第10話 氏真
永禄三年(1560年)十二月二十二日、桶狭間の合戦が起きた年末である。井伊家にとって更なる悲劇が起きた。
井伊家の実力者、
犯人は小野但馬守。殺されたといっても暗殺などではない。小野家の伝統ともいえる、今川家への讒言によるものだ。
奥山朝利といえば現当主、井伊直親の嫁である瑠璃の父親だ。
そのため、朝利は井伊家の中で小野但馬守と同等、もしくはそれ以上の発言権があった。小野但馬守にとっては目障りな存在だった。
それが今川家への讒言であっさりと殺害することに成功した。小野但馬守としても拍子抜けするほどの簡単さだっただろう。
「所詮、こんなものか」
小野但馬守が呟く。直盛が死に、奥山朝利も死んだ。次々と小野但馬守に敵になる人物が死んでいく。小野但馬守が感じたのは、達成感よりも虚無感だったのかもしれない。
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井伊直盛戦死、奥山朝利の謀殺から年が明けた永禄四年(1561年)二月九日、井伊家にとって嬉しい出来事があった。
井伊直親と瑠璃の間に子供が誕生したのだ。これが後に赤鬼と恐れられる、
井伊直盛、奥山朝利死去で悲しみにくれる井伊谷に生まれた希望の光である。
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ここで桶狭間の戦いで変化した井伊家周辺の大名を見てみよう。大きく変わったのは今川家、松平家の二家である。
ここに織田家が入っていないのは、桶狭間の戦いは織田家にとっては防衛戦であり、勝利したとしても領土が増えるわけでもない。周辺の大名に衝撃を与えた、という点では影響が大きかったが、家中で大きな変化があったというわけではないからだ。
まずは今川家。今川義元が桶狭間の戦いで戦死した後、当主は息子の
氏真は凡庸で、武芸よりも蹴鞠に長じていた。今川家滅亡の張本人である。
これは後の話だが、今川家が滅亡し、流浪の旅を続けていた氏真に織田信長から会いたい、と誘いが来た。
その理由が氏真は蹴鞠の名人だ、という噂を聞いた信長が実際に見てみたくなったからだという。
信長のことなので純粋に蹴鞠を見たい、というよりも没落した室町貴族を意のままに操る自分に満足したかった、ということだったのかもしれない。
今川家のほかに桶狭間の戦いで大きく変わった家といえば松平家である。当主は
元康は桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると岡崎城に入り、今川家に反旗を翻した。理由はいくつか考えられるが、新しい今川家の当主である氏真に義元以上の求心力がないと見越したためであろう。
実際、元康は永禄五年(1562年)に織田信長と同盟を結ぶなどして独立に成功している。
室町幕府の
これが世に言う
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このような情勢下の中、井伊家の当主である直親はどうしたか。簡単に言えばこのまま今川家につくか、勢いに乗っている松平家につくか、の判断に迫られたのである。
しかし、直親の気持ちは決まっていた。
「松平元康に保護を求めよう」
と近しい人にはすでに打ち明けていたのである。
これを知った小野但馬守は憤激した。小野家は代々井伊家の目付け家老だ。それも今川家から派遣された家柄でもある。今川家を裏切ろうとしている直親を許せるはずがなかった。
(殺すか)
と即座に思った。
すでに小野但馬守は奥山朝利を謀殺している。それと同じ手を使えば直親を殺すことも簡単だろう。
そして、その計画は実行に移された。
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永禄五年(1562年)、『
松平元康が織田信長と手を結び、三河で領土拡大を行っていた。これは今川家に対する反逆であり、当然のごとく、今川家では兵を出す騒ぎとなった。
これが遠州にまで飛び火し、井伊谷にまで広がってきたのだ。
井伊家に遠州忩劇の種を持ち込んだのはもちろん、小野但馬守であった。
小野但馬守は今川氏真に直親が松平元康と通じていると報告したのだ。これに氏真が驚き、すぐに井伊谷に軍勢を出そうとした。
しかし、それを必死に押しとどめた人物がいた。
新野左馬助は井伊家と関わりが深い。左馬助の妹は次郎法師の母、つまり直盛の妻である。さらには直親の岳父である奥山朝利は新野左馬助の一族でもあった。
これほど井伊家と関わりが深い新野左馬助だからこそ、直親を庇ってくれたのだろう。
新野左馬助は氏真に
「小野但馬守の言うことは信用できない。直接直親を呼んで真偽のほどを確かめてはいかがですかな」
と言って説得した。
氏真は特に考えもなさそうに頷く。貴族育ちのこの当主は自分の考えというのが持ちづらい性格をしているのかもしれない。
出撃は中止された。
しかし、直親の疑いが完全に晴れたわけではなく、
これを聞いた直親は迷った。駿府に行けば殺されるかもしれない。だが、松平家と完全に同盟を結べているわけでもない。
家臣の多くは直親を止めたが、結局、直親は駿府に行くことに決めた。
(今川家に反逆の気持ちがないことを訴えれば、氏真も信用するはずだ)
直親に油断があったとすれば氏真を甘く見すぎたことだろう。いや、正確に言えば氏真の軽薄さ、氏真の周りにいる重臣たちの猜疑心、それ以上に、小野但馬守の執念というものを甘く見た。
井伊谷に、再び暗雲が立ち込めてきた。
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