コーヒーショップライフテクノロジーズ

トクロンティヌス

本編

第1話 「だからって、お前は諦めるのか?」


 “ポスドク”という言葉をご存じだろうか?



 大学院博士後期課程を修了し博士号を取得した多くの研究者は、大学などの研究機関に就職する際に、助教・講師・准教授・教授といった所謂『教員』と呼ばれる常勤職員として採用される前に、採用期間の限られたいわば契約社員のような立場で研究業務に携わる。

 これを博士の『後』の研究員という意味で、postdoctoral fellowポスドクと呼ぶ。採用期間は研究機関や原資となる予算によって様々で、長いもので5年、短いものだと1年間となっている。多くのポスドクとなった研究者は、その不安定な立場のなかで研究活動を行い、期間中に得た論文などの業績を材料に、次の就職先として常勤職員――教員を目指していく。


 1990年代後半から始まった大学院重点化にあわせ、1996年から始まった『ポストドクター等一万人支援計画』によって、日本のポスドクの数は急激に増え、2012年の科学技術・学術政策研究所の統計ではすでに1,4000人を超えている。


 しかし、ほどなくして支援予算の枯渇とともに、今度は増えすぎたポスドクの就職難が発生、これが表面化し、『ポスドク問題』という名前で新聞や一般雑誌にも取り上げられている。



 ――そして、その年の冬。俺達にもそれは唐突にやってきた。




 俺達は大学のすぐ近くにある全国チェーンのコーヒーショップに入る。テレビで今年一番の寒さと言っていただけあって、吐く息は白く、厚手のコートを着ていても寒い。とりあえず手早く暖を取るために人数分のホットコーヒーを頼んで受け取ると、店内の座席はいっぱいで、仕方なく外にいくつかのテーブルと椅子が並んだテラス席に腰を下ろす。皆、顔色は暗い。


 それもそのはずで、今日、全員が所属していた大学の研究室から解雇を言い渡され、一か月半後には職を失うことになっていた。7人とも国立T大学の大学院工学研究科バイオエンジニアリング専攻で大型の研究予算をいくつも獲得している竹ノ内研究室で雇われていたポスドクであった。



 理由は「研究の進捗が芳しくないため」。



 伝えられた内容はほぼそれだけで、元々一年ごとの契約であったため、来年度の更新を全員が断られ、事実上の解雇となった。教授からは「荷物は早々に片づけるように。残りの一か月半は有給を取ったり、休んでもらって構わない」と言われ、また竹ノ内研で実験した実験ノートの原本を置いていくようにとも言われている。

 残りの一か月半で次のポスドク先を探そうにも、すでに翌年度4月1日着任の教員公募はほとんど終わってしまっているし、そもそも生命科学ライフサイエンス系の常勤職の公募は年々減少していて、ポスドク先ですら探すのに苦労もする。

 そんななかで、前職を解雇されてしまった俺達は、『応募書類を出せる公募がない』という状況になっていた。



「なぁ、これからどうする?」


 重苦しい沈黙を破って、飯島いいじまが誰とは言わずに問いかける。寒空の下でしばらく間をおいても誰も答えようとしない。ただ黙々と自分の手元のスマートフォンを動かしている。そうだよな、と一言つぶやくと、飯島もコーヒーの湯気で曇った眼鏡を外し、ハンカチで拭う。あまりの突然の解雇に、誰も、何も考えられないでいた。


 ただ、一人を除いて――



「……なぁ、お前たち”貯金”っていくらある?」

 それまで黙って俺達を見ていた崎村さきむらがぼさぼさの髪に手をやりながら声をかける。何日洗っていないのか、フケが舞っているが本人は気にしていない。俺は学部の頃からこいつを知っているが、曲者ぞろいの竹ノ内研でも特に何を考えているのかわからないような男だった。


「なんの話だよ、急に。貯金なんてねぇよ。非常勤扱いだったんだぞ?」

 俺はそう即答する。他のやつらもおそらく同じだろう。 

「だよな。でもここにいる7人分足せば、100万……200万くらいにはなるだろ?」

 崎村がそう言うと、「なんの話だよ」と佐藤と戸部が問い返す。崎村はテラス席の黒い網のようなスカスカのテーブルを右手の人差し指でトン、トンと二回叩いて、今度は指をテーブルにつけたまま丸く円を書くようになぞる。


「…………何考えてんだ?」


 学部、大学院と同じ竹ノ内研で過ごした俺は、それが崎村が”何かを企んでいる”ときの癖だと知っていた。崎村も俺が気づいたことに気をよくしてニタァと笑う。


「会社を作るんだよ。登記してしばらく動く分には、そのくらいあればいける」

 あまりの突拍子もない言葉に俺を含めた全員が固まっている。「作ってどうすんだよ」とようやく動いた口がそういうと、崎村はふふんと鼻をならす。


「会社ならな、あの文科省から金貰えるんだよ」

「何言ってんだ? 話が読めん」

 いつの間にか6人ともスマートフォンから手を放し、崎村の言葉を待っている。

「グラント(公的研究資金)だよ、グラント。今の俺たちには出せないが、『企業研究員』になれば出せる」

「……どういうことだ?」と俺が返す。

「まず会社を登記する。誰かの実家でいい。そこで30万くらい必要になる」

「次にグラントに申請するために必要な府省共通研究開発管理システム(eRad)に登録する。オフィスもラボもレンタルでいい」

「レンタルラボ? そんなのあるのかよ」

 佐藤が聞く。ふと見ると、飯島は手帳を開いてメモを取っている。

「ああ。ほとんどの自治体にはベンチャー企業に部屋貸ししてくれるラボスペースがある。インキュベーション施設ってやつだな。当面の金さえあればなんとか借りれる」

「会社という”器”に、実験室。これで俺たちは無職じゃない。立派な『企業研究員』だ。 ……少なくとも"府省共通研究開発管理システムのなか"ではな」


「それで、企業研究員としてグラントに出すのか。受かるわけないだろ、俺たちは一回もそういうことは…………」

 得意そうに言う崎村に嫌味のつもりでそういうと、崎村はすぐに切り返す。



「だからって、お前は諦めるのか?」



 俺は「えっ」と拍子抜けしたような声を漏らす。


「夜中まで実験して、誰よりも多く論文を読んで、そして書いて……なのに俺たちには教員ポストがないってだけで研究が続けられない。いくつもアイデアはあるのに」


 崎村が腕を組みながら真剣な表情で続ける。


「だったら、最後に『見せかけのポスト』を使ってグラント取りに行くくらい、神様だって許してくれるだろ」


 「しかし……」と俺が渋っていると、次々と「俺は乗った」、「俺もやる」、「俺も」と声が上がる。崎村は、一旦目を閉じて、ゆっくりと、全員に語りかけるように言葉を紡ぐ。



「…………つくづく馬鹿な人間だなぁ、俺たちは。研究がしたくて、実験がしたくて、論文が書きたくてしかたがない。だから、俺たちは必ず解雇通告をしてきたあの教授たちを追い抜こう――この7人で」


 崎村の言葉に全員が奮い立たされている。俺も例外ではなく、拳をぎゅっと握る。その様子を見て、崎村は満足そうにテーブルのコーヒーを啜る。


「会社名はそうだな……ここの名前を取って、コーヒーショップライフテクノロジーズくらいにしとくか」

「適当だな」

 俺は率直な感想を口に出す。

「いいんだよ、このくらい馬鹿馬鹿しい名前の方が。馬鹿みたいなこと始めようとしてる俺たちにはあってる」




 前の日に降った雪が残る寒い冬のある日、俺達は突然職を失った。そして、その失意のなかで立ち寄ったコーヒーショップで、思い付きのように起業を決意する。俺達はずっとライフサイエンスの実験ばかりをやってきていて、起業論というものをまったく知らない。

 もしそういうものの専門家が俺達を見れば、ずいぶんと無謀に、あるいは滑稽に見えるのかもしれない。資金もないのに、明確な事業計画もないのに、と。

 それでも突然解雇され、特に資格も免許もない理学部・工学部卒の俺達には、崎村の言葉に勇気づけられた。その証拠に、あんなに暗かった顔が皆一様に明るく戻っている。


 思い出したように粉雪が降り出す。こうやって、俺達のコーヒーショップライフテクノロジーズは船出した。




(続く)

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