[3] ケルチ半島の奪回

 東部戦線の最南端にあたるクリミア半島では、1941年12月26日にザカフカス正面軍(コズロフ中将)がモスクワ前面における総反攻と時を同じくしてクリミア半島から東に延びるケルチ半島に強行上陸を行った。そして、ケルチ半島から第11軍の一部を駆逐することに成功した。

 この情勢を受けて、第11軍司令官マンシュタイン上級大将はセヴァストポリ要塞の攻略作戦を一時中断せざるを得なくなり、ソ連軍に対する反攻作戦は泥濘期が終わるまで延期とされた。

 年が明けた1942年1月2日、モスクワの「最高司令部」はザカフカス正面軍司令官コズロフ中将から提出された攻撃計画を認可し、可能な限り早急にケルチ半島の付け根に位置するパルパチ地峡への総攻撃を開始せよと急きたてた。

 いよいよ本格的な反攻を期待されたクリミア正面軍(1月28日、ザカフカス正面軍より改称)の3個軍(第44軍・第47軍・第51軍)だったが、党から派遣された軍事会議員の干渉などにより攻勢準備は遅々として進まなかった。度重なる延期の末、クリミア正面軍は2月27日になってようやく総攻撃を開始した。しかしこの反攻はことごとく失敗に終わり、4月4日を最後に何の戦果も得られぬまま頓挫してしまった。

 マンシュタインは第46歩兵師団の砲兵観測所に赴き、高台の上からクリミア正面軍の陣地を視察した。パルパチ地峡部におけるクリミア正面軍の前線は奇妙な線を描いていた。南部からまっすぐ北に伸びてから、北では大きく西へ突出した状態になっている。クリミア正面軍は北の突出部に予備兵力の大半を配置していた。

 敵の意表を突くべく、マンシュタインは大胆な作戦を立案した。その内容はパルパチ地峡部の北翼に総攻撃を行うと見せかけて牽制を行いつつ、第30軍団(フレッター=ピコ中将)と第22装甲師団(アペル少将)を南部から投入して戦線を突破した後、一気に敵の背後に回り込んで退路を断つというものだった。この作戦は「野雁狩りトラッペンヤークト」と名付けられた。

 5月7日の深夜、「野雁狩り」作戦が開始された。フェードシャから高射砲部隊の支援を受けながら、第30軍団の第132歩兵師団が第44軍の陣地に襲いかかった。夜が明けると、ルーマニア軍と第22歩兵師団の偵察大隊から編成されたグロテック大佐率いる装甲旅団は急造の橋を渡り、第44軍の背後を衝いた。

 5月9日、第30軍団の後方から第22装甲師団が出撃し、幾重もの防衛線を突破して北翼に回り込んだ。クリミア正面軍は戦車旅団による波状攻勢をしかけた。この日の夕方から戦場一帯に雨が降り始め、独ソ両軍とも底なしの泥濘に身動きが取れなくなってしまった。それでも第11軍の装甲部隊はクリミア正面軍の抵抗を着実に排して行った。

 5月11日、道なき道を進撃していた第22装甲師団はアク・モナイでアゾフ海に進出した。この進撃により、第47軍の背後を封鎖することに成功した。グロテック装甲旅団もフェードシャから東方へ急進してクリミア正面軍司令部のはるか後方に忽然と姿を現した。第11軍の奇襲攻撃と指揮系統の混乱が相まって、クリミア正面軍の各部隊は作戦開始からわずか10日足らずで崩壊してしまった。

 クリミア正面軍は必死に第11軍の先鋒を食い止め、ケルチ東岸に押し込められた残存部隊をモーターボートやカッター船でカフカス地方へ脱出させようとしていた。第11軍司令部は第30軍団の第170歩兵師団(ザンダース少将)に追撃を命じた。ケルチに進出した第30軍団の砲兵隊はクリミア正面軍の急造船団に猛砲撃を加え、多くの船舶を黒海に沈めた。

 5月17日、「野雁狩り」作戦は終了した。一連の戦闘でクリミア正面軍は火砲4646門、戦車498両、航空機417機、兵員15万人を失った。この報告を聞いて激怒したスターリンはコズロフを少将に降格させた上、現地に派遣していたメフリスを赤軍政治総本部長から罷免した。

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