Deaf Fortune

パックス

第1話 出会い

 透明なガラス瓶の中に滴るコーヒー牛乳。やっぱり風呂上がりのコーヒー牛乳は格別だぜ、ましてや温泉上がりのコーヒー牛乳は至極である。最後の1滴まで飲み干しながらそう思っているのは佐々部勇気。テニス部のキャプテンであるが、そこまで早熟ではない彼は普段皆を纏めている気疲れのせいか温泉に入るのが趣味である。しかも今回は温泉旅行に来ている。ここ、帯幌は都会なのだがその中に温泉を売りにしている旅館があるというので、電車ではるばる2時間もかけて来たのだ。泊りがけで朝昼晩、温泉を楽しんでやると意気込んでいた勇気だった。

 勇気は火照った体で長椅子に座り、先ほどの温泉の快楽の余韻に浸りながら空になったガラス瓶をくるくると回しながら周りを見回していた。

「こんな夏休みに温泉旅館に来てる人なんてお年寄りばっかりだよな……」

 別にその事に何か不満があるわけではないがふと言葉に出てしまった。その呟きが聞こえていた周囲のお年寄りがこちらに視線を向けてきた。幾多の老人の視線を肌に感じながら、少し落胆したようなトーンで言ってしまったかと思い返し居た堪れない気持ちになっていた。

 その時、目の前を浴衣姿の女性が通った。どこまでも澄み切っていて切れ長で二重な目。鼻筋の通っていて少し小ぶりな鼻。引き締まっているがどこか潤んでいて魅力的な唇。それとは対照的に若々しさを超えて幼さまでもを感じさせる白い肌。それらが集まっている彼女は、ただひたすらに美しかった。先ほどの失言などとうに頭から無くなり、その横顔に見とて呆けていると、彼女は端目でこちらを見るとすぐに視線を前へ戻し歩き去っていった。

 勇気は生まれて初めて一目惚れをした。それと同時に彼女の事が気になった。見たところ年齢は自分と同じくらいだと勇気は推測をした。勇気は今高校2年生なので、大体高校生だろうという推論である。こんな夏休みに温泉に入りに来るほど温泉が好きなのか、ただ旅館に泊まりに来ただけなのか。でも、この場所で逢ったことで、少し希望の様なものが見えた気がした。向こうから話しかけてれないかな、そんな事を思う少し奥手な勇気だった。

 その日の夜、妙な夢を見た。混沌とした空間に彼女が独り、頭を抱えて蹲っていた。それを見た僕は、ただ悲しいという感情だけが込み上げてきて、自分の事の様に感じて、ひたすら励ましの言葉をかけ続けていた。僕は彼女が何故そこに蹲っているのかわからない。だけど、優しく抱きしめ、そのまま夢が覚めるまで言葉を投げかけ続けた。

 目が覚めると、目の端に涙が溜まっていた。夢の余韻のせいか、起きて数分の間動くことが出来なかった。夢だったのか、とほっとする様な、でもどこか少し悲しいような不思議な気持ちになった。ただ現実は目の前にある物だけだと切り替えて、荷物を纏めて帰る準備をした。

 昨日見た彼女は、昨日夢の中で逢った彼女は今何をしているのだろう。もう帰ったのだろうか。また逢えはしないだろうか。そんな偶然はないだろうと考えて、半分は諦めた気持ちで旅館の退室の手続きをしていた。退室手続きを済ませ、旅館から出ようと思った矢先に背後から気配を感じた。急いで振り向くと彼女がそこに立っていた。勇気は昨日会ったばかりには感じられず、長い間一緒にいたような、そんな気持ちで彼女と対面していた。彼女の目をしっかり見つめて勇気は彼女と話そう、そう思った。

 「あの……」

 だが、続きの言葉が出てこない。こんな時に勇気の出てこない自分を憎んだ。このままじゃ名前顔負けじゃないか。

 「温泉は好きですか?」

 勇気を振り絞って自分の口から出た言葉がそれだった。言いたいことはもっと違うことだ。そんなことが言いたいんじゃない。もっと夢の事とかを話したかった。何故か彼女には話しても通じるような気がした。でもそこまでの勇気は出なかった。

 勇気を出して言った言葉だったが、彼女は困った表情になった後に少し悲しい、寂しげな表情を浮かべて視線をそらした。勇気は、彼女に話しすら聞いてもらえなかった事に口惜しさを感じて、彼女の悲しげな表情が見ていられなくて、その場から離れたくなった。急いで旅館を後にした。

 帰り道に勇気は歩きながら考えていた。なんで彼女は話を聞いてもくれなかったんだろう。


 なんで彼女はあんなにも悲しげな表情をしていたのだろう。

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