ぼくらのグレートジャーニ―
今田ずんばあらず
竹林のなかのトンネル
一人で走っているわけではなかった。
少なくとも折れた竹をまたぐまでは友人と走っていたはずなのだ。
道はコンクリートづくりで、ところどころひびわれ、少年のふくらはぎくらいの破片がごろごろしている。
一本道ののぼり坂なので迷うことはまずないだろうが、少年は一人になった途端、ここが見知らぬ世界であることに気づいて足がすくんだ。
友の姿が見えなくなった今、少年の鼓膜をふるえさせるのは遥か頭上でゆれる竹の葉の音と、竹の茎同士がぶつかる、ぱき、ぱき、という音だけであった。
思わず上を見上げた少年は、盛り上がったコンクリート片に気づけなかった。
少年はそのまま破片につまずき、膝をすりむいた。
「おい、なにやってんだよ」
ききおぼえのある声、これは友の声だ。
ふと顔が明るくなったが、それもつかの間のことだった。
少年の顔になにかが降りかかった。
竹の葉だった。
「早くしろって、立て、立て」
「ようへい、なにするんだよ」
「もうすぐなんだよ、ぐずんなって」
ようへいは再び枯れた葉を蹴った。
葉っぱはひんやりとしていて、
少年はよろよろと立ちあがった。
ようへいの泥だらけの靴が見え、それから真っ黒に日焼けしたスネが見えた。
ベージュの短パンから紺のTシャツ、馬のように縦にのびたひらたい顔があった。
「なにもないよ。竹ばっか」
「すぐそばにあるんだって。ここからじゃ見えないだけで、本当に本当にそばにあるんだから」
ようへいはそのまま坂を駆けていった。
少年も遅れまいと立ちあがるが、膝を強く打ったために力が入らず走れなかった。
彼は焦りをつのらせたが、思うようにからだが動かないのが、まるで夢のなかにいるみたいで、思わず笑ってしまった。
少年はぽっけに手を入れて囁いた。
「まけるな、まけるな、ぼくには、こいしがついている」
坂をのぼりきるとくだりになった。
間もなく平坦な道になり、その先に真っ黒い口がぽっかり開いていた。
ようへいはその前でしきりに少年の名を呼んでいた。
「これこれ、俺が見つけたんだぞ」
「トンネル?」
「そうだ、トンネルだ。俺のトンネル」
それはずいぶんと古くからあるものだった。
トンネルを囲む石垣は風雨ですっかりつるつるとしていて、小指の間接ほどの厚みまで成長した苔が積もるようにむしていた。
名の刻まれていたはずの鉄板は翡翠色に溶け、名は失われてしまっていた。
少年は曾祖父を思った。
小二の夏だから三年前に亡くなったのだが、それまで毎年正月と盆に、実家の近くを流れる小川に沿って散歩したことをよく覚えていた。
そこを歩くのが曾祖父の日課なのであった。
彼と一緒にトンネルをくぐった記憶も、竹林を通りぬけた記憶もなかったのだが、このトンネルの風格と彼の姿がよく似ていたのである。
「この先は、どこにつながってるの?」
当然の疑問をようへいに投げかけた。
トンネルの先は一筋の光すらなかったが、ひんやりとした風の流れが感じられた。
行き止まりでないことは確かなようであった。
「わからん。山の向こう側かどこかだろ。……いや、まて」
ようへいは目を閉じ、深呼吸をした。
口ではなく、鼻から息を吸っている。
「どこかで嗅いだことのあるにおいがするぞ」
鼻をすすってみると、確かに竹とは別のにおいがする。
昔どこかで嗅いだ確信はあったが、それがどこのものなのかは覚えていないのであった。
「なんのにおいだろ」
「なんだよ、おまえもわかんないのか。つかえないなあ」
ようへいは明らかにがっかりしたような息をついた。
少年の心は傷ついたが、なにくわぬ顔でぽっけに手をいれて、まけるな、まけるな、と心のなかで囁いた。
「あ、おまえ!」
ようへいが声をあげた。
それをきいて少年はとっさにぽっけから手を引いた。
「また手つっこんでたな。きもいぞ」
「きもくないよ。なんでもないんだから」
「だからおまえ、ばかにされるんだよ」
少年は勇気をふりしぼるとき、かならず右ぽっけに手を入れて自身を励ます。
黒板に書きだされた算数の問題を解くとき。
縦になった跳び箱をとぶとき。
友達にばかにされたときなんか。
いつもそうやっていた。
「なか、入らないの?」
少年は話を逸らそうとしてもう一度真っ暗いトンネルの向こう側を見た。
どおどおと、獣のうなり声みたいな音が穴の先からきこえた。
「はあ?」
とようへいは言った。
「入るさ、そりゃ、入ってやるさ。今から入るとこなんだ」
彼は続けて言ったが、ちら、とトンネルを見るばっかしだった。
半歩少年に寄り、その小さな背中を強くたたいた。
「行こう。行こう。な」
ようへいの手は明らかに少年が先頭に立つよう促していた。
そのことを少年は察した。
「うん、そうだね、行こう行こう」
少年は一歩前へ出た。
先ほどすりむいた膝がじんと痛んだが、ひきずれば歩けないわけではなかった。
竹の葉をいくらかすった。
トンネルに近づいていくと、すれる音が穴に吸収されていって、何倍もの音になって少年たちの
なかに入ると空気がさっと冷たくなった。
走ったばかりで汗ばんだ少年の肌の熱が奪われていく。
一瞬立ち止まりたいと考えた。
ふと、立ち止まった途端やわらかい地面から手が生えて、二人を砂の地面へ引きずりこむのではないかと思った。
歩きつづけることにした。
足音も、息も、ようへいの気張った声も、音という音がこだまし、闇に消えた。
数歩行くともうようへいの顔も判別できないほどであった。
こだまは奇妙にも思えたが、不思議と心地よくも感じられた。
もっとよくこだまを感じてみたいと思った。
暗闇の先から、どおどおと獣のうなり声みたいな音がきこえる。
「なあ……」
ようへいの声がトンネルのなかを駆けめぐり、彼ははっとなって身を縮めたが、数秒ののち、さらに声を絞って続けた。
「やばいんじゃないか、ここ」
「うん……」
少年は音に対して強い恐怖は抱いていなかった。
ただこの冷えには耐えられなかった。
足から、背後から、冷気がやってくるのだ。
何者かが潜んでいるように思えてならなかったのだ。
と、背後の気配が変わった。
少年の心臓は飛び跳ねるように一度大きく脈を刻んだ。
ただ気配の変化の正体は化物でもなんでもないものだった。
友が無言で回れ右をして、早歩きで入口へ引きかえしたからだった。
少年は安堵の息をついて友の背を追った。
それから冷や汗で湿った手でぽっけのなかにある小石をにぎりしめた。
「なに、アンタも逃げるわけ?」
「仕方ないよ、こいし。ようへいが行っちゃうんだもん」
「あら、汗ばんでるじゃない。こわいの?」
「こんなこだまでこわくなったりしないよ、ようへいとは違うんだ」
「そうね、アンタはよく掃除用具入れに閉じ込められるから、暗いとこも狭いとこも楽勝か」
「好きで押し込まれてるわけじゃないよ。そうじゃなくて、ここすごく冷たいんだ。だから……」
少年は小石と喋った。
いや、小石ではない。
彼にとって小石は「こいし」であった。
亡き曾祖父がくれた大切な親友なのだ。
こわいときはばかにしながらも勇気を与えてくれ、かなしいときは呆れられながらも励ましてくれるのである。
「背中に幽霊でもいるとか思っちゃってたわけ? 後ろにはこの見栄っ張りさんがいるだけで、そんなよくわからないの、どこにもいないわよ」
「でも、いそうな気がしたんだ」
「見えないものより、この私を信じなさいよ」
こいしの口調は相変わらず厳しかった。
しかし「彼女」と話しているとずいぶんと落ち着くことができたのであった。
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