[5] ソ連軍の春季計画

 1942年3月28日から30日にかけて、ドイツ陸軍首脳部がラステンブルクで戦略会議を開いていた時と同じくして、国家防衛委員会と「最高司令部」は春季から夏季にかけての戦略方針を検討する首脳会議をクレムリンで開いた。

 この会議には参謀総長シャポーシニコフ元帥をはじめ、西部戦域軍司令官ジューコフ上級大将、参謀本部作戦部次長ヴァシレフスキー少将、南西部戦域軍司令官ティモシェンコ元帥、南西部戦域軍参謀長バグラミヤン少将をはじめとする赤軍幹部が終結し、最高司令官であるスターリンと対独戦の戦略について話し合った。

 まず、最初にシャポーシニコフが参謀本部の構想を披露した。それによると、赤軍は当分の間、積極的防御に徹して戦力の回復を図り、戦略予備は基本的に温存する。ただし、1942年度に敵の重要な攻撃があると予想されるヴォロネジ地区には戦略予備の一部を投入して、これに対応する。

 しかし、この提案はスターリンを満足させるものではなかった。

「防戦一方で何もせず、ドイツ軍が先に攻撃してくるのをただ待ってるだけだと言うのか?我々としては、広大な戦線で一連の攻撃をしかけ、敵状を探ってみることも重要だろう。ジューコフが提案した西部正面軍の戦区で攻勢を展開し、残りの戦線で防御に徹するという案は、半ば正しいように思える」

 そして、南西戦域軍司令官ティモシェンコ元帥が彼の戦区での攻勢案を述べた。

「この地域の我が軍は現在、南西方面でドイツ軍に先制攻撃を行い、南西部および南部正面軍に対する敵の攻撃計画を台無しにできる状況にあるし、またそうすべきであります。さもなれければ、緒戦における戦いの繰り返しになることでしょう」

 ブリャンスク正面軍(ゴリコフ中将)・南西部正面軍(コステンコ中将)・南部正面軍(マリノフスキー中将)を統轄する南西部戦域軍司令部はすでに3月22日、ハリコフおよびドネツ河流域における独ソ両軍の分析とドイツ南方軍集団に対する反攻計画案を、「最高司令部」に提出していた。

 この反攻計画は、ハリコフ周辺のドイツ軍に対する挟撃作戦であった。すなわち、バラクレヤからハリコフ近郊に伸びる突出部の北翼と、スラヴィヤンスクからドニエプル河に向かう南翼で同時に攻勢を開始するというものだった。

 ティモシェンコは「両翼攻勢案」のために「最高司令部」の戦略予備を集中的に投入して、攻撃参加兵力を増強してほしいとスターリンに力説するも、スターリンは戦略予備兵力の不足を理由にティモシェンコの計画を却下した。その代わり、突出部の北翼のみで行なうハリコフ攻撃案を提案した。

 スターリンはモスクワが未だドイツ軍の第一目標であり、春の雪解けと共に機動力を回復したドイツ軍がルジェフとヴィアジマに取り囲まれた陣地を基点として、再びモスクワを攻撃するという情報を掴んでいた。しかし、これは暗号名「クレムリン」とされるドイツ軍が仕組んだ入念な欺瞞作戦に基づく偽情報だった。この偽情報を頭から信じ込んだスターリンは、モスクワの前面に戦略予備の大半を配置し、ハリコフ攻勢には南西部正面軍の兵力のみで行うよう命じた。

 4月10日、南西戦域軍司令部は「最高司令部」に南西部正面軍の3個軍(第6軍・第21軍・第28軍)と1個機動集団を主力とする挟撃作戦で、ハリコフ市を奪回するという新たな計画案を提出した。スターリンはこの改訂された攻撃案を承認し、攻撃開始日は5月4日と定められた。

 反攻の主力となるのは、ハリコフ北東に展開する第28軍(リャブイシェフ中将)と、第21軍(ゴルドフ少将)であった。突出部の北翼に第6軍(ゴロドニャンスキー中将)、そして第6騎兵軍団(ノスコフ少将)と第7戦車旅団(ユルチェンコ大佐)の混成部隊であるボブキン少将率いる機動集団が南東からハリコフに迫る。第6軍と第28軍の中間に展開する第38軍(モスカレンコ少将)が、牽制作戦を行なう予定になっていた。

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