トモの世界

白石怜

第1話

一、



 私は壁にもたれて、桜の花を思い浮かべていた。

 それは学生時代眺めた夜桜の風景だった。いま思い浮かべる風景としてはあまりに場違いだと思ったが、同時に、イメージしている風景をたとえば一枚の絵にしたとき、そのすべての印象を言葉で説明するにはどうしたらいいだろうなどと考えたりした。目を閉じる必要もなく、私の脳裏には明確な映像として、記念公園の池に映る高層建築の夜景とライトアップされた夜桜が浮かぶのだけれど、それを傍らで警戒の姿勢を取り続けている南波(なんば)少尉に百パーセント正確に伝えるのは無理だろうなと思った。そう、私たちは映像を言語に置き換えて第三者に説明するすべを持たない。

 友軍部隊の射撃音が聞こえなくなって、半日。敵に占拠された発電所奪還作戦のため、北方戦域の最前線に空挺降下して一週間。暦はすでに六月。だが北洋州の北の果て、北方会議同盟(ルーシ)連邦とわが帝国が国境を接する北緯五十度に近いこの地域で、吹きつけてくる風は冷たい。

 敵に包囲され、私たちは病院と思われる建物に逃げ込んでいた。上空をカバーしていた戦闘ヘリコプターは撃墜され、もはや味方と呼べるのは、部屋の隅で背を丸め、装備品の再チェックをかけている南波少尉だけに。南波は落ち着いて見えた。私ももちろん平静だ。二人ともそういう訓練と調律(チューニング)を受けているのだ。

「『言葉』に必ずしも『音』は必要ないんだよな」

 私が何気なく言うと、南波は反対側へ低い姿勢のまま歩いて行った。興味などない、何も話すべきことはない、そう背中が語っているように見えた。南波は大腿部のホルスターに挿した帝国陸軍の制式拳銃メルクア・ポラリスMG-7A 九ミリ口径セミオートマティックに右手を添えたまま、ゆっくりと歩いて行く。

「少尉、迎えはまだ来ないのかな」

 私が言葉を投げつける。

「入地(いりち)准尉……。危なくて誰も来ないよ」

南波少尉のヘルメットに装着してある戦闘情報表示システム(CIDS)によれば、こちら現地の敵脅威判定レベルは三。判定レベルは五段階あり、敵味方で銃弾が飛び交う戦場のど真ん中が最高の五。戦闘状態にない平時をゼロと判断するので、レベル三は交戦中を意味する。危険すぎて丸腰に近い汎用ヘリを呼ぶなど不可能だ。

「航空優勢は確保しているはずだったのに……」

「空はな。地面は違う。だから、近接航空支援(CAS)を要請するんだ、これからな」

 南波は疲れを見せない。

「少尉……南波、さっきの話なんだけど」

 私が言うと、南波は面倒そうに首を一度振り、しかしこう言った。

「『言葉』に『音』が必要かどうかって話か」

「ああ」

 私はヘッツァー4716自動小銃のグリップに触れながら返事をする。

「よし……空軍の支援戦闘機が近接航空支援をやってくれる。そのすきにここを出る」

 南波が低く言う。双眼タイプの時代遅れの暗視装置のような形をしたものがヘルメットにアタッチメントを介して取り付けられている。南波はそれを降ろした状態で言った。それは東洋電機工業製九六式LLRR-五二五-KLS戦闘情報表示システム、いわゆるCIDSと呼ばれる装置で、陸海空全軍の兵士の必需品と云えた。CIDSは誰が呼び始めたか「シーディス」と発音する。本当にそう読めるかどうかは別して。基本的に兵士全員が装備し、部隊によって機能や形が違う。歩兵に限らず、戦車兵もヘリコプターの射撃手(ガナー)や戦闘機パイロットも使用する。

「八九式支援戦闘機がいつ来るって?」

「二〇分もあれば飛んでくるさ」

 戦闘空中哨戒中の八九式支援戦闘機が来るというのだ。双発軽量のターボファンエンジンを装備し、五トンを超える兵器搭載力(ペイロード)がある。地上制圧用の自己鍛造爆弾GBU-8は、全地球測位システム(GPS)と、あらかじめ投下母機にプログラムされた地形データ、そして衛星リンクで送られる目標そのものの画像データを見て、判断し、自分の形を適切に変化させて目標に突入するお利口(スマート)だがかわいそうな兵器だ。八九式支援戦闘機の最小行動単位は二機。作戦時は最低四機の一フライトでやってくる。対空戦闘を担う八一式要撃戦闘機を護衛につけて。

「さっきの質問に答えていないな」

 私が言うと、南波が手招きする。しかし私は不用意に窓に近づかない。狙撃を恐れているのだ。空沼川が見渡せるが、縫高町鉄道橋は落ちずにそのまま残っている。距離、八〇〇メートル少々。もし五〇口径の対物(アンチマテリアル)ライフルで狙われたら、ひとたまりもない。

「言葉がどうしたって?」

 南波がぶっきらぼうに言う。

「収斂進化は、わかるよな?」

 私がなんとなく言う。

「わかる」

 南波が投げやりに答える。

「答えてみろ」

 私が問う。南波はさらに投げやりに答える。

「目的が同じだと、別系統の祖先を持っていても、似たような形になるって話だろう。敵の戦闘機とこっちの戦闘機の最新型はどっちも似たような形をしているからな」

「そんなところだね」

「何でそんなことを訊く」

 言いながらも南波は鉄道橋、そしてその右手に広がる港、船底を見せている駆逐艦からそのさらに右手、黒煙がわずかに上る重油タンク、高速道路のランプウェイ、そして巨大な主塔がそびえる吊り橋まで、抜け目ない仕草で眺めるのだ。衛星からのリンクは途切れず、南波のCIDSに繋がっている。空の目で地上を見る。その気になれば壁の向こう側も見える。

「学生時代を思い出していたんだ」

「あんた帝大卒だもんな。さすがはエリート」

「……担当の教授が言ってたよ。人類は、文字より先に言語を発明した。だから、人類文明に文字は必ずしも必要ない。それが証拠に、文字を持たない民族がいくつも存在している。では、その逆はあり得るかって」

 私は銃のグリップに右手を添えている。いつでも発砲できる体勢ではあるのだが、策敵や照準のお助け便利アイテムである私のCIDSは三日前、発電所奪還戦で敵の狙撃銃にぶち抜かれ失われた。頭までぶち抜かれなかったのは奇跡だった。

「それで、」

 南波が先を進めろと促す。彼は彼で持っていた4716自動小銃を空沼川の支流、勅使尾(てしお)川に沈めてしまった。だから南波の予備弾倉はすべて、私が預かった。結果、私は彼を守る義務を負う。彼は私を誘導する義務を負う。個人対個人の安全相互条約だ。

「必ずしも人類に音声化された言語は必要なのか、と」

「紙に書いてくれ。言われただけじゃ俺には理解できん」

 帝国の経済と政治の首都・都野崎(とのさき)市の中心部。広いキャンパスを望む大学の教室で、私は教授からその話を聞いた。都野崎は北方戦域から海峡を二つ隔てて二〇〇〇キロ。戦域からかなり遠かったから、街は平和だった。

「とりあえず、近接航空支援までの暇つぶしだよ。……言葉が先か文字が先か」

「よくわからん」

「文字と音声を処理する脳の領域は違うんだそうだ」

「それくらいなら聞いたことがある」

 私は南波の背中に自分の背をつける。これで三六〇度、ほぼ死角はなくなる。壁の向こうは南波がCIDSで監視する。壁のこちら側は、私が肉眼で監視する。我々二人の反射速度は、野生動物のそれすら上回る。そういう訓練を受け、身体そのものにも電子的、有機的、あらゆる調律を施されている。陸軍の医官たちによって。

「でもだ。文字だけの言葉なんてあり得るのかよ。ようするに言葉としてしゃべる必要がない言語はあり得るかって話だろう」

「そういうこと。イリアン諸島のハルマヘラ族の話をしてやるよ」

「なんだって?」

「とある島に住んでるとある先住民の話だ」

 寒い。あと数十分で日が暮れる。まもなく夏を迎えるとはいえ、北極圏に近いシェルコヴニコフ海から吹き出る空気は冷たい。

「ハルマヘラ族は、感嘆詞以外の言語を持たない部族だと思われていた。『ああ』とか『おお』とか、赤ちゃんみたいな言葉しかしゃべらない、未開の野蛮民族だって。彼の地を旅したジョンストンって探検家にに発見されてからね。ジョンストンてわかる? 落ちぶれ貴族で冒険家で人種差別主義者だった」

「どっかの島で熱病でくたばって、自分の国に帰れなかった冒険家だか何だかだろう。小さい頃本で読んだよ」

「イリアン諸島はちょうど航海の中継地にぴったりだったから、船乗りたちが大挙して押しかけた」

 難波は返事をしない。CIDSを装備した顔面上半分は表情がわからない。うっすらと無精髭が伸びていたが、それでも清潔な雰囲気を漂わすこの男は、まったく不思議な安心感を与えてくれる。たった一丁の自動小銃と二丁の拳銃しかないのに、強力な武器を持っているような気分になる。

「イリアン諸島で船乗りたちはあることに気づいたんだ。原住民のハルマヘラ族が、二音節以上の単語を話さないことにさ」

 船乗りたちが意思疎通を図ろうとしても、何年かかっても彼らの言語を理解できなかった。ハルマヘラ族は合図のような音声しか発しなかったからだ。仕方なく、船乗りたちは、土や木箱や紙の上に絵を描いた。それでなんとか「会話」を行った。

「絵を描いたってことは、文字は理解できたってことにもなるのかな」

「まだその話はあとなんだ」

 日が暮れていく。

「近接航空支援までは?」

 とりあえず訊いてみる。

「あと一〇分」

「間違いなく?」

「俺は表示を見ているだけだ」

「脅威判定レベルは?」

「三から下がらない」

「退屈になってきた」

 南波が言う。望むところだ。

「ウルリッヒ・グリマーっていう地質学者が、イリアン諸島を訪れたのが、けっこう最近の話。グリマーはその頃イリアン諸島に赴任した。そして、ハルマヘラ族に出会うことになったわけだ」

「それまでに島を牛耳っていた連中とは別の国の軍隊だな」

「そう。そして、グリマーはそれまでの連中とはちょっと違い、言葉に興味を持ったわけだ。そして、グリマー博士は驚いたわけだよ。そして見つけたわけだ。彼らの文字を」

「文字を」

「そう、文字だ」

 彼らは文字を持っていた。ジョンストン以来の船乗りたちが、筆談に近い形で会話をしたのは、実は理にかなっていた。ただし、彼らハルマヘラ族の文字は、その大部分が発音することができないという事実だった。

「発音できない?」

「そう。文字は存在するが、発音できないんだそうだ。『文字』数は数千を超えることがわかったんだけれど、そのほとんどに音が割り振られていなかったんだよ」

「どういうことだ?」

「発音できないのさ」

「そんな文字があるのか?」

「あったのさ。イリアン諸島に」

「ちょっと待ってくれ。それはようするに、文字があるのに話せないということか?」

「そういうことらしい。ハルマヘラ族の文字は、それが文章と呼べるほどに文法もあり、かなり多種多彩な言語であることがグリマーの研究でわかったんだけれど、ハルマヘラの彼らにいくら聞いても、文字を指さすだけで声を出してくれない。音声が存在しないんだ。視覚だけでしか機能できない言語だったんだ。ようするに、文字に対して音が割り当てられていなかったんだね」

「初めて聞いた」

「南波、お前には子どもは、いないよな」

「結婚もしてないからな。馬鹿にしてるのか。お前も独身のくせに」

「そんなつもりじゃない。妹がいたよな。歳の離れた」

「ああ。いる」

「言葉をしゃべるようになったのはいつ頃だ」

「二歳頃だ」

「それまでは、どうしてた。かわいい妹とのコミュニケーションは」

「取れてたさ。ああだこうだと声を出すからな」

「ようするにそういうことだ」

 私が言うと、南波は理解したのか、黙った。

「しゃべる必要がないってことか? 言葉を」

「昔の船乗りは、島で彼らとコミュニケーションできていた。絵を描いてね」

「本当かよ」

「事実お前は妹と文章なしの会話を成立させたんだろう? 腹が減った、トイレに行きたい、のどが渇いた、痛い、かゆい、寂しい、遊びたい、嬉しい。それらに複雑な文法が必要か?」

「うむ」

「ハルマヘラの発声はそれだけなんだ。必要最低限なことは、簡単な、ものすごく簡素化された音声で取る。そして、複雑なコミュニケーションは、文字で取る」

「しかし、文字に音がないなんてこと、あるか」

「お前、絵は描けるよな」

「馬鹿にしてるのか」

「してない。たとえの話だ。お前、よく落書きをしてるじゃないか」

「ああ」

「音にしてみろ。お前の絵を」

 私が言うと、また南波は絶句した。

「索敵、大丈夫か」

 思わず言うと、小さく頷いた。

「絵を、音声化できるか」

「……できない」

「そういうことだ。一枚の絵には、きちんと意味があるわけだ。長々と文章を書くよりも、明確にイメージが伝わるときもある」

「その、ハルマヘラの言語は、絵と同じだって言うのか」

「極端ないい方だが、そういうことなんだよ。グリマーが導き出した結論は、そういうことなんだ」

「そんなことがあり得るのか」

「画家は、異文化、異言語であっても、絵を描くことで通じ合えるそうだからな」

「信じられないな」

「信じられないことがふつうにあるのが、この世界だっていうことを、私はなんとなく言いたかったんだ。以上、終わり」

 日が、暮れた。

 数瞬、私と南波のあいだに沈黙が挟まった。

 空沼川が流れる音が聞こえた。ゆっくりと。水深があるため、外洋から艦艇がそのまま入ってこられる。だから、縫高町鉄道橋も区間高速の吊り橋も、通過する船の最低高に合わせてある。重巡洋艦だって入港できる。港を再建すればの話だ。

「……来るぞ」

 南波が低く言い、窓から離れた。

「八九式が来る」

 南波のCIDSには彼らがすでに見えているだろう。そして、パイロットからはすでに我々が見えているはずだ。私たちの体内にはパーソナルマーカーが埋め込まれているからだ。

「伏せろ。というか、遮蔽物の影へ」

 南波が言う。階級は南波が上。年齢は私が上。不思議な関係。

「もっと奥だ……女の子は下がってな」

 南波が数時間ぶりにCIDSを上げ、瞳を見せた。ギラギラしていた。私は南波に言われるまま、数メートル下がり、コンクリートの壁に身を隠した。

「目標を指示する」

 南波はそう言って、私の自動小銃を構え、目標物にそれぞれマーキングを行っている。目標をCIDSとリンクした光学照準器にとらえて、ロック・オンさせると引き金を引く。誘導弾の目標指示に使用するイルミネーターモードに切り替えているので、弾薬を撃発させるシアは落ちない。破壊すべき目標の位置や形状を上空の戦闘機に送る。パイロットは考える必要はない。シュートキューに従って、機体を制御、操縦桿のレリーズを引けばいい。八九式支援戦闘機は急速に接近しているはずだが、爆音はまったく聞こえない。超音速巡航(スーパークルーズ)をしているからだ。

「来た。姉さん(・・・)、目、閉じて耳ふさいで口開けてるか!」

叩きつけるような爆音が響き渡る。まるで野戦砲の砲撃のような音。超音速機が上空を通過するときの独特の衝撃波。間髪をいれずにすさまじい閃光が目を閉じているのにはっきりと見える。そして爆発。私たちが避難した元病院の建物が揺さぶられる。無数の爆発が身体を突きあげるように響き渡り、それに混じって甲高い金属音のような嫌な音がふさいだ耳を打つ。八九式支援戦闘機が投下した自己鍛造爆弾GBU-8が目標に殺到するときの残響だ。弾頭自体も超音速(スーパーソニック)だから、命中してから飛翔音が聞こえる仕掛けだ。目を開いていれば、四機の八九式支援戦闘機が投下した自己鍛造爆弾GBU-8が、寸胴の弾体の側面を急に広げ、空中で無数の子爆弾を分離するさまが見えただろう。分離した無数の子爆弾は安定板を展開、その瞬間、町は壮絶な、まさに断末魔の叫び声に包まれる。この叫びは「癇癪娘」とも呼ばれ、敵の市民や兵士、さらには友軍の兵士たちからも忌み嫌われていると聞く。

「姉さん、無事か!? 生きてるか!?」

 私は返事をせず、目を閉じて、しかし、身体に響いてくる爆発音を、その瞬間に喪われるであろう数十の兵士たちの命を、ほんの少しだけ哀れんだ。

 いくつの言葉が散っただろう。そう思って、それを弔いにした。

 いつか私が弔われるのだろうか。

 でも、私はこんな場所では、死なないことにしていた。なぜならここは、天国の入口ではないから。私が北方戦域に赴くきっかけになったイメージが、不意に私の閉じた瞼の裏によぎる。一面の白い綿毛のような花を揺らす、北洋州の初夏の湿原の光景が。

 引き続き爆音。

 巨大な生き物が死にかけて悲鳴をあげているような声は、あの大きな鉄橋が落ちる音だろう。

 爆音。

 それはただの音で、意思も何も感じない。だから私にはそれらの爆音は言葉には聞こえなかった。

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