諜報ジャーナル

本庄 照

Mission1:多賀、参る。

1. 僕は、スリ。

第1話:通勤 ~警察なんかに突き出さない~

「君、スリだね?」


 首都圏の通勤ラッシュの荒波に揉まれる多賀たがの耳元で、そうささやいた男がいた。驚いた多賀は声の方を向く。三十歳ほどの、上品そうに微笑む男と目が合った。


 背広も靴も鞄も値が張りそうな品で揃えた男だったから、もし声をかけられなかったとしても、少々目立って見えるのには違いない。

 しかし多賀は話しかけられて初めて男の存在に気が付いた。今までこちらに意識を向けられているとも思っていなかった。


 彼は多賀の歩調に合わせて歩いているのか、ぴったりと多賀についてくる。不気味さを感じて足を速めたが、男との距離は変わらなかった。多賀の不安はどんどん増してゆく。


「なんですか」

 多賀は眉をひそめて言い返した。男はニヤリと笑って、多賀の胸を指差す。胸ポケットか、あるいは内ポケットを指しているのか。


 明らかに怪しい男でしかない。


 多賀は男を無視してエスカレーターに乗った。男がエスカレーターで隣にくっつきにくるとは考えにくいうえ、一瞬でも離れてしまえば、振り切るのは容易い。

 ひと月前に異動で初めて首都圏に足を踏み入れ、身をもってラッシュの恐ろしさを知った多賀は、そう確信していた。


 しかし、ほっとしたのもつかの間、すぐ後ろに、男の独特の気配を感じた。多賀は小さく舌打ちをした。

 そっと振り返ってみた。下りのエスカレーターだったせいで、男の顔は多賀よりかなり高い位置にある。男はすました顔で前を向いている。多賀はだんだん腹が立ってきて、

「気色悪いですよあんた」

 吐き捨てるように言った。


「スリに言われたくないな」

 なんとも余裕綽々の男だ。多賀の苛立ちが倍増した一方、少々不安にもなってきた。心当たりがあったからである。


 多賀は確かに男から財布をスッた。


「なんですか。あんた警察ですか」

「警察じゃないよ」

「じゃ、僕を警察に突き出すんですか」

「しないよ」

「なら、僕に……」


 言いかけたところで、急に靴が地面に引っかかった。いつの間にか、エスカレーターの終着点に来ていたらしい。

 多賀は憮然とした顔で、また人の波に飛び込んだ。いつもは大嫌いな人混みだが、この時ばかりは男を振り払うのに有利だ。有難がった多賀だが、それもつかの間、男は電車を乗り換えても多賀についてきた。


 薄気味悪い。


「……あなた、僕の職場までついてくるつもりですか?」

「いや、こっちも働いている身だからね。わざわざ通勤中に寄り道したりしないよ、遅刻しちゃうしね。これがたまたま通勤ルートなだけだ」

「僕に何をしたいんです?」

 エスカレーターで聞きそびれたことを聞きなおす。男は、混雑の中で器用に肩をすくめた。


「いや、別に、ちょっと君がスった財布を見たいなぁって思って」

 男は多賀の肩を優しくポンポンと叩く。

 多賀はむっとして男の手を振り払った。

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