犬のミミ

「ワン!」

「うおっ!」


 突然、後ろから声が聞こえ俺はビクッ、と身体を震わせた。恐る恐る振り返ると、茂みの隙間に一匹の茶色い中型犬のビーグルがいた。


「犬? 何で動物園に犬?」


 “動物”園であるから、動物である犬がいることは不思議ではないのだが、動物園に犬が飼育されているという話は聞いたことがなかった。それとも、ここ星空動物園では犬を飼育しているのだろうか。


 もしかして、脱走? お~い、もう勘弁してくれよ。そんな抜け出してまで吠えないでくれ。


 これまでの数々の仕打ちから怒鳴ろうかと思ったが、少し様子が違った。その犬はそれ以降吠えることはせず、ブンブンと尻尾を激しく振っている。


 あれ? 何か今までのと対応が違うな。


 犬は今もなお尻尾を振り、顔はどこか嬉しそうだ。


「こら~、ミミ。待ちなさい!」


 すると、ガサガサと音を立てながら一人の女性が姿を現した。服装は先程の触れ合い広場にいた男性と同じもので、星空動物園の従業員であると理解する。

どうやらこの犬の名前はミミであり、女性は追いかけて来たようだ。


「もう、急に走り出さないでよ」


 はあ、はあ、と息を切らしながら女性は顔を上げる。


「あっ」

「あっ」


 女性は俺と目が合うと、マズイ! というような表情で固まってしまった。短く切り揃えた茶髪の女性で、胸に『鈴木』とネームプレートを身に付けている。


「あ、ああ、あの……」


 あたふたとしながら鈴木さんが声を掛けてきた。


「も、申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしてしまって」

「いや、何もされてないですよ」


 頭を下げて謝る鈴木さんに俺は手を振る。


「あの、もしかして脱走したんですか?」

「えっ? あ、いえいえ。この子はゲージ内で飼育してる子じゃないです。ウチのマスコットです」

「マスコット?」


 着ぐるみとかではなくて、リアル動物がマスコット? しかも、中型犬が?


「実は、この子……ミミという名前なんですが、ミミは星空動物園で個人的に飼っている犬なんです」

「えっと~、どういう意味ですか?」

「あの、あまり言いふらさないでほしいのですが……」


 申し訳なさそうにしながら鈴木さんが説明を始める。


「ずっと前なんですが、ミミはウチの入り口の前で見つかった犬なんです。すごく衰弱していて、見つけた時はぐったりしていて危ない状態だったんです。発見した一人の従業員がすぐに手当てと看病をして回復したんですが、その過程で随分懐いてしまい、従業員全員もミミを気に入って、役所に届けずにここで飼うことにしたんです。本当はいけないんですが、あまりにミミが可哀想で」


 よく知らないが、動物園で申請以外の動物を飼うことは違法、とかそんなものだろうか。たしかに法律には従うべきであるはずだが、ここは動物園であり従業員はその動物が大好きな人達だ。犬でも猫でも動物をそう簡単には手放せないのだろう。


「あの、こんなことをお願いするのもおかしいのですが、ミミの事は内緒にしてもらえませんか?」

「え、ええ。いいですよ。噛まれたとかそういうのは特になかったですし」

「あ、ありがとうございます!」


 深々と頭を下げる鈴木さん。


「でも、何でこのミミがここにいるのかぐらいは教えてもらってもいいですよね?」

「はい、大丈夫です。この子は本来園の室内から出さないんです。外に出すのは閉園してお客さんがいなくなってからしています。この子もそれを理解していて、日中は大人しく室内で寝ていたりしているんですが、どういうわけか今日は興奮していて、開いていた窓から抜け出したんです」


 鈴木さんに頭を撫でられながらミミはなおもこちらに向いて尻尾を激しく振っている。


「この様子からも見ても今ミミはとても喜んでいます。でも、何でこんなに喜んでるのかしら?」


 ミミ、お座り、と鈴木さんが言いながら手のひらをミミに向ける。しかし、ミミは座らない。


「ミミ、お座り」

「ヘッ、ヘッ、ヘッ」

「ミミ、お座り」

「ヘッ、ヘッ、ヘッ」

「ミミ、お、す、わ、り!」

「ヘッ、ヘッ、ヘッ」


 言うことを聞かないミミ。本当に懐いているのか?


「ミミ、お座り」


 試しに俺も見よう見まねでやってみる。だが、結果は同じだった。


 だよな。初対面の俺の言うことを聞くわけないよな~。


 そして、隣にいるレイも手のひらを向けてみるが、その表情は死んでいる。初めて近付いた動物なのだが、これまでの嫌われように心が折れる寸前の様だ。ダメ元でやってみたという感じ。


 おいレイ。せめてもう少し明るく――。


 すると仰天の事が起きた。なんとミミがお座りをしたのだ。


「えっ?」

「えっ?」


 俺と鈴木さんは驚きの声を上げ、レイも目を見開いている。


「座った……」

「どうしたの、ミミ? 私でもそんなに言うこと聞かないのに」


 おいぃぃぃ! 鈴木さん、何とんでもないこと言ってんの!? 言うこと聞かないってそれ懐いてないじゃん!


「ミミ、伏せ」


 鈴木さんが今度は手のひらを下に向ける。伏せの合図のようだ。だが、ミミは伏せない。俺も同じことをしてみるが結果は変わらない。


 だが、レイが手のひらを下に向けるとミミは伏せをした。


 もう間違いない。ミミは


「すごい……ミミが初めての人の言うことを聞いてる」


 鈴木さんが俺とミミを交互に見る。その表情は驚きを見せながらどこかショックを受けているようにも見えるが、気のせいにしとこう。


「あの、この後お時間あります? もしよかったら一緒に室内に来てくれませんか? ミミと遊んでください。どうやら、ミミはあなたが気に入ったみたいですので」

「ぜひ!」


 俺は二つ返事でOKを出した。ここに来て初めて動物に好かれたのだ。断る理由がない。


「よかった~。じゃああの、他のお客さんに見つからないように着いてきてくれます?」


 ミミを抱き抱えた鈴木さんが茂みの中へ歩き出す。俺も後を追うが、隣ではレイが身体を仰け反らせ、腕を目一杯広げて天を仰いでいた。今なら分かる。俺とレイの心は今シンクロしているはずだ。間違いなくこう思っているだろう。


 神よ、ありがとう!

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