罪と幸運のくしゃみ

赤秋ともる

罪と幸運のくしゃみ

 高校二年の年度初めに花城はなしろ町へ引っ越してきて、ちょうど一年が経過した。

 転勤の多い父親のもとに生まれた僕は、友達を作ることは諦め、できるだけ敵を作らないような処世術を身に着けていた。それは透明人間に似ている。群れず争わず、潔癖な一日を切望する。今回は四回目の転校であり、無意識にでもそのような環境を作れたと思う。

 ただ、違和感があった。集合写真の一人だけ顔がフラッシュで見えなくなってしまっているような感覚だ。町立花城高校は進学校であり、二年から三年に進級するときは担任も生徒も基本的に変わらない。担任は山田という厳ついスキンヘッドの先生だ。英語を担当している。周りからは熱血派だと思われ慕われているようだが、僕は彼が事なかれ主義という学校の負の面にずぶずぶだということを知っている。明るいいかにも問題児という生徒には熱心に指導する反面、僕みたいな一匹狼のはみ出し者に対しては腫物を扱うように無視を決め込んでいるからだ。そういう狡いところを彼の元妻は察したのだろう。彼がバツイチだということを僕は知っている。じっくり観察すればするほど、狡猾な面が見えてくるやつだ。

 だが、その滑稽さは去年とまったく変わっていなかった。ということはこのクラスの違和感の原因は生徒側なのか。いや、日頃から寝たふりをしながら観察していたのだ。少しの変化も見逃すはずがない。髪にワックスをつけるかつけないかに至るまで僕はこのクラスの全員について把握している。

 やはり、勘違いか。そう思ったとき、くしゃみが出た。

 ここのところ毎日だ。花粉症とは無縁だと思っていたが、この歳になってついに発症してしまったらしい。幸いなことは、鼻水も目のかゆみも、大量のティッシュや花粉用ゴーグルが必要なほど酷くないという点だ。花粉用ゴーグルまで必要になったら末期だなと自然と笑みが浮かぶ。

 再び違和感が僕を襲う。花粉用ゴーグルなんて最近見ていない上、それをつけている浮かんだ顔に見覚えがない。というかマスクとゴーグルのせいで誰かも判別できそうもない。

 結局、違和感の正体がつかめずに高校三年生の学校生活は始まった。

 

 その日は始業式だけであり、教室に戻ってからは春休み課題の提出と受験生としての心構えについてのありがたい山田のお話が済むと解放された。

 僕はちょうどいいと思い、耳鼻科へ行くことにした。花粉症を抑えるアレジオンを処方してもらうためだ。

 この時期の耳鼻科は混んでいる。僕のような花粉症患者や、寒暖差にやられた子供たちで溢れていた。受付の人には三十分以上待ってもらうかもしれないと言われたが、別に問題なかった。小説はどこでも読める。

 妻を自分の手で殺してしまった夫の話だった。妻は夫が出社すると、化粧を始め、一時間後に浮気相手を家に招き入れる。その浮気が発覚した日、会社に着くと夫は会議に必要な書類を家に忘れてしまったことに気づいた。ただ会議までは十分余裕があったので、外回りと嘘をついて家にとんぼ返りすることにしたのだ。そして、家の扉を開けると、熱烈にまぐわう二人の声が響いてきた。寝室に行くと、見知らぬ男の上で腰を振っている妻と目が合う。夫は怒りに我を失い、妻の首を掴み、床に叩き落した。浮気相手はへっぴり腰で立ち上がって、裸のまま逃げていったようだが、夫の目には入らなかった。心の中に沸き立つ怒りに身を任せて妻の顔面に拳を右、左とつきたてる。まさか死ぬとは思わなかった。正気に戻ったときにはもう妻の息はなかった。近所の人が通報したのだろう、パトカーのサイレンが聞こえてきた。夫はそのまま捕まった。懲役七年の判決が確定し、初めの頃の生きる目標というのは、浮気相手を見つけて殺し、自殺することだった。だが、刑期を終える頃になると夫の考えは変わった。浮気相手を許すことにしたのだ。僕は興奮した。さらに、夫が出所するとき、どこで聞きつけたのか浮気相手が彼の前に現れた。

鬼頭智一きとうともかずさん、鬼頭智一さん」

 タイミングが悪いものだ。浮気相手はなぜ夫の前に現れたのか悶々としながら、僕は指定された診察室へと向かう。

 スライド式の扉を開けると、貧しい白髪が目につく老齢の担当医が目に見えた。スツールに座ると、症状について聞かれたので答える。

「では簡単な皮膚テストをしてみましょう」

 腕に何か所かひっかき傷をつけられ、その上に検査液が垂らされていく。赤くなる大きさで判定されるらしい。

十五分後、再び担当医の前に座り、結果を見てもらう。

「羨ましいほどどの花粉症でもないね」

「それではただのくしゃみということですか?」

「そういうことだね。お大事に」

それではあのくしゃみは何なのだろうか。ただのくしゃみにしては頻度が高すぎる気がする。

あまりぱっとしない気持ちで帰路についた。洗面所で念入りに鼻毛を切った。それでもくしゃみは出た。


くしゃみが出ることの弊害があった。僕は教室においては隠遁の術を行っている忍者のように自分の存在を消してきた。それがくしゃみの音のせいで解けてしまうのだ。最悪なことに「花粉症? 辛いよね」と話しかけられてしまった。

 僕にとって、目立ちすぎている状態だった。もしもこのままくしゃみが止まらなかったら、僕は面倒なことに巻き込まれてしまう気がした。今の時期は花粉症ということで方がつくが、これが大学受験の差し迫った冬の時期になってみろ。うつすんじゃないぞという無言のプレッシャーにさらされ、僕の潔癖な日々が失われることだろう。

 家に帰ると、普段は読書に講じるのだが、一目散にパソコンに向かった。「くしゃみ 治し方」と検索エンジンに入力し、ヒットしたいくつかのページを上から順に見ていく。

 耳鼻科で異常が見られないので、未知の病なのではないかという疑惑が頭の中に浮かんできた。それを裏付けるのが「光くしゃみ反射」だ。日本人の25%は、まぶしさを感じるとくしゃみを出す遺伝子をもっている。僕が注目した記述は、「この現象がどのような体内のメカニズムによって起こるかについてはまだ十分に医学的に証明されていない」という箇所だ。

 くしゃみについての記事を読むにつれ、その原因不明な部分が存在することに衝撃を覚えた。そういえば、風邪薬というのも、別に風邪を直接治す薬ではないということを聞いたことがある。身近なことでも詳細が解明されていないことがあるというのは世界の良い部分でもあり、怖い部分でもある。僕の場合は後者なので、困っているのだが。

 原因不明のくしゃみが止まらない現象についての記事は結局見つからなかった。

 ちなみに、ギネス記録によると、世界一くしゃみをし続けた時間は46時間30分15秒、くしゃみの連続回数記録は441回らしい。

 本当に世界は不思議だ。


 その後もくしゃみは止まらなかったが、僕はもう何も考えないようにした。花粉シーズン終了までは花粉症ということでなんとかなる。おそらくそのうち治るだろう。病は気からだ。

 それを紛らわす方法は簡単というか、目の前にあった。受験勉強だ。目標は、読書の時間を確保しても受かる程度の大学だった。始業式の日に山田が「趣味は我慢して勉強に専念しろ」と説教していたが、僕にはそんなことはできない。読書か受験勉強のどちらかしかできないならば、読書を選ぶだろう。大学に入っても就職しても読書漬けの毎日を送りたい。

僕がそこまで読書が好きな理由というのはうまく言えないが、登山家が山に登る理由と一緒な気がする。登山家になぜ山に登るのが好きなのかを尋ねるのに等しい。

 ただ、読書が好きになったルーツはなんとなく想像がついた。僕は転勤の多い家庭に生まれ、転校を何回も経験した。その中で僕が他人と関わる距離感というのが小説のキャラクターをみる感覚と似ている。僕は他人を観察し、その人の行動パターンや性格、趣味嗜好、会話のくせなどを想像し、頭の中でその人の人生や生活を妄想するのを愛好している。一方で、他人と関わって、その人の内面や背景を奥深く知りたいという欲求はない。むしろそうなることを避けている節が自分にはある。どうせ転校するから無駄だと思っているが、本当は他人と繋がりができて別れのときに悲しみたくないという防衛本能によるものかもしれない。この歳になると、性格に修正は効きにくいので諦めるしかないが。

 また例の違和感に見舞われる。僕はたしかに他人との繋がりを断ってきたが、つい最近、僕の潔癖な世界に土足で侵入してきた人物がいたような気がしたのだ。そんなことありえないのだが、その違和感に意識を集中していたら、不意打ちのくしゃみに襲われた。そして、頭の中にフラッシュされたように白くなった顔が浮かぶ。

 ――あれは誰なんだ……?


 結局花粉シーズンが過ぎてからも謎のくしゃみはおさまらなかった。そうなると、クラスの人たちも不思議に思うはずだ。きっと軽いジャブのようにくしゃみをいじり、僕がもっと大きな隙を見せたらいじめまで発展させる気だろう。しかも僕らは大学受験を控えているから、ストレスのはけ口とされる可能性も高い。

 憂鬱な気分で登校すると、一時間目は最悪なことに自習だった。テスト前のコマ調整ということだった。自習の時間がなぜ最悪かというと、静かすぎるからだ。

自習監督の先生が来てから、教室はページをめくる音とペンが紙をこする音のみになった。今までの経験からいって、この自習中に三回はくしゃみをするだろう。そのたびに周りの集中力を奪ってしまうのだ。

 案の定、三回もくしゃみをしてしまった。そのうち一回は不意打ちを食らったためかなり大きくなり、視線が刺さった。

 そわそわしながら、休み時間を過ごした。だが、不思議なことに誰も僕に文句を言ってこなかった。普段話したこともない隣の席の男子の顔色を窺ってみてもとくに変わった様子は見られない。僕の思い過ごしかとも思ったが、心の中の罪悪感から、

「くしゃみうるさくてごめんね」と話しかけた。

 口に出して反省点が浮かび上がった。まず、いきなり話しかけてしまったこと。次に、口調が馴れ馴れしかったこと。そして、どもってしまったこと。

「あー別に気にしてないよ。ていうか、風邪? この教室エアコンきついもんな。よかったらジャージ貸そうか?」

 僕は虚をつかれた。こんな返答は予想外だった。

「あんたのジャージって洗ってないでしょ。あれめちゃくちゃ臭うよ。ねえ、鬼頭くん」

 彼の後ろの女子も、実際に目の前に臭いものがあるような顔で、参戦してきた。

「たしかに、そうだね」と真っ白になった頭で本音を口走ってしまう。

「まじ?」

「まじ」

 僕は苦笑いする。

 彼は「ところで、鬼頭と話すのって初めてだよね」と話題をそらした。

内心びくびくしながら「そうだね」と答えると、彼は「やっぱりそうか」と答えながら真面目な顔になり、

「突然だけど、いままでありがとう!」と頭を下げてきた。

 当然、僕は困惑する。感謝されるようなことはした覚えがなかった。そんなハテナだらけの僕に対して、

「実は鬼頭くんのくしゃみで居眠りしてるとき起こしてもらってるんだよね。おかげで授業に集中できてるんだよ」

「私も感謝してるわ。こいつよく居眠りするからよく後ろから突っついて起こしてたんだけど、最近は鬼頭くんのくしゃみのおかげでこっちも授業に集中できてる」

 そして、二人から「これからもよろしく」という謎の依頼まで受けてしまった。それに呆気にとられながら了承した僕は、次の席替えでも近くになることを約束してしまった。


 さらに事件は続いた。昼休みが始まると、格というか威厳が違う孤高の一匹狼である工藤早希くどうさきが僕の机の前に立った。僕はというと蛇に睨まれた蛙のように固まる。クラスのみんなもその様子を固唾を飲んで見守っている。

その拮抗状態を崩したのは、やはり僕のくしゃみだった。くしゃみをしてからすぐに「ごめんなさい」と謝罪したが、なぜか彼女は泣きだしてしまった。失礼ながら、鬼の目にも涙か、と頓珍漢にも思ってしまった。それほど僕は目の前の事態が理解できなかった。

 ジャージが臭いやつの後ろの席の女子が「どうしたの?」と心配そうに駆け寄る。

「……似てるんだ」と涙声で答える

「誰に?」

「昔飼ってた……猫のくしゃみに」

 僕とジャージが臭いやつの後ろの席の女子はアイコンタクトをとる。お互いよく状況を理解できていないようだ。

 しばらく工藤さんは僕の机に突っ伏して泣いていた。鬼のような慟哭ではなく、見た目に反する可愛らしい泣き声だった。僕も緊張を緩める。

 泣き切ったのだろう。顔を上げると目は真っ赤になっていた。それでも態度は元の凛々しい工藤さんに戻っていた。若干頬を赤らめながら、弁解を始めた。

「中学生のときにずっと一緒だったペットが死んでしまってな。名前はマルっていうんだ。本来、あのときに泣くべきだったんだろうが、どうやら死というものを受け入れられなかったようで涙が出なかったんだ。それからというものどうしてあのとき泣けなかったんだろうと後悔しながら過ごしてきたよ。実際さっきまでマルの死を受け入れられずにいたんだと思う」

 けど、

「一時間目の自習中のとき、聞き覚えのあるくしゃみが聞こえてきてな。二回目でマルのくしゃみだと思ったよ。けど、そのくしゃみの主はお前だった。目の前でくしゃみを聞いたときはマルの思い出が走馬灯のようにめぐった。それで、なぜかマルの死が実感できたよ」

 工藤さんは「ありがとうな」と言って自分の席に戻っていった。


 その日を境目に僕の潔癖な日常は思いがけない方向に崩壊していった。

登校すると、ジャージが臭いやつと後ろの席の女子に声をかけられるようになった。

 迷惑だと自分では思っていたくしゃみも、「イタリアでは猫のくしゃみを聞くといいことがある」という情報がクラス内で拡散され、受験のお守りのように扱われるようになってしまった。

 これほど注目を集めたのは学校生活で初めてのことだった。そのため、僕は戸惑ったが、どうやらいじめには繋がらなさそうだと安心した。さらに、クラスに居場所ができたみたいでくすぐったい心地よさというものに出会えた。どこか懐かしいような、誰かに受け入れられる感覚。

 初めは邪魔としか思っていなかったくしゃみに感謝の気持ちが芽生え始めた。


 僕のくしゃみの噂が三年の間まで広がると、違うクラスのある女子から屋上に呼び出された。告白されるのは今回で生まれて二回目のことだ。

 しかし、大事な話があるという枕詞に続いたのは予想外の内容だった。

「実は中学の時の同級生にいたんだ、ずっとくしゃみが止まらなかった子が」

「詳しく聞かせてほしい」僕は弛緩していた気持ちを引き締める。

「初めは今の鬼頭くんのペースみたいなくしゃみだったの。それが段々とペースが早くなって、ついに入院することになってね。けど、医者にも原因は見当もつかなかったってその子の母親から聞いたわ。そしてなすすべなく、呼吸困難で亡くなったの」

 彼女は泣いていた。おそらくその子とは相当仲が良かったのだろう。

「だから、鬼頭くんも気をつけてね」

「うん、ありがとう」


 その後の授業は上の空だった。頭の中はさきほどの話で占められていた。

 僕と同じ境遇だった可能性のある人が他にもいたということによって、僕はこの謎のくしゃみと、始業式の日から感じている違和感は関連があるのではないかと思い始めた。

 顔にフラッシュがたかれたような白い顔の人物と、やむことのないくしゃみ。

 さらに、新たな疑問が生じていた。僕は誰かに告白されたことがあるのだが、それが誰だったのか思い出せないのだ。こんな希少な体験を忘れるのはおかしい。

 やはり僕の、あるいはみんなの、記憶には多少の欠損があるような気がする。そうでなければ、あの誰かに受け入れられる感覚を懐かしいと感じるとは思えないのだ。

 

 そのまま学校も終わり、無意識のまま帰路につく。

学校の校門を出て横断歩道を渡り、まっすぐ伸びる通りを歩けば駅に着くのだが、途中の脇道に吸い込まれるように入っていく。ドーナツ屋さんの横を通る道で甘い香りが鼻腔をくすぐる。人が三人並べるほどの横幅で弧を描くように続いている。両脇は雨溝になっており進行方向の左側で猫が歩いていくのが見えた。

 その猫に連れていかれるように歩いていると、突き当りにこじんまりとした喫茶店があった。

 違和感が再び現れる。


「分かる人には分かるのよ。ゲームの宝箱を見つけるようにね」


 頭痛を覚えながらも、何かを思い出した。僕はその人とこの店によく来ていたのだ。


 店内に入り、二人用の席につく。僕はアイスカフェオレを、彼女はホットコーヒーをそれぞれ頼む。

 コルク製のコースターの上にアイスカフェオレが置かれ、僕はそのままストローで一口喉を潤した。

 彼女は未だに砂糖を入れている。見ているだけで糖尿病になりそうな量だ。

「ここって学校から近いけど、学校の子は誰も知らないの。秘密基地みたいでしょ」

そう言って彼女は一口目を口に流し込む。見ているだけで僕の口の中にも不快な甘さが広がった。それをごまかすように僕もカフェオレに口をつける。

「ああ、いい店だな」

 これは本音だった。暗い室内だが、暖色のランプが店内を幻想的に引き立てている。その雰囲気に合うような木の素材でできた机の手触りもよかった。

 僕ら以外の客はカウンター席で新聞を広げている男性と、奥の席でパソコンを叩いている女性のみだった。

 カウンターの中には店長と思しきご老人、ご老人の作ったものを運ぶウェイターは裏に行ったようだ。

「それで話したいことっていうのは?」正直にいうと、うんざりしていた。今日は好きな作家の新作の発売日だからだ。

「あなたのことが好きなの」

「はい?」

「あなたのことが好きなの。一目惚れよ」

 彼女はあっさりと事実を告げるように言う。だから、彼女が本気なのか僕は疑った。

「そうなんだ……」

「だから、私と付き合って」

 有無を言わせぬ雰囲気に押され、「分かった」とあっさり了承してしまった。


 付き合うとは言っても特に変わったことはなかった。高校二年になって花城高校に転校したが、僕はいつものように孤独を貫いた。その潔癖な日々を彼女は壊すこともしなかった。お互いが鎖国をしている孤島のように無干渉だ。

 変わったことは、金曜日の放課後に例の喫茶店に待ち合わせするようになった。他人と時間を過ごすのは手持無沙汰になり気まずくなるのではと思っていたが、お互いが好きなことをしていたためそんなことはなかった。

 学校の課題をやったり、僕の場合は読書をしたり、彼女の場合は手芸に講じたりしながら夕方まで時間を潰した。

 彼女は僕の望む距離感をうまく把握しているようだった。関わるべきことと関わらないでおくべきことがしっかり区別できている。そんな関係は時を重ねるごとに心地よくなっていった。


 だが、その日は違った。コートや手袋などが手放せなくなった十二月のある金曜日。

 僕と彼女は例の喫茶店にいた。僕が読書をしているときは決して邪魔をしない彼女が珍しく話しかけてきた。

「ごめんなさい、読書の邪魔をして」

 彼女は珍しく思い悩んでいるような雰囲気だった。

「どうした?」

「私はあなたのことが好きなの。だからこそ、言わなきゃいけないことがあるの」

「僕も君が好きだよ」

「ありがとう。あのね、信じられないかもしれないけど、最後まで話を聞いて」

 僕はうなずく。

「私には念能力みたいな不思議な力があるの」

「ほーう」

「疑ってるわね」

「半信半疑だよ。君が僕の読書の邪魔をしてまで話しているということを考えると、もしかしたら嘘じゃないのかもしれない」

「じゃあ、実際にやってみるね」

 そして、彼女は僕を見つめる。だが、僕はこのタイミングでくしゃみをしてしまった。

「ごめん、邪魔しちゃった?」

「ううん、今のが私の能力」

「え?」

「念じた相手にくしゃみをさせる能力よ」

 たまたまだと言いたくなった。しかし、あのタイミングの良さは何なのだ。

「じゃあ、マスターにやってみて」

「分かった」

 彼女は目をカウンターにいるマスターに向けた。そして、マスターはくしゃみを出した。風邪をひいてはいなさそうだ。

「正直たまげたよ」

「信じてくれたみたいね。これが伝えたかったことよ。それでも私のこと好き?」

「もっと好きになった」

 彼女とはまだキスしか済ませていなかった。僕はさらに奥の関係を望んでいるし、彼女も変わらないだろうと僕は思っている。

「よかった」


 ここまでが僕の失っていた記憶のようだ。

 僕はいつものテーブルにつき、アイスカフェオレとホットコーヒーを注文する。そういえば、今日はたまたま金曜日だ。

 ウェイターがテーブルに注文の品を並べ終える。僕はアイスカフェオレで喉を潤ませると、誰もいない席に向かって「そこにいるんだろ、里美」と呼びかける。

「やっと見つけてくれた」

 そこには北条里美ほうじょうさとみがいて、ホットコーヒーに大量の砂糖を入れていた。


見ているこちらの口の中が不快な甘みに襲われるコーヒーを一口すすり、彼女は語り始める。

「私ね、人を殺したの」

「くしゃみをさせ続けて呼吸困難まで追い込んだ」

「ええ、言い訳になっちゃうけど、中学のとき、その子にいじめられてたの。きっかけはよく分からないけど。こんな私でも精神が参ってしまうこともあるのよ」

「君が誰よりも傷つきやすいのは知ってるよ」

「あなたに言われたらおしまいね」彼女は自嘲的な笑みを浮かべ、コーヒーで喉を潤す。

「いじめられて精神が参ったせいかは知らないけど、その頃にこの能力を手に入れたわ。初めて使ったのは電車の中で寝過ごしそうな人を見つめていたときよ。その人がいつも降りてる駅に着くタイミングでその人はくしゃみをして目を覚ましたの。試しに他の人にも念じてみたらその人もくしゃみをして、正直恐ろしかったわ」

「誰だって怖くなるだろう」

「そうね。ただ私はそこに好奇心が生まれてしまったわ。この力でいじめっ子をからかってやろうって。それが私の過ちだった。彼女がくしゃみで溜めたストレスは当然私に向けられた。そのときはそのことに気づかないで、くしゃみの量を増やしてやったわ。自分の手で自分の首を絞めてるってことに気づけなかった。私の精神は瀬戸際まで追い詰められ、彼女のくしゃみの頻度は致死の領域にまでなってしまったの」

「そういうことだったのか」

「うん……」

 僕たちの間にはよく沈黙が訪れるが、それはお互いに取って必要なことが多かった。これが僕と里美の距離感だった。

「そのことがばれたのがあなたに私の能力を打ち明けた日なの。びっくりしたわ。日本にはこういう能力犯罪についての捜査機関も裁判所も用意されていた。あ、このことはシーね。私の罰は世界から忘れられること。刑期は誰かに自分の存在を思いついてもらうまで」

「早く見つけ過ぎたかな」

「どうかしら、あそこは時の概念が捻じ曲がっているようだったから、この世界の時間基準を適用できるとは思えないわ」

「そこで君は何をしてたの?」

 彼女はコーヒーカップに目を落とした。

「自分の罪と向き合っていたわ。私は一人の人間の命を奪ってしまった。さらにはそのことをあなたに打ち明けなかった。ずっと逃げてきたということをひしひしと感じた。私は人を殺した自分からもあなたのことを好きな自分からも逃げて逃げて逃げまくっていた。それが私の罪だったのよ」

 彼女の涙は初めて見た。何よりも愛しい心の汗だった。

「世界から忘れられた私は本当に辛い思いをしたわ。それでも私が平静を保てたのはあなたがいたからよ。だから、向こうの世界でずっとあなたのこと念じていたの」

 そうか、あのくしゃみは君のおかげだったのか。

「こんな私でもあなたは好きでいてくれる?」

「ある本を読んだんだ。浮気した妻を殺した夫の話でね。夫は浮気相手を殺して自殺するつもりだったらしいんだけど、出所する頃には考えが変わっていたんだ。そして、出所したら浮気相手の男が現れて土下座してるんだ。その男にかけた言葉がね」


「人間の犯す最大の罪は犯した罪から逃げることだ」


「私は自分の罪を自覚し、みんなも何かしらの罪を抱えていることを知った」


「あなたは自分の罪を自覚している。だから、私とあなたは同じ仲間だ」

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