かき氷おじさんとため息。黒板消しの職人。いつまでもを願ったあの頃。
あのおじさん、わたしのことずっと見てた。どんなふうな目でわたしを見つめてたんだろう。
あの目が怖かった。わたしには恐怖心があった。あの興味の眼差しも、ほこりを被ったテントも、ぼーぼーの雑草も。
屋台全体からおぞましい気配があった。きっと片足の女神、あれのせいなのかもしれない。あの女神を重ねてしまった。哀しみに触れてしまったような。おじさんの表情からは微塵も感じられなかったのに、屋台からは哀しみが湧き出ていた。
「だなあ、市がやらねえもんだからよ。本当、なんとかしてほしいもんだ」
かき氷おじさんはそんな不満を口にしていた。
もしも自分が売り子だったら……ありもしないことを考えてしまう。だってわたしは家から出ない人なんだから。自室にきのこや雑草が生えたところで、母が悲鳴を上げるまで放置しちゃえるルーズな女だ。そう考えるなら、屋台が汚いことにとやかく言う資格はない。
ただ、黒板は誰よりもきれいにする女だ。
小学校でも中学校でも、なんとしても黒板係をもぎ取ろうと考えていた。くじ引きで負けても、掃除のときは全力で黒板を磨いた。右から左、同じ強さ同じ速度を保ち、上段から下段へ。
あくまで自己満足だし、次の授業になったら結局チョークで汚されちゃうんだけど、学校のなかで勝手に決めたマイテリトリーだけはきれいにしておきたかった。
直接褒められなくてもよかった。このクラスはいつも黒板がきれいだな、そう先生が独り言したのを聞いて、席でこっそりガッツポーズするだけでいい。
自分の領域を誰かに侵されるのは嫌だったし、それを放置して汚いまんまにしておくのも嫌だった。
おじさんが怖かったのは、あの目のせいじゃないのかもしれない。自分の店がよごれているのに、平然とそのままにしていられるその精神が怖かったんだと思う。
本当なんとかしてほしい、そう思うんなら、自分の手で草をむしればいいのに。
それができない理由が、なにかあるのかな。たとえば市や県の土地じゃないから、役所が手を付けちゃダメだったり。そんな場所に店を出していいのかわからないけど。
「ミニエコーが好きでした」
「一二三系とは、なかなか渋いなあ。辰野線ってなると、塩尻か」
「はい。三十分も掛からないと思います」
十数分しか経ってないというのに、すっかり意気投合している。
三ツ葉、電車詳しかったんだ。そういえば栄村の話を聞いたとき、電車で言ったって言ってたような。親が好きなのかもしれない。
BRTは小川の脇を進み続けている。朽ちかけたコンクリートの橋が渡されていた。狭くて薄っぺらくて、両端にバリケードが置かれている。このはし渡るべからず。手すりすらないこの橋は、端を渡ってもぽっきりいきそうだった。
目を閉じた。思考はぐるぐる、かき氷おじさんのことばかり浮かぶ。
あの場に三ツ葉が居合わせていたら。おどおど声に出ない言葉を代弁してくれたろうか。
「自分の店くらい自分でなんとかしろ!」
震災直後だったら、わかる。うず高く積まれた瓦礫、その上のショベルカー。行き交うダンプ、立ち並ぶバリケードの内側に仮の国道。立ちのぼる砂煙。
こんな状況だったら、たったひとりの人間がどうこうできる問題じゃないことくらいわたしにもわかる。
でも、あれから五年が経っている。傷跡は残ったままだけど、身のまわりくらいだったら自分でもできそうな気もする。商売なんて、自分に直結することだと思う。たくさん売れたら生活はそれだけ楽になるわけだし。
五年。中二だったわたしが(当時いつまでも中学生のままでいたいとすら思っていたこのわたしが)、大学生になってこんなところまで旅することができてしまう。わたしにとって五年はとんでもなく長い時間だったけど、あのおじさんにとっての五年は、どのくらいの長さだったんだろう。
あのときから変わらず、まちにすがりついているのかもしれない。ずっとずっと、離れられずにいる。必死にしがみついている。それがどういう意味を持っているのだろう。あのおじさんのいる光景は、わたしが思う以上に、いろんな意味を孕んでいるんじゃないか……。
頭のなかで拡がる展開は、ここで一時停止した。
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