終末にはデートを

歩隅カナエ

終末にはデートを



「私、間宮まみやになら殺されてもいいのになあ」

 独り言にしては確かな音だった。

 いつもはその手の冗談なんか絶対に口にしない彼女が唐突にそんなことを言い出したので、僕はつい、持っていたテレビゲームのコントローラーを落としてしまった。がちゃんと派手な音が響くと、その反動で静寂が殊更に強くなったように感じて、本意であるはずの沈黙もただ痛いだけの気まずさに変わる。

 動揺しながらも平静を装い、ベッドの方へと顔を向ければ、弛緩しきった顔で寝転がる彼女と真っ直ぐに目が合う。彼女は振り返った僕を見て控えめに笑うと、「なあに、その顔」と言って小馬鹿にしたように笑った。

……こっちの台詞だ。

 言いたかったけれど、言えなかった。

 鈍い僕にだって流石にわかる。その屈託無い笑顔の裏側で、彼女は僕を挑発しているのだ。

 だけど、今の僕には彼女の欲しがっている言葉の持ち合わせがない。よしんば用意があったとしても、口にできるかどうかは怪しいところだ。僕が言えないことをわかっていて、それに痺れを切らした彼女の遠回しな要求だったとしても、僕にはそれに応えるだけの勇気がなかった。

 とはいえ、何かしらのレスポンスは返さなければならない。これが致命的な亀裂に発展しないように、取り繕って誤魔化さなければ。

 もしも彼女にそれが伝わってしまっていたとしても、それがとても情けないことだったとしても、形骸的なものに頼って保てるものがあるなら僕は迷わずそうする。

 だけど、怯んだ喉は壊れた笛のようにすかすかと空気を漏らすだけで、誤魔化しの乾いた笑いも出てこなかった。掠れて頼りない声が出そうだと思えば、動揺を悟られたくなかった僕は言葉を諦めて視線を彷徨わせる。

 ふらふらと歪な軌道を描いた後、改めて彼女の方に視線を向けると、依然として僕を眺める彼女と目が合った。

 じっ、と僕を見つめる彼女の瞳。強く光って、けれど、どこかか弱く痛々しい。今にも罅が入って、そこから粉々に割れていってしまいそうなそれは、だけど、ビー玉みたいに澄んでいて綺麗だった。

 少し吊ったアーモンド型の瞳が、力なく目尻を下げている。一見優しげにも見えるそれが、儚い色を帯びていた。

 彼女が時折見せるようになったその強がるような笑顔が、僕にはどこかわざとらしくさえ見えていた。無理に皺の寄った目元や、上がりきっていない口角や、装えていない不自然さが、有無を言わさぬ脅迫のように感じられて怖かった。それが彼女の意図するところなのか、それとも僕の負い目から来るただの被害妄想なのかはわからない。そんなこと知りたくもないくせに、自分は結局どちらでも構わないのだろうと思えば、情けないと思うその反面、疼痛は少しだけ和らいだ。

 格好悪いぞと、言い聞かせるように幾度もそう繰り返す。せめてもの保身として僕はそれを肯定している。卑下して、軽蔑して、次こそはと勇ましく誓いを立てながら、だけど今日もまた僕は僕を裏切り続ける。積み重なっていったその自重で一層深く首を凭れた。

 それにしたって、冗談でもそんなことは言って欲しくなかったし、例え冗談ではないにしても、軽々しく口にしていい台詞ではなかったように思う。

 まあ、それだけ僕が情けないって話なんだけどさ。

 襲って来る鬱気にひとつ息を吐き出せば、彼女はそれを当てつけと受け取ったのだろう、ぱっと身体を起こし、不本意だったというように申し訳なさそうな顔で此方を見やった。そうして、へちょんと眉尻を下げて謝ってくる。「ごめん。怒った?」

 ベッドから身を乗り出すようにして僕の顔を覗き込む彼女。前屈みになった所為でブラウスの隙間からは雪のように白い肌が覗いてしまっている。僕はそっと目を逸らし、「別に」とぶっきらぼうに言い捨てると、再びテレビの方へと向き直った。ゲームを再開させようと、汗ばんだ手でコントローラーを握り直す。

 テレビの液晶には大きく赤い文字で「GAME OVER」と標示されていた。どうやら彼女と話している間にゾンビからの奇襲攻撃を受けてしまったらしい。残機はもう残っておらず、画面には「CONTINUE」の選択肢がちかちかと点滅している。その横では猶予時間のカウントダウンが目まぐるしく減っていっていた。

 僕はそれを見て酷く落ち着かない気分になった。血管の中を焦燥が駆けてゆくような感覚がして、指先から力が抜けていく。

 けれど、当の彼女はと言えば「死んじゃったねえ」とつまらなそうに呟くだけで、これといって何か思うところはないようだった。

「お前の所為だけどな」

「いやいや、私の所為じゃないでしょ」

「違うね。お前が変なこと言うからだ」

「変なこと言う身体? なにそれ、えろい。身体は正直だな、みたいなヤツでしょ。由美子の熟れた身体は久しぶりの快感に思わず嬌声を上げた、的なね」

「歳上いいよね」

「由美子って私のおばあちゃんだけどね。間宮って熟女好きだっけ」

 その返答は予想外だ。

 うげえと顔を顰めていると、彼女は呪いのビデオさながらベッドから這い出して、そのままずるずると身体を引き擦り此方へ向かってきた。そうして胡座をかいている僕の背中に飛び付き、力を抜いて凭れ掛かってくる。軽い衝撃に「ん」と小さく声が漏れた。

 彼女の綺麗な黒髪が視界の隅を掠める。首筋に生暖かい吐息が掛かって擽ったい。仄かなシャンプーの匂いに頭がくらくらした。

 女性に対してあまり免疫のない僕は、たったそれだけのことで、なんだか過剰にドギマギしてしまう。強張る身体を解すように、身じろぎしながらこくりと生唾を飲み込むと、彼女は目敏くそれに気が付いて、心底楽しそうに口角を吊り上げた。

「おや、顔がニヤけてるよ?」

「失礼な。僕は生まれた時からこういうクールな顔なの。ダンディなの。ニヒルなの」

「はいはい。醜いニヒルの子ね」

「どう大成するんだそいつは」

 呆れたようにそう言うと、彼女は腕に力を入れて一層強く抱きしめてきた。突然の抱擁に思わず身体が跳ねる。小さいとはいえ、そこまで強く押し当てられると、男としては少々居た堪れないものがある。加えて、日常的に胸の小ささを揶揄っている節があるからか、意識していることを悟られるのも恥ずかしかった僕はええ何も動揺していませんよと平生を装うことで男の矜持を立て直した。

……世の女性がもう少しお淑やかになりますように。ビバ大和撫子。

「おい」

 僕が拒絶を示すと、彼女は「んー」と間延びした声を出して、今度は僕の首元に顔を埋めた。彼女の鼻先と微かに湿った唇が肌に押し付けられる。そうすると、否が応でも心臓は高鳴った。やけに喉が乾いて、僕はもう一度、今度は聞かれるのを承知で生唾を飲み込んだ。高鳴る心臓を落ち着けるようと、ゆっくり深呼吸をする。

……なんと言うか、本当、子供だ。

 僕も、もちろん彼女も。

 普段は無骨で、少し淡泊なところのある彼女だから、こうして甘えられるとそう悪い気がしない。自分にしか見せてはいないだろうその姿に、いっそ愛しさすら覚える。

 僕だけが独占できる、彼女の弱さ。

 だけど、僕にはそれが腹立たしかった。

「おい、そろそろ」

 さすがに暑苦しかったので引き離そうと声を上げれば、今度は僧帽筋の辺りをはむはむと甘噛みされる。くすぐったくて身をよじっていたが、しまいにはちろちろと舌を這わせてくるので、僕は堪らず悲鳴を上げた。

「ちょっと、ねえ、やめろ」

「ひゃあはまっへ」

「何言ってんのか分からん」

 僕がそう言うと、彼女はつうっと銀色の糸を引かせながら口を離した。

「じゃあ構って」

「今は忙しいので無理です」

「ゲームばっかじゃん。つまんない」

「はいはい」

「ねえってばあ」

「なあに」

「構ってよう!」

 今度は子供のように駄々を捏ね始めたと思ったら、獲物を捕獲する猛禽類のように両手でがしっと肩を掴み、脳をシェイクするかの如く、がくがくと前後に揺らし始める。しばらくは無視を決め込んでいたが、これ以上は脳味噌がスクランブルエッグになりかねないと危惧すれば、僕はとうとう降参の声を漏らした。

「ああ、もう、分かったから。揺らすな。揺らさないで。揺らすべからず」

「わあい」

 彼女はようやく僕の肩から手を離すと、先程と同じように首に腕を回して抱き付いてきた。今度は僕の顔の真横に彼女の顔がくる。ちらと横目で見やれば、にたにたといやらしい笑みを浮かべた彼女が勝ち誇ったような様子で此方を見ていた。

 こんにゃろめが、と恨みがましい視線を送りながら、今度はわざと溜息を吐いた。洋画のような所作で降参の意を示す。「わかった、わかったよ」

 僕はコンティニューを諦め、渋々ながらも「タイトルへ戻る」を選択し、ゲームの電源を切った。コントローラーをテレビラックへと乱暴に投げ込み、首を包むように回された彼女の腕を掴んだ。

 乱暴に扱えば折れてしまいそうな細い腕は、きっと傍から見たら綺麗なんだろうけれど、僕の目にはなんだか酷く不気味に映る。病的な白さなのだ、彼女の肌は。

 沙羅双樹って、やつ。

 そんな彼女の肌はさながら屍体のように冷たく、存在感は薄氷よりも頼りなくて、無機物にでも触れているかのようなその感触は、だから、人形やマネキンに触れる時のそれにまったくよく似ていた。そうして触れるたびに、僕は彼女の存在の軽薄さを再認識させられる。

 僕はそのまますっくと立ち上がった。彼女は「おわっ」と可愛げのない悲鳴を上げて首にしがみつくと、振り落とされまいと首に回した腕に力を込めてくる。首を折られては敵わないので、前屈みになって少し猫背の姿勢を保った。

 ふと、彼女が抑揚のない声で言った。

「あのさ、ここまで成長した人間がおんぶされてるのって、なんかすごく滑稽じゃない? 恥ずかしくなってきたんだけど」

「僕は虚しくなってきたけどな。こんな天気の良い日に、いったい何をしてるんだろう」

「いや、間宮は私のおっぱいが背中に当たってるんだから、至福の時間でなきゃおかしい」

 彼女がトチ狂ったことを言い出したので、僕は「Aカップが何言ってんだ」と言った後、遠心力を利用してその重たい荷物をベッドに放り投げた。ぼすん、と派手な音を立てて荷物がバウンドする。

「おい、こら」

 ぼさぼさになった髪を手櫛で梳かしながら、彼女が抗議の声を上げる。お姉さん座りをそのまま前に倒した様なポーズには、およおよというオノマトペが似合いそうだった。

「花の女子高生を投げるとは何事だ!」

「ああ、そっか。ごめんごめん。投げ技よりも寝技の方が好きだもんね」

「ちげえし」

 唇を尖らせてそう言ったあと、彼女は壁に寄り掛かるようにして座ると、枕を抱き込んで縮こまった。そうしていると、ただでさえ華奢な体躯が殊更に薄っぺらく見えてくる。

 僕は緩慢な動作でベッドの縁に腰を下ろすと、半身で振り向いて彼女の方を見やった。そうすると彼女は一層強く枕を抱き、そっと顔を伏せる。一瞬、何かを躊躇するような所作を見せた後、懇願するような上目遣いで僕を見た。

「……するの?」

 消え入りそうなその声は、子供が母親に玩具を強請る時のそれにまったく酷似していた。それがとても悲しく思えて、なのに抱き締めたいほど可愛くて、そんな相反する自分の感情を僕はどう対処していいのかわからなかった。

「するよ」

 言うと、彼女はゆっくりとブレザーを脱ぎ捨て、次には紺色のカーディガンへと手を掛けた。顎を引いて確認しながら、ボタンをひとつずつ外していく。不器用な彼女はしばらくそうして苦戦していたようだったが、それでもやっとこさカーディガンを脱ぎ終えると、今度はブラウスのボタンを外す作業に移った。

 まだ温もりの残っているであろうブラウスが、さらり、と音を立ててベッドに落ちる。

 恥ずかしがる様子もなく、彼女は僕に肌色を晒した。真っ白な肌には黒い下着がよく映えていた。コントラストって言うんだっけ、こういうの。

「綺麗だよね」

「そう? ありがとう。ていうか、何いきなり。気持ち悪いなあ」

 そう悪態を吐きながら、焦らすように手を止めていた彼女だったが、とうとうスカートへと手を掛けた。制服のスカートのみを着用しているというそのアンバランスさは、僕の目に何故か酷くリアルに映る。学生の規律を象徴する学校の制服が、なんだかとてもいやらしいものになっていくような気がした。

 色濃く、焼き付くように瞼の裏側に残る彼女の姿は、現実から浮き出るように鮮明だ。この堅実な三次元の世界よりもずうっと艶やかに、彼女はそこに存在している。

 現実から目を逸らしたことなんて一度もない。いつだってありのままを、あるがままを享受してきた。誤魔化すようなことはしてこなかった。捻くれてはいるけれど、素直に生きてきた。それなのに、目の前にいる彼女はそんな正しさよりも確かな輪郭を僕に晒している。僕はその圧倒的な生々しさが怖いと思う反面、だけど、それだけが彼女の存在をここに繋ぎ止めていてくれるような気がしていた。

 未成熟な身体に妖艶さはなく、その細さに心配すら湧いてくるのに、僕の方こそ身体は正直だった。

 ロリコン、に当てはまるのかな僕は。

 閑静な部屋に衣擦れの音が小さく響いている。強く脈打つ心臓が、喉にまで響いていることに気付いて、自分が緊張していることを自覚する。

 ふと顔を上げた彼女と目が合って、どちらともなく視線を外した。言葉を交わさずとも、そうして近くにいるだけで互いを理解し合えていると錯覚する。途方もない現実感に酩酊する。取り繕ったこの関係は崇高なものなのだと、責任を捨てて盲信する。

 彼女がスカートを脱ぎ終えると、僕の視線はその飴細工のように繊細な四肢に釘付けになった。すうっと浮き出た肋骨を見て、僕は自分の体温が上がっていくのを感じた。

 そうこうしている内に「間宮も早く」と催促が来たので、僕は自身のTシャツの裾に手を掛けた。ちょうど脱ぎ終えたところで、僕はふと大事なことを思い出して声を上げた。

「ごめん」

「え、なに?」

「ゴム、もうないの忘れてた」

「ええ、まじか」

 可愛げのない反応をしながら、彼女は「そっかあ」だとか「ううん」だとか呻いている。

「ん?」

「まあ、別にいいよ」

「え、いいの?」

 僕が訊くと、彼女は言葉の代わりに首を竦めて苦笑した。哀しそうに俯いて、「だって今更じゃん」とか細い声で呟く。

 その大きな瞳に、たぶん、僕は映っていなかった。

 僕だけじゃない。今や彼女の瞳には、しかしこの世界の何も価値あるものとして映ってはいないのだ。彼女の中では、価値の損失がそれとして成立していない。自分を蔑ろにすることをよしと出来てしまえる現状に、彼女はいるのだった。

 僕は彼女のその諦めてしまったような儚げな佇まいを見て、またしてもやり切れない気持ちになった。どうにか彼女の不安を取り除いてあげたいと、殊勝にもそう思う。

 けれど、そんな大きなシステムを前にして、僕にいったい何ができるだろう。

 自問自答する必要もないことを、僕はもう知っていた。何もできないことは十分に痛感していた。

 掛けられる言葉なんて僕の中にはない。気休めの台詞も、同情の台詞も、全て僕の自己満足に収束する。だから、どんな言葉も押し付けがましくて、口にできたもんじゃない。

 そんな僕を見かねてか、彼女は言葉にしてはいけないことを、けれども口にしてしまった。

「どうせ死ぬんだからさ」

 その言葉に酷く動揺する。同時に、途方も無い憤りを覚えて歯噛みした。それが自身に向けたものなのか、それとも彼女に向けたものなのかは分からない。ただ腹の底が煮え滾るように熱を持って、そうなると、もう何も堪え切れなかった。

 弾けたように、手を伸ばす。

 僕は彼女を壁に縫い止めて、強引に唇を奪った。乱暴に、貪るように口内を蹂躙する。僕の荒い息遣いと時折漏れる彼女の苦しそうな声が、それまでぎりぎりの状態で保っていた何かを壊していく。

 彼女は初め身体を強張らせていたが、抵抗することが無意味だとわかると、身体から力を抜いてされるがままになった。だらんと垂らされた腕が何かを手放すように、力なく握った手をゆっくりと開く。

 彼女の吐息を響かせるように静まり返った室内が怖いくらいに不気味だった。下手くそな呼吸はもがくように苦しげだった。もっと彼女と溶け合いたいと願うのに、隔てた皮膚の感触はどこまでも分厚かった。

 僕だ。

 僕だけが、きっと、彼女を。

 鼻の奥がつんとする。眼球の裏側がぐつぐつと熱くなる。息が詰まって喉が圧迫される。心臓は生を主張するように、力強く脈動を続けている。

 生きていることはこんなにも劇的なことなんだって、そう高らかと歌うように鼓動が響いているのに。沸騰しそうなくらい熱く血管が脈打っているのに。

 なのに、虚しいのは何故だろう。

 激しい喪失感に駆られ、僕はようやく唇を離して彼女を拘束する腕を退けた。すっかり力が抜けてしまったらしい彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、ずるずるとベッドに沈み込む。瞳を閉じて横たわる彼女の存在は、そのまま消えていってしまいそうなくらい希薄だった。

 僕が頭を撫でると、彼女は頬を真っ赤に染め、瞳いっぱいに涙を溜めて、縋るように此方を見つめた。形の良い唇がそっと開いた。

「ねえ、間宮」

「ん?」

「赤ちゃん欲しい」

「それはだめでしょ」

「どうして?」

「意味とかあるか」

「一生のお願いって言ったら?」

「だめ」

「じゃあ最後のお願い」

「それでも、だめだろ」

 答えると、彼女は「そっかあ」と他人事のように言った。その声は虚空に浮かび、白いベッドの上にすとんと落ちる。言葉は再び失われて、そして僕らの間には重い沈黙が生まれた。慣れ親しんだそれとは違い、横たわっている静寂はさながら吹雪のように皮膚に突き刺さって痛かった。

 やがて彼女は「怖くないよ」と呟くと、顔をくしゃくしゃに歪めながら泣き出した。宝石のような大粒の涙を流しながら、それでも口許に手を持ってきて、堪え切れない嗚咽をどうにか飲み込もうとする。その姿が酷く痛々しくて、何にもならない憐憫が身の内から湯水のように湧き上がった。

 僕は彼女の肩に腕を回して、ゆっくりと抱き起こした。小さな肩は薄っぺらくて頼りない。生まれたままの彼女の姿は、まるで人間の脆弱さを体現するように弱々しく震えていた。

「なんで私なんだろう」

 そこにいつもの彼女の姿はない。あるのは不条理な運命を嘆く可哀想な少女の姿だけだ。

 助けを求め、救いを乞うて。

 それが無駄なことだと一番理解しているのは、だって彼女自身なのに。

 そんなに皮肉なことがあるか。

「なんでだろう。なんで私なんだろう」

 きっと、彼女は保全的な台詞を望んでいるわけではないだろう。僕に慰めて欲しいだなんて、きっとこれっぽっちも思っていない。だから、気休めの言葉なんて要らなかった。

 僕は無言のまま彼女を抱き締めて、ただ優しく頭を撫でた。涙を止めてやりたいと思う反面、それくらいしかできないことを知っていた。

 背中に回された彼女の手が、僕の皮膚にぐっと爪を立てる。深く食い込んで痛かったけれど、僕はその痛みをとても愛おしいと感じた。

「なんで私なんだよ。もっと、いるじゃん。生きてちゃいけない人なんて、きっと世界中に沢山いるじゃん。私を虐めてたあいつにしてよ。周りで笑ってたあいつらにしてよ。私まだやりたいことも、やってみたいこともいっぱいあったよ。でも、もう意味なんてないの。ねえ、ないんでしょう? 間宮。私、だめだったかな? 死ななきゃいけないようなことしたかなあ。なんで私なんだろう。わからないよ。どうすればよかったの? なんで、私は、こんなに可哀想なの」

 普段の彼女からは想像もつかない汚い言葉の羅列が、我儘のような恣意的な台詞が、彼女の内に湧き上がる溢れんばかりの憤怒を表していた。

 僕はいつもの飄々と笑う彼女を思い出してその感傷の相殺を試みるも、こうして目の前で泣きじゃくられては目を背けることなんて叶わない。

 息が詰まる。苦しくて、溺れているような錯覚を覚えた。呼吸はきちんと出来ている。呼吸器官は正常に機能している。けれども、どうしようもなく息苦しかった。

 彼女の痛みや苦しみを全て肩代わりしてやれたらと切に願う。けれど、そんなことは出来ないから、だから余計に惨めに思えて、いっそ全部放り出せたらと声には出さず弱音を吐いた。

 彼女が泣いている。

 「死にたくない」と僕に言うのだ。

 けれど、僕はやっぱり何も言えないまま。











 幼馴染の女子高生がバイト中に倒れ、またその際に運び込まれた病院の診察で大病を患っていることが判明したのは、ちょうど一ヶ月前のことだった。病状としてはかなり進行した状態であることから、医者からは顔を背けたくなるような残酷な真実を言い渡された。彼女の母はもうずっと寝たきりだったから、「仲の良い近所のお兄ちゃん」的なポジションでしかなかった僕が保護者代わりに診断に立ち会ったわけだが、しかしその時も、僕は嗚咽を噛み殺す彼女を前に励ましの台詞ひとつ掛けてやることが出来なかった。

 それから今日まで、僕は回避し続けた。

 決定的な言葉を避け、下手な笑顔で誤魔化しながら、理解のあるフリをして、彼女の望む返事に沿うように。

 死なないでくれ、と。

 本当はそんな都合のいいことを言いたい。何にもならない自己満足の我儘を口にしたい。あるいは彼女が死ぬことを彼女の所為にして怒鳴り散らしたい。確固たる理由が欲しい。彼女が死ななければならない、その結果に誂えた理由が欲しい。僕は彼女の死に納得したいのだ。そうすれば、きっと今ほど傷付かなくて済むから。

 だけど、その言葉の響き以上に、現実はやっぱり残酷で。

 僕が何をどうしたところで、彼女の死を回避することは叶わない。自分を納得させることなんて到底出来やしない。これはピースフルなドラマじゃないから、どんな奇跡も起きずに、彼女はただゆっくりと死んでいくだけだろう。それを受け入れるか、納得しないまま恐怖に抑圧されて死んでいくか、どちらかだ。

 人生はいつも平凡だ。いつだって、起こりうることしか起こらない。人がいつか死ぬなんてこと、本当は誰だって分かりきっていることなんだ。納得はしていなくても、それは彼女も理解しているんだろう。健気にも、そうであってくれるなという一縷の望みを信じないようにしながら。

 だから、僕は言葉を飲み込んだ。その言葉が、ともすれば彼女を引き止めてしまうかもしれない。形成出来ていた筈の決意や覚悟を、あっさりと溶かしてしまうかもしれない。

 なら、彼女が死ぬその時に僕はなんて言葉を掛けてやればいいんだろう。死にゆく彼女を前にして、どんな顔をすればいいだろう。そんな残酷なことを、強がる彼女を前にずうっと考えていた。

 わかってる。

 結局のところ、いくら考えたって無駄なのだ。僕だけじゃない、どんな名医にだって不可能なのだろう。あるいは、医療の進歩した未来からタイムスリップしてきた僕が彼女を救うために現れたりするかもしれないけれど。なんて。

 もうすぐ、彼女は死んじゃう。

 僕がのうのうと生きていく人生の中で、一番大切な人が死ぬ。お前の人生に意味なんてなかったんだって、そんな残酷な運命を突き付けるようにむざむざと殺される。

 その先で、これからの僕がどうなるかなんて、当の僕にも分からない。彼女を追って自殺するかもしれないし、案外普通に生きて、幸せになっていくのかもしれない。そうして生きていく中で、彼女を忘れてしまうことだって、ともすればあるだろう。けれど、今は彼女のいない未来を想像することなんか出来ないから、だから彼女のいる今を情けなくともきちんと生きようと、殊勝にもそう心に決めた。

 さしあたって、週末はデートにでも誘おうと思った。

 僕にはそういった経験がないし、恋愛ごとにはてんで疎いから、英国紳士のようにスマートにはいかないかもしれない。変に緊張して台詞を噛んでしまうのがオチだろう。「気持ち悪いんだけど」とか言って、怪訝な表情をする彼女が目に浮ぶ。

 けれど、僕に出来ることなんてそれくらいのものだ。不幸な、可哀想な彼女に釣り合うだけの、誂えた幸せなんて与えてやれない。だから、その都度襲い来る痛みをどうにか凌いでいけるくらいの幸せが丁度いいんだと思う。彼女の命が尽きるその瞬間まで、そんな我儘を押し付けたい。綺麗事が吐けるなら、きっとまだ大丈夫だから。

 生温いヒロイズムを分け合って、少しだけドラマチックな残響に浸りながら、終わりのその最後の瞬間まで、彼女と二人で。

 さあ、デートに誘う台詞を考えよう。

 まずは、そこから。


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