やさしい刑事 第3話 「目撃者」(3)
それから一週間が過ぎたが、刑事たちは老婆殺しの容疑者と思しき、マルヒの足取りを掴む事ができないでいた。
ヤマさんだけでなく、弦巻の立ち寄り先に聞き込みに行った、他の刑事たちからの報告も芳しいものではなかった。
「マルヒの住んでいたアパートの大家がカンカンになってましたよ~…もう三か月も家賃を滞納してるって」
「スナックFの方にもだいぶん未収があるようですね~…ママさんがブゥブゥ言ってました」
「パチンコ屋の従業員も、ここ一週間くらいマルヒの顔を見てないそうですね」
「実家の方にも立ち寄った形跡はありません。もう何年も帰ってないそうです」
そうしてさらに一カ月が経ち、その間、老婆殺し事件の担当刑事たちは、足を棒にして甥の行方を捜し回った。
しかし、どこをどう探しても、事件のマルヒと見られる弦巻の足取りはまったく掴めなかった。
まるで、この世から煙の如く消え失せてしまったのか?…と思われるほど何の痕跡も残っていなかったのだ。
容疑者がほぼ特定できているにも関らず「老婆絞殺殺人事件」は、完全に暗礁に乗り上げてしまった。
とうとうヤマさんも捜査官たちも、このヤマはオミヤ(迷宮入り)になるのか?と諦め掛けていたその矢先。
突然、老婆殺しの事件現場付近をパトロールしていた巡査から、捜査班の元へ連絡が入った。
ヤマさんは、取るものも取り合えずパトカーに乗って、平野刑事と連絡のあった現場に駆けつけた。
「ご苦労様です。刑事さん」巡査が敬礼をしながらヤマさんたちを出迎えた。
「どうしたんだ?何か新しい手掛かりでも出て来たのか?」ヤマさんは巡査にそう尋ねた。
「いや~…それがですね。蔦矢さんの娘さんが『妙な異臭がする』って言うんで、母親が電話して来たんですがね」
「妙な異臭って…どこからだ?」
「はい。この家の壁と、隣の家の壁の間の隙間からなんですがね」
そう言いながら巡査が指差したのは、蔦矢家と老婆殺しのあった家の間にある70cmほどの狭い隙間だった。
盲目のバイオリン少女の弓子ちゃんと母親も、心配そうな顔をしながら現場にやってきていた。
「少し前からね…バイオリンの練習にベランダに出たら、何かが腐ってるみたいな匂いがするんです」弓子ちゃんが言った。
「弓子は目は見えないんですけどね、鼻は人一倍効くんですよ」母親がそう付け足した。
「どうも奥の方に何かが引っ掛かってるみたいなんですが、蔓が生い茂っててよく見えないんですよ」巡査が言った。
「う~ん…確かに狭くって暗い場所だし、中がほとんど見えんな~」ヤマさんは壁の隙間に顔を突っ込んで言った。
「事件が発生した場所だけに一応報告を入れといた方がよろしいかと思って、ご連絡を差し上げた次第です」
「いや、ありがとう。確かに何かが腐ったような匂いがするな~…おぃ、平野刑事。投光器を出してきてくれ」
「了解しました。ヤマさん」
平野刑事がパトカーのトランクから出してきた投光器が、家と家の間の隙間を照らし出した。
びっしりと蔓の生い茂った隙間の奥の方には、蔓に巻きつかれた何かの塊が見えた。
何を思ったのかヤマさんは、着ている服が汚れるのも破れるのも構わず、蔓をかき分けながら壁の隙間に入って行った。
そうして、異様な腐敗臭の下へ向かって進んで行って、投光器に照らし出されている塊を見上げた。
そこには、身体中を蔓に巻かれたまま、壁にぶら下がって死んでいる男の腐乱した死体があった。
「平野刑事。すぐに鑑識を呼べっ!」ヤマさんは隙間の中から、外にいる平野刑事に言った。
「了解しました。ヤマさん」平野刑事は、すぐにパトカーの警察無線で警察署に連絡を入れた。
だが、鑑識の到着を待つまでもなく、ヤマさんにはその腐乱死体が誰なのか?どうしてそうなったのか?すでに読めていた。
いつもの如く、老婆の所へ金の無心にやって来た甥は、堪りかねた老婆に素行の悪さをなじられたに違いない。
カッ!となった甥は老婆の首を絞めて殺してしまった。そして、ふと窓の外を見ると隣のベランダに人影が見えた。
「しまった!見られた」あわてた甥は外に飛び出して家と家の隙間に入り、生い茂っている蔓を伝って壁をよじ登ろうとした。
ベランダにいた少女が盲目だとは知らない甥は、殺しを目撃されたと思い込み、急いで少女の口を封じようと考えたのだろう。
だが、少女を狙う事ばかりに焦っていた甥は、自分の足元に、意外な別の目撃者がいた事をまったく知らなかったのだ。
それは、陽の当らぬ所で生まれ育って、夜毎、盲目の少女が弾くバイオリンの音に淋しい心を癒されていた壁の蔓だった。
おそらくは、一瞬の出来事だったのだろう。
一部始終を見ていた蔓は、少女を殺そうとする甥の企みに感づき、彼女を守るために壁をよじ登って来た甥に襲い掛かった。
抵抗する暇も無く、八方から絡み付く蔓に身体中をがんじ搦めにされて首を締められた甥は、声も出せずに死んだに違いない。
どんな生き物にも魂はある『壁に耳アリ、障子に目アリ』と昔の人も言った…悪い事はできないものだ。
こうして老婆殺し事件は解決したが、なぜ犯人の甥があんな場所で無残な死を遂げたのか?それは誰にも分からなかった。
ただ、ヤマさんだけが知っていた…盲目のバイオリン少女と、日陰に生きる蔓との間に、秘められた心の交流があった事を。
それからしばらくが過ぎて、警察署で新聞を見ていたヤマさんの目は、とある記事に止まった。
そこには、あの盲目の少女が『全国バイオリン・コンクール』で優勝したと言う記事が、少女の写真入りで載っていた。
ヤマさんはすぐにその新聞を携えて、蔦矢家の狭くて暗い壁にへばり付いて生きている蔓の所へ行った。
そうして、新聞を壁の隙間にかざして見せながら、蔓に話し掛けるようにこう言った。
「お前が命を救った盲目のバイオリン少女が、コンクールで優勝したよ。よかったな~…これからも見守ってやってくれよな」
それが刑事にできる せめてもの『やさしさ』だった
春のそよ風が、狭い壁の隙間を通り抜けて蔓がザワザワと揺れ動いた。
ヤマさんには、その蔓のざわめきが「わざわざ知らせに来てくれてありがとう」と言う声に聞こえた。
やさしい刑事 第3話 「目撃者」(完)
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