[4] セヴァストポリ要塞の陥落

 再びセヴァストポリ要塞の攻略に専念できるようになったマンシュタインは第2次総攻撃に先立ち、手に入る限りの重砲をクリミア半島に運び込ませた。

 第306上級砲兵司令部(ツッカートルト中将)の指揮下には、大小合わせて1300門の火砲が配備され、1キロ当たり52門という恐るべき密度でセヴァストポリの要塞とその周辺に照準を合わせていた。その中でも、とりわけ不気味な威容を誇っていたのが「ガンマ(口径427ミリ)」「カール(口径615ミリ)」「グスタフ(口径800ミリ)」と名付けられた3門の列車砲だった。

 要塞に立てこもる独立沿海軍(ペトロフ少将)はこの時点で狙撃師団7個、狙撃旅団3個、独立戦車大隊2個を中心に10万6000人の将兵を擁していた。

 要塞を守る強力な堡塁が随所に置かれた第2防衛線の南北では、第11軍が《マキシム・ゴーリキー》と呼んだ305ミリ連装砲台が配備されていた。41年11月には巡洋艦「チェルヴォナ・ウクライナ」から取り外された130ミリ砲台が転用され、新たに6か所の重砲台が設置された。この措置により、口径100ミリ以上の火砲は44門に達した。しかし第11軍が集めた重火砲群には完全に見劣りしていた。

 6月3日未明、第2次セヴァストポリ総攻撃が開始された。第306上級砲兵司令部の重火砲群が一斉に火を吹き、5日間に渡って凄まじい砲弾の雨を降らせた。ヒトラーは第11軍の攻撃支援のために、第4航空艦隊から第8航空軍団(リヒトホーフェン上級大将)を派遣した。第8航空軍団は1日延べ1000~2000機の頻度で要塞とその周辺施設に爆撃を行った。

 6月7日午前3時15分、第54軍団の4個歩兵師団(第22・第24・第50・第132)が北部のベルベク渓谷から、第30軍団は南東のサプン丘陵からそれぞれ独立沿海軍の陣地に襲いかかった。縦深陣地に立てこもる独立沿海軍は砲台からの支援砲撃を受けながら、必死の抵抗を続けた。

 6月12日まで第11軍と独立沿海軍は炎天下の中、砲台が立ち並ぶ北部の防衛線を巡って死闘を繰り広げた。戦場にはすさまじい悪臭が立ちこめ、ハエの大群が無数の死体にたかっていた。第11軍の旗色は良くなかった。損害は日ましに増え、弾薬も不足し始め、戦闘中止を強いられることもしばしばあった。増援が来るまで攻撃を中止すべきだという指揮官もいたが、マンシュタインは増援を当てにすることは出来なかった。

 6月17日、第132歩兵師団を苦しめ続けていた《マキシム・ゴーリキーⅠ》砲台がベルベク渓谷に据えられた355ミリの重臼砲から放たれた重さ1トンの特殊レヒリング榴弾の直撃を受けて沈黙した。サプン丘陵一帯の陣地も1平方メートル当たり1・5トンの砲弾を落とされて壊滅し、その周辺に散在する拠点も次々と第11軍によって占領された。

 6月19日、第22歩兵師団がセヴァストポリ要塞を守る最後の障害であるセヴェルナヤ湾に到達した。

 6月20日、第24歩兵師団はコンスタンチノフスキー砲台をようやく制圧することに成功した。この制圧により、要塞周辺の砲台はすべて第11軍によって占領された。

 6月26日の夜、モスクワの「最高司令部」はセヴァストポリの窮地を救うため、海路によって2個狙撃旅団(第138・第142)を派遣した。制空権を完全に奪われた状況では、これ以上の兵力を海上から要塞内に輸送することは不可能だった。補給物資は敵の空襲を避けるため、潜水艦で運搬された。しかしその量はほとんど気休めにしか過ぎなかった。

 6月30日、セヴァストポリ防衛司令官オクチャブリスキー提督は、独立沿海軍司令官ペトロフ少将とともに快速艇でセヴァストポリから脱出した。その4日後、最後のソ連兵がヘルソネス岬で銃を捨てて降伏した。

 エカチェリーナ二世によって1738年に「偉大なる都市」と命名されたセヴァストポリ要塞はついに陥落したのである。

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