Heart of darkness

白石怜

闇の奥

 私は函館にいた。港には海軍の空母が入港していた。艦載機を満載にした空母だ。あてがわれたホテルの一室から函館山が見えたが、要塞化されている彼の山にレンズを向けようという気にもならなかった。そんなことをしなくても、私の立場なら、山頂に設置された榴弾砲の口径から備蓄の弾薬数まで知ることができたが、興味などなかった。一週間も留め置かれ、ルームサービスで供されるパンとハムと目玉焼きにも飽き飽きしており、優先的に購入できるサントリーの二級ウィスキーを煽る日々に、見果てぬ山脈の向こうを思うのもいい加減疲れた。

 スチームが効きすぎ、階級章付きの軍服はハンガーにかけたままで、私は半袖シャツ姿でひたすらウィスキーを煽り、煙草をふかし続けていた。そう、私はまだ函館にいる。二階の部屋から見下ろす街路を路面電車が耳障りな音を立てて行く。朝といわず夜といわず、空軍の戦闘機が爆音をぶちまけていくのにも慣れ切っていた。戦車の姿が見えないのは、ここがまだ戦場ではないからだ。

 右手に巻いた包帯から血がにじんでいた。昨日のことだ。したたかに酔った私は、鏡の中の私の顔面を殴りつけた。鏡の向こうの私は砕け散り、真っ白なシーツに散った鮮血は、鏡のこちらの私の拳からほとばしったものだ。鏡が割れた音にすかさず軍属が飛び込んできたが、幽鬼でも見たかのように青ざめた軍属は何も言わず、ただ救急用具を五分後に持ってきた。治療は自分で白ということだ。鏡を弁償しろといわれたら、陸軍に請求しろと怒鳴りつけてやるつもりだったが、師走の声も聞こえる冬の朝、私を叩き起こした派手なノックに扉を開けると、そこには軍属ではなく、第一種軍装を身に着けた下士官が二人立っていた。

「上良(うえら)大尉ですね。司令部からお迎えに参りました。自分は西尾伍長です」

「いつまでおれをここに留めておく気だ」

「だからお呼びに参りました。けがの具合はいかがですか。こんなところで名誉の負傷はあなたに似合わない。下に車が待っています。五分後で」

 まとめる荷物などありはしない。煙草とライターと、幾葉かの写真。それだけだ。血染めのシーツはそのまま放置し、二日酔い気味の頭を平手で二度三度叩き直し、軍服に着替えて廊下に出ると、予想外に寒かった。本格的な酔いは醒めているということだ。

「ここに呼ばれた理由も聞かされていない」

「それも司令部で」

 黒塗りのトヨタ・クラウンだった。ホテルを出ると、青函連絡船の汽笛が聞こえた。まだ津軽海峡は生きている様子だ。

「戦線はどうなんだ」

 後部座席に押し込まれ、隣に座った西尾伍長に訊ねてみた。

「それも司令部で」

 お決まりのセリフだった。


 その建物は陸軍が拓銀から召し上げた代物だということも私は知っている。一階は窓口業務を続けているが、市民の姿はほとんどない。いつ極東ソ連軍が押し寄せてくるか、みな気が気でないのだ。ならば知らせてやりたかった。北緯五十度から瞬く間に押し寄せ、豊原、塔路、真岡、大泊を占領したソ連軍は暴虐の限りを尽くしたが、海軍が宗谷海峡を封鎖し、猿払に揚陸しようと企図した敵軍は、三沢と千歳から出撃した空軍部隊によって、オホーツク海の藻屑と化したのだ。稚泊航路は当然運休しているが、稚内市はまだ日本の施政下にある。北海道全域がソ連軍の脅威にさらされているとはいえ、当面、ソ連が核攻撃にでも打って出ない限り、札幌の道庁庁舎に赤旗が翻る危険性は低いと見積もられている。

 西尾伍長に案内されたのは、拓銀二階、分厚くやたらと金のかかっていそうな扉の前だった。こちらからノックする気もなかったが、気を利かせたのか西尾伍長が扉を開けた。仕方なく、私は脱帽せず、挙手の敬礼をした。

「上良大尉」

 私の名を呼んだのは、大佐の階級章をつけた白髪の男だった。まるで面接会場のようだ。融資係の横柄な態度と大差ない慇懃無礼な表情で豪奢な机に座っている将校が二人。背広姿が一人。背広はピロシキを食っていたので張り倒してやりたくなったが、たとえアメリカと戦争していたとして、私がホットドッグを食っても何の罪にもならないだろうから、見逃してやることにした。

「座りたまえ、上良大尉」

「どこにですか」

 大佐は微笑みを浮かべて、黒光りする革製ソファを示した。私はいくぶんぞんざいな所作でどっかとソファに座った。

「煙草は」

 もう一人、メガネをかけた若い将校が私にラッキーストライクを差し出したので、縁起でもないと思い、手のひらを向けて拒絶した。

「大連での任務は聞き及んでいる。ソ連艦隊に対する諜報。情報の取得、現地住民の煽動。たいしたものだな」

「本題はなんですか」

 軍服に名札。粕田大佐と読めた。彼の座るデスクには、さまざまな書類が無造作に広げられている。私の資料もそこにあるのだろう。資料なしに私の経歴を探るのは、ただの将校では無理だ。誰かの紹介状でも含ませてあるのだろう。

「宗谷海峡の向こうへ行かされる、そう思って来たのではないかね」

 粕田大佐が微笑んだまま言う。

「命令とあれば」

「君の任務は特殊すぎる。東京ではゆっくり休めたかね」

「本題を」

「噂通りのようだ。安心したよ」

「食わないか」

 背広が私にピロシキを差し出したので、私は無視した。

「食事でもどうかね」

「脂っこいものは苦手で」

「握り飯というわけにもいかんのでね」

 粕田大佐が立ち上がり、私にペーパークリップで留められた資料を寄こした。モノクロ写真と、経歴書のようだ。戦闘機の爆音が割って入る。

「敵は石狩湾をうかがっていたようだが、飛行第五十九戦隊の存在感というのは相当なものなのだな。礼文島から南へはやって来ない。見たまえ」

 クリップの写真は、身分証明証用の正面から撮影された律儀そうな男の一枚のほかは、粒子の粗い、まるで隠し撮りか戦場カメラマンの手によるものと見紛うひどい出来だった。

「唐津大佐を知っているかね」

 経歴書。軍歴、どの作戦に従事したかの詳細。身分証の写真の男は、唐津孝太大佐。全軍で彼の名を知らないものはいない。

「朝鮮戦線の英雄。半島の赤化を防いだ男」

 背広が二個目のピロシキを食らいながら言った。

「英雄がどうしたんですか」

「知らないのは当たり前だな。資料を読みたまえ」

 膝の上で私は唐津大佐の「戦歴」を開く。いまさら何をかいわんやの文句の付けどころのない戦歴だ。陸軍士官学校を出、二十三歳で小隊長。彼の「伝説」は私も知るところである。彼は生ける軍神だ。敵にとっては死神だが、彼の部隊の損耗率は際立って低い。もっとも効果的な作戦を遂行し、最小の犠牲で最大の戦果を生む。それは魔法といってもいい。軍人であれば、誰しも唐津大佐のような指揮官でありたいと願い、兵卒であれば、誰しも唐津大佐のような上官に巡り合いたいと願う。

 一緒の部隊でならば、生きて帰って来られる。

 それが彼を「軍神」たらしめる伝説のすべてだ。

「唐津大佐は第二十八歩兵連隊を率い、音威子府で極東ソ連軍を迎え撃つべく陣地を構築していた……六月の話だ」

 私は資料をめくる。輝かしい軍人の記録。私は斜め読みでページを繰る。そして唐突に、資料の左上に赤く「軍機」の印が押された部分に到達する。

「戦場に伝説は必要ないんだよ。上良大尉。わかっているかね」

「しかし唐津大佐は生ける軍神だ」

「カレーはどうかね」

 もう一人、中佐の階級章の男が無愛想な給食盆に不釣り合いな洋食器を運んできた。

「五島軒のカレーだよ。海軍さんのカレーに負けんぞ。食いたまえ」

 目の前に湯気を立てたカレーライスが置かれた。仕方なく、私はスプーンを取り……二日酔い気味の胃がすでに拒絶反応を示していたが……一口運んだ。

「唐津大佐の任務はわかるかね」

 粕田大佐が茶をすすりながら鷹揚な口調で聞いた。

「読めば」

「大佐は道北で極東ソ連軍上陸阻止の橋頭保を築くための任に就いていた。間諜がすでに道内へ潜入しているとの情報から、大佐の連隊の移動は秘匿されていた。君も知らないはずだ」

「ええ。いつも任務に就いてからでなければ、私に話は下りてこない。今日のように」

 カレーは一口で十分だった。私はスプーンを置き、資料を繰った。唐津大佐からの報告書の体裁だった。秘匿回路を使用した電文のようだ。

「大佐の連隊は、旭川で編成完結した。そこから国道四十号を北上、するはずだったのだ」

「はずだった、とは?」

 ページを繰ったが、唐津大佐の報告書に具体的地名はいっさい記載がなかった。旭川で編成完結したことすら書かれていない。特務か?

「唐津大佐は清津(チョンジン)でパルチザンの後方攪乱を担当した。関東軍がソ連軍の急襲に遭い、総崩れになったあの戦争だ。海軍陸戦隊が仁川(インチョン)から上陸するより早く、『武蔵』や『大和』が半島に砲撃を加えるよりも早くに、彼は上陸を果たしていた。結果は、大連にいた君も知っていることと思うが」

「それをここで報告せよとおっしゃるわけですか」

「訊かんでも知っている。半島で我々は敗北したわけではない」

「結果が樺太戦争につながったとお考えではないのですね」

「今回の戦いでも我々は負けていない」

「豊原を見捨ててもですか」

「聞かなかったことにしよう。上良大尉。言動には気を付けるべきだな」

「で、私をはるばる習志野から呼び寄せた理由はなんです?」

「唐津大佐は戦線を離脱した」

 資料はだんだん余白だらけになっていく。大佐の思考が薄れていくかのように。

「大佐を逮捕してもらいたい」

「私は憲兵ではない」

「だが君は挺身連隊でもない」

 習志野駐屯地には空挺部隊が駐屯していることを粕田大佐は言っている。そう、私は憲兵でもなければ、落下傘部隊でもない。もっとも、任務そのものは、戦場のど真ん中に落下傘でぶちまけられるようなものばかりだったが。

「補足資料だ。読みたまえ」

 私にカレーを配膳した中佐が、一枚の電文を手渡してきた。

「なんですか」

「読みたまえ、上良大尉」


モロモロノシマヨ ワガマヘニモダセ

モロモロノタミヨ アラタルチカラヲエテ チカヅキキタレシカシテカタレ

ワレラヨリツドヒテ アゲツラハン

タレカ ヒガシヨリヒトヲオコシシヤ

ワレハ タダシキヲモテ コレヲワガアシモトニメシ

ソノマヘニ モロモロノクニヲ フクマセシメ

マタコレニ モロモロノワウヲ ヲサメシメ

カレラノツルギヲ チリノゴトク

カレラノユミヲ フキサラルルワラノゴトクナラシム

カクテカラハ コレラノモノヲオヒ

ソノアシイマダユカザルミチヲ ヤスラカニスギユケリ

コノコトハ タガオコナシヤ タガナシヤ

タガハジメヨリ ヨヨノヒトヲヨビイダシシヤ ワレヱホバナリ

ワレハハジメナリ ヲハリナリ


「これはなんですか」

「唐津大佐が最後に送ってきた通信文だ。彼は離反した。連隊ごと、道北の山中に消えた。陛下からお預かりした兵員ごとだ」

「ソ連に寝返ったとでも?」

「唐津大佐に限ってそれはあり得ん。が、離反したのは明白だ」

「意味が分かりかねます」

「それを判断するのは統合幕僚会議だ。われわれでもなければ君でもない。君への命令はただ一つだ。唐津大佐を逮捕……いや、指揮権を剥奪せよ。この際生死は問わん。あらゆる手段を使ってだ」

 黙っていたピロシキ男が口を開いた。

「急行『ニセコ』で札幌へ行きたまえ。第11師団から迎えが出る。君から探す必要はない。向こうが君を見つける。以上だ」

 粕田大佐は煙草に火を点けた。私はただ黙した。最後に捕捉で渡された紙ペラ一枚をファイルに挿しこむと、私は立ち上がり、この部屋を出ることにした。


 C62蒸気機関車に客車十一両。暖房の蒸気がホームにあふれていた。私は軍服のまま、列車に乗り込んだ。下りの札幌行きは三分の二が兵隊だった。上りの列車はみな満員で、函館駅に列車が到着するたび、人々は我先にと青函連絡船への桟橋へ駆ける。老いも若きも、男も女も。北へ向かうのは兵士たち。召集されたか、志願したか。北へ向かう乗客の顔は私を含めて皆冴えない。

 おおっぴらに唐津大佐の資料を車中で読むわけにはいかなかった。私はカバンを足元に置き、外套をたたむと、ホームで買った缶ビールを飲むことにした。外は気の早い粉雪が散り始めていたが、車内は暑いほどに暖房が利いていたのだ。酔いたかった。待ち焦がれた戦場が近づいているというのに、私に課された任務は、味方の英雄の逮捕ときた。

 ビールでは酔わなかった。窓が曇りはじめた。列車は動きだし、煤煙の臭いが鼻を刺す。

 駅のホームの売店で見たNHKニュースは、極東ソ連軍がついにサロベツへ上陸を果たしたとアナウンサーが緊迫した声音で告げていた。情報統制は終わりを告げたらしい。もとより今回の戦争は、報道の自由が大手を振って戦場を駆け巡っていた。軍が統制しても、報道の自由はあらゆる手段で戦場の現実を茶の間へ届けようとする。

 唐津大佐が最後に送ったという電文をそっと開いた。最後が気になった。軍はこれをもって唐津大佐に離反の意ありと確信したのだろう。


われヱホバなり

我ははじめなり終なり


 国鉄札幌駅に着いたとき、私は半分眠っていた。車掌に揺り起こされずに済んだのは、戦線へ向かうらしい下士官が兵隊を整列させるがなり声を聞いたからだ。

 冬季オリンピックが華々しく開催された都市とは思えないほど、札幌は荒んでいた。通りを行く市民は薄汚れ、みな大きな荷物を抱えて右往左往していた。札幌よりさらに北から到着する列車はやはり満員で、誰もが抱えられる限りの荷物を持ち、改札を出ることなく、内地へ向かう列車へと乗り換えていく。構内で号外が配られていた。サロベツから上陸したソ連軍が、北へ回り込む形で稚内市を陥落させたという。陸軍第2師団は総力を挙げて名寄市から美深、音威子府に防御線を敷いたという。詳しいことはわからない。旭川市から逃げてきたという乗客の一人が大声で騒いでいた。戦闘機が市街地に墜落したと。パルプ工場の煙突が倒されたと。旭橋が落ちたと。墜落した戦闘機がわが軍のものかソ連軍のものか、乗客は知らない様子だった。が、道北の上空で空中戦が行われたのは間違いないようだ。札幌の上空に行く筋もの飛行機雲が北へと伸びていくのが見えた。千歳、三沢の空軍機の編隊だろう。

「上良大尉ですね」

 陸軍の下士官が改札を出た私にまっすぐ向かってきた。コンコースは軍人と警察官だらけで、私の徽章はおろか、軍服姿でいることがなによりも目立たない。

「迎えに上がりました。第11師団本部付の中西曹長です」

 中西曹長はきれいな敬礼をした。私も踵を合わせ、答礼した。

「出迎えご苦労」

 私は官姓名を名乗らない。名乗る必要がない部隊に所属しており、名乗ったが最後、私の任務は失敗を意味するからだ。陸軍大尉・上良毅(たけし)。それで十分だった。

「車を待たせています」

「また車か」

「千歳線に乗り換えていただいてもよかったのですが。何分、空港行きの線区は混み合っておりますゆえ」

「空路北海道を脱出する蛮勇が許されるものか」

「制空権は奪われておりません……続きは車内で」

 駅を出ると、また黒塗りのトヨタ・クラウンがいた。ナンバープレートは軍車両のものだ。函館と同じだ。私は後席に座り、中西曹長が出口をふさぐように私の左側に乗り込んだ。運転席に軍曹の階級章の男。助手席には伍長の階級章の男。前席の二人は人形のように表情を殺していた。同業だなと感じた。

「出せ」

 中西曹長が言うが早いか、運転手役の軍曹はなめらかに車を発進させた。

「芳しくありません」

 曹長が前を向いたまま言った。戦線のことだろう。

「号外のネタは本当か」

「稚内が落ちたのは本当です。市庁舎に赤旗が立ちました」

「敵部隊は」

「国道四十号を南下するつもりのようで」

「海岸線ではなくてか」

「大尉はこちらは初めてですか」

「北海道は初めてだ」

「大連でのご活躍ぶりは聞き及んでおります」

「光栄だ。吸っても構わんか」

 私が煙草を取り出すと、曹長がすかさずライターで火を点けてくれた。窓を開けようかと思ったが、札幌はうっすらと雪化粧だ。外套に手袋でも寒い。

「海岸線は一本道です。あちらを南下してくれればわが方も楽なんですがね」

「地図は見た。国道四十号も似たようなものではないか?」

「浸透作戦にはうってつけでしょう。森が深い」

「君はどこまで知っている?」

「ご質問がはかりかねますが」

「私の任務だ」

「概ねは」

「これからどこへ行く。この車で北へ向かうのか」

「それは自分も御免こうむりますな」

 車は国道三十六号線に入った。豊平川を渡り、東急が複線高架化したという札幌急行鉄道の豊平駅横を過ぎ、まっすぐに伸びた幅員の広い道を、クラウンは法定速度で走った。

 道は空いていた。札幌オリンピックの熱狂が嘘のように。


 車に揺られること一時間半。着いた先は、恵庭市の陸軍駐屯地で、私を待っていたのは、一両の戦車だった。最新式の74式戦車だ。

「これで行くのか」

 戦車の前には、四名のクルーがいた。

「おれはどこに乗ればいい? 砲塔の上か?」

「大尉はこちらです」

 74式戦車の横には、幌付きジープが一両いた。

「燃料と食料、それに小銃に機関銃を積んであります」

 中西曹長が促すと、戦車兵たちが整列し、無言で敬礼した。

「おれが行く先を知っていてこいつを用意したのか?」

「お言葉ですが、自分は大尉の行き先を存じ上げておりません」

 ぶっきらぼうに発言したのは、戦車長らしい年かさの男だった。不機嫌さを隠そうとしていなかった。

「おれも戦車のなんたるかくらいは知っている。……砲弾を満載してるんじゃなかろうな」

「出撃先を知らされておりませんので、燃料も砲弾も規定量搭載しております」

「燃料は満タンで構わん。砲弾は全部下ろせ」

「は?」

「途中で補給を受ける。そこまでは味方の勢力下だ。戦闘は起こらん。下ろせ」

「しかし」

「命令が聞こえなかったか。砲弾はすべて下ろせ」

 私が強く言うと、戦車長以下クルー四名が動いた。

「大尉」

 中西曹長が不安げな顔を向けてきた。

「部下のご機嫌取りはおれの任務にない。補給を受ける話は本当だ。ソ連軍はまだ第2師団本部までは来ていないんだろう? なら戦車砲に用はない」

「はあ」

「曹長、君も行くのか?」

「いえ、自分はここまでです」

「ご苦労」

 言うと中西曹長が敬礼した。私も軽く答礼。

 粉雪がちらついていた。


 踏切の遮断機が下りている。警報が鳴っている。私はジープの助手席で、唐津大佐の手記を読んでいた。本部管理中隊から融通したという新品同然のジープは快適だったが、もともと密閉構造ではないがため、北海道の晩秋の風は、内地育ちの私にとって冬も同然の隙間風となり、時に唐津大佐の手記をめくる指を妨害した。運転席の赤ら顔は小町上等兵といった。二十歳そこそこといった風情だが、経歴は訊かなかった。また、彼もまた私に何も語らなかった。私はただ、道順を指示するだけで、ときおりバックミラーで後続の74式戦車が「離反」していないかを目で確かめた。石狩平野を東西に走るのは函館本線。粉雪混じりの風の中、旭川方からやってきたのはディーゼル機関車牽引の貨物列車だった。列車が過ぎると、われわれは再発進した。小町上等兵と戦車長の小谷野曹長には、まず石狩平野のはずれ、空知は滝川駐屯地を目指せとだけ指示した。彼らはなぜ、と訊くことはしなかった。なぜならばわれわれは軍人であり、命令に「なぜ」は不要だからだ。戦車にはゴム履帯を追加装備させた。そもそも戦車は長距離を自走するような兵器ではないからだ。恐ろしく燃費は悪く、恐ろしく足が遅い。私が助手席で唐津大佐の手記を読んでも車酔いする心配がないほどの速度しか出ない。こんな速度で国道に出るのは忍びなかったが、岩見沢で国道十二号線に入ったが、杞憂に過ぎないとすぐに知れた。北へ向かう交通量が圧倒的に少なかったからだ。札幌へ向かう車線は、避難民の車列で時ならぬ渋滞を引き起こしていた。マイカーの屋根にまで荷物を積み、平ボディのトラックの荷台に一家を載せた一団もいた。どこかで見た光景だ、と思ったが、すぐに思い出した。ベトナムだ。

 朝鮮戦線の英雄。唐津大佐はまた、インドシナ半島でも数々の武勲を打ち立てていた。企業でも軍でも、優秀な人材はつねに最前線を転戦する運命にある。弱い日差しと隙間風に身体を震わせ、私はサイゴンの熱気を思い起こしていた。唐津大佐もあの戦線にいた。

 私は軍機扱いの資料のページを戻す。インドシナ戦線の記録がそこにある。あそこも朝鮮戦線と同じ構図だった。半島の赤化を食い止めるための戦争だった。だが、しょせん他国で起きた戦争に日本が軍事介入したことで、日本国内からの厭戦感が蔓延し、年若い学生たちは国会議事堂を包囲し、あちこちの大学で警察機動隊と市街戦まがいの暴動に発展した。

「大尉殿」

 国道十二号を行く一両のジープと一両の戦車。われわれのキャラバンは北を目指す。小町上等兵が前を向いたまま口を開いたのは何時間ぶりだろうか。

「なんだ」

「大尉殿は、ベトナムへ行っていたとか」

「だからなんだ」

「教えてください。どんな戦争だったのですか」

「おまえの部隊にもベトナム帰りはいくらでもいるだろうが。訊け」

「訊けませんでした」

「なぜだ」

「訊いても答えてくれません。……大尉殿、なぜでしょうか」

「自分で考えろ。そういう戦争だったんだ」

 煙草に火を点けた。一本抜き出して小町に勧めると、遠慮がちに手に取ったので、自分のに点火してから、小町の煙草にもジッポーライターで火を点けてやった。

「自分は、帰れるんでしょうか」

「帰るも何も、ここはおまえのクニだろう」

「まさか、自分の国が戦場になるなんて思いもよらず……」

 またその話か。聞き飽きた。東京でも、習志野でも。武勲を望み、戦場へ向かいたがる若者も多いが、反戦厭戦デモ行進世代には、軍に対するすさまじいアレルギーを見せる者もいた。民主主義と資本主義のために闘ったわれわれを目の敵にする勢力を、私はベトナムでも東京でも嫌というほど目にした。

「戦争とはそういうものだ」

 そう答えるのが関の山だった。

「いつも戦場が自分の国の外にあると思うから現実感がわかないんだ。見ろ、慌てて故郷を捨てる連中の群れだ」

 くわえ煙草の灰が胸元に散り、隙間風が吹き飛ばした。対向車線の車列は延々と続く。ここは日本一の直線道路だという。彼方まで避難民の車列が途切れない。その上を、陸軍のヘリコプターの編隊が低く飛び去って行く。北へ。色合いと温度が違うだけで、見えているのはベトナムで、大連で見た避難民の群れと少しも変わらなかった。

「君は志願兵か。招集されたのか」

 愚問だな。そう思った。本部管理中隊付のジープの運転手が召集兵のはずがなかったからだ。それでも煙草一本を分け与えただけというささやかすぎる気安さが私の気持ちを動かしたのは、この延々たる車列に辟易しかけていたからかもしれない。

「自分は、居場所がなく」

「どういうことだ」

「高校三年のときに入隊を勧められました。野球部の先輩も上富良野の部隊におりましたので」

「なぜ入隊を勧められたことと居場所がないことがつながるんだ」

「自分には実家を継げませんので、あの、軍に入るか、国鉄に入るかしかなく……炭鉱も閉鎖されましたので」

「おまえの出身地はどこだ」

「美唄です」

「なんだ、すぐそこじゃないのか」

「はい、あの。大尉殿、ソ連軍は、ここまで来るでしょうか」

「小町上等兵」

「はい」

「ソ連軍に訊け。おれにはわからん」

「しかし、大尉殿は戦況に大変お詳しいと」

「詳しいのにこんな愚連隊まがいの任務に就くと思うか」

「呼集されたのは、自分、昨夜であります」

「どこへ行くかも知らされず、命令は拒否できない、か。どのみちいずれ、道北に送り込まれると思っていたんじゃないのか」

「実感がわきませんでした。いまもです」

「じきにわく」

 話は終わりだ。私は灰皿に煙草をねじ込んだ。それが小町にも伝わったのか、わずかに私の横顔をうかがうそぶりを見せたが、それっきり黙った。


 この戦争が終わり、私はこの任務に就いて誰に語るだろう。聞きたい人間が現れれば、話すかもしれない。けれど、「なぜ」という問いには答えられそうにない。私自身、「なぜ」という問いに明確な答えが用意できなかったからだ。それは唐津大佐と決定的に違うところだろう。私は大尉だったが、階級に見合った部隊の指揮経験はなかった。せいぜいが数名。たいていは一人。軍服を着こみ、制式小銃を手に、戦線を戦った経験もない。攪乱、欺瞞、収集、煽動。それらが私の任務のすべてだ。

 唐津大佐の手記は、あたかも船員の航海日誌のようだった。上手い文章だと思った。あるいは大佐は、この戦争がなければ、文筆家として名を遺したかもしれない。だが、手記は読み進めるうちに次第に観念的主観的になった。前線の戦況を記録した部分が減り、大佐自身の雑感が増えた。

 六月。大佐は第二十八連隊を指揮し、この道を行った。兆候は昨年からあったのだ。ソ連空軍機による領空侵犯が前年比で百五十パーセントになった。東京急行という言葉がある。北樺太、あるいは大陸から飛来したツポレフTu-95が、太平洋を南下し、房総半島直前で引き返す。千歳、三沢、百里、あげく海軍は厚木の要撃機までが都度緊急発進し、追い払う。それの傾向が変わった。日本海をまっすぐ南下し、北海道渡島半島沖の領空を侵犯したのが、昨年十月。礼文島、積丹半島、奥尻島。空軍千歳基地の71式戦闘機は休む間もなく民間機の合間をかいくぐり、緊急発進を続けた。南樺太の豊原市に陸軍が第88師団を急きょ編成したのが、十二月。流氷がオホーツク海を去るのと同時に、北緯五十度線をソ連軍が越境し、戦闘になった。急ごしらえの陸軍第88師団は遅滞防御せざるを得なかった。私はそのころすでに習志野にいた。いつでも北へ向かえるように、指示を待った。ようやく私が津軽海峡を渡ったときには、季節はもう冬に向かっていたわけだ。ベトナムの悪夢がよみがえった。私は密林のなか、海軍の艦砲射撃の弾着音のすさまじさを聞きながら、現地住民の反乱を煽動していた。使える手段は何でも使った。あの暑さだけは慣れることはなく、身体中を虫が這い回る気色悪さはいまも夢に見る。比喩ではない。繁みに身を潜め、身を守るためのボルトアクション式ライフルを背負い、汗が腐った臭いと熱帯の瘴気に耐え、私は数々の村を巡った。暑さから逃れたかった。その願いは思わぬところでかなえられた。この戦争はいつ終わるのか。小町上等兵の生まれ故郷を過ぎたわれわれを迎える北の大地は、モノトーンに沈んでゆく。曇天、白と黒のコントラスト。極彩色の鳥も蝶も、悪寒を呼び起こさせる地虫の類もいない、生命の匂いのない北の大地。私は何本目かわからない煙草に火を点け、気づくと居眠りをしていた。


 大尉殿。

 肩を揺すられた。一瞬、私は自分が今どこにいるのか失念した。が、すぐに理解した。胴震いするほどの寒さに。ああ、おれは北海道にいるのだ、と。

「大尉殿」

「なんだ」

 資料はきちんと膝の上にある。辺りは夕闇が迫りつつあり、街灯だけは律儀に灯っている。ワイパーが作動していた。前走車のテールランプが間近に見える。渋滞ごときで起こすな、言いかけて気づいた。なぜ下り車線が渋滞しているのだ。

「事故です。大尉殿」

 ここがどこなのか、まず知りたかった。北海道? わかっている。現在地だ。

「ここはどこだ」

「砂川です」

「それは、どこだ」

「……滝川駐屯地まで、あと三十分かかりません。ふつうなら」

 反対車線に車列が消えていた。私はグローブボックスから双眼鏡を取りだし、覗いた。見ると、トラックが横転していた。火が出ているようだが、消防車が到着した様子も、警察車両の赤色灯も見えない。こちらが軍の車両であることに気づいた一部のドライバーが車を降り、こちらを見ているのがわかる。いや、戦車を引き連れているのだ、軍の車両だとわからないはずがない。

「大尉殿、群衆が」

「エンジンは止めるなよ」

 私の側のドア横に、野良仕事帰りのようにみすぼらしい男が歩み寄っていた。ドアを開けるか、窓を開けるか。私は前者を選んだ。

「陸軍さん、なんとかしてくれ」

 ジープを降りると、路面には霜が降りていた。いや、凍結か。風は弱かったが、雪の降りは恵庭を出たときよりも強くなっている。小町上等兵は鉄帽に野戦服姿だが、私は制帽に軍服だった。滝川駐屯地で着替えるつもりでいたが、いまはかえって軍服姿のほうが好都合だろう。

「事故か」

「燃えてんだぁ、なんとかならねぇべか。あっちの車線もふさいじまって、なんも動かねェべさ」

「あんた、このあたりの住民か」

「家へ帰る途中だ、なんとかならねえか」

「警察を呼べ」

「ここらには公衆電話もねェ。陸軍さん、警察くらい呼べるべさ」

「その戦車でよけれるべさ」

 別の男が後ろの74式戦車を指さし、言った。

「われわれは任務のために移動中だ。申し訳ないが」

「露助が攻めて来たってのに、そったらはんかくせぇこと言ってないで、なんとかしてくれねぇべか」

 野良着の男が言う。

「けが人は出てるのか」

「なんもしらん」

「見て来てないのか」

「運転手は無事だべ。反対車線にも車が続いてるんだ、そっちが危ねぇべさ」

 もう一人が炎上中のトラックを向いた。距離は百メートルあるかないか。軽油が燃える臭いが鼻を刺す。気づけば、われわれを囲むように、人だかりができ始めていた。私は半身をジープに入れ、無線のプレストークボタンを押した。

「小谷野曹長、上良だ」

『はい』

「エンジンは止めるな。あと、車両から出るな」

『はい』

 砲弾すべてを下ろされたのがよほど癪に触ったと見え、小谷野以下戦車クルーはまったく私に関与しようとしなかった。今もそうだ。事故は見えているだろうに、交信ひとつ寄こさなかった。

「陸軍さん、頼むわ」

 野良着男が懇願の拝み手になった。私は外套の襟を立て、燃えるトラックに近づいた。

 男が言ったとおり、運転手は歩道の縁石に力なく腰掛けていた。横転しているのは四トントラックで、運転台周りは盛大に燃え盛っていた。燃料タンクから漏れだした軽油があたり一面を火の海にしていたが、後続車両が追突したわけでもなく、ただこの巨大な焚火は、国道十二号線の上下線をふさぐ形で朽ち果てようとしていた。

「おい、あんた」

 私は出来るだけ高圧的に聞こえるよう、運転手に言った。

「けがでもしたのか。警察は呼んだのか」

「……帰れなくなっちまった」

「なに?」

「旭川に帰るつもりだったんだ……。陸軍さん、助けてくれ、ソ連が来てんだろ、おい、旭川の町は、まだ、無事なんだべ? なあ、陸軍さん、どこまで行くんだ? 旭川までおれを連れて行ってくれ」

 薄暮でわからなかったが、立ち上がり私にすがりつく三十代半ばほどの運転手は、額から血を流し、腕は火傷をしていた。

「陸軍さん、かみさんも子供らも、まだ旭川にいるんだ、助けてくれ、おれのトラックで、かみさんたちを連れて逃げるつもりだったんだ。おっかあもばあさんもいるんだ。なあ、陸軍さん、陸軍さん……」

「おい、けがしてるじゃないか。待て。おい、小町!」

 私はジープを振り返り、叫び、手を振った。

「歩道を走れ、こっちだ!」

 聞こえたらしい。ジープが舵を切り、歩道に乗り上げ、近づいてくる。

「乗せて行ってくれるのか」

 男の目に哀れなほどの希望が見えた。乗せるつもりはなかった。

「小町、救急箱を出せ」

 運転席に怒鳴る。降りようとした小町上等兵を留め、彼から救急箱だけを受け取った。消毒液に絆創膏、包帯。火傷は重度ではないようだが、頭の傷はどうか。切れているが、深くはない。私は懇願の視線と声を無視して、運転手の男に応急処置を施した。

「いいか、警察を呼べ。おれたちは陸軍だ。……あんたらの町を護りに行く途中だ。わかってくれ。警察と消防を呼んで、ここで待て」

 男がしきりに胸を押さえて痛がるので骨折を疑ったが、どうしようもない。だが、私の姿を認めるや立ち上がりすがりつくだけの身体ではあるということだ。

「陸軍さん、乗せて行ってやればいいべさ」

 周りで私の処置を見物していた野良着の男が言った。私は振り向き、男を睨みつけた。

「おいあんた、この男をあんたの車で休ませてやれ。いいか、すぐに警察を呼べ。おれたちには、この燃えるトラックを消す道具もなければ、撤去する方法も持たない」

「警察に連絡してくれるくらいいいべさ」

「なぜあんたがしないんだ」

「したって、あれだべさ、電話もなんもねぇ」

「民家があるだろう。電話くらいある」

「冷たくないかい」

「あんたもな」

 男はさらに消沈した様子だが、命があっただけ幸運だと思ってもらうしかない。そう、ここは日本であり、ベトナムではない。ナパームで焼き払われた村も、土壇場で軍事介入した米軍が絨毯爆撃した焼け野原もまだない。国道沿いには営業中のドライブインもあれば、明かりの灯る農家も見える。なぜこの男たちはすぐに助けを呼び行かないのか。

「あんた、おい」

 包帯で巻かれると痛みが幾分遠のきでもしたか、苦痛にゆがんでいた表情は、いまや希望を失った空虚なものに変貌した運転手に呼び掛けた。

「あんたは生きてる。ソ連軍はまだ来ない。家族を助けたいなら、しっかりしろ。立てるならこの役立たずどもの代わりに、自分で電話を借りに行け」

 まだここには日常の切れ端が残っているのだ。私は男を一瞥すると、ジープの助手席に戻った。野次馬が取り巻こうと集まりかけていた。

「小谷野曹長、上良だ。聞こえるか」

『はい』

「歩道の幅員なら、通れるな」

『はい』

「おれたちが先に行く。ついて来い」

『連中はどうしますか』

「エンジンを吹かせ」

 返答の代わりに、戦車がディーゼルエンジンを吹かす轟音が響く。虚を突かれた野次馬の動きが止まったのを見て、私は小町に「出せ」と命令した。「なぜ」はない。小町はやけくそ気味の動作でクラクションを鳴らし、ギヤをローに入れ、粗っぽくクラッチをつないだ。半身を横に向けていた私は姿勢を崩し、唐津大佐の資料が足元に落ちた。

「すみません」

「気にするな。行け」

 バックミラーを見た。74式戦車のヘッドライトが続く。もはやだれもわれわれの進撃を阻止しようとはしてこなかった。


 恵庭から手が回ったのか、それとも第11師団から連絡が入っていたのか、それとも特務が手はずを整えていただけか。滝川駐屯地で、われわれは戦車砲の砲弾を確保し、ジープと戦車の燃料を満タンにした。旭川まであと五十キロ。だが日が暮れた。雪は降りやまず、積もりはじめていた。滝川でわれわれは歓迎されなかった。声に出さない「なぜ」が私の軍服姿に突き刺さるのを感じた。徽章の類で私の所属に気づかれたか。私は駐屯地司令に直近の戦況だけを聞いた。

 稚内奪還戦が始まっていること。音威子府の峡谷で、第2師団の戦車大隊と名寄駐屯地の歩兵連隊が陣地を固めたこと。三沢の戦闘攻撃機が稚内空港の滑走路を、ソ連軍のヘリコプターごと破壊したこと。舞鶴から重巡洋艦二隻が出航した「らしい」こと。

「函館にいた空母はどうしたんです」

「『赤城』なら礼文島沖に向かっているそうだ」

 駐屯地司令も野戦服姿だった。滝川の歩兵連隊は出撃準備を終えており、第2師団を支援すべく、第11師団本部からの下命を待ち、兵は殺気立つ者半分、怯えを隠さない者半分の様子だった。滝川の町にも避難民が押し寄せていた。駐屯地の中だけが、平時と変わらぬ秩序を保ち続けていた。一室を借り、私は野戦服に着替え、荷物に入れたウィスキーを……札幌で餞別代りにもらったニッカウヰスキーとやら……一口煽った。着慣れた野戦服にジャングルの瘴気がまだ染み込んでいるように思えて不快だった。軍服から着替えた私を見た駐屯地司令の顔色が変わるのがはっきりわかった。ここの連中の野戦服はみな折り目付き、手入れの行き届いたそれだったが、私の野戦服は死地をかいくぐったくたびれ具合だったからだ。小町はおろか、戦車砲弾を積み込む四人の視線までが変わった。が、「どこへ」「なにを」しに行くのかをいまだ明かさない私への不信はそのままのようだった。

「同軸機銃と車載のキャリバー50はいつでも撃てるようにしておけよ」

 クルーに指示を出していた小谷野曹長に私は短く言った。

「はい、大尉殿……」

 殿、か。まともな返答は恵庭を出てから初めてだった。私は煙草を吸った。ウィスキーが足りないと感じたが、滝川で一泊するつもりもなかった。私が受けた命令に「いつまで」の期限は設けられていなかったが、それはいつものことだ。「すぐに」という意味に他ならない。

「片寄(かたよせ)、丹野(たんの)、佐藤、ここからは違うぞ。気合を入れろ」

 片寄はドライバー、丹野は装填手、佐藤は砲手だ。

「履帯を外すなよ。おれはそういうのに疎い」

 笑わず、平淡に、私は告げた。そうだ。私は戦車を呼んだことこそあれ、戦車と行動を共にしたことなど一度もないからだ。そして私は駐屯地司令から、電文を受け取った。作戦終了を告げる言葉。唐津大佐を私が葬ったか、あるいは葬り損ねた場合の、すべてを消し去るための言葉。私はそれを読み込むと、ライターで火を点けて焼き捨てた。


 国道十二号を進むと、左手の石狩川を挟んで深川の町の灯りが見えた。人々は生活している。生活し続けている。逃げる先もないか、諦めか。あるいはわが軍の勝利を疑わない人々の気持ちか。時速三十キロを維持したまま、ジープと戦車は進む。夜になっても、対向車線は車列がところどころ途切れつつも続いていた。小町は滝川を出てから、私にベトナムのことも大連のことも訊こうとしなかった。私はベトナムでそうしたように、おおっぴらにウィスキーの小瓶を取りだし、舐めるように飲んだ。暖房は入っているのだが、身体の内側から温めないと、この寒さはどうにもならなかった。

 室内灯を点ければ唐津大佐の資料を読み込むことも出来たろうが、運転に差し障りが出る気がしたのと、酒を飲みながら軍機を読む上官を果たして上等兵がどう思うか、彼の今後に配慮してやめた。雪は小降りになったが、対向車と自車のヘッドライトに照らされた粉雪が、どうしてもインドシナ半島の羽虫どもを連想させられて気分が悪かった。こんなとき、大連の街並みはまったく思い出せない。函館に足止めされたホテルのほうが、よほどソ連艦隊を陽動したあの任務を想起させられた。


 汝ら知らざるか

汝ら聞かざるか

始めより汝らに傳えざりしか

汝らは地の基をおきしときより悟らざりしか


 大尉殿。

 目を開いても、昏い。羽虫が舞っている。ずいぶん冷房の効いた車だ。いや、私は、

「大尉殿」

 身を起こした。そうだ、唐津大佐だ。

「どうした……なぜ止まっている」

「戦車長殿が呼んでます」

「上良だ、どうした、小谷野曹長」

『片寄が光が見えたと』

「光?」

『旭川の空に光が見えたと。大尉殿に報告して欲しいと』

「小町、おまえも見たか」

「いえ、自分は、あの、路面を見ておりましたので、気づきませんでした」

 私は双眼鏡を取り出す。

「旭川は、正面か」

「ええ、と思いますが」

「現在位置はどこだ」

 私は地図を開き、室内灯を点灯させた。国道十二号。深川から旭川への途中。

『大尉殿』

「曹長、異常事態か」

『片寄が、敵戦ではないかと警戒しております』

 戦車の天敵は航空機だ。ドライバーが気づいて、戦車長が見逃すか。

「曹長、あんたは見なかったか」

『見ておりません』

「待て」

 双眼鏡をのぞいた。

「大尉殿、内園です。深川市内園」

「具体的地名を言われても、おれにはわからんぞ。旭川までどれくらいだ」

「二十キロ少々かと」

「後ろの足の速さなら一時間か」

「全速を出せば三十分ほどで」

「履帯でも外したらどうする。おれはごめんだ」

 双眼鏡をのぞいたが、旭川市と思われる上空は雪雲が分厚く、ただ街が健在らしいことは、雲がぼんやり明るいことで判断できた。戦火とどう区別するのかと訊かれれば、見た者にしかわからないと私は答えるだろう。

「……ヘリコプターだ」

「ヘリ、ですか」

「上良だ。曹長、聞こえるか」

『はい』

「あれは、ヘリだ。友軍だ」

『間違いありませんか』

「中島の62式だ。おれは何度も乗った。間違えるはずがない」

『失礼しました』

「友軍のヘリが飛んでるんだ。旭川はまだ無事だな」

『前進しますか』

「ああ。小町、出せ」

「はい」

 ジープが動き出す。窓を閉めていても、戦車のエンジン音と履帯の音が耳に届く。


 逃げ出す人々の群れ。

 戦地へ赴くと、間違いなく出くわすもの。夜といわず昼といわず。私は戦地にいた。戦闘行為がなくとも、ここは戦地だ。日付を超えてから、われわれは第2師団駐屯地にたどり着いた。札幌駅の雑踏で聞いたすべては流言飛語の類だった。旭橋なる鉄橋は落ちずに存在しており、旭川市上空で空中戦が行われた事実もなかった。ただ、戦闘空中哨戒を行う空軍機の轟音が、宿舎にいても窓を震わせていた。駐屯地内は滝川とは比較にならないほど殺気立っており、対空砲陣地まで構築されていた。私は缶詰の類ではないまともな食事をしっかりいただくと、構わず寝た。小町、小谷野ら戦車クルーと同室で。

「明日は、覚悟しろ」

 野戦服姿のままベッドに横になると、私は一言だけ告げて、ウィスキーを煽って寝た。

 翌朝はよく晴れていた。どこまでも青かった。そして、地は白く染められていた。雪だった。夢を見た気がしたが思い出せない。私以外はみなすでに起き出していたが、私を起こそうと試みた者がいないのが奇妙といえば奇妙だった。

「行くぞ」

 私は自分の荷物だけさらうと、さっさと部屋を出た。朝食を悠長に食堂でとるつもりはなく、前夜のうちに頼んでおいた握り飯を各人二個ずつ平らげ、ジープと戦車の燃料タンクも満タンにした。小谷野曹長が念入りに戦車を点検して回っていたが、私は煙草を吸いながらただ眺めていた。私は戦車の構造まではわからない。手を出すこともできないし、手を出す気もない。曹長も私の手を借りようとも思わないだろう。私は煙草をもみ消すと、腰のホルスターから九ミリ口径のブローニング拳銃を取りだし、弾倉を抜き、初弾が薬室に装填されていないことを確認すると、弾倉を装着、またホルスターに戻した。

 街は故郷を捨てようとする人々で混乱していた。上空を第2師団の62式汎用ヘリコプターが飛び回り、交差点という交差点には北海道警察の車両と警察官がいた。戦時においては警察権も陸軍に移管されるが、陸軍部隊が治安維持に投入されている様子はなかった。私たちは見送りもなく駐屯地を出た。戦車が安全に通過できる橋は、金星橋という。明けの明星でも開拓民が眺めたのかと私は思ったが、由来は軍服のボタンらしく興ざめもいいところだ。札幌駅で流言されていた件の製紙工場の煙突はきちんと立っていたが、普段二十四時間稼働していたという工場業務は停止しているのだろう。煙は出ていなかった。私たちはまた踏切で足止めされた。宗谷本線の踏切だ。北へ向かう線路を列車が走るのか。私はジープの助手席で新雪のまぶしさに目を細めながら、通過列車を待った。来たのはまた貨物列車だった。

「命がけですね」

 私の思いを代弁したつもりか、小町上等兵がつぶやいた。私は無視した。命がけが本業のわれわれが、命がけが本業ではない連中を称賛する必要はない。鉄道員をないがしろにするつもりはないが、彼らの本務は戦闘にあらず、だ。

 二両の車列は、国道三十九号線に入る。道は空いていた。この道は上川から大雪山を越え、北見へ向かう。主たる戦場は目下国道四十号線の先であり、道東方面へ通じる三十九号線を、わざわざ峠越えをして旭川へ逃げてくる人間はいないようだ。いや、その峠そのものに立ち入れないはずなのだ。

 快晴の空。空気は澄んでいる。恐ろしいほどに。みすぼらしいトタン屋根の民家の向こうに、向かうは大雪山連峰がくっきりと、私が思っていたよりずっと近くに見えた。

 彼の、王国だ。


我久しく聲をいださず 默して己をおさへたり

今我 子を産まんとする婦人のごとく 叫ばん

我いきづかしくかつ 喘がん

我 山と岡とをあらし 且すべてその上の木草を枯らし

もろもろの河を島とし もろもろの池を涸さん

我 瞽者をその未だしらざる大路にゆかしめ

その未だしらざる徑をふましめ

暗きをその前に光となし 曲れるをその前になほくすべし

我これらの事をおこなひて彼らを捨てじ

刻みたる偶像に頼み 鑄たる偶像に向ひて

汝等は我らの神なりと云ふものは退けられて 大いに恥をうけん


 メコン川を見た者に、これが大河であると指されて、誰が納得するだろう。利根川を見て育った私にとって、さらに石狩川は大河とは呼べなかった。国道三十九号線と国鉄石北本線は、源流へと遡る石狩川に寄り添い、大雪山の山懐へ分け入っていくのだ。戦車の消耗を考慮して、今日も最高速度は時速三十キロに抑えていた。それでも昼前には、上川町の手前まで到達していた。今日は快晴で朝こそ冷え込んだが、気温は上がり、道に雪はもうなかった。一度降った雪が春まで溶けない状態を「根雪」と呼ぶそうだ。降っては溶け、降っては溶け、だがある日降って積もり、それが根雪になるのだと小町が言った。車中の戯言だった。戦車の中で彼らは何をしているのか気にならないわけでもなかったが、私はあの鉄の棺に乗り込みたくはなかった。砲弾と燃料を満載した74式戦車の動きは、明らかに昨日までとは違った。頼もしさは感じた。だが、小町を含む彼らに、その戦車砲の使い道を説明したなら、躊躇なく発砲してくれるかどうか、私ははなはだ不安だった。昼前にその予行が発生するとは、私も前線からしばし離れ、勘が鈍っていたのかもしれなかった。

 何かをぶつけられた。とっさにそう思った。

「うわ」

 運転席の小町が短く叫び、身をかがめた。瞬間私は怒鳴った。

「止まるな」

 ガン、と車体に硬いものがぶち当たる音がした。フロントガラスにひびが入った。

『敵襲ッ』

 無線も叫んだ。

「小町、止まるなッ」

 私は戦車に追突されると思ったのだ。

 車体に何かがぶつけられている。敵襲ではないと私はすぐに気付いた。敵襲ならば、戦車はまだしも私のジープは蜂の巣にされている。射かけられているのだ。フロントガラスにひびを入れ、ボンネットに転がった矢を見、私は目を疑った。

「曹長、撃つな、撃つな!」

『しかし大尉殿!』

 私は身をすくめつつ窓をそっと開け、拳銃を抜き出すと、空へ向かって一発撃った。山間に銃声がこだました。すると、ぴたりと矢の撃ちかけが止まった。

「大尉殿、これは……」

「ソ連軍ではない。……歓迎でもないだろうが」

 私がジープを降りようとしたのを、小町が袖を引いて止めた。

「ここから先が、おれたちの目的地なんだ」

 私はジープを降りた。

「陸軍大尉、上良毅だ。唐津大佐の手の者か!」

 目の前に雪を頂く純白の大雪山が見えた。私は両手を胸の高さに掲げ、路上に立った。すると、国道わきの前方、灌木の間から、幾人もの人影が現れた。

「……アイヌ?」

 運転席で小町が言うのが聞こえた。

「あんたら、大佐を連れ戻しに来たんだな」

 きれいな日本語がよく通る声で飛んできた。弓を手にした数人の中から、日本陸軍の軍服を着た若い男が歩み出てきた。白髪に白い肌、私は老人かと思ったが、上背がかなりある。高い鼻梁、彫りは深いが細い顔。髭は生えておらず、……青い目をしていた。

「……大佐のところまで、案内願いたい」

「悠長だな。こんなところまでやってくるとは。今は戦争中だと聞いたが」

「大佐に聞いたのか」

 私は降伏を意味しない程度の高さに両手を掲げたまま、彼が歩み寄るのを待った。小谷野たちが引き金に指をかけていないことを、今は信じるしかない。

「ずいぶんと物騒な乗り物でやってきたんだな」

「ロシア人か」

「だったらなんだ」

「ロシア人が日本軍の軍服を着るのは、国際法違反だ」

「それで逮捕するか?」

「名前は」

「イブゲニー・フローロフ」

「後ろの連中はなんだ」

「あんたらが迫害した先住民じゃないか」

 アイヌコタンか。

「私は統合幕僚会議の命令を受けて、唐津大佐の身柄を確保しに来た。唐津大佐に指揮権はない。われわれに帰順せよ。今なら安全は保障する」

 私が言うと、目の前のロシア人が声高らかに笑った。

「なにがおかしい」

「私に言うからだ。大佐に言えばいい」

「ならば大佐に会わせろ」

「お供を帰らせろ。なら会わせてやる」

「それはできない」

「なら大佐には会わせられない」

「いいのか、軍は大佐を見逃さない」

「あんたらこそ帰れ。ここは私たちの国だ」

「お前らの……国だと?」

 私は手をゆっくりと下ろした。途端にフローロフの背後のアイヌたちが弓を構えた。

「どういう手で籠絡した。大佐の部下たちはどうした。第二十八歩兵連隊は」

「そのような態度、ここではやめたまえ。……大尉ドノ」

 ガチャリと音がして私は振り向いた。

「小谷野曹長、待てッ」

 74式戦車の砲塔、車載機銃の槓悍を引いた音だ、そう思った瞬間、ブンと矢が放たれる小気味よい音がして、小谷野曹長の胸ど真ん中に矢が突き刺さるのを私は見た。

「曹長ッ」

 小谷野曹長は車載機銃を一発も撃つこともなく、砲塔内部に沈んだ。わあ、と叫び声が上がったが、丹野か佐藤かどちらの声かわからなかった。

「撃つな、撃つなッ!」

 戦車砲がぴたりと正面、アイヌの男たちに向けられるのを見て、私は声の限り叫んだ。そして、腰のホルスターからブローニング拳銃を抜き、引き金には触れず、

「待て、弾倉を抜く」

 そして、遊底を引き、目の前の路上にそっと置いた。

「それでいい。……大尉ドノ、あんただけ来い」

「上良大尉殿!」

「小町、戦車にも伝えろ。おれだけ行く。お前らはここで待て。小町、二時間たって戻らなければ、おまえらだけで帰れ。いいな、これは命令だ」

 続きは事前に車内で小町に伝えてあった。私に何かがあれば、無線で師団本部へあの言葉を伝えよ、と。

「よし、おれだけ行く。わかった」

 フローロフが満足げにうなずいた。髭をたくわえた男たちは、無言でフローロフの周りを護衛するように、身を翻した。


 上川の町からは離れていた。三十分ほど歩いた先に、コタンがあった。アイヌの村だ。私は第二十八歩兵連隊の兵士の姿を探したが、傍目にわかるところには誰もおらず、軍の車両も見られなかった。が、私の目をくぎ付けにしたのは、村の入り口の、丸太を組んだらしい門だった。

「……鳥居か」

 巨木を組み合わせた、それは鳥居だった。そして、鳥居の向こうには本殿ではなく、大雪の山がそびえていた。

 アイヌの人々が生活を営んでいた。家屋は五十年ほど時代をさかのぼったかのような木造わらぶきばかりで、私が知っているアイヌの家とも、北海道の現代の家屋とも違って見えた。たとえるなら、私の故郷、千葉の田舎にあるような日本家屋……いやそれにしては開口部が少ない。窓も小さく、どの家にもドアがある。驚いたことに、巨木をただ突き刺したような電柱が等間隔で立っており、田舎で見かけるような簡易的街灯が括られていいた。牛がいた。羊もいた。アイヌが牧畜を営んでいるとは聞いたことがない。そうか、本当にここは唐津大佐の王国か。

「早く歩け。時間切れを狙っているのか」

 フローロフが軍刀の柄に手をかけながら、私を向いた。

「いや」

 フローロフの軍服からは階級章も徽章も部隊章も、日の丸までが外されていた。足元は昨日からの雪が溶け、ぬかるんでいた。フローロフのあとをついて行くと、村のメインストリートの突き当りに、駅逓のような建物があった。そこに初めて、日本軍の兵士が二人立っているのがわかった。大佐の、本来の部下か。手にしているのは、64式自動小銃だった。弾倉も装着されている。鉄帽に野戦服。滝川や旭川で見かけた兵士たちの装いとは明らかに違う。私と同じ匂いがした。前線をくぐり抜けた軍装だ。

「大佐は、中だ。行け」

 フローロフは警衛の立つ建物入口で立ち止まり、私を促した。

 そうして、私は唐津大佐本人の姿を目にした。


 起よ光を發て

汝の光きたり

ヱホバの榮光 汝の上に照出たればなり

視よ 暗きは地をおほひ

闇はもろもろの民を覆はん

されど汝の上にはヱホバ照出たまひて

その榮光汝の上に顯はるべし

もろもろの國は汝の光にゆき

もろもろの王は照り出る 汝が光輝にゆかん

汝の目をあげて環視せ

彼らは皆つどひて汝にきたり

汝の子輩は遠きより來り

汝の女輩はいだかれて來らん

そのとき汝視て喜びの光を現し

汝の心驚きあやしみ且ひろらかになるべし


 私は彼の前でかしずくわけにはいかなかった。私は陸軍大佐・唐津孝太を逮捕、あるいは抹殺しに来た陸軍大尉・上良毅であって、このちっぽけな王国の国王に謁見するために部下を一人失った異国人ではないからだ。

「唐津大佐、あなたの身柄を拘束しに参りました。私は帝国陸軍、上良大尉であります」

 唐津大佐は椅子に腰かけていた。それは、戦闘機の射出座席だった。淡い緑色の塗装は、ソ連空軍機の射出座席に間違いなかった。王座が戦闘機の座席とは。未開の部族が敵の生首を掲げるかのように、部屋の柱には、航空用ヘルメット、鉄帽、制帽が飾られていた。

「遅かったな。それにしても、ジープ一両に、74式戦車一両か。奇妙な組み合わせだ。大尉、君は空挺徽章を着けているではないか。落下傘で降下して来れば早かったぞ。ここには対空砲はないからな」

 かすれた声だった。身分証の写真より一層痩せて見えた。光の加減か、病的な痩せ方に見えた。

「大佐、原隊へ復帰される心積もりは毛頭ないとお受け取りしてよろしいのですね」

「君は何を見てきた」

「は、」

「道中だ。どこから来たかは知らんが。何を見た。話してみろ」

「避難民です」

「それだけか」

「……軍人を除けば」

「そうだ。避難民だ。北海道の住民たちだ。ソ連軍の侵攻地域から脱出するため、みな必死の形相だったろう。……ずいぶん日に焼けているようだが、君はインドシナ経験者か」

「ええ」

「ならば、同じ光景を見たはずだ」

「……ええ」

「どう感じた」

「ベトナムでは、他人事だと」

「いまはどうだ」

「いまも変わりはありません」

 私は断言した。すると、唐津大佐は愉快そうに、だかやや大げさに笑った。そうして、傍らの箱状のテーブル……弾薬を入れる木箱だった……の上から、煙草を一本取り、暖房代わりなのか、火鉢から赤い木炭のかけらを火箸でつまみ、それで火を点けた。遅れて私の鼻に届いた匂いには覚えがあった。大麻草だ。

「現認した。大佐、麻薬までお使いですか」

「君もインドシナではやった口ではないのかね」

「私は酒と煙草で十分でしたよ」

「君もやってみるといい。国だ、戦争だ、そうした俗世をもっと客観的に見られるようになる」

「大佐。……お戻りください。私と、師団本部まで。あなたは英雄だ」

「生ける軍神かね」

「あなたは全軍から尊敬される存在のはずだ。なぜ離反など……部下の将兵らは皆逆賊扱いだ。彼らにだって家族がいる。それを無視して、あなたは」

 私の口上をさえぎり、大佐が病的な咳をした。

「大佐」

「戦争に大義を見たか」

「は」

「この戦争のことではない。朝鮮半島、インドシナ半島……日清、日露でもいい。この国の、いや、この世界の戦争に大義を君は認めるか」

「何の話です」

「戦争の話だ」

「私は軍人です。戦争が起きれば、勝つために動く。戦争を始めるのは、政治家だ。私にとって、戦争の意義などどうでもいいことです」

「めずらしい男だ」

「どこがですか」

「避難民を見ても他人事か。そして、戦争に意味を求めない。次があるとしたら、君はまた戦場へ赴くか」

「命令であれば。仕事ですから」

「そうかね、仕事かね。戦争が仕事かね」

「大佐、あなたとは思えないお言葉だ」

 大麻煙草を吸い終えると、大佐の表情から翳りが消えた。悟りを啓いた僧侶のような顔になった。

「私の罪状は何か」

「敵前逃亡」

「ならば即刻銃殺か。君が銃殺隊というわけだ。では訊こう。敵はどこにいる」

「なにを、戯言を」

「答えたまえ、上良大尉」

「ソ連軍です」

「ソ連軍が何をした」

「我が国の領土に侵攻し、……南樺太を違法に占領し、次に北海道に侵略を」

「連中が本気に思えるかね」

「は?」

「豊原の第88師団の充足率を知っていたかね」

「知りません」

「六割に満たない。師団とは名ばかりだ。旅団ですらない」

「そんな」

「この戦争にも大義はない。日本は、樺太全島が欲しいのだ。……君は朝鮮半島の作戦は知っているか」

「戦史でならば、ええ」

 大連で極東ソ連海軍艦隊へのさまざまな謀略に加担した件は話す必要はないと私は感じた。

「満州を失った日本は、博打に負けたのだよ」

「……どういう意味です」

「油田が見つかると、あの当時誰が予想したかね」

「それと樺太戦争がどうつながるんです、大佐」

「北緯五十度線から北に、大規模な油田があるんだよ。大尉」

「油田……?」

「そうだ。我が国が政情不安な海外から法外な値段で油を買わされずに済むほどの原油が、国境の向こうに眠っているのだ。私は戦争前から、ソ連軍将校に聞かされたよ」

 初耳だった。だが私にはわからなかった。ではなぜソ連軍が国境を越えたのかが。

「この戦争は、日本が勝利する。わかるかね」

「そのつもりで戦っているでしょう。全将兵は」

「違う。……君はベトナムで何を見てきたんだね。ハノイを焼け野原にしたのはどこの誰だね。君も迷い込んだであろう密林を焼き払ったのはどこの国の軍隊だね?」

「……米軍が今回も軍事介入すると? まさか、あり得ない! そんなことをすれば」

「全面核戦争にでもなるというのかね。ならばなぜ今回の戦争で、日本もソ連も、核の使用をちらつかせないのかね。理由は君が考えるとおりだ。核の使用をほのめかした途端に、撃つ準備が整うからだ。撃ったが最後、どうなるか、レニングラードとスターリングラードの悲劇を、君も知らないわけではあるまい?」

 欧州で独ソが史上最大の戦争を行った。第二次世界大戦。私たちは欧州大戦と教科書で習うあの戦争は、ドイツ軍が苦し紛れにたった二発だけ製造に成功し、核実験すら行わないまま投下した核爆弾で終わったのだ。その核兵器の威力を見せ付けられた国々は、撃たれないために核を持った。日本も例外ではなかった。

「米軍がまもなくやってくる。君も特務の軍人ならば、北海道の現勢力だけで、極東ソ連軍を独力により排除できると本気で思えるかね」

 私は答えられなかった。そのとおりだった。極東ソ連軍の揚陸能力は戦前から過大評価される傾向にはあったが、着上陸そのものは防げないというのも図上演習で得られた結果だったからだ。北海道に侵攻されれば、戦線は膠着する。南樺太は端から捨てられる。しかし北海道は捨てられない。ソ連が欲しているのは、太平洋への出入り口だ。北海道はまさしくそれに当たる。長期戦になれば、大陸から次から次へとソ連軍が押し寄せる。それを日本軍単独では防ぎきれなくなる。

「日米安全相互条約が機能する」

「しかし、開戦当初から米軍は様子見で」

「日本がある程度犠牲を出すのを待って、恩を売るためだ。米軍の圧倒的軍事力を前に、ソ連軍は講話を申し出る。そうして、日本は講話に応じる。択捉島以北の千島をソ連に返還する代わり、樺太全島を日本領とする、そんな絵を描いた奴がいるのだ」

「馬鹿な、あり得ない」

「だが戦争は始まったぞ。これは現実だ」

「大佐、ならばなぜ、その不正義の戦争をあなたの手で終わらせようと考えなかったのです」

「避難民を見たからだ。自国の国民を捨て石にした国家を見たからだ。この土地から逃げ出していく人間は、百年前、この土地に移住し、森を、荒地を切り開いた開拓民だ。それがあっさりと他国が攻めてきただけで武器を取ろうともせず、逃げ出した。そしてこの国は、戦争で得られた領土だからと、北緯五十度から南を切り離した。どれだけの無辜の民が殺されたか、君はわかるか」

「大佐、あなたは、狂っている」

「狂っているのは、おまえらだ」

 言われて、私は大佐を睨みつけたと思う。そうして、沈黙が訪れた。お互い、どちらも口を開かなかった。

 どれだけ立っていたか。背後が明るくなったと感じた瞬間、フローロフが私の肩に手をかけていた。

「そろそろ帰ってもらう。約束の時間が来る。あんたが帰らないと、血の気の多いあんたの部下があんたを奪還しに来ないとも限らん。武器弾薬は十分だが、戦車相手ではこちらも損害が出る。せっかく恭順してくれたコタンの連中を犠牲にしたくない。帰ってくれ」

 私は、従うしかなかった。


 アイヌの戦士と、フローロフに追われるようにして、私は国道三十九号線まで戻った。私たちの姿を認めると、小町が小銃を構え、戦車の車載機銃に丹野がつくのが見えた。私は両手を上げ、制止した。五分もせず、フローロフらはコタンへと戻って行った。小町が私に駆け寄ってきた。手にはブローニング。私に返してきた。だから私は言った。

「日暮れまでに決着をつける。……小町、おまえはジープで旭川へ帰れ」

「大尉殿、しかし」

「逃がすのではない。伝令だ。大佐の謀反の意思確認、そう師団本部へ報告しろ。日付が変わってもおれからの連絡がなければ、……打電しろ」

 逡巡。しかし小町はうなずいた。

「小谷野曹長を連れて帰れ。おれの責任だ。申し訳ない。……戦車の指揮は経験がないが、おれが戦車長で構わんか」

 片寄がうなずき、丹野と左藤もうなずいた。私は戦車の操縦ができないし、戦車砲も撃てない。装填くらいならできるかもしれないが、おそらく慣れた戦車兵にはかなわない。ジープから指揮をとるのではなく、砲塔から指揮するだけの話だ。それならばいいだろう。

「大尉殿」

 小町が赤ら顔を向けてきた。日に照らされて、雪遊びをしたあとの子供のように見える。

「……我々は味方と戦うんですか」

「唐津大佐は、乱心した。……味方ではない」


 その果によりて彼らを知るべし。茨より葡萄を、薊より無花果をとる者あらんや。

斯く、すべて善き樹は善き果をむすび、惡しき樹は惡しき果をむすぶ。

善き樹は惡しき果を結ぶこと能はず、惡しき樹はよき果を結ぶこと能はず。

すべて善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げ入れらる。

さらばその果によりて彼らを知るべし。


 これは私の手記である。

 私は74式戦車の砲塔にいた。キャリバー50……ブローニングM2重機関銃なら、ベトナムでさんざん撃った。撃ち方なら知っている。大丈夫だ。

「片寄、出せ」

「了解」

 急ブレーキには気を付けてください。戦車クルーから言われたのはそれだけだった。戦車一両でコタンに突撃するのは気が引かないでもなかった。が、大佐の抹殺が命令だった。やるしかなかった。

「片寄、全速力で行け」

「了解」

 ディーゼルエンジンが咆哮した。戦車がアスファルトを蹴立てて走り出した。なかなかいい加速だ。戦車をすこし見下しすぎたかもしれない。私の道案内で、徒歩三十分の距離を、五分かからずにたどり着いた。

「目標、正面の鳥居」

「なんですか、あれは」

 砲手の佐藤が叫んだ。戦車内は轟音だらけだ。車内通話でも怒鳴らないと何も聞こえない。

「唐津大佐の拠りどころだろう。結局大佐も日本人だったのさ」

「じゃあ、大雪山が御神体ですか」

 そこまでは思い至らなかった。

「御神体は、大佐本人だ」

「逮捕するんじゃなかったんですか」

「いいか、ここは戦場だ。撃たれるぞ。おれが命令したら、即座に撃て」

 途端に身体のすぐそばを銃弾が掠め飛んだのが分かった。大連では一発の銃声も聞かなかったが、インドシナ半島ではそうはいかなかった。私は幾度となく、死を意識した。しかし死ななかった。身一つ、ライフルを背に密林で戦い、私は生き残った。今は戦車が私を守ってくれる。私は車載機銃をいつでも撃てるよう、大きく息を吸い込んだ。

「照準したか」

「はい」

「勝手が違うだろう、すまん。撃て!」

 砲手の返事の代わりに、大音響と衝撃波をまともに食らった。マズルブラストが眩く、砲煙が鼻に染みる。視界が開けると、行進射で鳥居は消えてなくなっていた。

「大尉殿、次からは砲弾の種別を指示してください」

「なにを積んでいるんだ」

「榴弾か徹甲弾です」

「榴弾だ、榴弾で行け」

 砲塔に激しく機関銃弾が撃ちつけられた。曳光弾の軌跡が見える。花火のようだ。きれいだと私は思った。

「撃たれてます」

 誰の声かわからなかった。

「くそっ」

 私は車載機銃を手当たり次第、ろくに狙いもつけずに撃った。民家、と思われる建物には向けないつもりだったが、歩兵連隊の連中がどこにいるかもわからない。まるでここは……ベトコンが潜むジャングルの村と同じじゃないか。

「装填手、準備いいか」

「はい」

「砲手、目標、前方の家」

「大尉殿、方位を」

「なに?」

「砲塔が旋回しています。絶対値を暮れないと照準できません」

「すまん。ああ、何といえばいい……、目標、この通りの正面の建物だ。構わず撃て」

 私は言いながら次の発砲に身構えた。即座に一〇五ミリライフル砲が火を噴いた。

「命中」

 建物には当たった。ど真ん中より左へそれて、火が点いた。

「大尉殿、撃って来てます。敵はどこですか!」

「ここに味方はいない。みんな敵だ!」

「アイヌがいます!」

「同軸機銃を撃て。兵隊はおれが撃つ」

 と言っても、私にも見分けがつかなかった。歩兵連隊はいわば白兵戦のプロだ。私は謀略戦のプロかもしれなかったが、こうした戦場では主役になったことがない。ダメだ、誰を撃っていいのかわからない。

「大尉殿、撃たれてます」

 自動小銃だろう。重機関銃の類はここにはないのかもしれない。だが、対戦車ロケットや無反動砲があったら? 文字通りこの戦車は四人入りの棺になる。

「走り回れ、とにかく。蹂躙しろッ」

 同軸機銃の乾いた発砲音が響き渡る。視界の端に金髪が見えた。最初白髪に見えたのは、日差しのせいだったのだ。フローロフだ。ボルトアクション式のライフルを片手に駆けている。向かっているのは、正面で炎上中の、大佐の王宮だ。

「片寄、聞こえるか」

「はいッ」

「俺は降車する」

「は?」

「とにかく逃げ回れ。丹野、おれを照準し続けろ。大佐を消したら、帰ってくる。帰って来なければ、あの建物に榴弾を食らわせて、そのまま帰れ。いいか、おれが戻らなければ、おまえらはこのまま旭川へ帰れ。三沢の戦闘機がこの村を消す」

「そんな」

「ひどい戦争に付き合わせて悪かったな。戦車長のことはおれの責任だ。すまん」

 返答を待たず、私は車内通話のヘッドホンを砲塔内部に放り込み、戦車から飛び降りた。走行中の戦車から飛んだのだ。地面が泥濘でなければ大けがをしていた。私は泥の中で転がり、そして跳ね起き、ホルスターからブローニング拳銃を抜くと遊底を引き初弾を薬室に送り込む。その動作の最中も私は駆けた。動標的は訓練しない限り絶対に命中弾はのぞめない。はずだ。私は走った。走り、王宮へ飛び込んだ。待ち構えていたフローロフに飛び掛かられた。

「邪魔するな」

「だまれ、日本人」

「ロシア人、国へ帰れっ」

「私は樺太生まれだ」

「じゃあ樺太へ帰れ」

「戦争中だ」

「おまえらが始めた戦争だ」

「そのおまえらってのは、日本人のことだな」

「大佐、どこだっ。フローロフ、大佐はアイヌを武力で服従させたんだな?」

「違う。大佐はアイヌから尊敬されている。長老からも認められた。ここはアイヌでも日本人でもロシア人でもない、唐津大佐の国だ」

「違うッ。ここは謀反者の村だ。裸の王様はどこだ」

「フローロフ、もういい」

 彼の鉄拳を右頬に受け、転がった私を見下ろして、いつのまにか唐津大佐がいた。

「大佐、申し訳ないが、お命、頂戴する」

 ブローニングハイパワーを向けた。引き金に掛けた人差し指に力を入れる。この銃は引き金が重い。アメリカ製のコルトM1911の方が私には撃ちやすかった。

「君は撃てない」

「大佐、あんたの部下は、兵隊たちはどこにいる? あんたの口から、投降を呼びかけろ」

「できん」

「なぜだ」

「部下は……猿払で散った」

 虚を突かれた。私は引き金を絞ろうとした指が脱力するのを感じた。

「なんですって……」

「陣地構築を終えた私の部隊は、猿払沖のソ連軍を迎え撃つべく、先遣を担ったのだ。そうして、やられたのだ」

「着上陸前に、ソ連揚陸部隊は沈めたはずだ」

「君は見たのかね」

「……見ていない」

「疑いの目を養うがいい」

 大佐の皮肉だと私は理解した。なぜなら、私は特務だから。

「私は、帰らぬ。ここが私の国だ」

「唐津大佐!」

 叫び、私は引き金を絞ろうとした。瞬間、大音響に聴覚が麻痺した。間近で砲弾が炸裂したのだ。私を照準し続けろと言ったが、撃つのが早すぎる。そう早合点した。私は戦車砲の威力もまた過小評価していたようだ。

「馬鹿が、パンツァーファウストを撃ち損じやがって」

 フローロフが叫んだのが遠くに聞こえた。私のすぐ横にいたのに。耳が遠い。耳鳴りがひどい。ふと見ると、王座に唐津大佐の姿がなかった。

「大佐!」

 建物の延焼が増していた。見ると天井まで火が燃え移っていた。私はやはり聴覚を麻痺させているフローロフを突き飛ばし、建物の出口へと走った。幸い、ドアは爆風で吹き飛ばされ、大穴になっている。私が飛び出せば、いくらなんでも戦車兵たちが気づく。その前に狙撃されたら一巻の終わりだなどという心配は、すべてが済んでから思い起こしたことだ。大佐の行方を探す間に、建物が崩壊する。私は全力で建物の外へ飛び出した。泥濘に足をすくわれ、転んだ。それでも泥をつかむように両手で勢いをつけ立ち上がり、しかし姿勢を低くし、まだ走り回っている戦車へ向けて走った。機関銃の発砲音。同軸機銃なのか、王国の臣民たちが撃っているのかわからない。耳鳴りがひどく聞き分けられない。

 一軒の木造家屋が屋根を吹きあげて爆散した。戦車砲だ。向こうは向こうで撃たれているようだ。私は通りを駆けに駆け、戦車の砲塔横に向けて拳銃を撃ちこんだ。そこで砲塔がこちらを向いた。ペリスコープで私を捉えてくれ。願った。同軸機銃よ、発砲をやめてくれ。戦車砲よ火を吹かないでくれ。私は泥に足を取られ、走る。まるで悪夢の中のようだ。いや、まさしく、ここは悪夢だ。悪夢の世界だ。

「大尉殿!」

 片寄が気づいた。私は狙撃を警戒して手を振るような真似はしなかった。腕を吹き飛ばされたくなかったからだ。

 私は泥まみれになりながら、急停止した戦車に駆けあがった。砲塔ハッチから半身を滑らせ、中に怒鳴った。

「ト連送、打て、いますぐ」

「えっ」

「戦闘空中哨戒中の戦闘機がいるはずだ。師団本部が受領したら、すぐにここは爆撃される」

 丹野が無線機に向かって、何か話している。エンジン音と耳鳴り。

「打ったか」

 私の耳がおかしいことにうすうす気づいたのだろう。丹野は大きなうなずきで返答した。

「ここを離れる。全速前進だ、片寄ッ」

 了解の声は聞こえなかった。当たり前だ。私は車内通話機をつけていない。私の命令は丹野が中継したようだ。戦車が急加速した。私はハッチを閉じ、戦車内に潜り込んだ。もうこの村に用はない。消えてもらうだけだ。大佐とともに。そう、大佐と運命を共にすると決めたのなら、消えてもらうしかない。

 戦車は時速五十三キロが最高速だと後で聞いた。もっと出ていたように感じるのは、あのときの私の精神状態のせいか。戦車は泥をはね上げ、煙幕を打ち上げ、村を去った。

 国道三十九号線に入っても、戦車は速度を落とさなかった。耳鳴りが収まりだしたころ、爆音を聞いた。甲高いタービンの音も。私はハッチを開け、外に出た。疾駆する戦車から石狩川が見えた。振り返ると、大雪山の威容がそこにあった。

「大尉殿、航空支援です」

 片寄が左手で空を指した。

「友軍機ですか」

 私は目を凝らした。そして、特徴的な直線翼と、外装式のエンジンポッド二基を認めた。

「ああ……。日本軍機ではないが、……味方だ」

 つい数年前に実戦配備された、A-10サンダーボルトⅡ攻撃機……主翼の国籍マークがよく見える。

 またか。ベトナムの既視感を北海道で味わうとは思わなかった。四機の編隊で現れたのは、空軍三沢基地に移動してきたと噂だけは聞いていた、アメリカ空軍所属の対地攻撃機だった。戦車の天敵として生まれた攻撃機を、私は戦車から見上げた。彼らは私たちの戦車を味方だと判断し、敵だと判断したのは、大佐の王国だった。

 そうして、大佐の王国は、この地から消えた。跡形もなく。

 甲高いエンジン音が、帰路に着いた私の耳にずっと残ることになった。戦争は終わる。唐津大佐が言ったとおり、米軍の介入で。私は、煙草を吸おうと思った。が、泥まみれの野戦服の中で、煙草もまたずぶ濡れだった。私が煙草を探しているのを仕草でわかったののだろう。

 丹野が煙草を……ラッキーストライクを一本、私に差し出してくれた。

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Heart of darkness 白石怜 @Kita25West3

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