[2] ドイツ軍の再建

 1942年の春になると、「バルバロッサ」作戦はソ連軍だけでなく、ドイツ軍にとってもきわめて壊滅的な損害を与えていたことが判明した。1942年6月27日に陸軍参謀総長ハルダー上級大将が日記に次のように記した。

「モスクワの冬が人、馬、車両に与えた打撃は甚大であり、結局、我が軍は失ったスタミナを回復しきれなかった」

 最も被害が大きかったのは、中央軍集団だった。1942年1月を迎える頃には、総兵力は定員より18万7000人も少なく、2月には実質4万人の損失が加わった。モスクワ周辺から撤退したことは、大量の装備の放棄を意味していた。中央軍集団は1942年2月の時点で対戦車砲4262門、迫撃砲5890門、重砲3361門を喪失していた。

 ドイツの経済にはこれらの損失を埋め合わせる人力も生産力も無かった。1941年12月に、新たに28万2300人が召集されて陸軍に編入された。しかしその全員が訓練を必要とし、しかもその大半は軍需工場から徴集されていた。そのため、ドイツの軍需産業は欠けた人員の補充に大きな困難を経験することになる。

 工場の労働力不足に資源の欠乏が結びつき、さらに陸海空の三軍間でずっと続いていた生産割り当てを巡る争いも手伝って、1941年12月から翌42年1月まで、ドイツの経済はほとんど停滞したままだった。ドイツが長期戦に突入してしまったことをしぶしぶ認めたヒトラーは3月、正式に経済全体を軍需に従属させる命令を下した。

 2月8日、ヒトラーは飛行機事故で死亡した軍需大臣フリッツ・トートの後任に建築家のアルベルト・シュペーアを就任させる。この人事の背景はニュルンベルクの党大会会場を建設した際のシュペーアの手腕を買ったものだった。ヒトラーの個人的な後押しもあって、シュペーアは結果としてドイツ経済の軍需生産の効率性と生産性を驚くほど向上させた。

 だが、ドイツ経済の改善には時間がかかった。現実にはモスクワにおける破局の後も、国防軍には完全な装備の補充はなされなかった。それでも装甲師団や自動車化歩兵師団、武装SSの各部隊は多くの機甲兵器を得て、戦力の大半を回復した。それに対して、歩兵師団は単に長く続いてきた苦しい戦力の喪失が、一時的に中断したに過ぎなかった。

 兵站に関していえば、1941年11月から12月にかけて、陸軍総司令部はドイツ国内と西欧の占領地から何千台ものトラックを集めたが、これらの車両の4分の3が東部戦線に到着する前に故障してしまった。こうした車両や馬の損失により、ドイツ軍の装甲部隊がほとんど舗装されていない道路で作戦する場合、本来の機動性が失われるのは止むを得ないことであった。

 しかし、ドイツ軍が失ったものは将兵や車両よりも重要なものだった。それは深刻な戦意の喪失であった。

 1942年1月の冬季戦の最中、薄い被服しかなく戦場神経症にかかり、方向を見失ったドイツ兵たちは近づいてくるソ連軍の戦車のわずかな響きにも恐慌を来すほどになっていた。生き残った古参兵たちは異国の地で過酷な際限のない戦いに晒されていることを認識していたが、脱走や降伏は不可能だった。なぜなら、お互いに人間以下とみなしている相手にかかったら、言葉に尽くしがたい壮絶な運命が待ち受けていることを分かっていたからだった。

 前線の将兵たちは次第に、自分たちが異国の地で闘わねばならぬ大義名分の本質を追及するようになった。そのような追及に応えるため、ヒトラーが取り入れたのはソ連式の政治将校とイデオロギー教育だった。上級将校らが人種主義的、イデオロギー的なナチス公式のプロパガンダを用いて、下士官らを教育するようにしたのだ。

 国防軍総司令部は1942年7月15日付けで、全ての情報将校に教育者の役割を与えるよう規則化した。こうしたイデオロギー教育に慣れてくると、ドイツ軍の兵士たちはスラブの「下等人種」に対する残虐行為にさらに力を入れるようになった。

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