり返ったような、そんな感覚。

俺にも普通の人間と同じように三半規管が備わっているんだな、そんな他人事みたいな感想を自分の耳に内側から聴かせて、重力に引っ張られて教室の床に崩れた。





目が覚めて最初に思ったのは、鼻がツンとする、だった。空気中に鼻を突く刺激臭というか、独特の香りが漂っていた。

閉じていた目を開くと目の前に白が広がっていた。どうやら病院らしい。首を横に振ると、ベッドの脇で両親が心配そうに座っているのが目に入る。

「俺、どうしたんだっけ……」

「学校で突然倒れたのよ。心配したんだから」そう言う母の顔には安堵の色が溢れんばかりに出ている。

「とりあえず、検査入院しよう。異常が無かったら二、三日で退院できるそうだから」

そっか……。と呟き、俺は窓から外を眺めた。





結果から話そう。

俺は、入院してから一週間が経とうとしている今でも退院の兆しは見えない。

倒れた時に頭を強く打ったから?違う。脳内出血でも起こしてたのか?違う。精神的ショック?それも違う。

俺は視力を失いつつあった。原因は不明。

最初は病室が白を基調としていた為か気がつかなかったのだが、目の端の方から霧に似た白いもので遮られていた。それが入院してから二日目。

そして昨日には視界の中心に陽炎があるような、そんなところまで進行していた。しかし、それは常にではない。何か、ふとした拍子にそれは起こる。

結局ありとあらゆる検査を受けたが原因は判らず終い。

医者にはこのままのスピードで進行したら、残り三日か四日で完全に失明する、と言われた。

正直、当の本人の俺は実感が湧かない。確かに視界は悪くなる一方だけれど、心の何処かで、片隅の端の方で、きっと治ると思っているからかもしれない。思い込んでいるからかもしれない。

しかし、両親は違った。特に母の方は。医者に治せないのなら、ということで神頼みに走った。古今東西、神と名のつくものなら何でもあり。神社にお参りに始まり、東に有名な御守りがあると知れば走り、西に得の高い祈祷師が居れば飛んでいく。みるみるうちに病室は神物で溢れかえった。





宣告された期日が翌日に控えた、今日。砂漠の中を手探りでコインを探すような、途方もない検査が行われていた。何度通ったかも分からないMRI。結果はいつも同じ。原因不明。そんな退屈、そして不毛極まりないこの状況に嫌気がさした俺は検査を途中で抜け出してきた。もしかしたら、本当に明日、失明するかもしれない、というのにこんな最後の光景が、こんな無機質なところじゃあ嫌だ、と思った。

思い立ったが吉日。着替えてから抜け出そうと病室の扉に手を掛ける。がらがら、とこれまた無機質な音が鳴り、扉が開くと向こう側に、というより、俺のベッドの上に一匹の黒い猫が鎮座していた。窓から入る陽射しを受けながら気持ち良さそうに喉を鳴らす。

何故、こんなところに猫が?疑問は多々あったが、あまり無意味に立ち往生していると検査に逆戻りなので、とりあえず、猫は放っておいてここに来た目的を成すことにした。部屋に備え付けられていたロッカーから着るものを取り出す。

そそくさと着替えていると「出掛けるのか?」と、声をかけられた。

声の主を確認もせずに、見つかった、と思った。それから恐る恐る、声のした方に目をやる。するとそこにいたのは、猫だけであった。先ほどは眠そうに身体を倒していたのに、今は起き上がって、此方を見ていた。

空耳かな……。無理矢理に自分に唯一納得できる理由をつけて、また着替えに戻る。

「出掛けるのか?検査はどうした」

また聴こえる。今度は絶対に聴こえた。先とは違う意味で恐る恐る、振り向いてみるが、そこには、やはり猫の姿しか見ることができない。しばらく、猫と見つめ合う。すると、今度は俺が見ている前で「検査はいいのか?」と、黒猫が問うてくる。

目だけじゃなく、耳か頭も駄目になったか……?

俺は履きかけていたデニムがずり落ちるのと同じように、気分も沈み込むのを感じた。





「なんで、着いて来るんだよ……」

「だから何度も言っておろう。主の母上に頼まれたのじゃ」

俺は無事、外に抜け出したのだが、謎の黒猫が着いてきたため、仕方なく、病院近くの公園のベンチに腰掛けていた。

曰く、黒猫の姿は俺にしか見えないらしい(とんだ御都合主義だ)。それにしても、喋る黒猫が見えないにしても、一人で話をしている時点で若干のーー否、相当危ない種類の人間に見做されるはずなので、少なくとも俺の観点から言えば、黒猫が見える、見えないは些細な事であった。

「あんた、俺の幻覚だろ?」

すると、黒猫は馬鹿にしたように「ふん。何度言うても分からん奴じゃの。儂は神様じゃ。探し物専門のな」と、言った。

「主、目が悪いそうじゃな」

「うん?ああ、まあな」

「何故、突然視力を失い始めたか分からんそうじゃな」

「医者もお手上げらしい……。なんで俺は普通に猫と会話してるんだ……」

そこで、風がふっと吹いた。周りの樹々がざわめき立つ。

風が止むのを待ったのか、それとも故意に間を置いたのか、また黒猫は喋り出す。

「理由を知りたいか?」

と、静かに、だけれど、重々しく言う。

「そ、そりゃ、ーー」

実感が無いにしても、明日、文字通り明日、目が見えなくなるかもしれないのだ、怖くない訳が無い……はずなのだ。なのに、それなのにその事実をすんなりとはいかなくとも受け入れようとしている自分がいる。どんな道を辿っても結局はこうなったんじゃないか、と諦めにも似た理解をしていた。根拠も確証もないのだけれど。

「どうした?知りたくないのか?」

俺は言葉に詰まる。

ここで理由を知って、一体何になるというんだ。もしかしたら、治せるかもしれない……。治ってどうする。俺はいつでも目を塞いでいたじゃないか。見えるのに、そこにあるのに見ようとなんかしてなかったじゃないか。

「知りたくない。俺はこんな汚い世界なんか見たくもない」

「汚い世界ねぇ……」猫は言い含めるように俺の目をじっと見た。

なんとなく、気まずくなった俺は無理矢理に口を開く。

「とにかく、俺は今から街に出るんだ。着いてくんな」

「なに。儂の姿はお前以外に見えんのじゃ安心せい」

「だからやばいんだよ……」





俺が入院していた病院は地元の大学病院だったため、その周辺の街も必然、地元ということになる。最後の光景が地元とは、華に欠ける気もするが、病室よりは幾分か気が晴れる。地元、といってもこの街に越してきたのは

ちょうど二年前で、馴染み深いかと問われればそこはまた複雑である。

時刻は午後に入ったばかりで、昼食を求めて歩く人で溢れかえっていた。俺は今日、起床してから何も口にしていなかったので、コンビニでおにぎり三個とペットボトル飲料と鮭缶を購入した。もちろん、コンビニの中にも黒猫は着いてきた。

戦利品を手にコンビニから出て、近くの駐車場脇に腰掛ける。その横に黒猫も座る。

おにぎりの封を開け、口にくわえながら鮭缶をこじ開けて猫の前に置く。

「ほれ」

猫は訝しげに鼻を缶詰に近づけ「なんじゃ、これは」と、言った。

「なんだって……。鮭好きだろ?猫なんだから」

「……主、何か重大にして重要な勘違いをしておるようじゃから言うておくが、儂の本来の姿は猫ではないぞ」

「え……?えっ!?じゃあなんで猫なんだよ!」大声を出したせいか、道ゆく人が警戒心を含んだ視線をこちらに送る。

「何故じゃろうな……。大体、見える奴の一番受け入れやすい容姿、というのが定石のはずなんじゃが」

俺の一番受け入れやすい容姿が猫……。なんか複雑怪奇だった。

「じゃから儂を猫扱いするのは間違うておる」

「鮭缶に顔を突っ込みながら言われても……。じゃあさ、本来の姿ってどんな感じなんだ?」

黒猫(仮)は鮭缶から顔を出す。缶詰の中身は既に空になっていた。

「そもそも、神に形があると思うておることが間違いなのじゃ。神とは全てであって、全てでない」

……ちんぷんかんぷんである。

「そうじゃのう……。主らに分かりやすく説明するとすれば、そうじゃな。げーむやらてれびやらに使われておる、ぐらふぃっくを想像せい」

ふう、と一息吐いてからまた喋り始める。

「例えばげーむの中で動いておる人を模ったあれは、究極突き詰めれば、光る色の点じゃ。光る色の点が寄り集まって人の形を作っておる。そして、本来、主らの舞台である三次元世界にそれは出てこられぬ」

俺は、ふんふんと話に聴き入る。

「では、話を戻すとしよう。儂は三次元以上の世界に根ざしておる。それが何次元かは割愛するが、まあ、主じゃあ到底想像もできぬ次元じゃ。その高次元のものを低次元に現そうとすれば、それは低次元にある物質を使ってというのが必然じゃ。それ即ち、三次元世界のものどれでもいいということじゃから、神とは全てであって、全てでないのだ」

なるほど……。納得できたようで、できてない気がするが、これ以上不用意に足を踏み入れてしまうと、黒猫先生の!わくわく高次元講座☆とか始まりそうなので取り敢えず、保留。触らぬ神に祟りなし。





例えば、貴方が今の俺の状況になったとしたら、一体何処に向かうだろうか。

病院を抜け出してきたは良いものの、考えてみれば目的地を定めていなかったことに気がついたのは、途方もなく歩き、二、三時間程経った頃だった。その間、やはり黒猫は俺の後を、とてとてとて、と着いてきていた。

もうすぐ四月といえど、気温はまだまだ低空飛行をしており、肌寒い。日が落ちるのも早く、辺りは既に薄暗くなりつつあった。

この時間帯は、学生の帰宅ラッシュで、見渡せば制服姿が街を埋め尽くしている。

人混みの中、ふと、目を引く人物がいた。見慣れた制服姿で男女合わせて数人に囲まれているそいつは、談笑しながら此方に近づいてくる。

自然、俺は逃げるように裏路地に逸れる。

周囲を威嚇するようにわざとらしい声で笑うのは俺と同じクラスの、そしてクラスで最上位に位置する海野だった。

海野達が去った後も、俺は裏路地から出られず、見つかったからなんだって話なのだけれど、じめっとした路地を進んだ。そこはゲームセンターの裏らしく、壁を挟んでも喧騒が聞こえた。

そのまま進んでいくと、ある程度広い空間が広がった。自転車やらゴミ袋やらが所狭しと並べられていて、異臭が立ち込めている。そこに衝撃音と罵声が響いた。

「おい、はやく金出せって言ってんだよ!」

いかにも気弱そうな男子が、こちらもまたいかにも危なそうな三人組に壁を背に囲まれていた。気弱そうな男子は胸ぐらを掴まれていて、鼻から血がたらたらと垂れていた。さっきの衝撃音は顔面にパンチを喰らった音だったのだろう。よく見ると、掴まれた胸ぐらにはここ周辺では有名な私立中学の校章がこれ見よがしに掲げられていた。

「お、おお金なら、さっき出したので全部です、よ」

「あぁ!?」と、三人組のリーダー格であろう、中央に立っていた金髪の男が凄む。三人組が動くたびに、身体のいたるところに垂れ下げている金属のチェーンやら何やらが、しゃらんしゃらん、と音を鳴らす。

気がつけば、視界は相当悪くなっていて、もはや寸分先も危うい状態だ。

俺はあの三人組に見つかる前に立ち去ろうと思い、足を、自分の方向感覚を信じて後ろに向ける。

すると、狭い路地を通せんぼするかのように、黒猫が立ちはだかっているのがぼんやりとした視界の中で見えた。

「助けないのか?」と、黒猫。

……愚問だ。ここで俺が助けても何もならないだろう。それは結果の先延ばしにしかならず、いつかはまた同じことが起こる。そこにまた俺がいる、もしくはまた誰かが助けてくれるなんて確証はなく、それどころか誰にも気づかれないのがオチだ。

「助けない。あいつを助けても、また他の誰かがやられるだけじゃないか。俺にはどうすることもできない」

すると、猫はチッと舌打ちをした。

「……またそれか。主は何から逃げておるんじゃ?」

猫の傍若無人さに少しばかりカチンときた。

「逃げる?俺がか?はっ。妄言もいい加減にしろ。俺はあくまで経験則に基づいた話をしているんだ」

「経験則じゃと?主がいつ、何をした?言うてみい」

「知った風な口をきくんじゃねえよ。お前のいた世界はどうだか知らないがな、この世界は、人間が足掻いてどうこうできるほど生易しくねえんだ!お前が思っているよりこの世界は汚れてんだよ」

黒猫は少し、間をおいてから

「それがーーそれが主の本音か?」

と、言った。

それはーー





俺がこの街に越してくる前に住んでいたところは車で移動しても二時間以上掛かる。

今の街のように都会ではなかったが、田舎町というほど過疎化が進んだところでもなかった。ちょうど中間ら辺だろう。

その街で過ごした中学校生活は地獄のようだった。否、地獄そのものであった。

中学一年生の夏休み、俺はある場面に遭遇する。

俺はサッカー部に所属していて、太陽がさんさんと照りつけているグラウンドの中を駆けずり回っていた。

グラウンドを囲むように校舎がそびえていて、コの字を描く。しかもよりによって南向きときたら、グラウンドは容赦無く降り注ぐ陽射しの餌食となる。もちろん日影なんて無い。

そんな中、休憩の時間がやってきた。みんな挙って校舎裏を目指す。学内唯一にして絶対の日影だ。俺も例に漏れず校舎裏に足を向ける。そこで、ふと、目に留まる物があった。

倉庫と校舎の僅かな隙間。その入り口に学校指定の鞄が粗放に投げられていた。

忘れ物だろうか……。そう思い、近づいてみる。すると、隙間の中から土を踏む音が聞こえた。朧げながら話し声も聞こえる。様子見程度で、軽い気持ちで、迂闊な程に軽い気持ちで覗き込んでしまった。

中に広がっていたのは、正に異世界だった。一人を五、六人で寄ってたかって、蹴りつけていた。何か、人じゃない、枕か何かをふざけて蹴るみたいに。ゲラゲラと気持ち悪い笑い声を周りに撒き散らしながら。

なんだ、これ……。こんなものがこの世にあったのか。こいつらなんだ?何やってるんだ?なんて気持ち悪いんだ。気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪い。

その刹那、一瞬で自分の中のリミッターが外れる音がした。否、リミッターがぶちん、と切れた。

俺のーー俺の周りで、俺の存在する世界でそんな気持ち悪い事をしてるんじゃ、ねえよ……!それは正義感とかそんな大義名分じゃなくて、本当にただただ赦せなかっただけで。自分の目の前で起こっているこの現象も、それを実行してる腐った頭の持ち主も。赦せなかった。

それから何が起こったのか、俺が何をしたのか、正直自分でも思い出せない。

これの後は、まあ想像の通りだ。やったら、やり返される。それがこの世の常であって、この世そのものとも言えるのだから。今度は俺がやられる番だった。

夏休みが終わる頃には、孤立無援状態。むしろ八方塞がり、四面楚歌状態であった。

学校、という逃げられない檻の中に俺は悪魔と一緒に閉じ込められた。

だから、逃げ出した。遠い、自分のことを誰も知らない遠い地に。

そして、誓った。もう、あんなになるのは嫌だ。一番安全な道を行こう、と。

それで俺が見出した立ち位置が傍観者。触らぬ神に祟りなし。見ず、聞かず、そして触れず。

俺、という存在は無いに等しいけれど、それでも前よりもマシだった。

けれど、それは俺の立ち位置のみの話であって、それとは別に周りが動く。そこにいるだけで、見たくもない、聞きたくもない、触りたくもないものが迫ってくる。

本当は分かっていたんだ。視力を失った原因はーー俺自身だ。

目が見えなくなる、という状況には少しばかり驚きはしたものの、反面、これで見なくて済む、と胸をなで下ろしたのもまた事実なのだから。





我が視力、最後の一日かもしれないというのに、なんともまあ、皮肉なものだ。

俺の目の前を立ち塞がっている黒猫に目をやりながら思う。

「主も既に分かっておろう。視力が低下しているのは、主自身の問題じゃ」

確かに、助けたい気持ちはーーある。だけど……「だけど、世界がそれを許さないじゃないか」

「世界とか、周りがとかそんなのは関係ないんじゃ。主の行動は主が決めろ。主のしたいようにすればええ。主が逃げたいのなら、それを止めはせんよ」

それは、投げやりとかそんなじゃなくて、確固たる何かがそこには含まれていて、腹の底に沈んでいった。

気がつけば、足は三人組に向かっていた。いつの間にか視界の靄は綺麗に消えている。

迷いはーーまだ、ある。これが正しいのかどうか分からない。もしかしたら偽善的だ、という人もいるかもしれない。だけど、俺にとってこれは正論だから。世界は正論だけじゃ生きていけない。それもまた事実なのかもしれない。でも、正論を目指して、努力して、それを成し得ようとしないで何が人生だ。

俺は右の拳を、今までの鬱積を握り潰すかのように結んで、思い切り振りかぶった。





四月。春休みを終えて今日から新学期が始まる。

あれから数週間経つが、俺の視力は今だ健在である。原因は、医学的にはやはりというべきか不明。

黒猫はといえば、気がついたらいなくなってしまっていた。奴の正体は判らず終いである。本当に何処かの神だったのか、それとも俺の妄想だったのか。もし、妄想であったのならそれは酷く滑稽だろう。

とはいえ、黒猫が齎したものは大きく、俺の心の底にずっしりと確かな重みを伴っている。これが善か悪かは別として、俺はこの世界を生きていく術を見つけた。取り戻した、というべきか。

閑話休題。

時刻は午前八時を過ぎたところだ。普通ならば既に家を出ていなければいけない時間だ。にも関わらず、まだ家にいる。何故なら財布が無いからだ。そして時間も無い!

リビングであたふたしながら財布を探していると、母親が声を掛けてくる。

「もう、何やってんの!早く鋏神様にお願いしなさい」と、使い古した鋏を手渡された。

鋏神様とは我が家に代々伝わる神様で、正式名称は不明。どういった、神様なのかも不明。全てが謎に包まれている謎の神様である。しかし、その効力や感嘆たるもので、何度世話になったか分からない。今回の、俺の入院騒動の時も最前線だった(母親談)らしい。

鋏を自分の額に当てて自分の財布を思う。そうしてから額から鋏を外す。目の前に大きく映り込む鋏。一体、何年使っているのか分からない。柄の部分は塗装が剥がれていて地金の色が見えている。そして、刃と刃が交わる場所、てこの原理でいうところの、支点に目をやる。そこにはよく見ると、刻印があった。長年使っていたが、初めて気がついた。それを読むと

『黒猫堂』という文字と共に猫が彫り込まれていて、その姿には見憶えがあった。

おいおい……。別れも言わずにこんなところに帰ってたのかよ。そう思い、自然、笑みが溢れる。どうも、ありがとうございました。これからもお世話になります。

すると、部屋を移動していた母親が叫ぶ。

「財布、あったわよ!」

おお!さすが安心、安定の鋏神様。

俺は財布を手に玄関を開ける。

「じゃあ、ちょっくら行ってくるわ!」

外に出ると、春の香りがした。なんとなく、本当になんとなくなんのだけれど

「主が思うておるよりこの世界は綺麗じゃ」と、言われた気がした。振り向いてみるが、当然黒猫の姿はない。

俺は、そうだね。と独り言ちて歩み始めた。

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さく 彩詠 ことは @kotoha8iroyomu

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