第三話A マインルーレット -その1
大柄な壁掛け時計が午後九時を指し示し、重厚な鐘の音を遊戯室に響かせた。
部屋の中にいるのは黒服が六名に、客と思しき男が七名。
うち三名はタキシード姿の紳士で、うち二名はビジネススーツの若い男性と中年男性。裾の長いダッフルコートを着込んだ若い男が一名に、モヒカン頭が一名という内訳である。
そこに客側の紅一点である駿河美桜を含めた計八名は、縦三メートルほどもある大きなカジノテーブルを挟んだ向こう、カジノ側の紅一点であるノーチューズデーと対峙していた。
「皆様、ルーレットというギャンブルはご存知ですわね? 回転するルーレットホイールの中に投じられたボールが何番のポケットに入るのかを予想する、シンプルなゲームですわ。今回行わせていただくマインルーレットも、基本的にはまったく同じでございます」
ディーラーを名乗る幼い少女が、テーブル上のルーレットホイールに軽く触れながら言った。テーブルは美桜からすれば腰の位置の高さだが、背の低い彼女にとっては胸の高さだ。そのため、今のチューズはテーブルの下に置かれた台の上に乗ってこちらを向いていた。
「おいおい……脚も届かねえジャリンコがディーラーなんて、なんつー冗談を言ってやがる」
と、呆れるように言ったのはモヒカン男だ。周囲の客たちも、ゲームの内容よりディーラーの幼さを訝しんでいるように見える。
疑惑の視線の集中砲火を浴びたチューズは、しかし、その仮面の奥の瞳に歳不相応の妖艶さをにじませて、にっこりと笑みを浮かべた。
「冗談かどうか、試してみます?」
チューズはおもむろに両手を伸ばし、テーブル上の二つのルーレットに指を近づける。
右手は青いルーレット、左手は赤いルーレットの中央へ。
ルーレットの中央にあるノブを同時に捻ると、二つのホイールが音を立てて回転を始めた。
カラララ、という
そして、二つのルーレットの縁に添えられたチューズの指先が、白いボールをはじき出す。
指先ほどの小さなボールはしばらくホイールの回転軸に逆らって、ルーレットの縁をぐるぐると回転していたが、一分ほどして速度を失うと重力に引かれるように落下した。
ホイールのポケットの間を、かつかつと白いボールが跳ねていく。客たちはそれを、息を呑んで見守ることしかできない。
やがて互いの慣性が静止に近づき、先に青いホイールが落ち着きを取り戻すと、吸い込まれるように白いボールは【1】と表示されたポケットの中へ吸い込まれた。
「うおっ、マジか!」
モヒカン男の声に反応して隣を見ると、赤いルーレットの中の白いボールも、青いルーレット同様【1】と書かれたポケットの中に僅かな惰性を残しながら停止していた。
「優秀なディーラーは狙ったところにボールを落とすことができるって噂は、ご存知?」
チューズが不適に微笑む。
二台のルーレットで同時に【1】を引く確率は並大抵のものではない。つまり、これは彼女自身のテクニックによって引き出された結果ということだ。
こんな芸当ができる人間は、優秀なディーラーが集まるラスベガスにおいても百人に一人いるかどうか――。
そんな実力を見せ付けられ、声を上げることができる客は一人もいなかった。
「さて、皆様も気になっていると思いますが、ルーレットが二つありますわね」
チューズは気を取り直して、ルールの説明に戻る。
「向かって左手の青いほうが【ウィナールーレット】、そして赤いほうが【マインルーレット】と呼ばれるホイールです。今宵のゲームにはこの二つが用いられます。皆様にはこちらの青いほう、ウィナールーレットの出目を予想して賭けていただきますわ」
通常、ルーレットの色といえば縁が金で、ポケットは赤と黒の交互という印象があるが、このルーレットは趣が異なる。ウィナーと名付けられたルーレットのポケットは青と白の交互となっており、マインルーレットのポケットは赤一色だ。カジノテーブルに敷かれた緑色のマットとの色合いは悪くないが、美桜はそのルーレットの構造に妙な違和感を覚えた。
「……あ、このルーレット、20までしかポケットないやん」
違和感のひとつに気づいて美桜が呟く。二種類のルーレットとも、ポケットの数が二十箇所しかないのだ。一般的なルーレットは1から36までの番号と、0ないしは00のポケットを合わせた計三十七箇所が通例だが、このルーレットでは十七箇所も足りない。
チューズはこくんと頷いて、テーブル上に描かれたBETレイアウトを指差した。
「その通りです。BETできるエリアも二十箇所しかないでしょう?」
「いや、それはいいとしても……このテーブル、アウトサイドベットもないぞ」
見事な口髭を生やしたタキシードの中年男性が言う。
アウトサイドベットとは、ルーレットの賭け方の一種で、たとえば「黒に賭ける」「奇数に賭ける」などの、規則的な数字をまとめて賭ける方法のことだ。数字をピンポイントで当てる「インサイドベット」よりも当たる確率が大きくなる反面、当たったときの配当が小さく設定されているのが特徴と言える。
アウトサイドベットに賭ける場合、通常だとひとつずつ数字が描かれたインサイドベットエリアから少し離れた位置にあるアウトサイドベットエリアに賭け金を置くことで意思を示すのだが、今回のテーブルにはそのアウトサイドベットエリア自体が描かれていなかった。
「ええ、今回アウトサイドベットは存在しません。それどころか、インサイドベットの複数賭けも禁止ですわ。皆様が賭けられるのは1ラウンドに一箇所のみ。インサイドベットへの一点賭け、数字をピンポイントで指定することだけが可能です」
「い、一箇所、だけ……?」
ダッフルコートの男の鸚鵡返しに、チューズは再び首肯した。
「今回のゲームは、全部で10ラウンド行います。つまり皆様には最大で十回、チップを賭けるチャンスがあるということですわ。賭け金は毎ラウンド固定で、銀チップ10枚。チップが惜しい場合は賭けなくても構いませんが、後述するゲームの性質上、一度賭けから降りたら、そのまま退室していただくことになりますので、そのつもりでお願いします」
ざわ、と八人の客たちの間で空気が変化した。
「ち……ちょっと待って? 一戦10枚? 10枚って……百万ドルやんかッ?」
声を荒げたのは美桜だ。チューズはきょとんとした顔で、首を四十五度傾ける。
「そうですわよ。どうかされました?」
「どうかされましたって……十戦やったら一千万ドルになってしまうやん! 日本円で12億やぞ! そんな現金、持っているはずないやんか!」
「ああ、ご安心ください。この場にキャッシュを持っている方がいるとはさすがに思っておりませんわ。全ラウンド終了後の収支で清算していただければ大丈夫ですから」
「物理的な話をしてるんやないわ! そもそも、一千万ドルなんて大金が――」
「――ふむ、十戦トータルでチップ百枚ね。なかなかの高額レートだが、面白そうじゃないか」
そんな声と共に神妙そうに呟いたのは、先ほどのヒゲの紳士だ。
よくよく周囲を見渡すと、その他の客たちも、なるほどと言った様子で頷いている。美桜のように絶望的な顔をしていたのは、顔面蒼白のモヒカン男だけのようだった。
「……え、何? ひょっとして私のほうがおかしいの?」
「いえ、困りますよ。丸々スっちゃったら、ウチのグループ会社、どこか手放さなきゃ……」
などと眉毛をハの字にして落ち込んでいるのは、気の弱そうな眼鏡のダッフルコート男だ。もうその台詞だけで、この場にいることの場違い感を思い知らずにはいられない美桜だった。
しかし、とそこで声を張り上げるノーチューズデー。
「従来の37分の1よりは当たる確率が高いとはいえ、アウトサイドベットもなく、利潤率が低いのではと不安に思うお客様も多いことでしょう。ですから、今回のゲームでは配当倍率を従来の倍といたしますわ。要するに、賭け金の七十二倍ということですわね」
「な……七十二倍?」
チップ十枚、1億2000万円の七十二倍は――86億4000万円。
「10ラウンド中、たった一度的中させるだけで、7200万ドルをお支払いいたします」
――とんでもない配当倍率に、美桜は鼓動のギアが一段上がったことを自覚した。
「なッ……7200万ドルううッ?」
声を上げたのはモヒカン男だったが、この発表に目の色を変えたのは彼だけではないはずだ。
20分の1という決して低くない確率を当てるだけで、86億4000万円が手に入る。
賭けを一度辞めると退室になると言うが、このビッグチャンスを棒に振ってまで退室しようなんて考えるギャンブラーが、この場にいるはずがなかった。
「ですが、今回の配当はあまりに高額ですので、的中が出た場合はその時点でゲームは終了とさせていただきますわ。つまり、7200万ドルを手中に収めることができるのは、この八名の中でたった一人のみ。第1ラウンドで出る場合もあるでしょうし、誰も的中せずに最終ラウンドまでもつれ込む場合もあるということです」
言い換えれば、八人中七名は、一切のリターンがなくゲームを終えるということだ。
7200万ドルを賭けた、八人のサバイバルレース――。
「しかも更なる特典として、一度ルーレットで出た目は二度と選ばないと宣言しましょう」
チューズがぴっ、と人差し指を一本立て、続けざまに二本目の中指も上げた。
「二種類のルーレットは1ラウンドに付き一度ずつ回しますので、1ラウンド毎に二つずつポケットが減っていく計算ですわね。初期ポケット数は二十ですので、単純計算でも最終10ラウンドに残るポケットの数は二つのみ。二人以上が参加していれば、最終的に百パーセントの確率で誰かに7200万ドルが的中するというスペシャルチャンスとなっておりますわ」
それが本当だとすれば、確かに一戦あたり一・二億円は安いと言えるのかもしれない。
……それが、本当だとすれば。
「なるほど。だから、途中棄権はNGというわけですか。ポケット数が減ってから参戦したほうがおトクですからねえ」
もう一人のタキシード姿、七三の前髪にチョビヒゲの若い男性が言う。
その隣に立っていた、ハンチング帽を目深に被った灰色のスーツ男が吐き捨てるように呟いた。
「チップ十枚×八人×10ラウンドで8000万ドルか。最終ラウンドまでもつれ込めば、カジノ側にも収益があるってこった。7200万ドルなんぞ大した支出じゃないってことよ」
「……いいや、その計算は違うで。ハンチングのおっさん」
そこにしゃしゃり出てきたのは美桜である。
「1ラウンドに二個ずつポケットが減っていったら、第7ラウンドで残りの枠は八つになる。プレイヤーの八人が一枠ずつ賭けていったら八枠全部が埋まるのやから、その時点で勝者確定、ゲーム終了や。それなのに、どうしてラウンドは全部で十回もある? まるで、人数を減らすルールがあるみたいやんか」
美桜の厳しい視線を受け、チューズはぺろりと舌で唇を湿らせた。
「鋭いですわね、お姉様。……その通り、このゲームにはもう一つルールがありますの」
そして、チューズの指先は赤いルーレットに触れる。
このゲームの題名にもなっている、青い勝者とは役割の違うもうひとつのルーレットに。
「青のウィナーは的中すれば勝者となれるルーレットですが、こちらの赤のマインはその逆。的中させてしまった場合、そのプレイヤーは強制ゲームオーバーとなり、ペナルティとして銀チップ百枚分――一千万ドルを払って即刻退室していただきます」
「いッ……」
息の詰まるような客の叫びが、遊戯室に短く響いた。
「一千万ドルだって? 賭け金とは別に、一千万ドルを払えって言うのか?」
濃緑色のビジネススーツを着た客の叫びに、チューズはやんわりと頷いてみせた。
「20分の1の確率で勝者になれるのと同様に、20分の1の確率で敗者になるということですわ。運が良ければ第1ラウンドで7200万ドルを得られますが、運が悪いと最終ラウンドまで生き残った上でマインを引いて、最大二千万ドルをカジノ側に払うということも考えられるわけですわね、ふふっ」
チューズは歳相応のあどけない笑顔を浮かべて、それからこちらを睥睨する。
「ああ、でも、最終ラウンドまで生き残れば五割の確率でウィナーが当たるのですから、やはり途中で降りる選択肢は有り得ませんわ。皆様、最後の最期までお付き合いくださいませね?」
チューズの無慈悲な視線に八人の客が凍りつく。
美桜は軽い眩暈を覚えた。
……馬鹿げている。これではハイリスク・ハイリターンどころの話ではない。勝てば天国負ければ地獄の落差が、あまりにも激し過ぎだ。
86億円を得るか、それとも二千万ドル――24億円を失うか、なんて、貧乏人の娘には分不相応が過ぎて、正直善し悪しの判断なんてできそうになかった。
だから、ただひたすらに、受け入れるしかない。
ノーマンデーが雇用契約書を入手するまでの時間を稼ぎ、ウィリーバー・シルバー・アープへ繋がる糸を手繰り寄せるために、この場を凌ぐしか手段は存在していないのだから。
「そうそう、言い忘れていましたわ。賭けるときはこのテーブルに直接チップを置くのではなく、今からお配りするタブレット端末に入力してBETしてくださいませ。この場にキャッシュを持ってきていないお客様でも安心して賭けられる親切設計ですわ」
むしろ金が無いので今すぐ帰らせてくれ、と叫び出したい美桜だったが、チューズの言葉に合わせて黒服がタブレットを手渡してきたので、その切望は呑み込まざるを得なかった。
タブレットの液晶画面を覗き込むと、そこにはカジノテーブルと同じレイアウトのBETエリアが表示されている。指先で好きな番号をタッチすることで賭けることができるようだ。
「BETができる期間は、合図のベルがチーンッ、と鳴ってからの一分間。ボールを投じた直後から開始となりますわ。なお、ひとつのポケットに賭けられるのはお一人様まで。要は早い者勝ちとなりますから、時間に遅れないようBETしてくださいましね」
実際に試してみないと分からないが、先に他の客が賭けているポケットは、後から別の客がタッチしても反応しないのかもしれない。まあ実際のところ、リスクヘッジの観点から言えば投票を分散させるのは当然の戦略なので、言われるまでもないといったところか。
「さて、ルールは以上となります。とっても簡単でしょう? 当てるべきは青のルーレットで、忌避すべきは赤のルーレット。二つのルーレットが出した番号は次回以降使われないので、ラウンドが進めば進むほど的中率が上がっていく、ハズレのないゲームでございますわ」
「ちょっと待て、幼きディーラーよ。貴殿は一度的中させた番号は二度と使わないと言ったが、ルーレットの構造上、ポケットは生きたままだろう。もしもボール操作を誤って的中済みのポケットに入れてしまった場合はどうするのだ?」
長い金髪を明治時代のサムライのように後頭部で結ったタキシードの男が指摘する。
チューズはひとつ頷いて、胸ポケットから一枚の小さなシールを取り出した。ルーレットのポケットにぴったりと収まるサイズで、その表面に書かれているのはアルファベットの【N】だ。
「Nはノーエントリーの略ですわ。ウィナーとマイン、両方の数字が確定した時点でこれを該当ポケットに貼ります。このNに誤ってボールが入ってしまった場合、カジノ側のペナルティとして、ゲーム参加の皆様に一千万ドルをお支払いしてリスタートとさせていただきます」
「ぜ、全員に一千万……ッ?」
モヒカンがあんぐりと口を開く。予想外の話に、開いた口が当分閉まりそうにない。
これほどまでの補償を断言するということは、つまりは自信があるのだ。
ノーチューズデーの手元が狂うなんてことが、絶対に有り得ないことなのだと。
「VIP専用カジノですから、手際の悪いところは見せられないというコトですわ。なお、このゲームは本人たっての希望で、当ホテルのオーナーであるウィリーバー・シルバー・アープが観戦させていただいております。皆様の頭上に黒い監視カメラがありますでしょう?」
チューズに促されて上を見る。
チューズのやや斜め後方の天井に、直径十センチほどの黒い半球状のドームが逆さまに張り付いていた。ドームはスモークの張られたガラスのようで、中には黒い単眼の機械がファインダーを光らせて蠢いている。
あの先で、ウィリーバー・シルバー・アープがこちらを覗き込んでいるというのか。
「当ゲームの勝利者には、オーナー自ら賞金の小切手をお渡ししたいと考えておりますので、皆様奮ってご参加くださいませね」
チューズの思いがけない副賞に、美桜は厳烈な笑みを頬に貼り付けた。
(……へっ、なんや。やっぱこのゲームは勝たなアカンのやんけ)
千載一遇のチャンスとはこのことか。
美桜は知らずのうちに拳を握り締め、痛いくらいに爪を掌へ食い込ませていた。
「それでは、皆様ご準備よろしいでしょうか。泣いても笑っても運命決定まで10ラウンド。このチューズの一挙手一投足に、どうぞ一喜一憂してくださいましね」
仮面のディーラーは怪しく笑い、
そして、二つの白いボールを手に取った。
「マインルーレット、第1ラウンド……開始ですわ」
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