諦観の音。彫刻の森より現代的な。ミルクティーを片手に。
あるべきはずの部位にあるのは、空に淀む雲だった。その光景を昔どこかで見たことがあったような気がする。
あれはどこだったっけ。そんなことを思いながら女神を間近で鑑賞する。正面から見ると、像のなかにある錆びついた支柱が見えた。なかは空洞だった。遠くからだと立派にも見えるけど、錆びた柱で支えられる女神は、なんて脆弱なんだろう。
風が吹いた。
から、から。
その音を聞いてしまった。わたしからすれば不可抗力だった。ぎくりと体をこわばらせた。誰にというわけでもなく言い訳をしたくなった。でもその秘密を知ってしまった今、なにもかも手遅れで、脱力するしかなかった。
わたしはこの音をいつまでも記憶するんだろう。これは義務感でも使命感でもなく、観念にも似た罪悪感だった。
から、から。
三ツ葉は黙ってシャッターを切った。
しばらく中瀬を散歩した。新品の遊具が建ち並ぶ公園を歩いた。一度だけ滑り台を滑った。横幅が普通の二倍あったから大の字になって。三ツ葉は撮ってくれなかった。キャッチボールをする親子を眺めつつベンチで休んだ。
それからもう一度だけ自由の女神像を見た。今にも朽ちてしまいそうな姿。
閃きが訪れ、手を合わせた。
「そうだ、思い出した」
「どうしたの」
「いや、この像どこかで見たような気がしたんだけど」
「テレビで見たんじゃないの? 似た姿なら、ニューヨークにもお台場にもあるよ」
「ううん。そうじゃなくて……中学のとき、遠足で行ったんだ、彫刻の森」
「彫刻の森って、箱根の?」
「うん。屋外にいろんな彫刻があるの。お相撲さんみたいな人の銅像とか、人の塊みたいの、とか。あんときは全然わかんなくて、石っころ見てるのも同然だったんだけどね。なんかこの女神見てさ、立派な美術作品だなって思った」
「なんか、わかるな。地元にも
この女神は足を失ったのではなく、石巻の哀しみを留めているように思えた。三ツ葉はどういうふうに思ってるのかは知らないけれども、どの美術作品よりも心に訴えかけるものがあった。
三ツ葉は時計をちらと見た。三時五〇分。そろそろ駅へ行ってもいい時間だった。駐車場からけもの道に出る。
「あ、ドーナツ、食べる?」
販売車の前で三ツ葉が訊いてきた。店員のお兄さんがニコニコとわたしを見る。お腹はそんなに減ってないけど、ドーナツくらいだったら入る。かき氷を食べたあとだからあったかいものを食べたい感じもする。
「あ、うん、いい香りだね」
「ドーナツ、ふたっつ」
三ツ葉はさらっとお兄さんに告げた。
「ふたっつね。今からできたて作るから、その間紅茶でも飲んでよ」
「サービスですか?」
「うん。ストレートとレモンとミルク、なにがいい?」
「ストレートでお願いします。依利江は?」
「えっと……ミルクで」
「ストレートとミルクね。ガムシロップはいる?」
「お願いします。依利江は?」
「えっと……わたしは大丈夫です」
訊かれるがままの返答だった。お兄さんはちょっと待っててね、と言って大きなポットを取り出した。透明なガラスの表面は結露していて、真っ赤なティーがたっぷり入っている。それを紙コップに注ぎ、片方にポーションミルクを加えた。
「はい、ミルクティーのお嬢さん。こんなのでごめんね」
「あ、ありがとうございます」
一口飲む。ひんやりつめたかった。
「君たち、どこから来たの?」
「神奈川からです」
「神奈川! 電車?」
「はい。青春18きっぷで」
おにいさんはへぇ、と感心した。ドーナツ焼き器にアイボリー色の生地を流し込んだ。すごい、自然におしゃべりしてる。わたしは会話に入り込むことができないでいた。
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