【短編集】エマタ・エナカ・ミゾノ

三月兎@明神みつき

幸せになった男

「おめでとうございます! あなたの望みを1つ叶えます!」

「はっ……?」

 男が夜遅くに会社から帰宅し、立て付けの悪くなった安アパートのドアを開けようとした時、隣からやたらと明るい声がした。振り向いた先には、満面の笑みを浮かべた少年が立っていた。

「ああ、失礼しました! 私、あなたがたで言うところの天使のような者です!」

 困惑する男をよそに、少年はニコニコと笑ったまま言葉を続ける。

「簡単に説明させていただきますと、この度あなたは、あなたと同位並列の"エマタ・エナカ・ミゾノ"キャンペーンに当籤しました! おめでとうございます!」

「……きみ、宗教の勧誘ならいらないよ……?」

 男は少年を一瞥し、ため息をつきながらドアノブを握った。

「ちょっと待ってください! それはよく言われますが、違うんです!」

 少年は男の腕をつかみ、泣きそうな顔で言う。

「本当に単純なんです! ただ、あなたの望みを1つ言っていただくだけ! そうしたら、すぐにそれが叶います! それで終わり! 何も他にありません!」

「あっ、ああ、うん……」

 この少年はおかしいのかもしれない。だとすれば、ここで頑なに拒んで何事かあれば困る。そう思った男は、仕方なくそれに付き合うことにした。すぐ終わらせようと。

「望みねえ……望み……」

「何でもいいですよ! ただ、あなたは序列が高くはないのでそれほど大きな望みは無理ですが、いくらか言っていただければこちらで検討できますので!」

 序列が高くない、というのに男は内心むっとしながらも、何か適当な返事は無いかと考えていた。

「望み、ねえ……例えば、カネとか女とか……」

「ああ、それはとても多い望みです! ほとんどの方はおカネの方を選ばれます!」

「カネ、かあ……」


 実際のところ、男は望みなどとうに忘れていた。

数年前、20年ほど勤めていた会社をリストラされ、妻には三行半を突きつけられた。慰謝料を要求されなかったのが不幸中の幸いだった。風の噂では、妻は、すぐに他の男とくっついたと聞く。

 幸い子どももおらず、マイホームやローンも無かったので、今でもこの安アパートで暮らしている。ただ毎日、会社と家を機械的に往復するだけの日々だった。

 別にカネは今さらだ。決して豊かではないが、もらえたとしても少年の言葉からすれば、一生遊んでくらせるほどでもないだろう。女ももういい。こりごりだ。

 いや、俺は何を真面目に考えているんだ。どうせ何か、当たり障りのないことを言って、この少年の世迷いごとをかわせばいいんだから――


「そうだなあ……」

「はい! 何でしょう!?」

 キラキラと、喜色満面にあふれる少年に、男は一言だけ告げた。

「俺を、幸せにしてくれないか?」

「わっかりましたあー!」

 そんな漠然とした望みを言うと、少年は万歳をして消えた。

文字通り、パッと姿を消したその状況に、男は呆然としたままだった。


 疲れているんだな、と自分に言い聞かせながら男は自室に入り、くつろいだ格好になると、帰りがけに買ったコンビニ弁当と発泡酒に箸をのばした。瞬間。

 ――うまい! うまいよなあ、メシって! 仕事が終わって、酒が飲めるなんて幸せだよ! メシが食えるって幸せだ!

 かつてない幸福感を、コンビニ弁当に箸をのばしながら男は感じていた。

不思議な体験の記憶もそっちのけで、男は全身に幸せを感じながら食事を頬張った。これまでにない多幸感を味わい、風呂でも同じくそれを満喫し、床についた。


 次の日、男は職場でミスをした。

はるか年下の上司から、とてつもない暴言を浴びせられ、当分の間それを補填すべく長時間の残業を命じられたが、男は幸せだった。

 ――幸せだなあ。言ってくれるってことは、俺は見捨てられてないんだよなあ。それに、これで反省できて、たくさん働けて仕事が身について成長できるなあ。俺って幸せだなあ!


 ある日、男は財布を無くした。

 ――落としたのか盗まれたのか知らないけれど、拾われたらその人にカネが行くんだよなあ。いいことだ。幸せだなあ! 免許証やキャッシュカードも入ってたけど、しがらみが消えた気がする! 俺って幸せだなあ!


 男は通勤中、自動車で大事故を起こした。

 ――ああ……これだと、相手は死んだろうなあ……。でも、人生これから辛いことが起きなくなるんだから、相手も幸せだよなあ……。いいことしたなあ……俺も相手みたいになるのかなあ……そうしたら、同じように幸せだよなあ……俺って……幸せ……だ……


 消えゆく意識の中、遠くでサイレンの音が聞こえていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る