14.取引成立
「僕にキミたちの協力をさせてくれないか?」
協力をさせて欲しいという綾部の言葉は願ってもない事だ。
大人の、それも教師の協力があれば、伊吹のことを誤魔化すのもなんとかなるだろうし、何かとフォローもしてもらえる。それに、その黒い影についても調べたいのなら手伝うと言ってくれた。正直なところ、綾部に協力して貰えるとこちらは助かることばかりだ。
だけど、素直にうんとは頷きがたい。その理由は、私たちのメリットが大きすぎるからだ。私たちに協力したところで、綾部にメリットがあるとは思えない。なのに協力をするなんて、なにか裏のありそうな話だと勘ぐってしまうのは、きっと今日で綾部が油断ならない人物だとわかったからだ。
「その対価はなんですか?」
伊吹が冷静に問いかけた。
対価。そう言った伊吹の発言に、なるほど、と思った。綾部は協力する代わりに何かを私たちに要求するつもりだったのだ。
…と言ってもその対価に見合うものがまったく想像つかないんだけど。
「貴方が無償で私たちに協力をするとは思えません。私たちに何を望むのですか?」
「酷いなあ。僕ってそんなろくでなしに見える?」
「見えるから言っているのですが」
「はっきりと言うねぇ…まあ、その通りだけど」
傷ついた顔から一転し、綾部はへらっとした笑みを浮かべた。
なんていう変わり身の早さ。
「隠してもしょうがないしねえ。僕が望むのはただひとつ、アンジェリーナの最高傑作を調べさせてほしい。ただそれだけさ。それが叶うのなら、僕はキミたちへの協力を惜しまないし、全力でサポートすると約束する」
「そ、れは…」
それはつまり、伊吹を調べたいということ?
伊吹を調べてどうするつもりなんだろう。というか、どういう風に調べるつもりなんだろう。
「もちろん、彼を壊したり傷つけたりすることはしないし、いかがわしいこともしない。どうかな?」
「……」
そう言われても、私はいいですよ、とは頷きがたかった。これは私が勝手に判断していい事ではない。これは伊吹が決めるべき事だ。私は伊吹の所有者だ。だけど伊吹には伊吹の意思があるのだから、彼が嫌ならこの話は断るべきだと思う。
私は判断を委ねるように伊吹を見つめた。
「伊吹」
「…マスター」
「あんた嫌なら、断っていいよ。あんたに嫌な思いをさせたくない。現状ではそんなに困っていることもないし、先生の協力がなくてもなんとかなってる。だから、嫌なら断って」
「……」
「…おやおや。麗しい主従愛だねえ」
「…先生」
「はいはい、黙るよ」
綾部は肩を竦めた。効果なんてないとわかっているけど、私はギロリと綾部を睨んでおく。そして伊吹に視線を戻す。
伊吹は私を静かに見つめたあと、ふっと小さく笑った。
「…マスター、前にも言いましたが、私に“感情”というものはありません。ですから嫌だと思うこともないんです。ですが…気持ちだけは有難く受け取っておきます」
「伊吹…」
「そんなに心配をしなくても、私は大丈夫です」
伊吹はしっかりと頷いた。
だけど…なぜだろう。少しも安心できない。じゃあ任せるね、と素直に言えない。
いったいどうして…? と考えた時、何かが頭を過った。
―――そんなに心配をしなくても私は大丈夫ですよ。貴女は心配性ですね。
そう伊吹に言われたのはいつだったか。ものすごく昔のことだったような気がする。でも私と伊吹が出会ってからまだ数か月も経っていない。それなのに、なぜそんな風に感じるのか。そもそも、私そんなこと伊吹に言われたっけ? いや、どこかで言われているはずだ。でなければ、こんな記憶があるわけがない。でもそれは、いつだった?
…覚えていない。思い出せない。なんだろう、すごくもやもやする。
「貴方の条件を飲みます。私を調べたいのなら、どうぞお好きなように」
伊吹のその言葉で、もやもやしていたものがすっと消えた。
あれ? 私さっきまで何で悩んでいたっけ…? それすら思い出せない。うーん…ボケたかな。若年性アルツハイマーになった? …って笑えない。
「そうか! じゃあ交渉成立だね。そういうことでいいよね、古澤君?」
「え? あ、はい…」
「どうかしたのかな? なんかぼんやりしていたようだけど。具合でも悪くなった?」
そう言って私の顔を覗き見る綾部に、私は思わず大きく一歩仰け反った。
「な、なんでもないのでお構いなく! 私は伊吹がいいのなら、それでいいです」
「そう。じゃあ、これから僕とキミたちは共犯者ってことで」
「…協力者って言ってください」
共犯者って…そんな犯罪者の片棒を担ぐかのような言い方はぜひやめて貰いたい。警察に後ろ暗いようなことはしていない。
……はずだ。…たぶん、きっと恐らく。
「どっちも似たようなものだろう?」
「全然違うと思いますけど」
「それは僕とキミの感性の違い、かな」
「それも違うと思います」
私と綾部がそんな会話をしている傍らで、伊吹がじっと何かを見定めるように私を見ていた事に、私は気づかなかった。
*・・*・・*・・*・・*・・
綾部との取引が成立したあの日から、早くも一週間が経った。
あれから特に変わった事はなく、比較的平穏な日々を送っている。行方不明者もあれからは出ていないらしく、学校の雰囲気も心なしか良くなった。だけど行方不明の生徒は今もなお見つかっていない。警察も懸命に捜査をしているようだけど、進展も特にはないらしい。
綾部に呼び出され、伊吹と一緒に学校内を歩きながら、私は小さく呟く。
「…うーん、なんだかなぁ…」
「どうかしましたか? まさか、悩みが?」
「まさかってどういう意味?」
「そのままの意味ですが。杏にも悩むことがあったのかと感心しただけです」
「ねえ、前からずっと思っていたけどあんたってすごい失礼だよね、私に対して」
「そうですか? 俺は事実を言っているだけですが」
「少しは私に気を遣いなさいよ…あんた、私が何を言っても傷つかない鉄壁の心臓を持っているとでも思っているの?」
「…杏にも傷つくことが?」
「………もういい」
はあ、とため息をついて私はがっくりと項垂れた。
ああ言えばこう言う。本当にこの動く人形は生意気だ。
「ねえ…このまま、何も起こらないのかな? 結局、あの黒い影ってなんだったんだろう?」
「どうでしょう。このまま何も起こらない…という可能性は限りなく低いと思いますが。あの黒い影の正体に関しては、なんとも言えませんね。【魔術】を使ったもの、というくらいしか情報もありませんし、あれ以来、目撃情報もないので調べようがないのが現状です」
「そっか…やっぱり、なにか起こるのかな」
小さく呟いた私に、伊吹が足を止めて私を見た。
「何が起こったとしても、貴方は俺が守ります。だから貴女が悩む必要はありません」
「…伊吹」
「大丈夫です、貴女には傷一つ付けさせはしませんから。例えこの身が果てようとも、何を犠牲にしても貴女だけは守ります」
「……」
伊吹は事あるごとに「貴女を守ります」と私に言う。それは伊吹の役目があるからだとずっと思っていた。だけど、今の伊吹の台詞には、役目以上の何かのために私を守ると言っているのではないかと思わせるなにかがあった。
ずっと気になっていた。この際だから聞いてみようか。
「…ねえ、伊吹」
「はい」
「あんたは……伊吹は何を守りたいの?」
「…質問の意味がわからないのですが」
「あんたが守りたいのは“私”じゃないでしょ。今は結果として“私”を守ることになっているだけで、あんたが本当に守りたいものは別にある。違う?」
「……それは…」
「ねえ。伊吹は何を守ろうとしているの?」
「……私、は……」
伊吹が何かを呟きかけたとき―――
「危ない!!」
誰かの声が遠くで聞こえた。
え、と私が動く前に、私は何かに引き寄せられた。そしてすぐ近くでバン! と何かが当たる音が聞こえた。
何が起こったのかわからない。私は戸惑ったまま顔をあげると、すぐそこに伊吹の綺麗に整った顔があった。伊吹の瞳は相変わらず綺麗だ。まるで吸い寄せられるかのように、その青い瞳をじっと見つめる。
「おーい! 大丈夫か!?」
その声に私はハッとして伊吹の瞳から視線を逸らす。
ちょっと待って。今のこの状況って誰かに見られたら勘違いされる状況じゃ!?
そう思い至った私は慌てて伊吹の腕から抜け出して、声のした方を振り向く。
「…良かった。怪我はないみたいだな?」
「せ、瀬名先輩!」
私たちに駆け寄ってきたのは、瀬名先輩だった。よりによって先輩に見られるなんて…! 一番見られたくなかった人なのに! 先輩、勘違いしてないだろうか…と内心冷や汗をかいていたのだけど、先輩は特に気にする様子もなく、怪我がなくて本当に良かったと繰り返し呟くだけだった。
…勘違いされなかったのは嬉しいけど、ここまでスルーされるとそれはそれで複雑だ。
今は放課後で、ここはグランドに近い渡り廊下。そんな渡り廊下で話し込んでいた私たちに、運悪く先輩の所属するサッカー部の部員が明後日の方向へ蹴ってしまった流れ玉が降って来たらしい。
「…それにしても、フロックハート君、だったか?」
「どうぞ、伊吹と。俺の苗字は長くて言いにくいでしょう」
「それじゃ遠慮なく。伊吹のあの動き、見事だった! なかなかあんな風に突然飛んできたボールを足で受けきれないのに、まるで吸い寄せられるかのようにボールの勢いを殺して受けるなんてなぁ。なあ、サッカーをやってたことがあったりする?」
「…いえ、特には」
「そっか。どうだろう、伊吹。良かったらサッカー部に入らないか? 君ならすぐに活躍できるって俺が保証する」
先輩が熱心に伊吹をサッカー部へ誘う。それを伊吹は受け流す。それども尚も食い下がる先輩だったけど、サッカー部の人が先輩を呼びに来て、渋々と部活へ戻っていった。しかし伊吹のスカウトを諦める気はないらしく、戻る間際に「また誘うから!」と叫んでいた。
……私よりも先輩に気に入られてしまった伊吹に、ちょっとしたジェラシーを感じた。
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