猫は、好奇心では死なない

@omasa

第1話 トイレの個室にて

月は出ておらず、森には墨を流し込んだような闇が広がっている。

何かを感じ取っているのか、夜を生きる動物さえも息を潜め、あるのは静寂のみ。

しかし今、そこに二つの光を見出す事ができる。

一方の光は闇から逃れようと、もう一つは逃さまいとしているように見える。

まるでそれは闇の中の鬼ごっこ。勝者となるのはどちらの光なのか。

光が目指す森の出口は、もうすぐそこに迫っていた。


何もかもがうまくいかない。

男は前方をいく光を追いかけながら、つくづく自分の運のなさを呪っている。

一体何がいけないのか。どうして俺ばかりこんな目に会うのか。

そう、全てはあの女のせい。

あいつがあんな事さえしなければ、こんな事はしないですんだのに。

だがもうそれはいい。あいつの分はしっかりと打ち込んでやった。

それに、いつもおればかり注意する店長、裏でおれを話のネタにして笑っている専務の分も。

そして今夜、あいつの分を打ち込めば終わるはずだった。

いままでずっと親友面をしていた、あいつの分を・・・。


数分前、男は纏わりつくような闇の中で一心不乱に金槌を振り下ろしていた。

頭に巻いたヘッドランプの光を頼りに、憎悪に満ちた言葉を口にしながら、

恨み、忌み嫌う相手を藁人形に見立て釘を打ち込んでいく。

顔には写真が貼ってあり、そこには既に釘が打ちつけられている。

一本、また一本と釘は増えていく。

最後の一本となったその時、かすかな音が、乾いた枝が折れるような音が聞えたように思えた。

一切の動きをやめ、首だけを動かし周囲の闇を凝視する男。

1分が過ぎ、2分が経ったが、どこからもそれ以上の音は聞えてこない。

気のせいだろう。そう判断した男は再び釘を打ち込もうと藁人形へ視線を戻し、金槌を振り上げる。

しかし、何かは隠れていた。

男の背後にある茂みに隠れていた何かはこの瞬間、男が一本の釘に集中する瞬間を見逃さなかった。

森の出口、つまり男から見ての正面。

その方向めがけ、茂みから飛び出した何かが男の脇をする抜けていく。

完全に虚を突かれた男が唯一確認出来たのは、何かが動物ではなく人間だったという事だけだった。

離れていく光を見つめながら男は自分に問う。

この儀式は誰かに見られてしまえば効果がなくなってしまうのではなかったか?

この儀式は誰かに見られてしまえば自分に呪いが返ってくるのではなかったか?

男は握っていた金槌をさらに強く握り締める。

それが自分の出した答えだと言うかのように。


何回かこの森に足を運ぶうち、ある程度地形を把握してしまったのかもしれない。

目の前を行く光を追うのは思いのほか容易で、相手との距離は少しずつではあるが確実に縮まってきている。だが、闇が薄くなってきていることに男は焦りを感じていた。

今まで密だった木々がまばらになっているという事は、森の終わり、出口が近づいている事を意味する。

どこからか差し込み始める灯りの下、男の目ははっきりと相手の姿を捉えていた。

華奢な体つき、肩辺りまである黒い髪、そして、左右に揺れるしなやかな尻尾。

自分が追っている相手が少女と判断した男は狂喜し、自然と体が急いでしまう。

だが、それがいけなかった。

足元への注意が疎かになった結果、地面から露出した木の根に躓き、派手に転んでしまったのだ。

打ち所が悪かったのか、少しの間息ができない。

やり場のない怒りと共に、体を起こし周囲を見渡すが、光の主である少女はどこにも見えず、ましてや人が走るような音も聞えない。

灯りを消し、どこかの茂みに身を隠したのか、そもそももうこの森にいないのかもしれない。

重い足取りで、森の出口にある公園に足を踏み入れた男の目に、あるものが留まる。

それは公園の片隅にひっそりと建てられたトイレだった。

それをじっと見つめる男には、怯えながら隠れる少女の息遣いが聞え、肩を震わせているのが見えている。

男はこびりつく様な笑みを浮かべながら、染み込むようにトイレの中へと消えていった。


定期的に掃除がされているのか、公衆トイレにありがちなアンモニア臭は漂っていない。

男から見て右手側は壁になっていて、左手側に個室が三つ、そのどれかに景品が入っています。と言わんばかりに並んでいる。

いつ消えてしまうか分からない頼りのない蛍光灯の下、男は楽しむようにゆっくりと扉を押し開けていく。

一つ目・・・。

いない。

二つ目・・・。

いない。

男には小女がどこにいるか分かっていたが、それでも全ての扉を開けずにはいられなかったのだ。

三つめ・・・。

上から下へと、下から上へと、男は舐めるように扉を見つめている。

暫くして男は懸垂の要領で体を持ち上げると、そのまま上半身を桟の上に乗り出し個室の中を覗き込む。

思った通りだった。

黒い半袖にジーンズ、できるだけ目立たない服装を選んだのだろう。

追い詰められた哀れな少女は、洋式トイレのフタに座り込み、俯き、頭に生える耳を両手で抑えている。

まるで何も聞きたくないと願っているかのように。

だが男がトイレに入ってきた事には気が付いているはずだ。

もはやなす術は何もなく、ただひたすらに恐怖が去ってくれるのを願っているに違いない。

その様子を満足げに眺め続ける男。

数分が過ぎ、視線を感じたのか、何も起きない事に安堵したのか、少女はゆっくりと顔を上げ始める。

前髪の間から覗く額、勝気そうなきりっとした眉、そして必要以上に見開かれた金色の目。

男は粘りつくような吐息と共に言った。


「みぃつけた・・・。」


男には少女の心境が容易に想像できた。

驚愕の次に恐怖が訪れ、目には涙が浮かび、キッと結ばれた唇は歪み始める。

声もあげる事が出来ず、後悔と懇願、そして絶望が入り混じる。

好奇心は猫をも殺すと言うように、彼女の場合も好奇心が、ちょっとした刺激を得るだけのはずが

自身を絶望的な状況に追いやる事になってしまった。

やっと状況を理解したのか、見開かれた目は元の大きさに戻り、口元が歪み始める。

だが何かがおかしい。

確かに歪んではいるが男の想像していたものとは違う。

口の両端が僅かに吊り上がり、微かに笑みを、それも挑戦的な笑みを浮かべているようにも見える。

なぜそんな表情が出来る?この一瞬で気が違ってしまったのか?

疑問を抱いた瞬間、男は自分から余裕が失せ始めている事に気が付いた。

そしてもう一つ、少女の唇が僅かではあるが動き始めた事に。


「この後、どうなるか知ってるか?」


それは男の声ではなく、紛れもない眼下の少女の声だった。

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