第5話
ビールを飲む廣瀬は終始辺りを見渡し挙動不審であった。近くに住み歳も近いという事で何度か部屋に上げて酌を交わした事はあったのだが、こうも落ち着きのない彼の姿を見るのは初めてである。
「あ、おつまみをお作りいたしますわ」
アシュリーがそう言って立ち上がる。「あぁたのむ」と返事をすると、廣瀬が青い顔をしてぼくを見据えたのだが、程なくして台所に立つアシュリーの方へ目線を移して固まった。彼には冷蔵庫からキャベツが勝手に飛び出し、包丁がひとりでに動いて切っているように見えるのだろう。
「なんだこれは」
困惑する廣瀬の前にキャベツのごま油和えが差し出されたので僕が「キャベツだ」というと「そうじゃない」と声を裏返した。酒を一口。「では何だ」と聞き返せば「この怪奇現象の事だ」と言うものだからもはや隠し通す必要もないと考え、今僕が置かれている状況を話すことにした。それに耳を傾ける廣瀬は妙な顔をしていたが、最終的には手をポンと叩き「偉い」と感嘆して見せるのであった(自殺未遂の件は黙っておいた)
「泣ける話じゃないか。まるで古典落語のようだ。そういうことなら、是非これからも協力させてくれ」
「まぁ! ありがたいですわ。あなたもこの方を見習ってくださいまし。これが人間というものでございます!」
頭痛のする様な台詞が並ぶ。せめてもの救いはアシュリーの声が廣瀬には届いていない事である。長話でもされたら堪ったものではない。
兎も角。二人の間で板挟みになりながら何とか程よく泥酔した廣瀬を帰しようやく寝る準備ができたのであった。
「ところで今日はどちらで遊ばれてきたのですか?」
「キャバレーだ」
アシュリーは「ま!」と口を尖らせ「信じられませんわ」と眉を吊り上げた。源氏名だと疑っている事は黙っておこう。
休日明け。少し寝過ごし始業二十分前に会社に着く。本来であれば適切な出勤時間であるが、やはり皆すでに働き始めている。全く勤勉な事だ。そんな様を横目に悠々と準備を始めると、突然現れる部長。「何ですか」と聞けば「ちょっと」と言うばかり。観念して手まねきのままについて行けば会議室。発せられた言葉は「君、幽霊見れるんだって?」という、哀れみが多分に含まれた問いかけだった。
結果的に言えば僕は休職となった。社内から二人目の自殺者が出たら堪らぬ。早めに対処しておこうという事らしい。医者の診断書も要らないからとにかく休めと言われ、ついでにやんわりと退職も勧められた。辞めたら死んでいいぞと言われている気がした。
荷物を整理する際に廣瀬の方をチラリと見ると、すまんと書かれた紙を控えめに掲げそれを見せた。律儀なやつである。
帰宅すると「お早いお帰りで」と嫌味の様に言うアシュリーを無視して布団に入って横になる。せっかくなので惰眠を貪ってやろうと思ったのだ。
「体調が悪いのですか?」
「いや、少しばかり暇ができただけだ」
「でしたら」とアシュリーは続ける。「ご両親にお会いしてきたらどうかしら」と。
僕は「興味がない」と返すと、酷く辛そうにまた口を開き、しずしずと言葉を落とす。
「親にとって、子とはかけがえのない存在でございます。産まれ、育て、ついには巣立っていきますが、心はいつだって想い、愛しているのです。どうか、ご両親を大切にしてくださいまし」
声に湿り気がある。己が身の上と重ね合わせているのだろうか。彼女の言葉により心が締め付けられる。苦しい。しかし、僕には僕の事情がある。それは……
「……僕の親は、二人ともろくでなしでな。父親は豚箱にぶち込まれ母親は蒸発。いずれも子供時分の出来事だ。たまに面会にいっていた父親の顔も、おぼろげなんだよ」
「そうですか…………では、お育てになられたのは……」
「ばばあ……祖母だ。父方のな」
「でしたら、お祖母様かお父様。どちらかに会い行きましょう。私の事は、後回しでかまいませんから」
アシュリーが枕元でそう話す。僕は「気が向いたらな」と寝返りを打ちしばし瞼を閉じた。そして再度開けば昼。電話の音で目覚め不愉快。体を起こして出れば相手は廣瀬であった。
彼は朝に見せた紙と同じく「すまん」と一言。何でも「あいつ幽霊の子供を探しているんだ」と言って回っていたところそれが部長に聞かれこの有様となったらしい。事が大きくなり実際自分もポルターガイストを見たとは言えなかったそうだ。僕は「気にするな」と、極めて平素に応え再び横になる。会社が、金を出すから休め。と言うのだ。悪いものじゃない。
「ソーメン。茹で上がりましたよ」
いつの間にかアシュリーはそうめんをちゃぶ台にのせ昼食の用意をしていた。あまり食欲はないが、まぁいいだろう。僕は今度こそしっかりと起床してちゃぶ台まで移動し、出されたソーメンを勢いよくすすった。うむ。不味くはない。なんだやればできるじゃないか。もっとも、ソーメンをどう作れば不味くなるのかは知らない。
「いかがですか?」
「砂糖入りの納豆よりは美味い」
皮肉のつもりだったが彼女は「そうですか」と喜んだ。単純なものだ。
そして再び眠りに落ち、起きて酒を飲んでち眠る。次に目を覚ますと夜闇。窓から溢れる外界の電光。時間を確認しようとしたが、止まる。どこからか啜り泣く声が聞こえたのだ。紛れもなく、アシュリーのものである。
「そんなに子供に会いたいか」
体はそのまま、そんなことを聞いてしまった。返ってくる答えは分かっているのに。
「はい。とても」
一瞬間はあったが、その言葉は強く、悲しかった。それ以上僕は何も言えず、すっかり冴えてしまった頭と眼を持て余して布団に包まり、陽が上るのを待ち続けたのであった。
翌日。いつの間にか眠っていた僕は、実に早くに起きて暇を使っていたのだが、面倒な事に忙しくなりそうな知らせが届いた。ババアが危篤らしい。
「早く行ってあげて下さい!」
喧しく急かすアシュリーに「行くさ」と生返事をし、適当に準備をして僕はババアの家へと向かった。まったく、わざわざ休み中に倒れるとは実にタイミングのいいことである。
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