第162話:注射 〜初めてだからと断れない〜

「ちゅ、注射かぁ」

 苦笑する春日だが、その意図は向こうには伝わらない。彼女は嬉々としてシリンジに針をつけ、慣れた手つきで覚醒剤ミントを水に溶かす。彼女が細くて白い指でピンピンとシリンジを弾く姿を春日は黙って眺めていた。


「注射でミント使うのは初めて?」

「うん、俺は初めてだね」

 そりゃそうである。当然だが、そもそも覚醒剤を使ったことすらないのだ。流石にそれを我が身に打たせるわけにはいかない。春日がうまい断り方を考えている間に、アヤナは春日の腕を取ってぷつりと針を刺した。

「……え?」

 春日の笑顔が凍り付く。腕を見下ろす。見間違いではない。夢でもない。絞った細腕には確かに鈍い痛みが走っていた。


 如月アヤナの手捌きは見事と言うほかなかった。

 止める間もなかった。いや、止めたら怪しまれるという恐怖感に春日が凍り付いてしまっていたから、と言う方が正しい。こんな小柄で線の細い女など、その気になればいくらでも振り払える。それが出来なかったのは恐怖感からだ。


 覚醒剤ミントは確実に春日の体内に入った。

 握りしめていた拳から緊張がするりと解けて、だらんと垂れ下がった。


 アヤナをはじめ、後ろから見ていたらしいSOxのメンバーがわぁっと盛り上がった。焦っていた春日は、いつの間にか衆目も集めていたことに全く気付いていなかった。なぜ盛り上がっているのだろう、と混乱する頭でうすぼんやりと考えていた。


 こちらを傍から見ていたのはメンバーだけではない。その中には澤田もいた。まんざらではない表情である。

 状況を頭の中で整理して二秒、春日はやっと自分がその沸き立ちに合わせて喜ばねばならないことを悟った。彼らにとって春日は既に覚醒剤依存症者であり、最強かつ即効とも言われる注射はパーティーで初めて経験したことになっている。


 彼らは春日に思い出作りをさせてやろう、そういうつもりなのだと春日は解釈した。このパーティーで、経験をさせてやろうというのだ。でなければ、如月アヤナがこんなに無理矢理に覚醒剤ミントを打ちに来るわけがない。


 春日が陥落したため、この場で唯一の素面となった澤田の本心を春日は知らない。思い出作りをさせてやろう、という春日の見立ては半分ほど当たっていた。澤田の目論見は、このパーティーを強く春日に印象付け、自分の駒とするための第一歩とすることだった。


 実際、アヤナの用意した覚醒剤ミントは、春日のような経験の浅い人間に与える量ではない。SOxメンバーのように、身体が慣れていて耐性もある程度できている人間が使う量である。素人が使えば一発陥落、死んでも文句は言えない。

 

 こんなはずではなかった。本当に覚醒剤を我が身に打つことになるとは思わなかった。何度目になるだろうか、春日は自分の腕を呆然と見て、楽しそうに周囲と盛り上がっているアヤナの方に目をやった。彼女は満面の笑顔で春日の元に寄って来た。


「英輔くん」

「どうしたの」

 春日は穏やかに答える。心中は全く穏やかではなかったが、演技ですらなく、そもそもそんな声しか出なかったからだった。


「英輔くん、あたしのこと好き?」

「もちろん」

 好きとか嫌いとかの話ではない。一体何を言いたいんだ、と苛立ったが、顔ではにこやかに笑ってアヤナの頭を優しく撫でていた。しかし春日の背中には冷や汗が一筋流れていた。薬が効いてくるまで秒読みとなった今、春日にはもう覚悟を決めるしかなかった。

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