除染沿線

ゆずさくら

前半

 最初に私の精神科での診断書のコピーを貼っておこう。

 コピーというか、スマフォで撮ったものだ。

 情緒不安定な状況であり、就労に適さない…… そして病名が書いてあり…… 最後は上記の通り診断します、と記されている。しかし、地方勤務となった今は、その症状とは無縁だ。だからあえてこのノートの始めに診断書のコピーを貼る必要はないかと思われた。

 しかし、調べれば私がこういった不安神経症にかかっていることはすぐ分かってしまうことであり、その症状の為に今から書く内容が病気による過剰反応によるものだと思われたくないのだ。

 だからあえて自分の診断書のコピーをここに貼った。

 本社勤務だった、数ヶ月前の診断だ。

 今もカウンセリングを受けてはいるが、特段に症状も病気の診断もない。

 つまり非常に正常な(日本語がおかしいのは分かっている)精神状態であるのだ。

 それだけ理解して欲しい。

 これから書くことは、一部時間が前後するかもしれないが、都心で勤務していた時のことを起こった順に書いていくことにする。物語のように書いてしまうかもしれないが、それは今図書館で読んでいる本による影響が大きいのかもしれない。それに、単に事実だけを並べて書いても信じてもらえないだろう。そういう訳で、物語のように書いてしまうことをどうか許して欲しい。




 私は都心の本社勤務だったころ、住まいとしていた郊外から電車に乗って通っていた。

 この電車は途中から地下鉄に乗り入れており、薄暗く、ジメジメしてかび臭い地下鉄の駅で降り、出社していた。都心の電車はどれもそうなのだが、急に止まり、全く進まなくなることがよくあった。

 ほとんどの人は真面目で、それに文句も言わずに黙々とスマフォを見たり、新聞を見続け、電車の止まったその時間を過ごす。人身事故と言われたものがほとんど自殺だとしても、それに対して文句をいう人はいない。

 その日の人身事故も、単に私の知らない誰かが生きることに疲れて電車に飛び込んだものだ、と思っていた。

 十何分かの停車の後、電車は動き出して本社の地下にある薄暗い、じめっとした駅についた。

 いつものように階段とエスカレータを駆使して、地上に出ると、ガラス張りの回転扉のすぐ横の普通の扉から社に入った。回転扉はいつみても回転が停止されており、何のためにこれを作ったのか、理由を建築会社に聞いてみたいくらいだった。

 そうして建物の中に入ると、今度は長い待ち行列の後ろに並び、目的のフロアへ向かうエレベータにのる。

 それが毎日の日課だった。

 フロアで降りると、人の数は思ったより少なく、快適な空調の中をしばらく進むと、カードを操作してようやく部署の部屋に入れる。

 その日はいつになく人が少なく、その割には電話が頻繁にかかってきていた。

 通常の業務の状態ではない、とすぐに感じた。

「何かあったの?」

 私は電話も受けずにいつも通りに業務をしていた新人にそう話しかけた。

「社員が死んだ…… えっと、お亡くなりなった、ということみたいです」

「えっ? 誰のこと?」

「えっと…… まだお名前を覚えてなくて。この席の方らしいんですが」

 新人が座席表を指差した。

「鷺沼が? おい、それ本当か?」

 鷺沼は友人だった。

 会社上は後輩だったが、年齢は一緒で休日に遊びに行くこともあった。

「佐古田さんお友達でしたっけ」

「ああ…… いや、それで、病気か? 事故か?」

「事故ですね。電車の事故。自殺じゃないかって」

「自殺だって?」

 聞いた瞬間、その死がどんな凄惨な現場だったか、と想像すると、気が狂いそうだった。

 それに、そんな簡単に他人の死を受け入れられるほど、死に慣れていなかった。

 親も、祖父も祖母も健在で、親戚の葬式に出たことはあるが、お棺の中の顔をみても生きている時の姿や声を思い出すことはなかった。だが、鷺沼に関しては違う。今すぐにでも声や姿が思い浮かぶ。

 私にとって、大切な人の死というものの最初が鷺沼の死だったのだ。




 少し動悸が激しくなってきた。

 一度に全てを思い出して、全部を書き切ろうとしては危険な気がする。

 今はもう夜半を過ぎている。思い出した人の死で動悸が激しくなったのか、こうやってパソコンの前で必死にタイプしている為に動悸が激しくなったのかがわからない。

 けれど、死ぬ前にこれは書ききらねばならない。そういうつもりで書いている。




 通夜は誰も呼ばれなかった。

 呼ばれなかった訳ではなく、部長も課長も鷺沼の家に行ったのだが拒否されたのだ。

 会社はブラック企業ではなかったが、メディアではそういう呼び方を好んで使う時代だった。事実がどうあれ、会社が自殺に追い込んだ、鷺沼の親はそう思っていたに違いない。

 だから私が行った時も役職を聞かれた。

 友達の佐古田です、そう告げると、両親は顔をだしてくれた。

 しかし、鷺沼の顔は見せられないと言った。電車で引かれたから、と説明してくれた。

 線香をあげて、手を合わせるだけだった。

 葬式の日も部長や課長は入れてもらえなかった。

 会社の激務が自殺に追い込んだ、そういう考えが出来上がっていた。

 鷺沼の遺影は、学生の頃の明るい笑顔だった。

 帰り際、葬儀場を振り返ると喪服で黒い中に、鷺沼のその笑顔だけがぼぉっと見え、あらためて友人が死んでしまったことを思い知らされた。

 家に戻ると、私は生活のほとんどに対して、やる気が無くなってしまっていた。

 週の2日を体調不良で休み、会社に出た日もぼんやりと外に出て電話には出ない、ただぶらぶらと待ちを歩いて、カフェでコーヒーを飲み、帰社するとレポートもそこそこに帰宅してしまった。

 週末を迎えた金曜日、廊下の窓から外を眺めていると、鷺沼から携帯がかかってきた。

 死体から電話がかかって来た、と少し怖く感じながら、恐る恐る通話をボタンに触れた。

「鷺沼の母です」

 声が聞こえた瞬間は言葉を理解できず、鳥肌がたった。しばらくするとそれが女性の声であること、言っている言葉の意味とのつながりを理解出来た。そう。死体が電話する訳はない。自分が一瞬ではあったが、愚かにも恐怖したことを後悔した。

 お葬式の日、鷺沼の母に頼まれ携帯番号を交換していた。ただ、アドレス帳に『鷺沼の母』として登録すればいいものを、『鷺沼』に電話番号だけ追加したせいで混乱したという訳だった。

 電話の中で、鷺沼の母が話した内容はこうだった。

『息子が残したパソコンやスマフォの情報を見たい』

『勤務で追い詰められていなかったか?』

『息子が会社に残した遺書のようなものを探して欲しい』

 私は友達ではあったが、鷺沼のパスワードまで教えてもらえるような仲ではなかったと伝えた。

 勤務で追い詰められていたかどうかは、正直、私には分からなかった。

 いつも明るいやつで、そういう苦労が会った時に誰に話しているのかまでは知らなかった。家にそういう遺書めいたものがなかったとするならば、残る可能性は会社にあった。

「では、会社の机に何か残していないでしょうか」

 何も役にたてない自分だったが、それは何か出来そうだった。

 電話を切ると、部署に戻って鷺沼の席をちらっとみた。

 今週ろくに会社に来なかった間に、鷺沼の机は綺麗に片付けられていて、机の上の書類やメモ紙が一切なくなっていた。

「水沢さん」

 鷺沼の机の横に座っている女性に声を掛けた。

「鷺沼の机って、こんなだったけ?」

「もっと散らかってましたけど、多分、亡くなった日の夜に部長達が整理したんじゃないかと……」

 水沢さんは周囲を気にするように視線を泳がせた。

「そうなんだ」

 引き出しに手を掛け、開けようとしたらガン、と音がした。

 引き出しには鍵がかかっていた。

 反対側の引き出しを引くと、すんなり開いたがそこには何も入っていなかった。普通、こっちの引き出しに鍵とかをぶら下げているのがパターンだった。

「鍵知らない?」

 水沢さんは明らかに迷惑そうな顔で首を横に振った。

 フォルダラックの向こうから部長の声が聞こえた。それとなく身体で引き出しを押して閉め、水沢さんに話しかけるような振りをしながら自席に戻った。

 会社側も自殺の要因がなかったか、鷺沼の机を調べたに違いない。

 ここに私物は置かない決まりだったから、何かあったとしてもそれは会社の持ち物であり、処分したとしても正当な行為なのだろう。

 私はまた廊下に出て、鷺沼の母の携帯に電話をした。

 鷺沼の母に会社にはそういう遺書の類が無かったと話した。会社が処分したかも、というのも推測にすぎないことなので、話さなかった。こういうこと争っても、弁護士だけを儲けさせて、双方の時間の無駄じゃないかと思っていた。




 その日も午後になると一切のやる気がなくなって、体調が悪いから半休にすると告げて会社を出た。

 薄暗い地下鉄のホームで待っていると、空調が変な音を出し始めた。

 普通はファンの音、流れる空気があちこちを擦る音が聞こえるはずだった。

 しかし何か液体がべちょべちょと打ち付けられるような音が聞こえてきた。

 涼しくて気持ちのいい場所ではあったが、その奇怪な音が何を意味するのか分からない為、空調の真正面から離れて、少し様子を見ることにした。

 そうやって待っている内に、見えている反対側のホームに電車が入ってきた。電車が完全にホームを塞いで止まるか止まらないかの一瞬、鷺沼の姿がホームに見えた。

「えっ!」

 停車した電車へ乗り降りが始まった。

 鷺沼が立っていたように見えた場所の車両には、降りるばかりで誰も乗り込まなかった。

 そしてベルがなって反対ホームの電車が走り始めた。

 私はホームに鷺沼が立ったまま残っているのではないかと思い、じっとその方向を見ていた。

 加速していく電車がその目の前からなくなりかけた時、こちらのホームに電車が入ってきた。

 こちらの電車の影で、反対側ホームに誰かが立っているのは見えない。こちら側の電車もホームに止まると、私は乗客が降りるのを待って、電車の乗り込み、ドアから反対側のホームを見た。

 そこには誰も立っていなかった。

 おそらく、私の願望か何か、あるいは鷺沼の思念が幻覚を見せたのだろう。

 そのまま反対側のホームを見続けていると、こちらの電車も出発した。

 反対側のホームには学生と、観光客と思われる外国人数名が電車を待っていた。

 ホームの端を過ぎると、急に黒くなってドアのガラスに鷺沼が映った。

「!」

 本当にどうかしていた。

 鳥肌がたって、ブルっと震える自分がわかった。

 それは鷺沼ではない。鏡になったドアガラスに映った自分の姿だった。

 私はスマフォの連絡帳に入っている鷺沼の顔を確認した。

 そう、こんな顔だった。だから自分と見間違うわけはない。ドアに映る自分の姿と見比べならがら何度もそうい言い聞かせた。もう鷺沼はいない。

 ドアガラスを見つめているうち、鷺沼の行動を思い出していた。

 スマフォをいじる時の姿だった。

 こう、こう、こんな風にスマフォを使っている。結構特徴的な指運びだった。……そうだ、もしかしたら。

 電車が地上に出ると、私は一旦駅に降りた。そして鷺沼に電話を掛け、そこに出た母親にもしかしたらスマフォのロックは外せるかも、と告げ、そちらに伺うと言った。

「そうですか。お待ちしております」

 特急に乗り換え、鷺沼の家につくと鷺沼の母が携帯を持って私の前に置いた。

 人気機種の最新型。

 ポケットからだしては画面を見、見てはしまっていた。

 画面を見る度にロック解除の不思議な指使いをしていた。それが印象に残っている。

「確実ってわけじゃないですけど」

「どうぞ。どのみちこのままじゃ何も見れないので」

 会釈をしてそのスマフォを手にとり、電源ボタンを軽く押した。

 ロック解除の為のテンキーが表示される。

 目をつぶって鷺沼の指の運びを思い出す。きっと6桁だった。縦に三つ、横に移って一段下げたところから三つ入れていた…… はずだ。

 横に移って一段下げれるとしたらこっちしかない。

 数値を入れてみるがロックは解除されない。

 ……まてよ、俺が覚えているのはいつも正面からみた鷺沼だったはずだ、とすると逆か?

 逆から打ってみると、ロックが解除された。

「できました」

 鷺沼の母の暗い顔が、一瞬だけ明るくなった。

「番号を教えて下さい。

 私は番号を告げた。

「それでは私はこれで」

 私も見たくないが、鷺沼も見せたくはないだろう。どんなアプリを使っていたとか、どんなWebページを見ていたとか、お気に入りに入れていたとか……

「すみません、これは少ないですが、お礼です」

「結構ですよ、パスワード知ってたなんて、鷺沼にバレたら怒られちゃう」

「わざわざこちらまで来ていただいたわけですから。お車代として」

 あまり断るのも悪いと思って、私はいただくこととした。

 そのまま家をでて、ちょっと先のバス停で待っている間に、渡された封筒を開けてみた。

 五千円と手紙が入っていた。

 手紙にはなんとしても会社側を訴えて、息子の死の責任と取らせるというような内容だった。だから今後とも協力をして欲しい、謝礼はする、というようなことが書いてあった。




 次の週は、普通に会社に行って勤務することが出来た。

 不思議なくらい、仕事に集中していた。終電近くまで会社にいて、電車がくるわずかな時間の間に、薄暗くてじめじめした駅のベンチでうとうとと寝てしまうこともあった。

 鷺沼がいなくなった分の仕事を皆でこなさなければならない、という意識が働いていた。早く出社し、自分の業務を済ませ、遅くなってから各自に割り振られた鷺沼の担当分をこなすような日々だった。

 ヘトヘトになっていたが土曜日は出勤し、日曜は一切外へ出ないで休息した。

 月曜日になり、少し身体に異変を感じ始めた。

 とにかく目が霞んだ。スマフォの字がぼやけたり、ピントが合わないことが多かった。

 通勤の電車にも変化があった。いつもならもっと魅力的な女性が乗っているのだが、何日か冴えない女性ばかりが乗っているようだった。この時は自分では気づかなかったのだが、少し不安神経症になっていたのかもしれない。つまり、乗っている人間はさして変わっていないが、自分の心が変わっていたのだ。

 実際的な変化もあった。

 乗っている地下鉄の車内から、以前本社の地下の駅の空調から聞こえてきた何か粘り気のある液体がべちょべちょと打つ音が聞こえてきていた。不思議なことに、周囲の人は音がする天井を見つめるわけでも、駅員に何か異音について問う様子もなかった。

 自分にしか聞こえていないのだろうか、と水曜日には不安に思い、同じ部署の人に声をかけてみた。

 すると、やはり音は聞こえているようだった。

 ただ、私の表現とは少し違っていた。

「べちょ、べちょ、という粘着するような感じではないですけど。ただエアコンからしずく垂れてくるような話しは聞いたことありますね」

 電車のエアコンからしずくが垂れてくるようなことがあれば大クレームになるだろう。私はその日の帰りも次の日の出社の際も、じっと電車のエアコンの吹き出し口を見ていた。

 音は相変わらず聞こえてくる。

 ずっと続くのではなく、時々聞こえてくる。音は単純なものではなく、なにか人を不安にさせるような、未知のいきものが発するような音なのだ。

 天井を見るのに疲れ、途中駅で車両のドア側に移り、地下鉄のトンネル側を見ていた。

 駅に付き、反対側のホームを見ていると男が電車に飛び込んだ。『あっ』と思い、途中で目を閉じた。

 実際は見てしまったのかも知れない。

 しかし今思いだそうとしても思い出せない。気持ちが記憶に蓋をしたか、本当にその瞬間に目を閉じたのか、それは分からなかった。

 ただ、飛び込む少し前の情景は異様に何度も思い出される。

 飛び込んだ人の列の後ろに、鷺沼の姿があったからだ。

 この事は誰にも言っていない。

 鷺沼の母や、会社の上司にも、自分の父母にも話さない。

 パニック症候群と言われた時にお世話になった先生にも話していない。

 そんなはずがないからだ。

 生きている人間の姿形だって、二週間も合っていなければ正確に思い出すことなんて出来ない。ましてや死んでしまった人の顔が、そこにあったとして、なぜそれを鷺沼だ、と思うのか。

 意図的にある人影を鷺沼だ、と思い込もうとしているのかもしれない。

 本当のことは分からなかった。

 だが列に並んでいた人が電車に飛び込んだのは、その鷺沼らしき人物のしわざに思えた。




 その日の帰りも、やはり終電近い時間になっていた。

 ホームのベンチでぼんやりと前を見ていると、反対側ホームの下の回転灯がクルクルと回り始めた。

 何かが回転灯のヒカリに照らされた。

「!」

 腕には鳥肌がたっていた。私はベンチから立ち上がり、良く見えるよう近寄って、もう一度その辺りを凝視した。すると、ガーと音がして、反対側のホームへ車両が入ってきた。一瞬の後、車両の影になり、回転灯も何かがいた辺りも隠れて見えなくなってしまった。

「錯覚だ」

 自分を納得させようと声に出した。

 反対側の電車が動き出す時には、自分のホームにも電車がついていた。

 いい具合に電車は空いていたが、あえて反対側のドアについて、私は向こうのホームの下に何かいるかを確かめようとした。

 車両が去っていくと、回転灯も光るのをやめてしまい周囲はまた暗闇に包まれた。

 何も見えなかった。

 ヴヴゥ…… ヴヴゥ…… ポケットの中でスマフォのバイブレータが作動した。

 手にとって見てみると『鷺沼』と表示されていた。

 鷺沼のスマフォのロックを解除した後、鷺沼の母はメッセージアプリを使って過去のことを色々と聞きまわっていた。

 また、あの母からのメッセージか…… 私はそのまま内容を見ずにスマフォをポケットに戻した。

 その瞬間。

「さ、鷺沼!」

 ドアのガラスにベッタリと手を付いてこちらを見ている鷺沼の姿が見えた。

 自殺者を見た時のように、一瞬で目を閉じてしまった。

 身体が硬直したように固くなって、動かない。

 鷺沼は何かを語りかけてくような表情だった。もしかして、母親のメッセージに目を通せ、という意味だろうか。首もまぶたもうごかず、これが金縛りというやつなのだろうか、と私は思った。こんな覚醒状態でなるものなのか? これは人生で初めての金縛りだった。

 電車はカーブでガタガタと揺れ始め、身体が動かないかと慌てているうち、目だけは動くようになってまぶたを開いた。

 窓の外には鷺沼はいなかった。ただ何もない暗闇が広がっていた。

 そして車内のエアコンから、べちょっ、という何かとても嫌な音がした。

「……」

 首はまだ動かない。

 目線だけあちこちと動かしてみてみるが、何がいるわけでもない。

 ようやく手も足も動くようになると、急いで鷺沼の母のメッセージを読んだ。

「息子の死に関わる重要事項を探しています。どんな些細なことでも教えて下さい。有効な情報にはお金を払います」

 また例のメッセージだ、私が鷺沼のロックを外してから、母親はメッセージアプリを使って生前の鷺沼の知り合い全てにメッセージを送り続けている。

 何か別の手段で、鷺沼が死んだと知っている人はいいだろうが、突然母が息子のメッセージアプリに書き込みを開始すれば、過去の記録を見られたと思って嫌な気持ちになる人もいるだろう。

 自分も少なからず嫌な気持ちになった方だ。だが、鷺沼の死のことを思う親の気持ちもわかる。だから我慢しているのだ。

 座席が空いたのを見て、私は席に座った。

 すると、またバイブレータが動作した。ロックを解除して内容を見てみる。

『自殺ではありません』

 知らない名前からのメッセージだった。

 自殺ではない? 他殺だとでも言うのだろうか。

 駅のホームで…… 確かに、普通は最初の駅で並んでいるとか、乗り換え駅で並んでいる時にそういう気持ちになるもので、満員電車から開放され、後は社に行くだけ、の降りたばかりのホームで死のうと思うだろうか、とは思う。

『軽々しく言うな』

 と、母親に見られないよう、知らない人物へ直接メッセージを返した。

『違う、軽々しくなんて思ってない』

『母親が見ているメッセージだったんだぞ』

 誰だか知らない相手だが、次第に怒りが湧いてきた。

『ご両親は自殺の理由を会社に求めているんだ。自殺じゃないなら、鷺沼が殺されるような悪いことをしていたみたいじゃないか』

『だから違う…… 多分メッセージで書いても信用してくれないだろう』

『お前みたいな奴のどこが信用出来るんだ』

 どんな相手なのか分からない状態なのに、ただひたすら怒りをぶつけていた。振り返ってみれば怖くなるほど感情に任せたメッセージだった。

『冷静になれよ……』

「くそっ!」

 周囲に居た乗客がこちらを向いた。

 酒でも飲んで、酔っ払っているように思われたに違いない。

 顔が熱くなるのを感じていた。

 私はそのままスマフォをしまった。

 その後も何度か振動したがメッセージは確認しなかった。




 思えばこの頃に精神科に通うようになった。

 最初に行った精神科の先生はカウンセリングという名の世間話と、毎回大量にクスリの処方せんを出してくるだけだった。クスリを飲むと、考えていることが鈍くなるような気がしたが、次第にクスリを飲んでいないと電車に乗れなくなっていた。

 それはどういうことか。

 駅のホームについた電車に乗り込む。黙々と押し込められながら車内に進む。停止した状態から電車のモーターが回り始め、そのモーター音に何かいつもと違う調子の音がまじり、それが頭のなかでグルグルと再生され始める。まずい、この電車は何か整備不良ではないか、それなのにこんなスピードを出して平気なのだろうか。

 おそらく始発駅で座ってくる高齢者。そいつが変ないびきをたてていれば、それが気になってしかたなくなる。髪の毛が油でベタベタな男が、ガムでも噛んでいるように口でくちゃくちゃと音を立てると、口臭以外にも、何か吸ってはいけないようなガスが周囲に発せられているのではないか、と不安になった。

 女性が近くに寄ってくれば、淀んだ血の匂いや化粧品の香料で気分が悪くなった。

 とにかく音という音、匂いという匂いを嗅いでは不安になる状態だった。けれどクスリを飲んでいる限り、そういうことを考える思考が鈍くなって、ただ漠然と地下鉄の窓の外にあるただ暗い闇を見続けることができた。

 今、書いていて、ふと自分の現状に不安を持った。

 しかし、今、書いているのは自分の部屋の中だ。

 ここは安全なはずだ。

 けれd,エアコンもつけていないはずなのに、そとからべちょべちょと音がしている。もしかすると他の部屋の連中がエアコンをつけたのだろうか。

 そいつらは間違いなくアイツに侵入されてしまうだろう。

 身を守り、生き抜くためにはエアコンに頼らないことだ。それを知っているか知らないかで、残りの人生の長さが左右されるのに。

 もう一度部屋のエアコンがオフであることを確認した。そう、そもそもコンセントがはずれていて、動作することはない。壁に耳を付けて聞いてみると、となりの部屋はエアコンをつけているようだ。馬鹿め。

 そんな事を書いている場合じゃない。

 先に進めよう。




 鷺沼の四十九日があった翌日、私は鷺沼の母からメッセージを受けた。

『日記のようなものを見つけたので中を確認して欲しい』

 日記が紙のものなのか、スマフォのメモ帳アプリで書いたものなのか、そんなことも何も分からなかった。

 ただ、四十九日が過ぎたことと、その日記の内容を確認して欲しいということだった。

 その日は有給休暇をもらい、朝から鷺沼の家に向かった。

 鷺沼の母に会うと、墓に入れた息子の骨があまりに少なかったと話してくれた。火葬場の人があの体格ならば骨壷が溢れるほどのはずなのに、と言われ、ご病気だったのでしょうかと聞かれたそうだ。

「病気をしていたとか、そういう話、何かご存知ですか?」

「いえ、何も聞いてませんん。体が悪いとか、体調がすぐれない、というようなことも口にしていませんでしたし」

 病気をした人の骨は、燃えてしまうのか、あまり形が残らないとは聞いたことがある。ただ、鷺沼は電車に飛び込んでいる。遺体が全て集まらなかった、とかそういうことではないのだろうか。私はそんなに気にすることはないと話した。

「日記というのはこれです」

 鷺沼の母が見せたのは、パソコンだった。

 どうやら文書作成ソフトで作ったファイルだ。一行、日付がついて、何行かその日の出来事が書いてある。また先に行くと一行日付が書いてあって、また出来事が書いてある、といった具合だった。

「ファイルを送ってもらっていいですか?」

「どうすればいいかわからないもので」

 私はパソコンをネットにつなぎ、自分のアカウントのファイルボックスにそのファイルを転送した。

「それで、どこを読めば」

「ああ、そうなんです。ここです」

 鷺沼の母は不器用にページをめくりながら、私に読んで欲しいところをマウスで指し示した。

「この部分に『発光が酷くなった』と」

「はぁ」

 発光? 光ることだろうが、それが何のことか、全くピンとこなかった。

「発光っていうのはなんですか?」

「そこが分からないので、何かご存知ないかと」

 これ以上聞いても何も知らないだろう。

 私は検索メニューを使って『発光』と打ち込んだ。

 この日記の中に書かれている『発光』はこの一行だけだった。

「ここだけ…… ですね」

 もしかして他に日記のファイルがあるかもしれない、と思い検索をかけようとして思いとどまった。

「このパソコン、調べてもいいんですか?」

 鷺沼の母はうなずいた。

「あ…… けど、裁判とか、弁護士さんとかの話しは?」

「ああ、あの話のことですね。もう会社を訴えるのはやめにしたんです」

「そうですか」

 ふと、表示してあった日記に水沢さんとのことが書いてあった。

 それを読んだ瞬間に、頭の中が沸騰したように混乱した。

 水沢さんは同じ部署の女性で、鷺沼の隣に座っていた。別に綺麗でも可愛いとも思わなかったが、まさか鷺沼と彼女ができているとは知らなかった。

 デートの内容が時系列でびっしりと書いてあった。いや、別に水沢さんが鷺沼の恋人でも何も変じゃないし。

 自分の手が不自然にふるえているのに気付いた。

「あの…… 何か書いてありましたか?」

 ツバを飲み込むのが精一杯で答えられなかった。

 鷺沼の母は、こちらが見ている内容を確認していた。

「これ、どうも同じ会社の女性の方のようで。仲良くさせていただいていたみたいですね。佐古田さんはご存知ですか?」

「あ…… ああ知ってますよ。鷺沼の…… 息子さんの隣に座っていた女性の方ですね」

「そうなんですか…… 葬儀にもいらしてたのかしら」

「ええ、多分」

「ご挨拶したかったわ」

「……」

 ご両親に挨拶するほどのには進展していなかったということか、しかし、日記の内容としては……

「あ、あのパソコンですが、パソコンごとお借りしてもよいでしょうか?」

「ええ、ただ、あの子の残したものなので、何も消さないでいただければ……」

 確かに、すこし間違えれば消えてしまう。

 やるのであれば、全部をバックアップしてみよう。

「分かりました。それじゃ、こうしましょう。パソコンをお借りするんじゃなくて、コピーを取らさせてください」

「ええ、それなら構いません」

 何としても鷺沼の日記を調べたかった。

 私は水沢さんのことで頭がいっぱいになっていた。本当に、特に好きでもなんでもない女性が、会社の友人の恋人だったと分かっただけでなんでこんなにイライラしなければならないのか。何故鷺沼に嫉妬しているのか、自分自身の心がわからなくなっていた。




 コピーしたハードディスクを持ち帰り、家でテレビをつけると、地下鉄で事件があったと報道していた。興味がなかったので、チャンネルを変えるが、どこも同じ事件を扱っていた。

 しかたなしにその報道をみていると、どうやら地下鉄の車両に薬品をまいたらしい。

 数年前の地下鉄テロで大勢の人がなくなった事件があった。

 テレビは、まるでそれを真似たようだ、と言っていた。

 画面が切り替わり、記者会見が始まった。

 撒かれた薬品は消毒液で、地下鉄が汚染されているから浄化する、と言っている。

 犯人の精神鑑定の必要があるかもしれないらしい、ということのようだった。

 私は途中まで見て、テレビを切った。

 私が休んでいる時の事件で良かった。こんなことに巻き込まれたら、そのまま電車の中で缶詰状態になってしまう。

 そのまま机に行ってパソコンの電源を入れた。

 そしてコピーしたハードディスクをつないで、鷺沼の作ったファイルを眺めた。日記らしいファイルが幾つか見つかった。いくつか日記を書く期間があったようだ。

 一つは何か、自己啓発書を読んで日記をつけることにした、と書いてあって、一週間ぐらい続いていたものだった。

 もう一つは単なるアイデア帳のようなもので、不定期に書いていた。意味不明な文や文字の並びであることが多かった。

 そして最後の日記が例の水沢さんと付き合っていることが書かれているものだった。

 大きく息をして、こころを落ち着かせた。

 きっと水沢さんと鷺沼が仲良くしているような内容を読んだら、また頭に血が昇ってしまう。恋愛に対して子供のような反応をしてしまう自分が嫌だった。

 読んでいくと不思議なことに、私は水沢さんのことが書いてない場面にも水沢さんを含めた想像してしまっていた。例えば美味しいものを食べた、と書いてあるのだが、その向かいには水沢さんが座っていたのだろう、と思い、勝手に嫉妬していた。

 一月分を読んだ頃だろうか、鷺沼の日記に出てくる、ある単語に興味を持った。

 それは『助かった』というものだった。

 最初の内は対して書かれていなかったが、どんどん多くなっていた。

「『助かった』って、そんな口癖がだっただろうか……」

 誰に話しかけるわけでもなく、私はそう独り言を言っていた。

 その時、スマフォが振動した。

 充電が終わったのか、と思って画面をみると、メッセージアプリの通知だった。

『テレビを見たか? 犯人は消毒する、って言っているようだ。どういうことかわかるか』

 それは鷺沼の死について『自殺じゃない』と言っていた奴からのものだった。

 なんでこんな内容を送ってくるのか? 事件の事を共感して欲しいのか。

 私は返事をしていいものかどうか考えた。

『地下鉄のエアコンなんて腐ってる。消毒しようと考えるのは別段変じゃないだろう。いや、やらないが』

『これが鷺沼の死に関わっている、としたら? 話を聞きたくないか?』

 またか。

『お前あたま大丈夫か、精神科を紹介するぜ。良いクスリを出してくれる』

 顔を真っ赤にして食いついてきたら、スマフォを閉じてしまえばいい。

『精神科の出すクスリ…… お前こそ飲んでないだろうな。脳の活動を鈍くさせているだけだぞ。正しい現実認識ができなくなる』

『こっちの治療に口出すな』

『君にはいろいろと説明しといた方がいい。もしかして鷺沼と同じ会社か? ならxxに十時でどうだ。まだ来れるだろう』

『今は会社じゃない』

『休んだのか。なら最寄り駅を教えてくれ。そこに行く』

 強引すぎる。信用していいものだろうか。

 正直に言ったら、こっちの最寄り駅が知られてしまう。

 少し外れた駅を指定するべきか。

 普段使わない側の路線の駅名を調べ、そこを書き込んだ。

『このメッセージアプリで電話する』

 もう行くしかない。

 どうせ大した話ではない。自分を大きく見せたいから大げさに言うのであって、到底信用出来る内容ではないだろう。

 上着を羽織って、大通りに出てタクシーを拾った。往復したら三千円ぐらいかかってしまう。ドリンク、ポップコーン、映画のチケット、電車賃でそれくらいか。映画のように楽しませてくれれば元が取れるのだが。

 駅でタクシーを下り、相手のメッセージを待っていた。エスカレータで駅の改札側に登って回りをみた。

 人はまばらで、これが通常のならかなり寂しい駅だと思った。

 この状態から通話が始まったら、相手を確認して逃げることは出来そうにない。

 双眼鏡でももって遠くから監視していれば別だが、受け側が一方的に相手を見つけることが出来ず、通話が始まった瞬間、お互い顔が割れてしまうだろう。

 だから、ある程度覚悟を決めていた。

 命を取られるわけでもない。ただ、ちょっと頭がおかしい奴の話に付き合うだけだ。

『着いた。今降りたところだ』

 電車が走り去っていく音が聞こえた。

 かなりの人数が改札を通ったが、メッセージアプリに着信はなかった。

 電車を降りた人たちは、自分が来た側の反対側へ降りていった。おそらく、そっち側が駅の栄えている側なのだ。

 再び駅が寂しい状況に戻った頃、ようやく階段を登ってくる男がいた。

 季節外れのヨレヨレのコートに、時刻はずれのサングラスをしている。メッセージアプリからの通話はないが、コイツだ、と思った。外観からして痛い感じが、メッセージと同じ雰囲気を醸し出していた。

 その男がスマフォをいじると、こちらの手元のスマフォが振動した。

『通話要求』

 画面にはそう書かれていた。私はスライドして応答した。

『なんだ、そこにいるのか』

 私は辺りを見回した。ここで待っている人間は一人しか居ない。サングラスで見えないのだろう。

「どこか喫茶店でもはいりますか?」

「そうだね」

 答えを確認して、私が大勢の人が降りていったほうへ進もうとすると、男は引き止めた。

「そっちは明るすぎる。こっちにしよう」

 店があったかは記憶がなかったが、男のいう通りに戻ってみることにした。

 階段を降りると、バスロータリーの端に、薄暗い喫茶店を見つけた。

「あそこにしよう」

「えっ? 本当にやってる?」

 あまりに暗すぎて、営業中なのか怪しかった。

「とにかく行ってみよう」

 サングラスをかけたまま夜の町を歩くやつには、店が明るいかくらいかなんか関係ないだろう、と思ったが口にはださなかった。

 店が暗ければサングラスを外せるとか、そういう理由だろうか。

 店に入ると、一番奥の暗い席に座りサングラスをはずしたが、コートは羽織ったままだった。

 その一重の細いつり目がこちらを睨んだ。

「鷺沼の死因だ」

 スマフォをテーブルに置いた。

 何かの写真らしかったが、何かの模様が描かれているようだったが、何が写っているのか分からなかった。

「なに?」

「これが、何か、ってこだとだよな」

 私はうなずいた。

「カビだよ。いや、カビのようなもの、と言った方がいいかな」

「なんだよ判ってないのか。ならそれが原因かどうかも怪しいも」

「死因なのは確実だよ」

「カビだかなんだか判っていないのに?」

 その細い目を更に細くして、強く睨みつけてきた。少し怖くなって体を引いた。

「死は目に見える結果だ。カビかどうかは問題じゃない。ちゃんと調べてみればカビじゃないだろう。カビだったら人を殺しはしない。けれど人類はこれを例えるものを持っていない。だからカビ、とよんでいるだけさ」

 面倒くさい。格好だけではなく、何もかも痛くて面倒くさい男だった。

「人を殺すカビ、ね……」

 笑いかけたところで、男に胸ぐらを掴まれた。

「笑う話をしに来たんじゃない」

「なんだよ、いきなり」

「笑うな」

 腹がテーブルに食い込んで痛かった。

「逆の立場なら、その言葉を信じられたのかよ」

「……そうだな」

 急に手を離したせいで、勢い余って席の仕切りに頭をぶつけた。

 男は急に自身のスマフォを触り始めた。

 相手が話し始めるかと思って、ずっと待っていた。

 こっちもスマフォを取り出して、何か見ようかと思った頃、男が言った。

佐古田さこた

 そうだ、こっちだけ一方的に名前を知られている。

「……不公平だな。名前を教えろ」

「メッセージアプリに出てるだろう?」

「あんなの読めない」

「あれは、エンダーって書いてあるんだ」

「だとしたら、ここでは言えない。何か普通の名前を教えろ」

 痛い奴と関わると自分まで痛いと思われてしまう、私は呼び方にこだわった。

「仮名だぞ。あくまで仮名…… 宮田」

「宮田、さっきから何でスマフォを見ていた」

「今からそれを話すところだったのに、変な名前のことにこだわるからだ」

「じゃあ、そっちの話しを進めろ」

「そう、スマフォでこのメッセージアプリを眺めていると、鷺沼を死なせた『モノ』の目撃が投稿される。今からそこに移動してお前にみせてやる」

「死なせた『モノ』?」

「さっきみせた模様のようなものだよ。実際に見れるなら、説明するより理解が早いだろう」

「本当にみれるのか?」

 宮田はうなずいた。

「行こう」

 半分ぐらい残っていた残りのコーヒーを一気に飲み干した。

 まだ金が掛かるのか、と少し思った。

 都心方向への電車に乗り、乗り換えで駅からでてシャッターが閉められた地下の商店街を抜けた。ものすごい腐臭が時折ながれてきて、私は思わず鼻をつまんだ。

 地下鉄の駅の方へ曲がる角から、酔っぱらいがふらっと現れた。

「クロサングラスなんかして、見えんのか」

 宮田の肩がピクッと動いた。

 地下鉄駅の方に曲がって、酔っぱらいの姿が見えなくなった途端、大声で叫んだ。

「うるせぇっ、ばーーか」

 笑いそうになったが、さっきの喫茶店で首を締められている為、見られないように口元を抑えた。

「で、どこまで行くんだ」

「さっきの目撃情報と結ぶと、次はxx町だと思うんだ。路線と方向から考えれば間違いない」

 xx町の駅まで行くとなると…… 気が滅入って行きた。時間がかかりすぎる。

「大丈夫、もしかしたら途中駅で情報が入るかもしれんからな」

 地下鉄に乗って椅子に座った。

 宮田からそのメッセージアプリでの検索方法を聞いた。

 どうやらメッセージとともに写真を載せているその写真で一致するものを探すらしい。私も写真をもらい、同じように検索をかけた。

 結果を表示して一枚一枚投稿した写真を見てみる。どれもこれも地下鉄の駅が映し出されているばかりで、言うような模様ーーカビの写真は見つからない。

 同じような画像を見ているはずなのに、宮田とは結果が違う。

「そんな写真の結果は出てこないぞ」

「佐古田、これはある程度経験と勘をようする」

 宮田は自身のスマフォを見せた。

「例えば、この写真。ただホームを地下鉄のホームを撮ったもののように見える」

「ああ」

「しかし、写真編集をしてコントラストを変えると……」

 スマフォのアプリ側で何か濃淡や色をいじっていると、模様が浮かび上がった。なんとなく、さっきのカビのようなものと同じに見える。

「そ、そんなの変だろ?」

「画像検索で一致するのは、この目に見えないが、検索アプリでこの模様の一致を検出しているからに他ならない。だからこうやってあぶりだしているだけだ。カビに見えるように加工をしているわけではない!」

 車両内の何人かがこっちを睨んだ。

 車内は静かだったし、ウトウトと寝ている人も多かった。そうでなくともヒステリックな大声は、人の気をひく。

「(おい、宮田。声が大きい)」

「お前が疑うからだ」

「すまん」

「もしかして、お前も……」

「なんだ?」

「鷺沼の死は、お前が原因じゃないかってことさ」

 鷺沼を殺害したとでもいうのだろうか。

 そんなことはありえない。

 鷺沼が自殺した、その後の時刻につく電車に乗っていたのだ。だから会社に着くのが遅れ、そこで鷺沼の死を知った。俺が殺せる訳がない。

「まあ、いい。後でちょっと試させてもらう」

「?」

「そろそろ乗り換えの駅だ」




 乗り換えてしばらくすると、宮田が言った。

 宮田というのは相手が告げた仮名で、本当に宮田なのかどうかは、実は今もはっきりしていない。

「次で降りるぞ」

「もう二つ先じゃないのか?」

「状況が変わった」

 もう時刻は十二時を過ぎていた。

 そろそろ帰りの路線を検索しないと、家に戻れない。そういう意味ではこのあたりで決着が着けばそれにこしたことはない。

「わかった」

 地下鉄の駅に降りると、宮田はそのままホームの端まで歩いていった。

 この駅に降りたのは二人だけだったようで、見失うこともないので、ゆっくりと後を追った。

「はやくこい」

 電車が抜けていった方の闇を見つめながら、宮田が手招きする。

 小走りで追いつくと、宮田は線路方を指差した。

「見えるか?」

 サングラスをしているこいつの頭を疑った。

「宮田は見えるのか?」

「あそこの、赤い光の辺りだ」

 確かに赤い光がゆらゆらと動いている。だが、それは信号機の灯りが、溝の水たまりにでも反射しているのではないか。そう思えた。

「赤い光が不自然に揺れている?」

「違う!」

 宮田はサングラスを外して、怒りをあらわにした。

「これをかけてみろ」

 宮田のサングラスを渡された。

 グラグラしていたが、それをつけてその暗がりの方を見た。何も見えない。サングラスの汚れのようなものだけが気にかかる。

「何も見えない」

「光が見えないか?」

「光? 何色の?」

「黄緑色の、蛍光」

 じっと見るが、見えない。

 ふと気づくと、大きなサングラスの端には、ホーム側の光が写り込んだり、そういった後ろからの反射光が多いことに気付いた。

 私は後ろを指さして、言った。

「あれの写り込みをみてるんじゃないのか?」

「バカにするなっ!」

 喫茶店の時より逆上した感じだった。

「何度言ったら分かるんだ。お前、やっぱり鷺沼を殺したやつだな」

「その…… カビののようなものが殺したってお前言ってたじゃないか」

「だからぁ……」

 宮田は私の首を絞めてきた。

「くるしぃ…… ひとを呼ぶぞ……」

「お前が殺したんじゃないって証明しろ」

「鷺沼が自殺した電車の後の電車で出社したんだぞ、出来るわけ無いだろう」

「違う。ここで上着を脱げ」

「はぁ? お前って」

「違う。カビは発光する。鷺沼も死ぬ前にはそういう発光状態にあったはずだ。これだけ暗ければ発光すれば分かる。すぐ上着を脱いでみせろ」

 鷺沼が発光していた? 何かがつながりけていた。

「いいから脱げよ」

 締めていた手が、そのまま服のボタンをはずし始めた。

「わかった、わかった。脱がされるのは気持ち悪いから自分で脱ぐ」

 納得はできなかったが、脱いでカビでないことを証明しないと収まらないだろう。

 上着をはだけて上半身を見せた。

「こっちに向いてから…… あっちに行け。蓄光するから分かる」

 光のある方向に肌を出し、暗い側にすぐに動いた。自分でみても発光していない。

「わかった。お前はシロだ。鷺沼を殺したやつは、鷺沼の会社にいる、と思っていたんだがな」

「なんでそう思う? 根拠があるのか?」

「鷺沼の身近にいないと出来ないだろう。それと、鷺沼がおかしくなったのは同じ会社のやつとつるんでいたからだ」

 確かに私と鷺沼はプライベートでもよく遊んだ。まさか、自分が鷺沼を…… いや、だから飛び込んだ電車は自分が乗っていた電車の前だ。どうやっても実行出来ない。私が殺す動機もない。

 宮田は続けた。

「鷺沼は何か妬みを受けていた」

「会社で、か?」

「何で妬まれたのかは知らない。俺は会社での業績とは知らないからな」

「……」

 鷺沼は確かに仕事は出来たが、妬まれるほど出世コースだったか、とか、目立った成績だったか、と言われるとそんなことはなかった。

「人間、都合が悪いことは忘れてしまうからな」

「どういう意味だ?」

「お前は精神科から出されているクスリを飲んでいるらしいじゃないか。なんでカウンセリングなんか受けているんだ。それは鷺沼を殺したからじゃないのか?」

「なんで裸になってまで証明したのに、また疑われなきゃいけないんだ」

「……それくらい慎重にしないと騙されるぞ」

「ふん……」

 はだけた上着を整えていると、べちょべちょと耳障りな音が聞こえ始めた。エアコンの風音が少し小さくなった。

 自分の服を見ながら、嫌な予感がした。

 何か視界の隅に変なものが見えている気がするのだ。

「宮田、あそこに何か見えるか?」

「見えない」

 見ると、宮田はまたサングラスをかけていた。

 こんなに薄暗い地下鉄の駅で、サングラスをかけていたら見えるものも見えない。

「!」

 ボタンをかけている指が震えた。

 対向側のホームの下、排水路を這い上がる生き物…… いや、液体? が見えたのだ。

「サングラスを取れ!」

「痛てぇなっ!」

 私は焦って宮田の顔からサングラスを取ろうと引っ張り、つっかけてしまった。

「早くあれを見ろ!」

 液体が垂れるような、小さい音がした。

「見えたか? 見たか?」

「何もない。何も見えないぞ」

 ちきしょう。お前がこんなところにつれてこなければ……

「震えてんのか? 寒いのか?」

「ちきしょう、なんでサングラスなんかしてやがんだ」

「サングラスをしてないと、例のカビはみえないんだ」

 ちきしょう、こいつはただの『痛いヤツ』だ。

 コイツのせいで変なものを見てしまった。

 人間と妖怪、とか異世界とか、そういう境界にいるような不気味なものを見てしまった。

 私は震えが止まらなかった。

 頭のなかでカウンセリングの先生が言いそうなことを想像した。

『何かの見間違いでしょう?』

『ゴキブリとか、羽虫とか』

『あるいは何かを運んでいるネズミを見たのですが、ネズミ自体は穴に隠れていた。ネズミについた糸くずとかコンビニ袋が動くのを見て、液体のような生物と思ったのかもしれません』

『人間の認識力なんて、けっこういい加減で、そんなもんなんですよ。気にしないで』

 そうやって、自分の心が落ち着くのを待った。

「もう、出ないようだな」

 宮田はまた線路の先の信号の方を見つめていた。

「帰ろう。もうこんなところにいるのはごめんだ」

「お前は逆方向の電車に乗ればいい。そこの階段から回れば反対側のホームにつく」

「宮田はどうするんだ」

「俺はこの方向に乗ればいい。じゃあ、また」

 また? もうお前と話しもしたくない。

 胸ぐらを捕まれ、罵られ、上着を脱いだり、変な生物を見させられた(変な生物は自分で勝手に見てしまっただけだが)。

 今後、宮田からメッセージを出されても見ないし、もう会うことはないだろう。

 私はそう思いながらもこう言った。

「じゃあ、また」

 反対側のホームへ回る為の通路へ降りていく途中で、悪寒に襲われた。

 工事中の黄色と黒のテープが一部貼られており、水の流れる音がしていた。

 そして、細いその階段を降りきると、天井の低い通路は工事用のライトがところどころを照らしているだけで、より暗かった。

「!」

 何か通路の天井から垂れたような気がして、足がすくんでしまった。

「どうしよう……」

 怖くなって動けなくなってしまった。

 ホーム側から電車が到着するアナウンスが流れてくる。宮田はそれに乗って帰るだろう。もし引き止めるなら未だ。あるいは反対だが、一緒の電車にのってもいい。

 線路の下を通る通路為か、列車が近づくにつれ音が響いてくる。早く決断しないと……

「戻ろう」

 独り言を言って、私はさっき来た階段を走って戻った。しかし、その時には、電車は走り始めていた。ホームに宮田の姿はない。

 もう一度階段を下りて、その通路に向いた。

 さっき垂れたなにかが、鷺沼を殺した化物であったらなら、もうとっくにこっちがやられているはずだ。だからあれは化物ではなかった。そう考えて、通路に入っていった。

 一層ジメッとした空気が漂っていて、何かの匂いがする。コンクリートの床は濡れていて、苔でも生えているのか、強く蹴ろうとすると滑った。

「なんなんだ……」

 そっと歩いていると、ホームからアナウンスが流れてくる。調べてはいないが、時刻的には最終に近かった。だから、急ぐしかなかった。

「!」

 走り出した途端、何歩もしないうちにズルっと滑ってしまった。

 右の手のひらと左肘を強打した。

「何かいる…… のか?」

 天井から壁から染み出している液体が、光っているように思えた。

 それらに殺されてしまう。

 痛みをこらえて、急いで立ち上がり、反対側の階段を駆け上った。

 電車が入ってくる音が聞こえる。

 いそがないと。

 られる。

「待ってください」

 電車の扉が開く前だったにも関わらず、私は車掌にそう言った。

 痛い。

 どうやら足も打ったみたいだ。階段を登る時は気が付かなかったが、左の膝が激しく痛い。

 足を伸ばしたまま、ゆっくりと電車に近づいた。

 車掌は私に気がついたようで声をかけてきた。

「大丈夫ですか?」

「そこの地下通路が濡れていて滑ってしまったんです」

「それなら駅員を呼びます。駅で治療出来なくとも、救急車を呼ぶなり出来ますから」

 私はこの駅にとどまることが得策で無いように思えた。さっきの液体のような生物がいるからだ。

「いえ、大丈夫です。私の不注意です。だから、大丈夫です。お願いです。電車に乗せてください。お願いです。訴えたりしませんから……」

「……名刺をお渡ししておきます。何かございましたら連絡いただけますでしょうか」

 車掌は一度マイクを取ってアナウンスすると、私に肩を貸してくれた。ゆっくりと車両に座り、私は車掌にお礼をした。

「助かった……」

 車掌と駅員が話し込んでいて、ドアが開いたまま電車が出発しない。

 何をしているんだ。

 早くしないとあの液体が……

 私は車掌達の先にある連絡通路の階段をじっと見ていた。何か黒くて、蛍光を発するものが動かないとも限らない。

「まずい」

 この座席に座っていたら、液体の餌食になってしまう。もっと先頭の車両に移らないと……

 私は痛みを我慢して立ち上がり、前の車両へと移動を始めた。

 数は少なかったが、乗っていた乗客が嫌そうな顔をする。

 気になってドアのガラスに映った自分の姿をみた。

 左腕は血だらけ、右の手のひらは泥だらけ。ズボンにも黒い汚れがついている……

「!」

 黒い汚れ?

 自分で車内にあの液体生物を持ち込んでいるかも知れない。

 その場で慌てて泥を払った。

 回りの乗客がまた私を見た。乗客の顔は『嫌そう』から、怒った顔に変わった。

「す、すみません」

 誰に謝るでもなく、そう言うと、車両を移動した。ようやくアナウンスが入って扉が閉まる音がなった。

「助かった……」

 手すりを使って回るようにして椅子に座った。

 反対側の窓には、駅のホームが見えていた。

 電車が動き出し、地下の闇に入った瞬間、ガラス窓に自分の姿が映った。

「!」

 体をねじり後ろを振り返った。

 蛍光を発する液体が張り付いている……

「うっ、あっ!」

 私は立ち上がると同時に、足の痛みと電車の加速で尻もちをついてしまった。

 それとほぼ同じタイミングで、べちょ、という音がして、黒い液体はガラスから剥がれてしまった。

 その車両の乗客も、変なものを見るような目で私を見ていた。

 お前らはただ、無知なだけじゃないか。

 あとちょっとで、あの奇っ怪な液体生物の餌になりかけたんだぞ。

 重大な真実を知らないだけじゃないか。ちきしょう。




 この時は、早く誰かに教えなければならない、と妙な焦りがあった。

 どこに通報するのか、警察庁、環境省、いや…… 防衛省になるのか。地下鉄を早く除染しないと、手遅れになる。

 地下鉄や電車に飛び込んで自殺する人は多い。この液体生物が何割関わっているか、と思うとゾッとした。

 色々と調べて、省庁のホームページからメールを書きかけてやめた。

 自分が精神科に通っていることはすぐバレてしまう。

 地下鉄を除染する、という事件。あれも犯人の精神鑑定をするらしい。

 だから、事実だとしても受け入れてくれないのではないか、と。

 宮田のやり方を使って、この液体生物の写真…… いや動画か。客観的な証拠を取ってから連絡すればいい。それなら精神科に通っていようが関係ないはずだ。

 と、そう思ったのだ。今、考えれば、どれだけ危険なのかを分かっていなかった、というより他なかった。




 液体生物の証拠をつかまないと大変なことになる。

 私は会社にいる間も、暇さえあればそのことを考えていた。鷺沼のような人間を増やしてはいけないのだ。

 私は昼過ぎからずっとパソコンを操作しながら、資料をまとめていた。

「佐古田、資料まだまとまらんのか?」

「はい。もう少し時間をいただけますか?」

「何に時間が掛かってる?」

 私は立ち上がって課長のところに行った。

「どう見せようかと」

「データは揃ってるんだな?」

「はい」

 うなずくと、課長は水沢さんの方を見た。

「水沢」

 課長の前に水沢さんが呼ばれてやってきた。

 私の隣にたった。

「なんでしょう」

「佐古田から資料のファイルを受け取って、仕上げてもらえないか。データはもうある。見せ方の方針としてはこんな感じだ」

 課長は紙に書いたイメージを見せた。

「わかるか?」

「大体」

「佐古田、水沢にファイルを教えて、お前はxx商事の松田さんに書類を届けて、代わりに新しい機材のパンフレットをもらってきてくれ。急ぎなんだ」

「はい」

 書類を受け取り、自席に戻ってxx商事の松田さんに連絡をいれた。

「佐古田さんファイルの場所を」

「ああ…… そうだった」

 水沢さんの席に行って、画面を指した。

「これだよ。シートの2番目にデータが入っている」

「ありがとう」

 そう言うと水沢さんの香りがした。

 ずっと近くで話しをしていたいと思った。

「?」

「佐古田、頼むぞ」

「あ、はい」

 私は慌ててフロアを出た。

 会社の真下にある地下鉄の駅で電車を待っていると、水沢さんの姿が思い出された。

 華奢な肩、細い首、綺麗にウェーブした髪。

 近寄ると良い匂いがして、ずっとそこにいたくなる。鷺沼はこのと付き合っていたのか……

 嫉妬心が湧き上がる。

 ふと、反対側のホームを見ると、自分の姿が鏡に映っていた。

「!」

 その鏡の中に、鷺沼の顔が浮かぶ。

 びっくりして後ろを向くが、そこには誰もいない。

 もう一度反対側のホームににある鏡を見るが、やっぱり自分以外の人物が後ろに立っているように見える。

 振り返れば消えるのなら、カメラでならどうだ、とスマフォをインカメラに切り替えてそっと自分の正面に掲げる。

 ……だれもいない。

 念の為写真を撮ってみる。

 電車が走ってくる音が聞こえ、ホームにアナウンスが流れた。

 写真も拡大しても何も見えない。

 何だったんだろう。

 電車にのってxx商事に書類を届け、松田さんんから新しい機材のパンフレットを受け取った。

 新しい機材がどう変わったかの説明を一通り受け、パンフレットにメモ書きを付けておいた。

「それでは失礼します」

 xx商事を出た時は、時間が微妙だったせいで、近くのカフェに入って一服することにした。

 コーヒーを飲んでゆっくりしながら、ふと、さっきの駅で撮った写真を宮田のやり方で加工してみることにした。

 色を白黒にして、コントラストを強めていく。

光と影が強くにじみ出るように浮かび上がってくる。

「これって……」

 浮かび上がってきた画像にゾッとした。

 明らかに人の顔の形をしていた。

 鷺沼の顔と言えばそうとも言えた。だが、目がギョロっとしていて、鷺沼の感じとはすこし違うようだった。ただ、飛び出し気味のその目の様子のせいで、画像の気味の悪さが増していた。

「確かに鏡で見た感じと同じだ」

 後ろを振り向いて気付かないものが、画像を加工して出てくる。しかも鏡を通してみれば分かる、というのだ。

 私はこれが何なのか、何見たのか考えていた。液体生物だとして、私の肩の近くに現れたのだとしたらなぜ私を襲ったり、しなかたのか。

 それとも誰かがいたずらで私の後ろで、立ったりしゃがんだりを繰り返していたのだろうか。

 本当に誰かいたのなら、もっと簡単に気がついても良いはずだ。

 クスクス、と笑い声が聞こえた。

 なんだろう、と思って声のする方も見ても笑っている人はいない。

 おそらく女性だ、と思って左手にいる女性の方を見つめると、その女性がキッと睨み返してくる。

 違う、子供か、と思い店内を眺め回す。

 見せの外に私学に通う子供が黙々と通り過ぎていった。

 まさかあの子の笑い声ではあるまい。

 また、クスクスと笑い声が聞こえた。

 目を見開いて、どこの誰が笑ったのか見逃さないようにしているのに、笑い声は聞こえるのに笑っている人は見つからない。

『笑い声が止まない時はクスリを飲んでください』

 先生の姿が思い出された。

 もしかして、精神がまいっているのか……

 カバンからクスリを取り出し、水を少し口に含んだ。

 錠剤を口にいれ、水と一緒に飲み込む。

 いつになったらこのクスリはきくのだろう。

『笑い声が止まない時はクスリを飲んでください』

 またカバンからクスリを取り出して、ハッと気付いた。

 さっき飲んだばかりのことを忘れていた。

 それより、社に戻って機材のパンフレットを課長に届けないと。

 飲み込めなかったクスリが舌にこびりついている。

 それをコーヒーで飲み込もうとして、不快な気分になる。舌の上にあるクスリなのに、何か変な匂いがするように感じるのだ。これはいつも先生に言っているんだが、出されるクスリはいつもこれだ。

 クスクスと、私を笑うような声が聞こえてくる。

 誰を笑っているわけではない。

 私を笑っているのだ。

 不快なクスリ、変な匂い。

 コーヒーを片付けて、店を出る。

 地下鉄の駅に降りていくと、急に音が遠くなった気がした。

 視界にもやが掛かったように白くボケている。

 早く社に戻らないと。

 電車がホームに入ってくるが、遠く離れたところを走っているように感じる。

 スマフォを開くと、宮田が『クスリを飲むなと言ったろう』とメッセージを出していた。『なんで?』と聞き返す。『飲んだら、カビの思う壺だ』カビだって? 液体生物のはずだろう。カビなんて言って俺をだまそうとしているのか。

「危ない!」

 急に現れた駅員は、私の胸を触った。

「危ないから、黄色い線の内側にさがって」

 内側に下がる? ホームのアナウンスはビハインドイエローラインと言っている。だとすれば、黄色い線の後ろに下がれ、ではないのか?

 ぐらぐらと風景がゆれる。

 電車がホームに止まると、ドアが開き、流水のように人が滲み出ていった。

 一人一人の顔が、流れて見えない。

 どうなってる?

 前からの流れがなくなると、急に後ろからも同じように人が流れてきた。

「乗らないのですか?」

「いえ、乗ります」

 後ろからの流れもなくなった後、私はようやくドアから電車に入った。

 この麻痺したような感じは……

 クスリが過剰に効いたのだろうか。もしかして、飲み過ぎた、か?




 会社のある駅についた時には、体が重くて電車を降りるのがやっとだった。

 過去の経験から考えると、この感じはクスリの影響に違いない。

 早くここを出て、社に戻らないと、こんな状態のまま駅にいたら液体生物に食われてしまう。

 重くて淀んだ空気の中を泳ぐように手をかくが、重いように感じる空気は全く手応えがない。早く社にもどらないと。

 階段を上がり、エレベータホールで待つ間も、必死にもがいているのに、体はちっとも前に進まない。

 エレベータを降りると、同じ部署の後輩とすれ違った。

「お先に失礼します」

「もう帰るのか?」

「定時とっくに過ぎてますよ」

 エレベーターが閉まった。

 感覚が全く戻ってこなかった。

 部屋に戻ると、水沢さんが帰るところだった。

「お先に失礼します」

 私は会釈だけして、そのまま課長の席へ向かった。

「とどけてきました。それとこれ」

「おう、ありがとう。こんな時間になるなら、パンフレットは明日でもよかったんだがな」

「えっ?」

 課長の視線の先を追った。

 柱に時計がかかっているはずだ。

「?」

 時計の針が見えているのに、時刻が分からなかった。

「まあいい。お前は疲れてるみたいだから、すぐ帰って良いんだぞ」

「疲れている?」

 私は自席に戻って、パソコンの画面を開きメールをチェックしようとしたところで、強烈な眠気が襲ってきた。

 左目をかるく閉じたのは覚えている。




 この時、私は気を失っていたらしい。

 救急車で運ばれ、入院先に人事の担当が来て説明してくれた。

『回復するまで、しばらく休んでください』

 それはつまり、会社に来るな、という意味だった。

 来るな、という意味ではあったが、有休を使わされた。

 思えば、この間、会社側は私の転勤先の調整をしていたのだと思う。




 目が覚めると、病室だった。

 体が動かなかった。

 周りの灯りのようす、人の動きが見えないことから、夜なのだ、と勝手に思った。

 トイレがしたくなり、ベッドから起きようとして体を起こそうとしても重い感じがして全く動かない。

「誰か…… いませんか……」

 声もロクに出ない。

 もう一度、全力で叫ぼうと考えた。

「だれ…… か…… いま…… せ……」

 口を動かすこともできなくなってきた。

 そうだ、なにか看護師を呼ぶ方法があるはずだ。

 頭の上の方に腕を出そうとしても、かけられている布団の重さで腕が引き上げられない。どうなっているのか状況が分からない。

 それより、自分は会社にいたはずだ。

 どこで倒れたんだ…… そうか。そうだ、会社しかない。パフレットを課長に渡して、その後…… その後の記憶がない。眠かったが、眠かっただけのはずだが…… 推測するなら、そこで倒れたのだ。

 今も眠いのは、おそらくクスリのせいだ。

 何日たっているんだ。まだクスリが効いてるなんて……

 それより腕が動かない。

 口も動かないから、誰も呼べない。

 誰にも気付かれないまま、深い深いプールに沈んでいくようなイメージが頭をよぎる。

 声は泡になる。

 地上の様子は殆ど見えない。灯りすら遠くでぼんやりと揺らいでいる。

 苦しい。

 このまま死ぬのだろうか。

 もう意識は戻らないのだろうか。

 まだ、色々やり残したことがあるのに……

 このプールに沈んで死ぬのか。

 必死にもがくが体は動かない。

 遠くに看護師が歩いているように見える。

「か…… ん…… …… 」

 揺らめく先に見えていた人も消えた。

 ダメだ……

 私は絶望とともに意識を失った。




 目が覚めると、部屋は明るかった。

 廊下からハッキリと音が聞こえ、扉が開くと看護師がやってきた。

「お目覚めですか」

 私は腕を上げて看護師に触れようとした。

「何か欲しいものはありますか?」

 私は首を振った。

 もう一度、触れようとして腕を上げた。

 看護師は私のてをベッドに押さえつけた。

「先生の説明が必要ですか?」

 確かに腕が動く。

 看護師が押さえつける手から、体温も感じる。

 私は生きている。

 私はゆっくりうなずいた。

 看護師は慌てて廊下に出ていった。

「生きてる……」

 自分の声が部屋に響くのを感じた。

 後の不明な部分…… どういう訳でここにいるのかは、先生が話してくれるだろう。

 ドアからノックの音がした。

「はい」

 返事をすると、先生が入ってきた。

 看護師はいなかった。

「佐古田さん。どうしてここに来たか覚えていますか?」

「覚えていません。会社で寝てしまったところは分かっていますが……」

「そうみたいですね。そこで様子がおかしいから会社の人が救急車を呼んだわけですね」

「はあ……」

 まあ、そうじゃなければこんなところにはいないはずだ。

「佐古田さん。あなたはクスリを常用していましたよね」

「はい。パニック症候群と言われてクスリをもらっています」

「それを飲み間違えませんでしたか? 間違えたというか、特に飲む量ですね」

 そうだ。あの時だ。

 カフェで変な笑い声が聞こえて……

 飲み間違えたに違いない。

「そう、かも、しれません」

「佐古田さんが精神疾患で治療中とのことを聞き、運ばれてくるなり血液検査を行いました。しかし、血中から検出された成分から、それほど大変な量を飲み間違えたとは考えらません」

「?」

「これは、推測になりますが、あなたの罪悪感が症状に強く影響したようです」

 私はカッとなった。

「あんたは私が狂言で救急車に運ばれてきたと言いたいのか?」

「違います違います。そうじゃありません。言い方が悪かったですね。クスリの飲み間違えはあったと思ってます」

 そうだ。あの時。

 カフェで、クスクスと何度も笑い声を聞いて、クスリを飲んでも飲んでも効果が出ないから……

「!」

「とにかく、症状が落ち着いたようであればすぐにでも退院できますよ。他に具合の悪いところは見当たりませんから」

 ドアが再び開いた。

「食事の時間です」

 食事を運び込むのと同時、スーツを来た男性が入ってきた。

「佐古田さん、人事の橋本です。会社の方が気にしないで、ゆっくり治療にあたってください。後、出社する前に人事部に連絡ください。今回の件でお話することがありますんで。名刺渡して起きますね。しばらくは会社を休んで、病気の療養に専念してください」

 一方的に話し続け、ベッド脇のテーブルに名刺を置いて去っていった。

「どうしてこの時間に面会人を入れているんだ?」

「どうしても時間がないとおっしゃって」

「後で問題になるぞ」

 先生は振り返り、私に言った。

「とにかく、今は回復しています。申し訳ないんですが、退院の手続きをお願いします」

「昼食は用意がないので、午前中に病室は出ていただくことになります。もちろん、今お出しした分は召し上がってください」

 なんでそんなに慌てて退院させたがるのか。

 部屋には私と医者の先生と食事を運んできた看護師しかいないのに、子供のような高い声でクスクスと笑い声が聞こえてきた。

 私はクスリを探した。

「どうなさいました?」

「クスリはどこに置きましたか?」

「クスリ、ですか。病室に持ち込まれているのはこのカバンと靴、そこに掛けてあるスーツ、服のポケットに入っていたようなものは、その引き出しに入っています」

「カバン、そのカバンを取ってください」

 カバンを渡され、中を確認する。

 精神科で処方されたクスリが入ってない。

 それを飲んで、ここに運ばれたはずなのに。

「ない、ないぞ。どこへやった?」

 看護師は手を振った。

「存じません」

「当院ではクスリを預かったり、どこかへやったりとかはしてませんよ。お家にあるか、飲んだところに忘れてきたのではないですか?」

 クスクスと笑い声が聞こえる。

「笑うな!」

「佐古田さん。私も彼女も笑っていませんよ。何も不安になることはないんです。今あなたは充分健康です」

 違う、この笑い声の前に……

 何か、もっと重大なことに気付いたはず。

 私は食事もそこそこにして、退院の手続きを行った。

 スマフォの充電が終わると、記憶のある日付から三日経っていることが判った。

 三日の殆どを病室で寝ていたのだ。

 そんなに寝続けるのは重症なのではないのだろうか。退院させたがる病院に疑問を持ちながらも、家でやらなければならないことを思い出していた。

 それは液体生物が存在する証拠を探し出すことと、鷺沼と水沢さんの関係を調べることだった。

 家へ帰る為の経路を調べると、病院から最寄りの駅までタクシーを使った。

 ここから家までは都心を抜けなければならなかった。都心を通過する際に、地下鉄に乗ることになる。

 私は地下鉄に少し恐怖しながら、証拠をつかめるかもしれないと思い、電車に乗るなりSNSのメッセージ、画像を調べ始めた。

 乗り換え駅が近づくころに、直近の画像に例の模様が写っている映像を見つけた。

「ちょうど乗り換え駅のホームじゃないか」

 床を見つめながら、声にだしていた。

 電車が駅に止まり、慎重に周りを見回しながら降りる。

 乗り換えホームへと移動すると、ホームの下の影や、天井から滲み出てくる水、カビのような模様。それらに動くものがないかをじっと見ながら、ゆっくりと進んだ。

 スマフォの動画で撮ればいいはずだ。静止画を、宮田がやったように加工しても、誰も信じてくれないだろう。動画で『動く』ヤツが撮れれば、誰もそれがただの汚れだとは思わないだろう。

 スマフォを構えて、天井、柱、ホームの下、とゆっくり動かしてみる。

 何も動いている様子はない。

「!」

 その時、スマフォのバイブレータが動いた。

 動画撮影を中断し、誰のメッセージかを確認する。宮田だった。

『鷺沼の母親が死んだ』

 鷺沼の母のことを思い出した。

 何か頼まれていることも同時に思い出した。

 鷺沼の日記。『発光』のなぞ。

「そうだ……」

 私はホームの床にそう言った。

 早く家に帰って鷺沼が書いた『発光が酷くなった』という意味を調べないといけない。

 会社に来ないで療養しろ、と言われているのだ。会社に行かない分、ゆっくり、じっくり調べられるではないか。

 私は入線してきた電車に慌てて飛び乗った。

 家で鷺沼のノートパソコンをコピーしたハードディスクを調べていた。

 日記と思われるファイルを見ていると、ところどころフォントの色が背景と同じになっていて、ぱっと見では見えなくしてある部分に気付いた。

 大半はつまらないことが書いてあった。

 ただ、一々それをやっているのが面倒なので、全文を選択してフォントの色を指定した。

 初めから読み返したが、読み物としては退屈だった。

 鷺沼の日記を読んでいる途中で、何度か眠たくなって寝てしまった。

 ようやく、その『発光』のくだりまでを読んだのだが、私にはそれに関わる他の出来事がどれなのか分からなかった。

「なんで鷺沼は突然、発光のことを書いているのだ」

 日記の流れでいうと、発行は水沢さんと付き合いだしてからずっと後のことだった。

 付き合い始めた頃は水沢さんとのデートのことを詳細に書いてあって、そこを読むと気持ちがざわついた。

 しかし、別れた様子もなく水沢さんのことが書かれなくなっていた。

 代わりに健康状態のことや、地下鉄が汚れていること…… 何か汚染されているような事がしきりに書かれていた。

 その後、結局すべてを読んだが発光の意味は分からなかった。

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