[5] 新たな戦争

 スターリングラードにおける市街戦は市民生活に集約される、新しい形の戦争だった。ソ連軍の従軍記者であるグロスマンは次のように記した。

「瓦礫が散乱する崩れかけた部屋や廊下で戦闘があった。こちらの家はロシア兵が乗っ取り、あちらの家はドイツ軍に乗っ取られている」

 ドイツ軍の歩兵は家から家への戦闘を嫌がった。通常の境界線や範囲を超えた接近戦が心理的な混乱を招くことが分かったからである。破壊された建物や掩蔽壕、地下室、下水道での接近戦を彼らは野蛮な親しみを込めて、「鼠たちの戦争ラッテンクリーク」と命名した。指揮官たちは急速に戦況を把握できなくなっていると感じた。第11軍団長シュトレッカー大将は友人に対し、このように書き送った。

「敵は眼に見えない。地下室、崩れた壁の影、掩蔽壕、工場跡に待ち伏せて攻撃してくるので、我が方の損害は甚大だ」

 優れた電撃戦の利点を生かせず、ドイツ軍の兵士たちは色々な面で第1次世界大戦の手法に逆戻りさせられた。それは10名の兵からなる急襲部隊による戦法で、機関銃や火炎放射器で武装した「突撃工兵ピオニール」を運用して掩蔽壕や地下室、下水道を掃討するというものだった。第14装甲軍団長ヴィッテルスハイム大将はこうした用兵に異論を唱えたが、ヒトラーの逆鱗に触れ、市街地突入翌日の9月14日に解任された。

 チュイコフはドイツ軍の大規模襲撃を「防波堤」で分散、分断させる計画を立てた。補強した建物に対戦車ライフルと機関銃を持つ兵士を配置しておいて、攻撃してくる敵を通路に追い込む。そこでは、背後の瓦礫に半ば埋まってカモフラージュされているT34と火砲が待ち受けていた。

 ドイツ軍の指揮官たちはソ連軍のカモフラージュ技術を率直に認めたが、ソ連軍の守備隊にとって理想的な条件を造り出していたのがドイツ空軍機だと認める者はほとんどいなかった。ある中尉が故郷に宛てた手紙の一節である。

「建っている家は一軒もありません。あるのは一面の焼け野原です。通り抜けられない瓦礫の荒野です」

 より一般的な戦術は、ドイツ軍に予備兵力が足りないことを利用して発展した。チュイコフは夜襲を積極的に行うよう命じる。実際には夜襲であれば敵の空軍が反撃できないという現実的な理由からだが、ドイツ兵は昼より夜間の攻撃を恐れて疲れ果てるはずだと考えていた。

 ドイツ軍の兵士たちはとりわけ第284狙撃師団に所属するシベリア兵を特に恐れるようになった。夜間に動くものを感じれば引き金をひかずにいられず、同じように緊張している歩哨たちが戦闘区域全体で一斉に発砲するという事態がたびたびあった。そのため、9月の1か月だけで2万5000発もの弾薬が消費された。

 さらにソ連軍は敵に緊張を強いらせるため、時おり夜空に照明弾を打ち上げた。あたかも即座に攻撃をするかという印象を前線のドイツ兵に与えた。こうした戦術が及ぼす心理的影響は、かなりのものだった。

 機動作戦が身動きの取れない絶滅戦争に変わった途端、9月の心的要因による損耗率は急激に高まり始めた。ドイツの医学専門家はもっぱら「極度の疲労」という婉曲な表現を使った。ドイツ軍はストレス症状の存在を認めなかった。ヒトラーが政権を取る7年前の1926年、戦争ノイローゼは疾病ではないとされたからである。

 この規定は奇妙なことに、赤軍の見解と見事に一致している。戦闘ショックによって生じたストレス性の疾病は病気ではないのだから、戦線を離れる理由にはならない。神経衰弱は臆病と分類され、死罪に値かねない。

 危険な夢想家だったヒトラーは、スターリングラードがドイツの卓越した国力を証明する厳しい試練の場となるだろうという幻想を懐いていた。一方、ソ連軍の古参の将兵はこのような言葉を残している。

「我々ロシア人は、頭の中でスターリングラードの戦いに備えていた。何よりも我々はその代償に関して幻想を懐いていなかったし、代償を支払う覚悟があった」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る