最初の事件

mikio@暗黒青春ミステリー書く人

死闘

 霧が夜を埋め尽くしている。


 ガス灯の微弱な光はまったく頼りにならず、手元さえおぼつかない。街路を構成する何もかもが現実感のないまぼろしに思えてくる。しかし、白い闇に耳を澄ませば、二つの確固たる足音が聞こえてくるのだ。


 一組目の足音は、わたしのすぐ隣を歩く親友とものそれ。

 二組目の足音は、遠くの方から少しずつ確実に近づいてくる宿敵のそれ。


 天を覆っていた雲にわずかばかりの間隙が生まれた。鮮やかな月光が濃霧を切り裂き、地上へと降り注ぐ。暴力と不幸と貧困が支配するホワイトチャペル地区の片隅に埋もれた名前のない路地にも、平等に。


 わたしと親友は足を止めて身構える。

 前方で、背の高い痩せぎすの老人が柔らかに微笑んでいた。


「天網恢恢疎にして漏らさず。覚悟を決めろ、モリアーティ教授」


「覚悟ならしているさ。誰の後ろも歩かず、天の指図をも受けぬ覚悟をな」


 満月を指差した老人の微笑に、邪悪さが加わった。

 しかし、我が親友も負けてはいない。


「誰の後ろも歩かないだって? 現にぼくに誘い出されてここまで来たのに?」


「あまり私を見くびらないで欲しいな、シャーロック・ホームズ君」


 老人がパチンと指を鳴らした刹那、わたしははっと息をのんだ。

 街路に面する集合住宅の窓という窓から、覆面をした男たちが身を乗り出したのだ!


「彼らは全員私の部下だ。百丁の空気銃と百発の弾丸が君と君のパートナーを射殺いころすだろう」


 一見したところ小さなステッキにしか見えない銃口からの、しかし強烈な殺気を感じとり、わたしは恐怖した。


「動じる必要はないよ、ワトスンくん」


 親友はそう言って、ポケットからコインを取り出した。


「祈りはすんだかね? ならば死ね、全長2500フィートの罠虎殺し七丁念仏だ!」


 老人が絶叫し、ホームズがコインを放り投げた。それが合図だった。


 カンカンカンカン!


 静かな銃弾が雨あられのごとくふりそそぐ中で、ホームズとわたしは時ならぬダンスパーティーに興じた。リードはホームズがしてくれた。わたしはただ彼に身を任せればよかった。近くでキーンと一際鋭い金属音が聞こえた。コインが地面に転がる音だった。


「どうやら幸運グッドラック踊れダンスったようだ」


「避けた……だと!」


 老人がそれまでの微笑をかなぐりすてて、顔を醜く歪めた。


「あまりぼくを見くびらないで欲しいね、モリアーティ教授。お前の失敗は部下全員に同じタイプの銃を持たせたことだ。賭けても良いが、あれはモラン大佐が設計したものだろう? ぼくは彼が暗躍したと思われるいくつかの事件の記録を元に、あの銃から射出された弾丸がどんな軌道を描くかを推定したことがある。弾道が推定できるなら、あとは射線とタイミングの問題だ。何、避けるだけなら初歩的な推理さ」


「くっ、第二射急げ!」


 モリアーティの再びの狙撃命令にもホームズは動じたりはしなかった。


「残念。今日はもう少し高度な推理を試みたんだよ」


 カンカンカンカン!


 我々のすぐ近くをすり抜けていった銃弾の雨は、街路の石畳に弾かれた後、集合住宅の外壁の跳ね返しを受け ――再び銃を構えて窓から身を乗り出した百人のモリアーティの手下を撃ちぬいたのだ。


「――跳弾」


 宿敵が息をのんだのを見計らって、ホームズは一気に距離を詰めた。


「バリツパンチ!」


「グワー」


 モリアーティは絶叫と共に宙を舞い、集合住宅の壁に叩きつけられた。


「やはり……やはり合理の罠で絡めとれる相手ではないか」


 よろよろと起き上がるモリアーティに、第二撃を加えんと駆け寄るホームズだったが、あと三歩というところで前につんのめった。何かにつまずいたのだ。


「ホームズ!」


 わたしが叫んだのと、モリアーティが年齢を感じさせない強烈な蹴りをはなったのはほぼ同時だった。


 咄嗟とっさに身を庇ったホームズだが、完全に勢いを殺すことはできず、無言のうちに霧の向こうへと弾き飛ばされた。


「その工具箱は塗装屋がそこに置き忘れていったもののようだね。君からみて北の方向にある街灯の柱がすっかり腐食しているのも偶然だろう。百発の銃声が引き起こした共鳴レゾナンスによって、ぎりぎりのバランスを保っていた柱に致命的な不均衡が生じたのも、あるいはね」


 パチンとモリアーティが指を鳴らす音が聞こえた。


「偶機の罠は既にして君を射程リーチにとらえている」


 ペー側の灯火がゆらりとはためいたかに見えたその刹那、街灯は根元からぽっきりと折れた。まるで見えざる糸に引っ張られるように、街灯は傾き、倒れていく。今まさにホームズが弾き飛ばされた地点へと向かって!


「――犯罪王の数学的諸原理♪ピタゴラスイッチ


 ドガシャアアアン。


 大音声とともに街灯が地面に衝突し、大量の土埃が巻き起こった。わたしはハンカチを口にあてると、目が涙でぐしゃぐしゃになるのにも構わず、倒れた街灯の側へと近づいた。


「バールストン先行法ギャンビット


 頭上で誰かがささやく声がした。振り返ると、わずかに根元の部分だけが残った街灯の残骸に、左のつま先だけで器用に立つ親友の姿があった。


「霧に紛れてすり替わらせてもらった。柱の下に倒れているのはぼくのにせものさ。死んだジャックに同情? しないよ。今から二年半前、わかっているだけでも五人の女を殺し、気のすむまで切り刻んだ男に同情する気なんて、これっぽっちもない」


 しかしホームズは切り裂き男のために胸の前で十字を切った。


「追い詰められたのはお前の方だ、モリアーティ!」


 ホームズは爪先立ちの姿勢のまま高く飛び上がると、最高点で体を鋭く捻った。


「バリツキック!」


「グワー」


 まともにとび蹴りをくらったモリアーティは、再び絶叫と共に宙を舞った。


「強いな、ホームズ君。やはり君はおそろしく強い」


 鼻血にまみれ息も絶え絶えな教授だったが、反撃の機会を待つ狩人のごとくにその目は不気味な光を放っている。


「――だのに君の攻撃には迷いがある。君はわたしを倒し切ることを躊躇ちゅうちょしている。違うかね?」


 仇敵に問いかけられて、ホームズはわずかに表情を強張らせた。


「まだ聞かなければならないことがある。についてだ」


「ふむ、『小惑星の力学The Dynamics of an Asteroid』かね?」


 モリアーティが呟くと、ホームズはこくりとうなずいた。


「お前はあの本の余録で、実にユニークな仮説に基づき、ルヴァイエの予測を否定した。水星軌道にわずかな変動をもたらすバルカンなる惑星は実在せず。ただ、愚昧な人々の脳内にのみある、と。天文学者の間でもあの部分だけはひどく評判が悪いようだけど、ぼくはお前の予測を支持するよ。しかし――」


「しかし、何だね?」


「もしもお前の考えたことの何もかもが正しいのだとするならば、偉大なるアイザック・ニュートンが作り上げた力学体系に修正が必要になるのではないか?」


「……君がその地点までたどり着いていたとはね。さすがは我が宿敵と言ったところか」


 教授は純粋な敬意に満ちたまなざしをホームズに向けたようだった。


「よろしい、ならば教えよう。光が直進するこの世界で! 重力こそが万物の支配者であるということを!」


 教授は叫ぶなり、飛龍ワイバーンが鋭い爪で大地を斬りつけるかのごとくに低い姿勢で疾走した。


「あっ」


 声を上げたのは、探偵か、それとも助手たるわたしか。


 モリアーティは我々のすぐ目の前で、忽然と姿を消したのだ。


「時空はねじ曲がっている」


 地の底から響く声と同時に、わたしは信じられないものを目撃した。モリアーティがホームズの正面、左右、後方、上方と、ありとあらゆる方向からほとんど同時に姿を見せて、強烈な肘打ちを放ったのだ。


「グワー」


 三度目の絶叫グワーをあげたのは正義に属する探偵の方だった。


「遅い、遅すぎるぞホームズ!」


 探偵の息の根を止めようと一気に間合いをつめた教授だったが、ふいに「ヌゥ?」と珍妙な声をあげた。


「どこだ、ホームズ!」


 目の前にホームズがいるというのに、モリアーティはひどく動揺した様子で辺りを見回している。


「こっちに来てくれ、ワトスン君。ただし、ゆっくり、整然と」


 わたしは思わず声が漏れそうになるのを両手で押さえて、言う通りにした。


「それにしてもつくづく化け物だな、教授は。ぼくだって、水星軌道が変化しているように見えるのは、光が太陽の巨大な質量によって歪められた空間を進んでいるからだということまでは検討がついていたさ。しかし、まさか時空間を自由自在に歪ませる術(すべ)まで身につけているとは思いもしなかった。完全なる誤算だよ」


「一体どうやってそんなことを」


「さすがのぼくもどういう原理かまではわからない。しかし、彼が時空間歪曲トリックを用いて瞬間移動のような芸当をしていることは間違いないね」


「どうするホームズ? 幸い彼には我々の姿が見えていないようだが」


「量子の揺らぎの中に身を潜めたんだ。ぼくらは今、ホワイトチャペルのどこかに確率的に存在し、また、存在しない」


「それは一体?」


「簡単には説明できないな。ま、組織的犯罪のスペシャリストたるモリアーティがマクロな世界における力学についての先進的な知見を得たように、個人的犯罪のスペシャリストたるぼくもミクロな世界における力学について先進的な知見を得たとだけ言っておこうか」


 わたしには親友が何を言っているのかほとんど理解できなかったが、モリアーティからは我々の姿が見えていないのは、ホームズが何らかのトリックを用いたからだということだけはわかった。


「このまま逃げるのか?」


「まさか。探偵は事件から逃げない。どんな苦境にあっても解決を諦めたりはしない――勇気をくれ、ワトスン」


 ホームズは一度わたしの手を固く握りしめるてから、ゆっくりとモリアーティに近づいた。


「墓碑銘は書いたかね」


 やがて、魔法が解けたように、モリアーティの両目がホームズの全身を捉えた。


「ああ。『モリアーティここに眠る』とね」


 ホームズが言い終わるよりも早く、モリアーティの姿が消失した。


 再び姿を見せた時、モリアーティは両手に厚手のナイフを持っていた。だけでなく、その切っ先をホームズの無防備な背中に深々と突き立てていた!


 致命傷を負った親友は、言葉もあげずに地面に倒れ込んだ。


 正義は死んだ。わたしの心を絶望が覆った。


の推理によれば、重力波を利用した空間跳躍には、この宇宙全てのエネルギーを費やしてもまかなえないほど莫大なエネルギーが必要なのだそうだ」


 誰かが言った。


「それだけのエネルギーをお前はどこで用立てたのか? 決まってる、この宇宙とは別の宇宙から奪ってきたのだ。時空間の裂け目を利用してね。だからもその経路を利用させてもらった。お前が作った時空間の裂け目から、別の宇宙の自分自身――つまりぼくを連れ出したんだ」


「ホームズ!」


 わたしとモリアーティが同時に叫んだ。いつの間にか、路地に倒れた我が友と全く同じ顔、全く同じ体つき、全く同じ声の男が、微塵の隙も感じさせぬ所作で宿敵の背後に立っていたのだ。


「さしずめ鏡の国のバールストン先行法ギャンビットと言ったところか。こんなときは、どジャアア~~~ン! とでも叫ぶものかも知れないが、ぼくは大統領なんて柄じゃない。世界でたった一人の顧問探偵コンサルティング・ディテクティブなんでね!」


 ホームズは叫びながら、教授に組みつき、その左手を教授自身の股下に通して、背中から伸ばした左手でがっちりと掴んだ。


 ホームズの動きはほれぼれしそうなほど流麗だったが、わたしは首を傾げた。その固めホールドは、長らく彼の側にいたわたしにとってさえも初めてみる技だったのだ。


 少なくともバリツにそのような技はない――そう思った刹那、わたしの脳内に何かが入り込んできた。


 それは泡だった。おそらくはモリアーティの作った時空間の裂け目から流れ込んできたのであろう、情報の泡。そしてわたしはホームズが何をしようとしているのかを理解した。


 ああ、あれこそは今から百年後の未来、バリツの祖たる東洋の島国に箱舟のごとく現れた武道家、ジュン・アキヤマが、ウラナゲをベースに編み出した必殺技フェイバリット――。


バリツクラッチ式・エクスプロイダー!」


 上体を超次元的に極められ、モリアーティは――この宇宙だけでなく、ありとあらゆる宇宙鏡の国のモリアーティは! ――受け身を取ることさえかなわず、固いロンドンの路地に頭から叩きつけられた。


「ノワー」


 悪は死んだ。


 そう思われた刹那、モリアーティが立ち上がった。


 いや、正確には浮き上がったというべきか。


 醜く歪んだ脛骨と、ぱっくりと割れた頭部を我々の眼前にさらしながら、モリアーティは何事か囁いたようだった。


 ――可能性の牢獄The Valley of Fear


 ぱっくりと割れた頭部が内側からめりめりと裂けた。九十度、百八十度、二百七十度……ついに頭部の割れ目はそれ自身が巨大な顎となって、モリアーティ自身の体を食べ始めたのだ。


 月が雲間へと隠れ、ホワイトチャペルに再びの闇が舞い降りた。


 嫌な予感がした。わたしは思わずホームズに向かって何かを叫ぼうとしたが、それを激しい衝突音が遮った。


 大地が鳴動し、ホワイトチャペルに東洋文字のような地割れが走った。

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