第6話

 午後の風は穏やかだった。

 海流の影響か、高泊は風は強いが比較的冬が暖かい。ただし、夏はその分なのか、冷涼だった。今朝の空はどこまでも澄んだ青い色で、陽射しが気持ちよかった。

 私服に袖を通したのは相当に久しぶりだった。IDを警衛に見せ、私は駐屯地を出た。ゲートの向こうは、埃っぽいが穏やかな日常がどこまでも続いていた。昨日までの「私たちの日常」を無理矢理思い出させようとするのは、空軍の戦闘機の爆音だ。おそらくは哨戒飛行に向かう戦闘機。ただ、高度がかなりあるので、探そうと思って見上げないかぎり、音のした場所に首を向けても、機影は見えなかった。CIDSを装備しない外出。戦闘情報も脅威判定も表示されず、サブ窓も開かない視界。私は度の入らない赤いフレームのメガネをかけて、小さなショルダーバッグを肩から提げ、通りを歩く。髪型も作戦時とは変えてある。できるだけ同年代の女性と同化できるように。似合わないのを承知で言うなら、「かわいらしく」見えるように。なるべく「戦士」に見えないように。それでも、見る人間が見れば、私たちの職業など一目瞭然だという。姿勢が違う、歩き方が違う、何より視線が違う。

 駐屯地は州道に面している。ゴトゴトと路面を響かせながら、市街電車がやってくる。 CIDSも4716自動小銃もMG-7Aセミオートマティックも一切合切所持しない身軽な私。しかし携帯電子端末(ターミナルパッド)はコートのポケットに入っている。しっかりランヤードで身体と固定されて。これが私の身分を証明してくれる。ちなみにこれは官給品。もし私が軍を辞めたら、これも制服や装備のたぐいと合わせて返却しなければならないし、紛失すれば始末書を覚悟しなくてはならない。

 停留所は砂っぽかった。昼過ぎ、平日。こんな時間に電車を使うのは、のどかな一日を信じて疑わない人々だ。およそ戦争中とは思えなかった。戦域の南端までは三〇〇キロ。戦闘機なら三十分足らずで到達してしまう距離なのに、恐ろしく穏やかだった。月に一度の防空訓練が実施されるが、それは柚辺尾の街でもそうだったし、都野崎でもそうだったから、特段この街が最前線に近いという空気は感じられない。軍人の姿がやたらと目立つのは、海軍の停泊地があり、陸軍の駐屯地があり、空港に同居して空軍基地があるからだ。それ以外はまったくもって国内の地方都市の風景と変わらない。任務から帰還した翌日、私はこの落差にいつも戸惑うのだ。そして、この戸惑いを経験しなければ、私は私に戻れない。

 海外旅行から帰ってくると、自分の国の風景に違和感を抱くという。私はそれほどの長期間、旅行をしたことがないのでよくわからない。この話をしたのは丹野(たんの)美(み)春(はる)だ。電車を待ちながら思い出す。日常で経験した記憶は、非日常の世界より、こうした日常世界へ帰還してからのほうが思い出しやすい。

(あのね、話す言葉から、まず変な感じがするの)

 あれは南沢教授の研究室だったか、いや、学生食堂だっただろうか、紀元記念公園だったろうか。このあたりが曖昧だ。それでも丹野美春の声は鮮明に思い出せる。

(きっと、頭の中には、言葉の切り替えスイッチがあるんだと思う。それまでは湾口域(わんこういき)の言葉で考えていたのに、いきなり空港のゲートを出るとね、こっちの言葉であふれかえっているでしょう)

 停留所の私。思い出しながら、周りを見る。プラタナス並木。石造りのビル。トロリー線。自動車。若い母親に連れられた小さな女の子。

(一瞬ね、戸惑うんだ。あ、私、何語を話したらいいのかなって)

 対向車線、カーブを曲がって、電車が来る。フランジが軋む音。私の側の電車はまだ来ない。

(すぐに思い出すんだけど、それでも何となく、向こうの言葉でも考えちゃうの。並列処理しちゃうんだね。頭が勝手に)

(そんな器用なことができるの?)

 私の声だ。私の声も同録されていたのだ。

(もちろん、無意識なんだけど。でも、空港から家に帰る途中の電車でね、もう向こうの言葉では考えなくなるの。そしてね、見えるでしょ、風景。それがぜんぜん違うの)

 風景。落ちた鉄橋。煙を上げる港。びっしり並んだ遺体。発電所、制御室、南波、上半身が消し飛んでしまった野井上。

(上杏(ジョウアン)の街って、もっとごちゃごちゃしてて、ほら、物乞いとか普通にいるのね。電波塔の下とかに。見たことあるでしょ、あの電波塔。租界があったあたり。わかるよね。あの辺、お金持ちもたくさんいるのよ。なのに、物乞いもたくさんいるの。建物も家もね、なんだか汚れてて、そういう風景に馴染んでしまってるからなのかな。帰りの電車から見える都野崎の街がね、変に見えるのよ)

 SDD-48に蜂の巣にされたヘリコプター。ソニックブームを叩きつけて飛び去る友軍の戦闘機。黒煙がにじむ夕焼け空。言葉を話さない敵の兵士たち。

(身構えなくても平気なのにね。カバンとか、気がついたらしっかり抱きしめてたりして。それもね、北三番街の駅を出たら、すっかり忘れちゃうのよ。都野崎には物乞いなんていないし、すごいお金持ちもいないし。果物屋さんでリンゴを買ったり、持ってるカートが重いなぁなんて考えて、家のドアを開けたら、忘れちゃうのよ)

 丹野美春のおっとりした口調と、京訛りが耳の奥で再生され続ける。

(風景が違うって、そんなに気がつくものなの?)

 私の声だ。

(ううん、すぐに戻っちゃう。意識していないと、分からないかも。でも、空港を出て電車に乗っていると、ここは上杏じゃないんだ、都野崎に帰ってきたんだなぁって、はっきりわかる)

 戦車部隊。小谷野大尉。保呂那川と、六四式戦闘爆撃機。ああ、この音は、GBU-8自己鍛造爆弾が空気を切り裂く音だ……。私の頭が混戦気味だ。

(適応っていうのかな。きっと人の脳って、そういうふうにできてるのね。今まで普通だと思ってた風景も、別の街に長くいると、普通じゃなくなるって。でもそれも、元の場所に戻ってくれば……)

 それが馴染みの場所であればあるほど、元の適応性が発揮されて、違和感もすぐに霧散する。そうなのか? 丹野美春はそう言っていた。

 レールが軋む。顔を上げる。電車が来る。私は回想のスイッチを切る。丹野美春の声が途切れた。途端に私は、初夏の高泊の街に戻される。私の日常はいくつあるのだ? 機能までの日常は、やはり地続きでここにあるのだろうか。

(でもヘリコプターで帰ってきたからな。地続きじゃないね。空を飛んできたわけだからな)

 南波の声が聞こえた。なぜ? 南波はそんなことを言わなかった、と思う。これは私の脳の創作だ。

 南波なら言いそうなこと。

 私が感じたことを、私自身の声で言わず、南波の声が代読した。

 昨日。

 帝国空軍豊滝前線基地から北洋訛りのきつい砺波(となみ)大尉の操縦する七七式救難ヘリコプターは、高度千メートル程まで上昇し、滑るように高泊駐屯地に到着した。南波は終始無言だった。疲れていたのかもしれない。私もしゃべらなかったし、砺波は副操縦士(コーパイ)や管制と最小限話すだけで、私たちには一言も話しかけてこなかった。スライドドアは閉じていて、ターボシャフトエンジンの音、ローターが空気を切る音はそれでもやかましかったが、私は南波に倣って目を閉じて機体に身を委ねたのだった。

 私は停留所でそっと目を閉じ、大きく息を吸い、吐く。ため息じゃない、深呼吸。

 電車が耳障りなブレーキ音を甲高く鳴らし、停車する。電車を待っていたのは私を含めて四人だけ。乗り込むと、車内には同じ数の四人が、位置もバラバラに座っていた。

(姉さん、悪い癖だな)

 また南波。これは本当に言われたことがあるかもしれない。けれど場所も日時も特定できない。南波が私の視線をたしなめた台詞だろう。室内にいる人間の数と位置、それを入室した瞬間に把握する癖。……悪い癖かどうかは知らない。生き残る術だ。五五派遣隊で教育された。部隊配属前の地獄の訓練の過程でだ。けれどここは戦線から離れた高泊で、窓際の座席に座ったところで狙撃される心配などない。秩序が維持された市街地で狙われる道理がなかった。

 電車はさらに市街地を離れていく。進行方向向かって右手にシェルコヴニコフ海を望みながら、周りからは背の高い建物が消えていく。勾配の緩やかな坂道を、道路と軌道と電車は上っていく。いくつもの停留所を通過し、いくつかの停留所で停車し、そのたび、車内の乗客が入れ替わる。けれど、満席になることはなかった。車内は陽射しにあふれている。なんの躊躇を考えることもなく、陽向に立ち、風景を望む。遮蔽物を考慮する必要もなけれは、だいたい私の両手はいまフリーだ。

 電車に揺られ始めて二十分ほど。ようやく私の目的地が近づく。電車が速度を落とし始めて、私は席をそっと立ち、電車が止まると、携帯電子端末(ターミナルパッド)を運転台横のカードリーダーにかざす。非接触型のリーダーだ。開いたドアから、背の低い停留所に降り立つ。降りた客は私だけだった。電車は溜息を漏らしてブレーキを解除し、モーターを唸らせてさらに郊外へと走っていく。

電停から二ブロックほど行くと、角に黄色い壁と緑の屋根の小さな店がある。花屋だ。店頭には初夏の野花が数種類飾られていた。私は一方的に馴染みになってしまった店員に、いくつかを指さして、こぢんまりとした花束を作ってもらった。剪定してもらう間、私は店内を眺めるのだ。小さな店。地域の店。けれど生きている店。きっと発電所の傍の町にも、あの鉄橋を見上げる縫高町の商店街にも、こんな花屋があったに違いない。人がいなくなった町は、建物が破壊されず残っていたとしても生きていない。町は人がいて初めて「生きている」と言えるのだ。だからきっと、建物が破壊され黒煙を上げ瓦礫の山になっていても、そこに住民がいればその町は「生きている」。私はそう感じる。

 店員が笑顔を向けてくる。

「できました。こんな感じでよろしい?」

 笑顔だ。私と同じくらいの年格好で、エプロン姿がよく似合っている。髪の毛は淡い栗色で、ポニーテールがよく似合っていた。私の髪は肩に届くか届かないかの長さだ。長すぎる髪は職業上支障が多い。ろくに手入れもできないから、本当はもっと短くてもいいと考えていた。けれど、私の中のどこかがそれを拒絶していた。今日は「戦士」ではない私の出番の日。「外」へ出撃する前、迷彩柄のドーランを顔に塗りたくる変わり、いつ購入したのか思い出せなくなった化粧道具を引き出しから取り出し、高等課のころに買った小さな手鏡をデスクの上に立ててメイクした。迷彩パターンを塗るなら手際よくできるのに、化粧をするとなると三十分でも時間が足りなかった。誰と会うわけでもないのに。

「ありがとう」

 私もなんとなく笑ってみた。南波を連れてくればよかったかもしれない。彼は笑うことに関しては、自然な振る舞いができるのだ。そして私に言うに違いない。姉さん、その顔はないぜ、と。ただ、と思う。南波のあの表情は彼の標準装備なのだろうかと。戦闘中のストレスがもたらす一種の防衛反応だったとしたら。けれど、寡黙で無表情な南波少尉など想像もつかなかった。

「ありがとうございました」

 今日でこの店は何度目だろう。いつも彼女の挨拶は気持ちよかった。南波も文句が出ないだろう。

 店の横の路地はそのまま一本道で、なだらかな丘陵へ続く。木製の電柱と街灯が一定間隔で並び、道の両側から住宅が切れると、何もない草原になる。気まぐれに立つ針葉樹と、右手に広がるのは海だ。ミントの香りが漂ってきそうなほどに淡い色の海原。視程がよく利く。軍事作戦上はあまりありがたくない天気。日常を過ごすには絶好の天気。海岸線の手前には旧市街が見渡せる。しばらく歩くとやがてコンクリート製の門が見えてくる。

 墓地。

 私はひとつの任務が終了すると、丹野美春が言うところのスイッチを入れるために、ここへ来る。ただの個人的なイベントで、深い意味はなかった。こうすることで、私は日常生活に戻してもらうのだ。このイベントについては、南波にも言っていなかった。彼はきっと、私のこの行動が理解できないだろう。この無意味かつ非効率的で、非論理的な私の行為を。

 おそらく、私はこの場所が好きなのだ。シェルコヴニコフ海を望み、街が見え、しかし喧燥からはほど遠いこの場所が。

 花束。初夏の野花が薫った。

 誰か、特定の墓標を訪れるわけではなかった。墓地の中心地に、ひときわ大きな墓石がある。墓地全体を統べる墓標。すべての亡き人たちを鎮めるため、弔うための墓標。私にはそれが、この街全体を鎮めているようにも思えたのだ。私は静かに、そっと、墓石の前に花束を置く。この墓標にはいつも花や供物が絶えなかった。

 私には特定の神はいない。教義もない。信仰があるかと聞かれたら、ないと答える。ここで花束を供えて、目を閉じ、頭を垂れることに意味はないかもしれない。しかし、経典はなくても祈ることはできた。私の言葉でだ。

 私は多くの命を奪う側の人間だ。

 死の恐怖を敵は思う存分私に与えるが、作戦が終わりここにこうして立っている私は、その恐怖をはねのけて、私や私たちを狙う敵の命を奪ってきた。だから戻ってこられたのだ。墓地で、この墓標に、そっと頭を垂れること、それは私なりの弔いのつもりだった。私が躊躇いもなくトリガーを引いた先に、友人になれたかもしれない誰かがいたのではないか。いや、きっといた。この世のものとも思えないGBU-8自己鍛造爆弾の叫びを聞きながら、粉々にされた敵の中にも、話をすれば、わかり合えた誰かが……。

 海から吹き抜ける風に頬を張られ、私は顔を上げる。

 南波には絶対言えない。彼は私のこのような無意味な慟哭を理解できないし、して欲しいとも思わない。花束を見下ろして、私は思う。

 振り返る。

 墓標の傍に、一本の広葉樹が立っていた。ハルニレの木だ。今、眼前のハルニレはまだ若葉が芽吹いたばかりで、枝を透かして真っ青な空が見えた。見上げると、飛行機雲(コントレイル)が二筋、北へ向かって伸びていくところだ。雲の先端に、小さく機影が見えた。私の脳が、視線入力でサブウィンドウを開き戦闘情報を確認しようと試みる。条件反射だ。CIDSを操作しようとする私の脳のふるまいを、そのまま気付かないふりを決め込み、私はまた海を眺める。脅威判定などありはしない。周囲三〇〇キロに敵部隊の姿はないのだから。

 海上はさほど風が強くないのか、波頭は見えず、おだやかに凪いでいる。視線を港に向けてみる。民間の船より、圧倒的に軍用艦が目立つ。本来あの鼠色は迷彩色のはずだが、こうした市街地や民間の船に混じると、やたらに目立っている。あれは、第四艦隊……北方艦隊の重巡洋艦に、その奥はミサイル駆逐艦だろう。空母や戦艦の姿が見えないのは、彼らが未だ北の海で作戦行動中だからだろう。

 私たちにもまた次の任務が与えられていた。作戦に関する詳細なプリブリーフィングは三日後に行われる。そこから必要な装備の調達と、最低限度の訓練。一週間後にはふたたび北へ向かう。次回作戦ではチームも再編成される。リーダーは変わらず南波だ。南波少尉、入地准尉、蓮見(はすみ)准尉、桐生(きりゅう)准尉。蓮見とは『センターライト降下作戦』から一緒になった。桐生は他チームからの移籍組。少尉のほか全員が准尉という編成は、一般部隊から考えると奇異かもしれないが、五五派遣隊の大部分は准尉以上の階級だ。というより、チームリーダーを少尉として、他を准尉が固めるケースがほとんどだ。パイロットが全員少尉以上の将校なのと意味合いは近い。それだけ兵士としてのエリートが集められているのだ。

 リストに並んだ私たちの名をじっと見た。すると文字が意味をなさなくなってくる。南波と書かれた文字と、あの軽薄な彼の顔が繋がらなくなるのだ。入地とは何者か、蓮見の姿、桐生の声。字面だけをじっと見ていると、偏も旁もすべてがバラバラになる。それを「形態(ゲシュタルト)崩壊」と呼ぶのだと教えられた記憶があったが、それを私に言ったのが南沢教授だったか丹野美春だったのか、記憶が曖昧になっていた。

 どちらにしろ、私はまた赴く。

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