九十九さん家の複雑な事情

椎名蓮月

犬神使いと鉄火娘




 父は背が高く逞しく豪快な男だが、どうしても母に頭が上がらないのをかがりは知っている。

 母のほうが、霊に関わる力が強いからだ。

 霊能力、とか、霊力、霊感という言葉が、かがりはあまりすきではない。だいたいにおいてそういう言葉を堂々と口にする輩ほど胡散臭いからだ。『わたし、霊感があるの。霊が見えるのよ』と得意げに吹聴するクラスメイトの後ろにうす黒いものが憑いているのを見たときは、じゃあなんでそれに気づかないんだよ、と思ったが黙っていた。

 母は楚々とした美人で、ありがたいことにかがりも母に似ていると言われる。父も男前なので似ても差し障りはなかった。というよりむしろ父に似たらよかったのでは?と最近は思う。

 霊だの、なんだの、見えてもしょうがない。

 今も教室の隅っこがぼうっと曇っているが、誰も気づいていないだろう。あれを両親は雑霊と呼んでいる。べつのところではべつの呼び名らしいが、かがりが知っているのはそれだった。

 学校のように、多くの人間が集まる場所はいろいろなものが引き寄せられてくる。特にかがりのような中学生など思春期のまっただ中だから念も残りやすい、と父は言う。だから気をつけろ、と。

 母はそれを聞いて、まあ気をつけても無駄なときは無駄なんだけどね、と笑った。

 祖父母も、そういうものは見えるし詳しいが、あまり話してくれない。祖父などは未だにひとに呼ばれて長く家をあけたと思うと、帰ってくると同時に酒やらなんやらのご進物がいっぱい届いて、かがりに、中学生には不釣り合いなお小遣いをくれる。それがひとに頼まれて呪詛返しだのお祓いだのをしたお礼だとわかったのは最近になってからだった。

 かがりの家は、両親と祖父母の五人家族である。子どもはかがりだけだ。両親は、母が十代のうちに知り合って長くつきあい、適齢期になるとすぐに結婚したが、子どもにはなかなか恵まれなかった。遅くに生まれたかがりは、同学年のひとりっ子より両親が年嵩である。

 母には四人の兄がいて、全員が戦地で亡くなっている。それがいやだったから男の子なんてほしくなかったのよと語られたことがあった。かがりに初潮がきたときだ。だから部屋が無駄に多いのかな、と思ったが、この家は伯父たちが亡くなった戦後に建てたはずなので、関係ないだろう。二階は六部屋もあって、祖父母は一階に住み、両親の部屋は二階にあるが、それでも余っているのだ。下宿屋でもやれそうだ。

 帰りのホームルームが終わると、生徒たちは帰宅し始める。かがりは友だちが寄り道に誘うのを断って、さっさと教室を出た。出る直前にちらりと見ると、教室の片隅がやっぱりうっすらとくろい。祖父に頼んで、明日は塩を持って来ようと思った。

 冷たい空気の中、かがりは校門を出た。日射しがまだ照っているので気持ちいいが、夕暮れが近づくと寒くなるのでさっさと帰りたい。しかしふと、いつも楽しみにしている月刊誌の発売日だと思い出す。途中で書店に寄って、誕生日にもらった図書券の最後の一枚で買おう。思いついたかがりは足を速めた。

 書店に向かうために角を曲がると、誰かの呼ぶかすかな声がした。

『お嬢、お嬢』

 こういう声は無視できない。幽神は雑霊と違って、かがりに声をかけてくるのは、何かを伝えたいときだからだ。

 かがりはあたりを見まわして、誰も自分に注意を払っていないのを確認してから、電柱の陰からこちらを見ている者に近づいた。細長くて白いのと灰色のと黒いのが、地面からにょっきり生えている。

「なあに?」

 このあたりの幽神は、かがりに対して慕わしげな態度をとる。戦前、九十九家は近在の人外には知られた祓い屋だったからだ。おかげでかがりは子どものころからこうした存在とは平気で言葉を交わしていた。

『お嬢は今年で十六だろう』

「十四よ」

 かがりはきょとんとして、足もとでふわふわしている幽神たちを見た。

『もうすぐ、迎えに来るぞ』

『うん、来るな』

『むかえ』

「迎えにって、誰が」

『お嬢をほしがる男じゃ』

『顔も名前もなくしてしまった男じゃ』

『なにもない』

 それぞれがまた、ざわざわと答える。

 何もないってなんだろう。かがりにはよくわからない。帰ったら祖父に話してみよう。忘れなければ、だが。

「わかった、ありがと。気をつけろってことね」

『そうじゃ、そうじゃ』

『あぶないことには近づくなよ』

『教えてやったぞ』

 偉そうに言われて、かがりは、あ、と気づく。

「もう……これしか持ってないよ」

 学校にお菓子を持ってくるのは厳禁だ。しかしかがりはこういうときのために、飴玉を二、三個、鞄の内ポケットにしのばせている。それを取り出して、包むセロファンを剥がしぽいぽい落とすと、幽神たちは揺らめいて受け取った。

『供物じゃ』『くもつ、くもつ』『うんまいのう』

 頼んでもいないのに危ない目に遭うかもしれないことを教えてくれる場合も供物が要るのか、と釈然としないが、しかたがない。

「ありがとね」

 かがりは短く礼を告げるとその場をそそくさと去った。今の一場面は誰にも見とがめられなかったようだ。今度、祖母か母に結界の張りかたを教えてもらおうと考える。なんとなく気を張っていればよろしくないものは近づいてこないが、正しい方法はまだ知らなかった。そんなのを憶えるより前に父が教えてくれたのは、身を守るための攻撃の術ばかりだった。

 書店に寄って目当ての雑誌を買い、紙袋に入れてもらったそれを持ってうきうきと家に向かう。角を曲がって家の前の道に出ると、ほっとした。家の前は少し広い道だが、車がやっと二台すれ違える程度だ。後ろから車の音を感じてかがりは道の端にのいた。

 通り過ぎたのはタクシーだった。かがりの家の少し先で止まり、しばらくして男が降りてくる。かがりは見るでもなくその男を見て、少しぎょっとした。

 父のように背が高く、顔つきがきりっとして凜々しい。少し外人っぽい、くっきりとした目鼻立ちの男前だ。少女マンガに出てきそうな男である。しかし、年相応の少女らしくときめく前に、男がこちらを見た瞬間、かがりは禍々しいものを感じた。

 タクシーが去る。かがりは早足で家に向かった。男は家のほうに近づいてくる。

「ねえ、君……」

 声をかけられた。低くて甘い声だ。かがりは門扉に手をかけたまま、じろりと相手を見上げた。

「なんですか」

 男の後ろに真っ黒なものがはりついているのが見える。見た目がいいのにこれでは、少女マンガのようにときめけるはずもない。きっとろくでもないことをしてきたのだろう。もしかしたら、変質者なのかもしれない。

九十九つくもさんっておうちを探してるんだけど、知らないかな」

 門柱には家の表札が出ているのにそんなことを訊かれ、ますますかがりは警戒心を強めた。

「知りません」

 かがりが剣呑に答えると、相手は声を立てて笑った。

「ここだよね、九十九さんって」

 家を見上げ、次いで、彼はかがりを見た。「君は、この家の娘さんでしょう」

 どことなく発音が違う。標準語を無理に話している気がした。

「だったら何。うちに用なの。それとも、わたしに用なの」

「すぐに君に会えるとは運がよかった。これで僕も一安心だ」

 そう言うと男は、すっと両手を合わせた。かがりは一歩下がって家の敷地に入った。

「出でよ我が従者、我が命に従い敵を滅せよ」

 男が呪を唱え終えると、合わせた手から光が溢れる。かがりは目を閉じず、手をかざして顔を背けた。溢れた光が何か大きな獣に変化する。犬神だ。

「もおー!」

 かがりは叫ぶと、鞄と紙袋を叩きつけるようにして敷石の上に放り出した。次いで、いつも制服のポケットに一枚は忍ばせている呪符を引っ張り出す。これは祖父につくってもらっているのだが、一枚につき百円はとられる。使いたくなかったがしかたがない。

「招かれざる客よ、退け! 我が楯よ、敵の刃を止めよ!」

 ああ、百円あれば……と思いながらかがりは、自分に向かってきた犬神の鼻面にそれを叩きつけた。犬神は大きな口をあけたまま、その場でぴたりと止まる。

 かがりが難なくあやかしを止めたのを見て、男はぽかんとした顔になった。巨大な犬神は赤い口をかがりに向けたまま、困ったように目をぎょろりと動かして男を見る。あけた口からだらだらと唾液が落ちて、地面がしゅうしゅうと音を立てた。

「いきなり何?! 挨拶が済んだらすぐ挑んでくるとか……」

「かがり? 何騒いでるの?」

 母の声が庭からする。「お客さまが来てるのよ。あなたに会わせようと思って待っていただいて……あら」

 庭のほうから母がまわってきた。玄関先を見た母が、呆れたような顔をする。

「なあに、それ」

「知らない。なんか急に仕掛けてきたの、こいつが」

 かがりは、ふん、と鼻を鳴らすと、肩越しに後ろの男を親指で指した。男はちょっと困った顔をして母を見る。

「どちらさま?」と、母はのんきに訊いた。「うちのひとはそんな恨みを買うようなことはずっと昔しかしてないはずだけど……」

「お父さんそんなことしてたの?!」

「おじいちゃんは今でも恨みを買ってるかもしれないけど……」

「じゃあ呪符でお金とらないでほしいわ!」

 かがりは鼻息荒く叫んだ。

『仕損じたな』

 ふいに、低い声がした。

 かがりがハッとして見ると、男の後ろに憑いていた黒い影が、にゅうっと伸びる。男はそれを見て、苦笑した。

「そのようです」

『では貴様は用済みだ』

「やっぱり、そうなってまうんですね」

 男の言葉に、あっ、とかがりは思った。

『我が身の愚かさを悔いながら、手下を砕かれるがよい』

 黒い影がのびて、鋭い錐のように犬神を串刺しにする。

白銀しろがね!」

 それまで茫洋としていた男が、動転して叫んだ。白銀と呼ばれた犬神は黒い錐に射貫かれ、地面に伏せて苦鳴の叫びをあげる。

「何すんのよ!」

 かがりはカッとなった。男ではなく式神に手をかけるとは、どう考えても見せしめだ。頭に血が上ると自分でも止まらない。門柱の内側に立てかけられていた竹箒を手にすると、かがりはその錐を横薙ぎに払った。黒い錐は粉々に砕ける。

「このっこのっ!」

 砕けた黒い錐を、さらにかがりは竹箒で殴りつけた。だが、破片はすぐにまとまって、ひとに似た形をつくる。かがりは苦悶する犬神の鼻面から呪符を引っぺがした。

「手加減しないからね!」

 かがりは叫ぶと、呪符を縦長に折って、黒い影に投げた。「火焔招来! 焼き尽くせ!」

 かがりの命に従って呪符が燃えながら黒い影を刺し貫く。あっという間に黒い影は燃え上がった。

「ちょっと、だいじょうぶ?!」

 かがりは燃え上がる黒い影には目もくれず、ぴくぴくと四肢を震わせる犬神に駆け寄った。犬神は苦しげな呻きを漏らすばかりだ。

「しっかりして!」

「なんの騒ぎだ、ゆきの」

 庭からまた声がした。聞いたこともない男の声だ。それが親しげに母を呼ぶので、かがりはびっくりして振り向いた。

 庭から現れたのは真っ白な男だった。白い長い髪がきらきらと垂れ下がっていて、地面につきそうだ。袴姿で上下とも白い。肌が白いので、唇がやけに赤く見えた。とにかく神々しいほどに真っ白だ。

「なんだかめんどうくさいことになったみたい……」と、母は男を振り返って告げる。

「なんだその犬神。傷を負っておるではないか」

「誰?」

 かがりは母に問う。母はちょっと困った顔で笑った。

「こちらは白蛇の雷電らいでんさんよ。ええっと……そちらさまはどなたかしら? とにかく、中に入っていただいたほうがいいかも」

「えっ」

 母がのんきに言うので、さすがにかがりの頭も冷えた。「中にって、こいつわたしを殺そうとしたのよ?」

「でも、あなた、その犬神を助けてしまったじゃないの、かがり」

「だってかわいそうじゃない。どうせこいつの命令を聞かされてるだけなんだし」

 かがりはキッと男を睨んだ。男は茫然とした顔をして犬神を見おろしている。

「しろがね……」

ぼん、もうあかんようや』

 犬神が男に語りかけるのがわかった。『すまんなあ』

「そんなこと言わないの!」

 かがりは腹が立ってきた。自分の式神が傷つけられているのに茫然としているだけの男にも、そんな男に忠誠を尽くそうとする式神にもだ。

「手を貸そうか」と、白い男、雷電が母に問う。

「そうね。このままじゃその子がかわいそうだもの」

 母が犬神を見て、溜息をついた。「あなたもお入りになって。うちの子を殺そうとしたなんて、いきなりすぎるわ。交際を申し込むにしろもうちょっと段階を踏むとか……」

「いや今そういうのじゃないよね?!」

 のんきな母の言葉に、かがりは思わず反論する。

「では運ぶぞ」

 門から外に出た白い男は、犬神をひょいと肩に担ぎ上げた。そのまま門を通って、母と一緒に庭に向かう。

「あんたも早く来なさいよ」

 鞄と紙袋を拾って庭に回りかけたかがりは、まだ門前に立ち尽くしている男に向かって言った。男は困った顔になった。

「そうは言うても……僕は君を殺しに来て、仕損じたから……」

「ぐだくだうるさい! 自分の式神でしょ!」

 かがりは思わず門を出ると、鞄と紙袋を脇に抱え、手を伸ばして男の顔を引っぱたいた。

 男は殴られた頬を押さえる。

「ひ、ひどい……」

「ひどいのはどっちよ! こんな可憐な女子中学生を出会い頭に殺そうとするなんて! あんたのほうがよっぽどひどい!」

 そこで男はハッとした。

「そうやな……かんにんな」

 謝る男に、今度はかがりがぽかんとした。こいつ頭が弱いんじゃないのか。かがりはふと思った。

 もし命じられて自分を殺しに来ていたのだとしても、なんの考えもなかったのかもしれない。そんな気がした。

 だったらただのばかだ。

「ほら、早く!」

 かがりは男の手を引っ掴むと、庭に向かった。


 九十九家の庭は、以前は家が建っていたが、古くなったので取り壊してしまい、むやみやたらと広い。父は、かがりに婿が来たらここに家を建ててやる、などと言っているが、いったい何年先の話だとかがりは思っている。さらに庭には蔵もあって、そこはかがりの遊び場になっていた。

「やれやれ。ろくでもない主を持つ式神は気の毒というほかないな」

 白い男、雷電は、犬神の傷を調べながら言った。彼がもてなされていたのか、縁側にはお茶とお茶菓子が置いてある。かがりは鞄を廊下に置くと、お茶菓子のきんつばを勝手にとって立ったままかじった。

「まあ、かがり。お客さまのよ、それ。手も洗ってないし」

「お母さん、おじいちゃんは?」

「おばあちゃんと一緒にデートに行ったわ。映画みてくるって」

 けっ、と内心でかがりは思った。こういうときにいないとは、まるで見越して不在にしているようだ。

「白銀……」

 男は犬神の顔の傍で膝をつくと、大きな頭を撫でた。「ごめんな。僕がふがいないばかりに」

『坊のせいとちゃうで。あの娘っ子があかん。あんな強いん、儂も無理や』

「急に仕掛けられたら全力で向かうしかないでしょ」

 きんつばを食べ終えたかがりは縁側から降り、犬神に近づく。「おかあさん、治せる?」

「はいはい、ええと、ちょっと待ってて」

 少し考えた母は、いったん中に引っ込む。それからすぐに何かを手にして戻ってきた。

「ひとまずこれで傷を塞ぎましょう」

 おっとりしている母だが、こういうことには動じもしない。慣れているのだ。

「おい、それ……」

 母の持っているものを見て、雷電が呆れ顔になった。

「そうそう、どっかの壊れた神社にあったのよ。おじいちゃんがこの前の仕事でもらってきたの」

 母が持っているのは、両手で包み込める程度の丸い珠だった。母は犬神に近づくと、黒い錐に貫かれた背の傷に押し当てる。

「ほころびを閉じてくださいね、古神ふるかみよ」

「古神……」

 男が目をしばたたかせた。「そんなもん使こてしもてええんですか」

「うちにあるだけではもったいないし、使い道もなかったもの。祀るお社もつくれないしね」

 母は説明しながら男に微笑みかけた。「ところであなたはどちらさま? うちの娘に何か用だったの?」

「はい……用というか、娘さんの命を奪ってこいと本家に言われて」

「あらまあ」

 母は目を丸くした。「それは物騒な話ね。でもうちの娘、命を狙われるようなことはしてないはずだけど……」

「するわけないじゃん。ただの中学生なのにさ」

 かがりはぶつくさ言いながら男を見おろした。睨みつけると、男は怯えたような顔をする。だが、かがりに怯えたわけではないようだった。

「君はただの中学生と違う。呪符一枚で犬神を止めて、……大伯父の影も祓ってしもた。大伯父は、一族では最強の術使いやのに」

「あれ、あんたの大伯父さんなの? 迷惑ねえ」

 かがりがすっぱり切り捨てると、男は苦笑した。

「ほんま、迷惑なんや。呪術とか、いろいろやっとるけど……この家の血筋が邪魔やし、絶やせ言いはるんよ」

「あらぁ。じゃあ、おじいちゃんが邪魔なのかしら。おじいちゃん、最近は呪詛返しの依頼が多いって言ってたわ」

「そうやと思います。本家の大伯父は呪術もしとりますんで」

 男はちょっと笑った。「僕も、素質があるから憶えろ言われたんですけど……どうしてもうまいことできんくて……穀潰し言われとるんです」

「いたいの、いたいの、とんでけ~」

 犬神の背の傷に珠を押し込んでいた母ののんきな声が、男の言葉尻にかぶさる。「はい、これでもう痛くなくなった、でしょ?」

 そう言いながら母は、犬神の背を撫でた。犬神がぱちりと目をあけ、むくりと身を起こす。その背にあった傷は塞がって毛皮に埋もれ、見分けがつかなくなっていた。

『おお、ほんまや。もう痛うないで、坊』

「よかった!」

 男は叫ぶと、犬神の大きな顔に抱きついた。話しかけてきたときから奇妙に淡々としていたさまを見せていたが、このときばかりは本気でうれしそうだった。泣き笑いのような顔をしている。

「おかあさんの治療はなんでも治すから、これでもうだいじょうぶでしょ。でも、だからってもう襲いかかってこないでよ。今度来たら本気で手加減しないから」

「なんという鉄火娘なのだ、おまえの娘は、ゆきの」

 犬神のようすを見ていた雷電は呆れたように言って立ち上がると、縁側までやってきた。まじまじと見られ、かがりは居心地が悪くなる。それほどまでに、雷電はうつくしい男だった。瞳の色は、春に蔵にまといついて咲く藤の花色だ。

「雷電さん……初めまして、よね」

「ああ。ゆきのの娘が十六になっただろうから、そろそろだと思って来てみたんだが」

「それ、帰りに途中で会った幽神にも言われたわ。わたし、まだ十四になったばかりよ」

「数え年よ。生まれたとき一歳で、年があけたら二歳になるの」と、母が説明する。「かがりは十一月で十四歳になったでしょう? で、年が明けたから今年で十五歳。だから今は十六歳なのよ」

「ふうん?」

 わけがわからない。かがりは首を捻った。

「白銀、ほんまによかった」

 男は犬神に頬を寄せてうれしそうだ。やがて犬神の鼻面に自分の鼻をすり寄せる。すると犬神の大きな姿がたちまちしぼんで、柴犬になった。

『まだしばらくは坊のお役に立てそうや』

「しばらくなんて言わんで、ずっと一緒におって。そう約束したやんか」

「そう約束したのに、自分の式神が殺されそうになっても棒立ちだったじゃないの」

 かがりが言うと、男はうなだれた。

「そうやな……ほんまに、かんにんな」

『わかっとるて、坊。大旦那はんはおっかないじいちゃんやさかい、坊もよう折檻されとったし、怖いんやろ? しゃあないて』

「要するに、おっかないじじいにわたしを殺せって言われて、逆らえなくて来たってこと? 情けないなあ」

「せやかて……うち、大伯父さんには援助してもろてて……僕の大学のお金も、生活費も出してもうてるから」

「あんた、大学生なの?」

 二十歳くらいかなと思いながら、かがりはまたきんつばをとってもぐもぐと食べた。

「うん。でも失敗したし……もう学費払てもらえんやろうし、……アパートのお金も……」

「あらまあ、気の毒に」

 母がいつものおせっかいを出したのをかがりは感じてぎょっとする。

「ちょっと、お母さん、なんでそいつに同情するのよ。わたし、殺されそうになったのよ」

「そうは言っても、かがり、わけがあるみたいじゃない」

「九十九の総領娘はこれだから」

 ふう、と雷電は溜息をつくと縁側に座って、湯呑みに手を伸ばした。

「何、その、九十九の総領娘って」

「この家の跡継ぎ娘はたいてい無駄におせっかいの世話焼きなのだ」

 雷電は茶を一口のむと肩をすくめた。「おまえもそうではないか、かがり」

「わたしが? どこが」

「では何故あの犬神を助けた」

 雷電が、柴犬を見た。柴犬がしっぽを振りながらかがりに近づいてくる。

 もともと柴犬という犬種は可愛いほどに間抜けな顔をしているとかがりは思っていたが、見上げてくる白銀の顔は本当に可愛らしかった。

『嬢ちゃん、さっきはほんま、ありがとうな』

「どういたしまして。あんたを助けたのは、……あんな弱い男に仕えててかわいそうだったからよ。親とかに守れって言われてるの? なんであんなのに仕えてるのよ」

『そう言わんたって。坊はああ見えても相当な術使いなんやで。儂も坊の強さを認めとるから仕えとるんや』

「相当な術使いだとしても、正面切って来ないで策を立てるとかすればいいのに」

「そうしたらよかった……中学生の女の子やって聞いてたから、すぐ済むと思ってん。搦め手を使って、僕を好きになられても困るし」

 男の言葉に、かがりはぶっとふき出した。

「好きに! なんちゅう自信過剰!」

 おかしくなってきたのでげらげら笑ってしまう。「あんたみたいなひょろっこい、見た目だけは並み以上だけど弱い男なんか! 好きになるはずないじゃない!」

「まあ見た目はいいな」

 雷電はうなずいた。男は困った顔をした。

「せやかて、……僕がちょっと親切にしたら、誰でも僕のこと好きになってまうんやもん」

「わかるわぁ。頼りない感じがちょっと庇護心をそそるというか」

 母がうんうんとうなずきながら、縁側から廊下に上がる。「ちょっとお待ちになってね。お茶をいれなおしてきますから」

「わたしは頼りない男なんてやあよ」

 母が中へ入っていくのへ、かがりは言った。

「中学生なんか特に、僕のこと好きになりやすい子おおいもん」

「ならないならない」

 男がややムッとして言うのを、ははっとかがりは笑い飛ばす。男はふてくされたような顔つきのまま、縁側に近づいて腰掛けた。

「今までほぼ百パーセント、僕がやさしゅうすると、たいていの子はなんでも言うこと聞いてくれてたんやで」

「だったらわたしにやさしくしてみる?」

 かがりはニヤニヤした。「あっでも、わたし、年上はすきだけど、もっと年上のひとがいいな。倍くらい上で」

「ふむふむ」と、雷電が興味深そうに聞く。「それで?」

「わたしより強くて長生きするひと」

 柴犬があまりにもしっぽを振るので、かがりは思わず頭を撫でた。毛皮がもふもふして気持ちいい。

「なるほど、憶えておこう」

 雷電の言葉に、柴犬に笑いかけていたかがりはえっと顔を上げる。

「なんで」

「俺は白蛇だ。社は失ったが、縁結びの神でな」

「ええっ」

 かがりは驚いた。白蛇と聞いたのであやかしか何かの神なのは察していたが、縁結びの神とは。

「雷電さん、だったら、良縁よろしくってお願いしたら、いい男を紹介してくれるの?」

「してもいいが……」

 雷電は上を向いて顎を掻いた。「かがり。そなたには男女とも難の相がある」

「男女ともって」

「男にも女にももてるが、ろくな者は寄りついてこぬようだな」

 雷電は、視線をかがりに向けた。「それはそなた自身のせいだ」

「どういう意味?」

「やたらとなさけをかけるであろう」

 雷電は、目を細めてくっくっと笑った。「その犬神も、助けぬとも済んだはず。その男も、身を引き裂いてやってもよかろうに、せぬ」

「……身を引き裂くって……そんなことしたってしょうがないでしょ」

 さすがにかがりは声をひそめた。やっかいごとには関わりたくない。それに、身を守る術なら祖父母や両親にいくらか教えられているが、積極的に相手を滅殺させる術は心得ていなかった。たとえ心得ていても、使うのはためらっただろう。

「それがそなたの情の濃さ。足をひっぱることもあろう。それさえなければ、望む相手が得られるかもしれぬが……そうはできぬのが九十九の総領娘。どんなに弱くとも、足を引っ張られようとも、自分を頼る者をむげにはできぬ。――やれ、まったく、たちの悪いおなごよ」

「だってしょうがないでしょ。わたし、強いんだもん」

 かがりは肩をすくめた。「お兄ちゃんがひとりでもいればこんなに強くならなかったかもって、おばあちゃんは言ってたけどね……」

 祖母、みさおの言葉をかがりは思い出す。

 だが、そんな兄は生まれてこなかったのだからしかたがない。

「九十九の総領娘が強いのは、家系よ。代々強すぎる。だから、たいていの娘は、娘を産む前に息子を産んでおいていた。まあ、ゆきのは……致し方ない。あれは気の毒であった」

 雷電は事情を知っているのか、したり顔でうなずいた。

「はい、お茶、いれなおしましたよ」

 母が盆を持って戻ってくる。「あなたのぶんもあるわ。……あ、そういえば、まだ名前をきいてなかったけど」

 母は廊下に盆を置くと、手持ち無沙汰に庭を眺めていた男に問う。

 男は我に返ったように振り向いた。

「え、あの……」

「お名前、訊かないほうがいい? またうちの娘を殺しに来るなら、情が移っても困るでしょ」

 母はのほほんと言った。男はそれに、ぎこちなく顔を動かす。

「いえ……僕にはちょっと、もう……その、娘さんをどうこうってことは、できひん気ぃします」

 笑っているのだろう。今までにも笑っていたはずだが、それより不自然だ。

「そうしていただけると助かるわ。この子はうちの一粒種で、跡継ぎ娘だから。もし何かあったら、夫も、両親も激怒するから、あなた、本当にひどい目に遭うわよ」

 ほほほ、と母は笑う。こわいなあ、とかがりは身を竦めた。我が母ながら、まともではない。知ってはいたが、改めて思い知る。

「もちろん、わたしも、とても怒りますよ。今回は、この子になんともなかったからいいけど」

 そう母が言葉を継ぐと、男は慌てたように首を振った。

「もう、なんもできる気ぃしませんわ。こんな伏魔殿みたいなおうちで」

「伏魔殿とはよく言ったものぞ」

 からからと雷電が笑う。

「僕は藤倉ふじくら佑輔ゆうすけと申します。……あの、それで、ご相談なんですけど」

 彼はしゃちほこばって、母に告げた。「申しわけないんですが、その……大伯父の申しつけをかなえられなかったので、たぶん僕、戻ったら処断されると思うんです。自分の娘や孫も、道具や駒みたいに扱うひとなんで……」

「最悪なじじいね」

 かがりは呟いた。処断ということは、殺されるか、そうでなくともひどい目に遭わされるのだろう。さっき犬神の口にした『折檻』という言葉を思い出すと気持ちが沈む。自分を殺しに来た男でもそうされるかと考えると気の毒に思えてくるし、大学生なのに逆らうこともできないのかと苛立ちもする。

大旦那おおだんはんは、容赦のないおひとなんや』

 柴犬が悲しげに言った。『儂も、大旦那はんにつくられた犬神や』

「殺し合いしたの?」

 母が気の毒そうな顔で柴犬を見た。柴犬はその場にうずくまり、きゅうんと悲しげな声をあげる。犬神は蠱術を使うのだ。残酷な術法は遠い昔に禁じられているはずだが、それでも伝わっているのである。

「かわいそうに」

「なので……僕のこと、守っていただけませんか?」

 藤倉と名乗った男は、そう言った。

 お茶を飲みかけていたかがりは盛大に噴き出す。

「まあっ、かがりったら」

 むせる娘の背を、母は撫でた。「ほら、拭いて」

 手ぬぐいを差し出され、かがりは慌ててそれで顔を拭いた。

「あ、あんたそれちょっと図々しくない?!」

「まったくだな」と、雷電がくすくす笑う。「だが、妥当な考えだ。身内に守られぬならば、敵と通じたくもなるであろう」

「そうねえ……」

「お母さん?!」

 母が考え込んだので、かがりは慌てた。「こいつ、わたしを殺しに来たのよ! 無力な中学生のわたしを!」

『無力て、嬢ちゃんは無力とちゃうやん』

 柴犬が顔を上げる。

「そうね……まず、お父さんに相談してみましょう。それと、おじいちゃんとおばあちゃんにも。おじいちゃんはともかく、おばあちゃんはわかってくれるかもしれないわ」

「みさおならば、同情するであろうよ」

 うんうんと雷電が、祖母の名を口にしてうなずく。

 かがりは呆気に取られた。

「本気なの……」

「だって、気の毒じゃないの」

 母はおっとりと笑った。「それに、ここで恩を売れば、何かいいことがあるかもしれないわ。そんな気がするのよ」

 母は言い出したら聞かない。祖父母は娘である母を未だに猫かわいがりしているし、夫である父はべた惚れだ。母はこの家の最大の権力者なのだ。

 かがりは溜息をついた。

「もう……知らないから」

 どうなっても、とかがりは心の中でつけくわえた。





 ひどく安らかな夫の死に顔を見つめて、かがりはそんなことを思い出していた。

 初めて会って、何年経っただろう。そろそろ三十年近いはずだった。そのあいだに、元気だった祖父母も、両親もいなくなってしまった。

 そして今度は、あのときひっぱたいた男も、夫として逝ってしまった。

「お母さん」

 和室に入ってきた息子の声に、かがりは顔を上げる。長男は夫によく似て学年ではいちばん背が高く、そのせいでひどくおとなびて見える。

「お兄ちゃん」

「あかねが泣いてる」

 ふと耳を澄ませると、確かに、末娘の泣き声がした。

「いま、恵があやしてる」

「……お兄ちゃん、見える?」

 しずかに問うと、百太郎はじっと父の亡骸を見た。

「うん。まだいるんだね。犬もいる」

 夫が自分の亡骸の枕辺に立っているのが、この息子には見えるのだ。犬は夫の式神だろう。夫と一緒に去るのだ。

「でも、もうすぐさようならよ」

「さびしいよ」

 ももろうは悲しそうに、立つ父を見て言った。父親は息子に笑いかけた。

 だいじょうぶだよ。

 そう、口が動くが、百太郎には聞こえていないだろう。

 末娘の泣く声がひときわ大きくなったと思うと、まだ一歳になっていない妹を抱いて、小学生の三男が入ってきた。

「お父さんの声がした」

 めぐみはそう言うと、きょろきょろとあたりを見まわした。彼には声が聞こえるのだ。

「かして」

 かがりは膝立ちになって手をさしのべる。学年でもいちばん大きい恵だが、泣き叫んで暴れる妹をおっかなびっくり母親に渡した。

「あかね。お父さんとさようならよ」

 よしよしとあやすと、やがてあかねの泣き声は弱まった。

あいは?」

ゆうわかでみてる」と、百太郎が答える。

「お父さん、今夜はまだおうちにいるから、ちゃんとお別れしてね。あかねは……これはおなか減ってるなあ。おっぱいあげないと」

 ぐずる娘に、かがりはちょっと笑った。「お母さん、藍音とあかねを寝かしつけるから、みんなのこと、お兄ちゃんがみててくれない?」

「うん、わかった」

 長男は、不安そうに、それでも無理に笑ってみせた。

 夫に似た、ぎこちない笑顔だ。だが、夫とは違う。彼は本当に笑いたいときにぎこちなくなった。この子は悲しみとさびしさで笑えないだけだ。

「お父さんはいなくなっちゃうけど、あなたたちがいるから、お母さん助かるわ」

 かがりは心の底から告げた。

 子どもたちと一緒にへやを出る前に、ちらりと振り返る。夫は自分の亡骸の傍らに立って、笑いかけてきた。

『今までありがとう……ほんま、おおきに』

 佑輔のやわらかい声が聞こえる。

 ろくでもない男だった。だから、放っておくことができなくなった。放っておいたら近づいてくる者たちを無自覚に利用して尽くさせまくって最後には恨まれて刺されて死ぬだろうな、と思ってしまったのだ。

 だから、守ってあげる、とかがりが言うと、彼は子どものように泣いた。

 愚かで、幼くて、弱いのに強い男だった。

「お父さん、ありがとうって言ってたよ」

 廊下でへやの襖を閉めると、恵が名残惜しげに呟く。かがりは、まだぐずついている娘を片手で抱え直し、恵の頭を撫でた。

 まったく、本当に感謝してほしいものだわ、と思う。子どもを六人も産んで、楽しい思いをさせてやったのだから。

「まあ、いいか」

 かがりはちいさく呟いた。

 どうせわたしもすぐに追いつくし、と思いながら。

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九十九さん家の複雑な事情 椎名蓮月 @Seana_Renget

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