第三話B 一対一クラップス- その1
ほぼ同時刻、本館高層階のとあるワンフロア。
むき出しの空調用ダクトが天井を這う狭い廊下を、ノーマンデーは闊歩していた。
何度目かの十字路に差し掛かり、その中央に立ち止まってぽつりと一言呟く。
「……迷った」
廊下の中央で顎に手を当てうーんと唸るが、その様子は悠然としていて、とても無許可で立ち入り禁止区域に侵入した闖入者のようには見えない。
「方向的にはこっちで合っているはずなんだがなあ。思ったより経路がごちゃごちゃしていやがる」
不明瞭なことを独白しながらも、彼の足は迷うことなく再び前へ。
ノーマンデーの目的地である事務室がこのフロアの北側に存在している、という情報だけは確かだった。
二週間前にワイアットパレスの隣に建つ――と言っても二百メートルは離れていたが――別の高級ホテルの屋上から実際に監視したので位置は把握済みだ。双眼鏡に映った窓の中にはそれらしき事務作業も見えたので、契約書類がそこに保管されている可能性は高い。
ただし透視能力はないので、そこに辿り着く順路までは把握していなかった。
ホテルなんてどこも似たようなものだろう、と高をくくっていた部分が仇となり、今はこうして従業員用の通路を彷徨っている。
これ以上時間がかかるようなら、最悪外に出て壁をスパイダーマンよろしく這って行かなければならないかも、と半ば本気で考え始めていた。
「それにしても汚い通路だ。俺のような紳士が歩くには似つかわしくない」
ノーマンデーはマントを振り払いながら、雑然とダンボールの積み上げられた通路を進む。
高級ホテルとはいえ、従業員に対する扱いは他のホテルと大して代わり映えはない。特にここのような一般解放のない秘密のフロアなら尚更だろう。少数のスタッフで運営される関係上、慢性的な人手不足は想像に難くない部分があり、実際ここまでの道程でスタッフどころかネズミ一匹にも出会う気配すら感じられなかった。
特にこの区画は備品置き場のようだ。通路の脇には使わなくなったスチールデスクが積み上げられ、椅子は逆さの状態で放置されており、天井の蛍光灯も端が黒ずんで明滅している。
時刻は午後の九時を過ぎ、照明も満足に機能していないような静寂の中で。
ノーマンデーの行く先には、一人の大柄な黒服が待ち構えていた。
「ようやく来たな、ノーマンデー。貴様を待っていたよ」
明滅する照明の中に、男の顔が映る。
黒の上下に身を包んだ金髪の白人男性。歳は二十代後半くらいだろうか、深い藍色の瞳の中には、明らかな敵意が浮かんで見える。
ノーマンデーはその場に停止し腕を組み、首を傾けて男を睨みつけた。
「……誰だっけ?」
「く、クレイトンだ! クレイトン・キルパトリック! 裏カジノでは世話になったな」
「クレイトン? ……ああ、あの金髪青スーツか。そんな名前だったんだ」
神経を逆撫でするノーマンデーの発言に青筋を浮き上がらせるクレイトンだったが、その憎悪は狂喜に変わったらしく、にやりと嗜虐的な笑みを口端に零してみせた。
「貴様に受けた屈辱、忘れていないぞ。おかげで借金も50万ドルだ。この借りは是が非でも倍にして返したいと、貴様を付け狙っていたんだ」
「……なるほど。あんた、やっぱりホテル側の人間だったんだな」
ノーマンデーが呆れたように、やれやれといったポーズを作る。
「人を騙す手口が妙に小慣れていると思ったよ。さしずめ利益を客に取られないためのサクラと言ったところか」
まさに今、ホテルの支給品らしき黒服に身を包んでいることからも、それは疑いようのない事実だろう。
クレイトンは正体が露見しても、さして気を咎めるでもなく笑みを続けた。
「元、黒服さ。ゲーム開始直前に俺の辞表は受理されている。ギャンブルで金銭関係が発生してもホテル側には関係がなく、それは俺個人の問題だ」
「それで、ほとぼりが醒めたら現職復帰するって魂胆だろう? 一昔前に流行った手口だぜ」
クレイトンがホテル側と今でも繋がっているというのは、ここまでノーマンデーを追って来られたのが何よりの証拠だ。おそらく裏カジノの一件以来、ずっと監視カメラなどで監視されていたのだろうとノーマンデーは推測した。
「それで、こんなところまで何の用だ?」
ノーマンデーは吐き捨てるように言う。
「見たところ、あんたの他に助っ人もいないようだし、俺を不法侵入で摘み出そうって感じでもなさそうだ」
「貴様がこんなところで何をしようとしているのか、なんて知ったことか。俺にとって大事なことは、不法侵入者を心置きなくボコボコにできる口実がそこにある、ってことだ」
クレイトンが大きな拳を胸の前で突き合せて、ゴキゴキと音を鳴らす。ポーカー25のときは紳士的な振る舞いだったが、こちらが本来の性格らしかった。
「ぶん殴って借金が消えるわけじゃあないが、貴様が俺を怒らせたのが悪いんでね。利子みたいなものだと思って諦めてくれ。なあに、殺しはしないよ。手加減は心得ている」
ノーマンデーも決して背の低いほうではないが、クレイトンの上背は相当のものだ。
スーツを盛り上げる大胸筋も常人のソレではなく、徒手空拳でノーマンデーに歩があるとは万が一にも思えない。黒服の中でも、主にソレを生業とする黒服に分類される男なのかもしれない。
クレイトンが一歩、二歩と、無遠慮な歩調で近づいていく。
ノーマンデーの真正面で立ち止まると、右の強大な上腕二等筋を振り上げて、
「さあ、歯を食いしばれ――!」
遮二無二その拳をノーマンデーの顔面に叩き込もうと振り下ろしたとき――、
「では、賭けないか」
さして慌てふためく様子もなく、ノーマンデーがそう切り出した。
「……はあ?」
思わず拳を中空で留めるクレイトン。ノーマンデーは平然とした表情のまま続ける。
「何のゲームをやるかはあんたが決めていい。そのゲームであんたが勝ったら俺を思う存分ボコればいいし、どうしようとあんたの自由だ。ただし、俺が勝ったら俺の目的地までの道案内をして貰おう」
「な、何を突然言ってやがる。状況分かってるのか? お前は今、俺に要求できる立場じゃ――」
「おっと、ゲームはもちろんギャンブルだぜ。金も賭けなきゃ面白くない。それともあんたは、賭けようと言われて躊躇するような男なのか?」
ノーマンデーの薄笑いが浮かんだ視線が、腕を振り上げたままのクレイトンを貫く。
クレイトンはたっぷり思案した後に拳を下ろし、大きな胸板を突き出して鼻息を荒げた。
「賭けようと言われて賭けない奴はギャンブラーじゃない。……いいだろう、勝負してやる! ただし、俺の得意なゲームでな!」
ノーマンデーの薄笑いが、会心の笑みに変わった瞬間だった。
「そうこなくっちゃな。それで、何のゲームをやるんだ?」
クレイトンは自分のジャケットの内ポケットから、小さな赤い立方体を数個取り出す。大きな手の平に乗せて見せたのは、ギャンブルではお馴染みの乱数装置だった。
「六面サイコロか。それも六個」
「いつも肌身離さず持ち歩いているものだ。こいつで【クラップス】をしようじゃないか」
「ほう、いいね」
ノーマンデーの目が嬉々としたものに変わる。さながら悪童のようだった。
――クラップスは、アメリカではバカラに次ぐ人気とされる定番のギャンブルだ。
ルールも二個のサイコロを振って出る目を予想するだけ、というシンプルなもので、短時間で遊ぶにはもってこいのゲームと言える。その反面、賭ける金額が高額になりやすいのも特徴であり、クラップスで人生が破滅するギャンブラーも少なくない。
「本来、クラップスは多人数でワイワイやるのが楽しいゲームだが、こんなしがない場所じゃ一対一以外は期待できない。多少ルールを変更してやろうと思う」
クレイトンが六つのサイコロを手の中で弄びながら言う。ノーマンデーは頷いた。
「では、まずは基本的な確認をするが、ゲームは全部で10シーズン行う。先攻が二個のサイコロを一度振り、次に後攻が同様にサイコロを振って1シーズンだ。次のシーズンになったら先攻と後攻は交代する。これを10シーズン繰り返して最終的に儲けの多かったほうの勝ちだ」
「勝った回数ではなくて、賭けで得たチップ数が多いほうが勝者だな」
納得するノーマンデー。
ギャンブルで求められるのは勝ち星ではなく、いくら儲けたか、なのである。チップを賭ける枚数すら駆け引きに用いるのが真のギャンブラーと言えよう。
「次にシーズン毎の勝利条件だが、通常のクラップスだと先攻と後攻で多少勝利条件が異なるが、今回は時間の短縮のため簡略化する。二個のサイコロを振って、出た目の合計が何であるかで勝敗が決まることは変わりなしだ」
「分かった。それで?」
「まずは【ナチュラル】だが、これは【7】の目で固定する。出した瞬間にその者の勝利だ」
クラップスにおけるナチュラルとは、出した瞬間に無条件で勝利できる出目のことである。
たとえば先攻が振ったサイコロの合計数が7になった場合、後攻にサイコロを振らせるまでもなく先攻の勝ちが確定する。クラップスの7とは無慈悲な神の数字なのである。
「そして、同様に【クラップス】は【2】と【12】だ。通常は先攻だけが縛られる目だが、今回は後攻にも適用する。このクラップスが出た場合、無条件で後攻の勝利とする」
「……へえ、後攻の勝ち率を少し引き上げるのか」
ノーマンデーの呟きを流したクレイトンは、話を続けて、
「そして、先攻が振った【2】【7】【12】以外の目は【ポイント】と呼び、その時点では勝敗は確定しない。次に後攻がサイコロを振り、先攻と同じポイントを出した場合は後攻の勝ちとなり、出せなかった場合は先攻の勝ちとなる。先攻と後攻が一回ずつサイコロを振るだけで勝敗が決するわけだ」
ノーマンデーは頭の中で、ざっとルールを整理する。
先攻は、ナチュラルである【7】を出した場合は無条件で勝ちとなり、クラップスの【2】【12】を出した場合は無条件で負けとなる。それ以外の場合は後攻の結果に持ち越しだ。
後攻は、【2】【7】【12】を出した時点で勝利となり、先攻が出した目――ポイントを再び出せれば同様に勝利。出せなければ負けとなる。
「……確率論だけで言えば、先攻のほうが六対四くらいで有利なルールだな」
ノーマンデーはそう結論付けて、口にした。
サイコロの目は基本的に確率論に収束する。確率的に7という数が一番出やすく、2と12は一番出にくい数だが、このゲームの肝はむしろポイントにあるだろう。
というのも、瞬間的に勝敗の決する2、7、12の出る確率は二割強しかない。出目の八割弱はポイントになるわけであり、先攻と同じ目を出さなければ勝利できない後攻にとっては、ここが鬼門となるだろう。だからこそ先攻が有利だとノーマンデーは考えたのだ。
しかしクレイトンの計算上では異なるのか、緩慢に首を振ってそれを否定した。
「確率論で語れないのがクラップスの面白いところさ。オカルトに聞こえるかもしれないが、ギャンブルにおいては場の流れってのが、存外に確率論を凌駕する。こういうサイコロみたいな単純なゲームなら尚更だ」
「確かにな。幸運の女神サマは、強気な男が好みだってのは良く聞く話だぜ」
ノーマンデーがにやりと口端を上げる。クレイトンは話を続けて、
「……ルールは以上だ。あとはシーズン毎の賭け金だが、百ドル、千ドルなどとチマチマ賭けても仕方ない。ここは裏カジノ同様、豪勢に銀チップ1枚――そう、五十万ドルで行こうじゃないか」
クレイトンは指に挟んだ銀貨を一枚、顔の横に掲げて、白い歯を見せ付けた。自分で提唱したゲームである以上、勝敗には絶対の自信がある表れだろう。
加えて、クレイトンには先のゲームでノーマンデーにチップ5枚――50万ドル負けたという雪辱もある。倍にして返すという有言の実行のためにも、銀チップは譲れない提案だった。
だが、そんなクレイトンの意図を知ってか知らずか。
これから述べるノーマンデーの提案は、その斜め上を軽く飛び越えるものだった。
「せっかくだから、シーズン毎の倍賭けにするのはどうだ?」
「シーズン毎の……倍賭け?」
「つまり、第1シーズンの銀チップ1枚から始まって、第2シーズンは銀チップ2枚。第3が4枚で、第4が8枚、第5が16枚……と、シーズン毎に倍々でチップ数を増やしていくんだ」
「ほう、面白そうだな。そうしたら、最終的に賭け金は……」
クレイトンは、指折り数えながら頭の中で計算する。
第6シーズンで32枚、第7で64枚、第8で128枚、第9で256枚。ってことは――。
「さッ、最終シーズンは512枚だと? こんなッ、蛍光灯も満足に点かないような小汚い廊下の端っこで、5120万ドルも賭けるって言うのかよ――ッ?」
5120万ドルは、日本円にして約61億4000万円。
ちょっとしたきっかけで始まるにしては空前絶後とも呼べる超高額の賭け金に、さすがのクレイトンも絶叫を抑えることができなかった。
「ああ、確かに、立会人がいないから口約束では心配だな」
だというのに、相変わらず平然としているのはノーマンデーのほうだ。
「あんたが望むのなら、その辺のダンボールの切れ端に、サインペンで誓約書を書こうか。あんたも賭け金の取りっぱぐれは嫌だよな?」
「いやッ! いやいやいや、そういう以前の問題だろ! 5120万ドルって!」
取り乱すクレイトンに、完全に立場を逆転させたノーマンデーが不敵な笑みを向けた。
「ここがどこで、何がきっかけかなんて関係ないさ。賭け金がデカければデカいほど燃えるのがギャンブラーってモンだろう。それとも何だ、あんたはこの状況が嫌なのかい?」
仮面の奥の真っ黒い瞳孔が、クレイトンの藍色の瞳に突き刺さる。
その瞳の中で輝くのは、高濃度の麻薬よりも妖しく輝く魔性の光だ。
クレイトンは、このとき初めて理解した。
――ああ、この男は。寝ても醒めても、生粋のギャンブル
「はッ――はっはははッ! そうだよな畜生! 俺も同じだよ、寝ても醒めてもギャンブルのことが忘れられない中毒者さ! こんなクソゲーム、受けないはずがないだろうがよ!」
言葉にできない何かに触発されたらしいクレイトンが、狂ったように笑い出す。
その異様な心情の中に同意の言葉を拾い上げたノーマンデーは、満足そうに頷いた。
「OK、成立だな」
ぺろりと唇を舌で舐めて、ノーマンデーは消えかけの蛍光灯の中で笑みを零す。その余裕すら感じさせる敵方の様子を眺めながら、クレイトンは内心でにやりとほくそ笑んでいた。
(くく……馬鹿め。俺に簡単に勝てると思うなよ。こっちには取っておきの秘策があるんだ)
もちろん、その述懐がノーマンデーに聞こえるはずもない。
「それじゃあ、特別ルールの【
突発的に始まった超高額のカジノゲームの火蓋が今、切って落とされようとしていた。
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