Crystal Kids

辻本 浩輝

Crystal Kids

 夏の太陽は、なかなか沈まない。沸点を超えた光の粒子がアスファルトや建造物に当たっては砕け散り、人々の目を細めさせる。


 紗夜子さよこは腕時計に目を落とした。


 汗のしずくが文字盤の硝子ガラスの上に落ち、表面張力でその円形を保っている。輝きを増したアナログの時計は午後三時を示していた。


「これだったら、冷房の効いた教室で授業を受けていたほうがましだったかな」


 大学の授業の四時限目が休講になり、いつもより早い帰宅の途にいていた。この暑さに比べれば、嫌いなドイツ語の授業の方が耐えられる――その結論に、自分でも多少驚きながら自販機の前に紗夜子は立った。


 バッグの中から財布を取り出すと、硬貨を二枚手に取った。大学の、骨までみるような冷気を浴び続けていたせいであろう、硬貨は更に硬質になり、金属本来の冷たさを持っている。その触感をしばらく味わってから紗夜子はコインを投入した。


 ボタンを押し、ごとん・・・という音と同時に黄色い缶が取出口に現れる。身をかがめて缶をつかむと、ふと左手のほうに気配を感じた。


 白猫だ。毛並みのそろった白色の体は、まるで自ら輝きを発しているかのようだった。紗夜子は冷たい缶を手にしたまま、何とはなしに、その猫を追った。大通りから小径こみちに入り、二度三度と角を曲がる。影に入っても白猫の身の光沢は衰えない。


 気がつくと、そこは小さな公園だった。周りを囲む背の高い落葉樹が公園全体に影を落としており、ほの暗い。

 白猫はどこへ行ったのだろうか。

 公園の中央には円形の噴水池があるが、水柱は上がっておらず、水面は静寂を保ち、処々ところどころに浮かぶ落ち葉の緑がアクセントをつけている。


 噴水池の向こう側に木製のベンチが一つだけあった。

 とりあえず休もうと、紗夜子は公園の奥へと歩いた。

 腰を下ろすとベンチはぎい・・きしんだ音を立てる。「すこし太ったかなあ」と、一人苦笑しながら背もたれに寄りかかった。


 人気ひとけが全く無い。こんなにも静かで落ち着く場所が見つけられたことを、紗夜子はあの白猫に感謝した。

 一つ深呼吸をすると、手に握ったままの缶に気付き、缶のプルタブを起こした。

 その時、一人の幼げな少年が公園に入ってきた。


★ ★ ★


 その少年は噴水池のそばに立ち、水面をじっと・・・凝視している。紗夜子のことには気が付いていないようだった。雪白のシャツを身にまとった少年の姿は、木々の葉がれあう音と符合し、紗夜子は快い眩暈めまいを覚えた。


 しばらくすると少年は上半身を倒し、半袖からあらわれている白い腕を水の中に浸した。少年は細い腕を円を描くように動かし続けている。

 何かを探しているようだった。

 しかし、少年にとっては水が深過ぎるのだろう。精一杯体を伸ばしているが、いまにも頭から池の中に落ちそうだ。


 たまらず、紗夜子は少年のもとに歩み寄り、そっと声をかけた。


「ねえ、なにか落としたの?」


 少年が体を起こし、紗夜子の方に振り向いた。

 その左目は白い眼帯で隠されている。少年は一つの瞳で、紗夜子の顔を見上げていた。

 研ぎ澄まされたナイフのような眼差まなざしを浴びて、紗夜子は思わず目をらした。


硝子ビー玉……」

 少年のか細い声が、空気を震わせる。鳥の鳴き声が遠くでした。


「よし、お姉さんが探してあげる。これ、持っててね。全部飲んじゃっていいよ」


 炭酸飲料水の缶を少年に渡すと、紗夜子は噴水池に視線を走らせた。

 アルミ箔の細片をちりばめたかのように木洩こもが水面で弾けている。水は透きとおっているものの、硝子ビー玉は見当たらない。

 光の屈折が、この透明な水中に死角を生み出しているのだろうか。


 ふと水面に映る少年の鏡像に目をると、少年は微動だにせず、じっと紗夜子を見つめていた。

 紗夜子は水の中に腕を入れた。地下水を汲み上げているのだろう、水は夏とは思えない程に冷たい。


「駄目ね。見つからない」

 紗夜子がそう云うと、少年は持っていた缶を差し出した。


「お姉さんが買ってあげる。玩具おもちゃ屋さんに行けば同じ硝子ビー玉が売っているかもしれない。ねっ」


 少年が、こくりとうなずく。

 紗夜子は少年の手から缶を受け取った。


「私の分まで残してくれたんだね」

 生温い炭酸水が、妙に心地好かった。


★ ★ ★


 二人は公園に戻っていた。結局、同じ硝子ビー玉が見つからなかったのだ。少年は、お店にあった硝子ビー玉のどれも気に入ってくれなかった。

 公園に降り注ぐ木洩れ陽は先程よりもいっそう細かくなり、二人の瞳を潤ませていた。


 紗夜子は少年の肩をぽん・・と叩いた。

「もう一度、探してみようか」


 紗夜子は噴水池の中に再び腕を入れる。しかし、見つからなかった。

「少し休みましょうか」


 紗夜子と少年は並んでベンチに腰かけた。

 その時、噴水池から水柱が上がった。


「運がいいね。噴水が上がる瞬間が見られるなんて」


 紗夜子は少年の顔に目を向ける。

 と、少年の口元がほころんだ。紗夜子は眼帯と少年が意外にも良い組み合わせだということに気が付いた。

 思わず、紗夜子は少年の頭に手をり、顔を抱き寄せてほおりをした。


 薄暮の中で、噴水は静かに水煙を上げ続けている。時折吹く夕暮れの風に木々はさざめいて、二人の影法師が揺らめいた。

 頬を寄せていた紗夜子の目の前で、少年の口唇がかすかに動いた。


硝子ビー玉……」

「えっ、」


 少年の唯一の目、右目が紗夜子の左目を凝然と見つめていた。少年の細い左腕が紗夜子の体をつかむ。

 その思わぬ冷たさに紗夜子は驚いた。体が凍てついて動かない。


 少年は右手をそっと伸ばした。

「あった。ここに、」


 少年の冷艶な細指が紗夜子を麻痺させている。少年は紗夜子の左目をえぐり取り、そして、眼帯を外した。


 紗夜子の残った右目が見たものは、初めて生で見る自分の左目だった。


★ ★ ★


 夏の太陽は、なかなか沈まない。沸点を超えた光の粒子が、アスファルトや建造物に当っては砕け散り、人々の目を細めさせる。


 晴斗はるとは腕時計に目を落とした。時計は午後三時を示していた。


 気がつくと、そこは小さな公園だった。

 中央にある噴水池の傍で、一人の少女がたたずんでいる。


 晴斗は少女に近づき、声をかけた。

「どうしたの、お嬢ちゃん?」


 左目に眼帯をした少女が答えた。

「わたし、硝子ビー玉を無くしてしまったの……」


――了

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